気まぐれ人間の気まま情報新聞

どこかにいる、もう一人の自分のようなみんなへの、ひとりごとのような、語りかけのような、あいまいな発信基地不明の新聞です。

生きている実感とか「存在感」というのが薄い感じがする。

2009-06-21 19:56:29 | Weblog
独りで生活することには慣れました。でも独りだけだと感じることをどこかで避けている気がします。

それはどこかで”いつか必ずくるなにか助けが求められないとき”があるのを感じているからです。それはどこかずっと前から感じていることです。

できたら、そんなこと考えずに生活にまみれ、楽しく、悲しく生ききればそれがいちばん人間らしくまっとうな気がします。

生活のほんとうの苦労がないからそんな気楽なことがいえるんだよ、という声も聞こえてくる。自分でもそう思ってるから聞こえてくるのかもしれない。

今頃そんなこといってんの、甘いねーという声も聞こえる。孤独というのははじめから覚悟するものでしょう。それがあってはじめてすべてがはじまるんじゃないのか。

そのどちらにもなれなかったし、どこかどちらにもなりたくなかったということもあるかもしれない。それがきっとあいまいな(自分でそう思ってる)性格の”わたし”になっている気がします。

ただ、どこかでちっさいときからあったものが、ずっと大きくなっても残っていて、すこし意識的になってきているような気がします。

昔からなにかしたいとか、こんな仕事がしたいとか何もありませんでした。どんな人になりたいかもありませんでした。一流の人はよくちっさいころから大リーグでやりたいとか、小説家になりたいとか聞きますけど、へーやっぱり一流の人は違うななんて思います。

生活にもどこかで強くない、孤独にも強くない。どこかでその問題に直面せずにすんできた。避けるように生きてきたのかも知れない、そうならないように。

きっと両方ともどこかで過酷でたいへんだなと思っている気がします。

子を産み、育て老いていく。その生活過程はそれだけでもまっとうできれば平凡にみえながらたいへんなことの気がします。でも実は今それさえもこわれてきているようなのです。だからそれはまっとうできれば素敵なことなのです。
また。孤独に耐えることもまたたいへんなことのような気がします。どこかで通じるかもしれないというかすかな連帯感覚を生み出すのが難しいからです。ほんとに孤独の営為を強いられる気がします。簡単な連帯は可能な気がしますが。

どちらも全うできそうもないのですが、気がついている弱みはあります。どこかで直面する自分に耐えていけたらと思って自分を作っていきたいのですが・・

だから、毎日という日がどこか存在感がない気がします。いちばんわずかに存在感を感じるのは、わたしがいるだけで、新聞や、買い物のゴミや荒いものが油断するといつのまにかたまり、休みの日にかたずけようと思うと気力と体力と時間をかなり要するというときです。わたしが身体として存在し、生きているから、それらが生ずるのだなと思います。

こんなところにしか、ふーん生きているんだという時間を感じることができない、今日この頃です。これでいいんだろうか?