行って来ましたー。
昨年の11月から先行販売でチケット取らせていただいてまして、
それはそれは大変楽しみでした。もちろんですがお目当ては秋元才加さんです。
(従いまして公演レポも才加さん中心ですが)
「国民の映画」パルコ劇場HP
パルコ劇場40周年記念公演/パルコ・プロデュース公演
「国民の映画」
公演日程: 2014年2月8日 (土) ~2014年3月9日 (日)
作・演出: 三谷幸喜
登場人物:
■ナチス高官
宣伝大臣 ヨゼフ・ゲッベルス‥‥小日向文世
親衛隊隊長 ハインリヒ・ヒムラー‥‥段田安則
空軍元帥 ヘルマン・ゲーリング‥‥渡辺徹
ゲッベルスの妻 マグダ・ゲッベルス‥‥吉田羊
ゲッベルスの従僕 フリッツ ‥‥小林隆
■映画人たち
ナチスと手を結んだ男 エミール・ヤニングス 映画監督‥‥風間杜夫
ナチスと敵対した男 グスタフ・グリュントゲンス 演出家・俳優‥‥小林勝也
ナチスに恐れられた男 エーリヒ・ケストナー 国民的作家‥‥今井朋彦
ナチスに嫌われた男 グスタフ・フレーリヒ 二枚目俳優‥‥平岳大
ナチスに利用された女 ツァラ・レアンダー 大女優‥‥シルビア・グラブ
ナチスに愛された女 レニ・リーフェンシュタール 若き女性監督‥新妻聖子
ナチスを利用した女 エルザ・フェーゼンマイヤー 新進女優‥‥秋元才加
舞台は1940年代のドイツ・ベルリン。ヒトラー内閣がプロパガンダの為に作った宣伝省の初代大臣ヨゼフ・ゲッベルス。彼はすべての芸術とメディアを監視検閲する権利を与えられていた。ある日ゲッベルスは映画関係者たちを呼んでホーム・パーティを開く。パーティにやってきた映画人たちの前でゲッベルスは彼らを招いた本当の理由を発表する。彼は最高のスタッフとキャストを使い、自分の理想の映画を作ろうと考えていたのだ。全ドイツ国民が誇れる映画、「国民の映画」を。
ナチス高官たちと映画人たち、彼らが一堂に介したその夜、虚飾と陰謀に満ちた、狂乱の一夜が始まろうとしていた…。(パルコ劇場HPより)
ちなみに2011年の初演は未見。
秋元さんの役は、当時は石田ゆり子さんがされてたんでしょうか。
今回のこのご出演の話を聞いて、大出世!って思ったのは私だけじゃないとは思いますが、
才加さんがそれだけ注目されるようになったことは素晴らしいこと。数多く存在する若手女優の中でも、
こうして目をかけていただける訳ですから。才加さんは卒業後のお仕事も着実に順調にこなしているイメージです。
役柄は「ナチスを利用する新進女優」ということで、若さに加えて、世間知らず・空気の読めなさ・気の利かなさ、などという側面も要求されてました。そこにプラスしてナチス高官との絡みシーンもあり、「女としての秋元才加」もまぎれもなく出さないといけない。
ベテラン勢に囲まれて非常に勉強になった反面、比較されることも当然多い訳で、去年観た「ロックオペラ モーツァルト」とはまた評価の視点が違ってくる。演技としてはまだまだ若く、役と同じくまだ「駆け出し」のポジションなんだと、観る側も改めて感じてしまいます。特に小日向さんとの絡みは女としての成熟さも欲しいだけに。ここは恋愛禁止のAKB出身者には少々不利かなとも思わなくもない。
演技もですが歌もどうしても評価されてしまいます。劇中の新妻聖子さんとシルビア・グラブさんのデュエットなどは素晴らしく(特に新妻さんの高音部は絶妙!)、例えばここに才加さんが入るとしたらあと何年後だろう・・・などと考えてしまう部分もあるんですよね。
それでもこうした舞台に呼んでいただけるだけの評価を得ているわけで、そこは素直に喜んで、将来への楽しみとして彼女の成長を見守っていってあげたいなと思う訳です。ベテラン勢に混じり才加さんも堂々と演じていましたね。
内容ですが、ナチスドイツ政権のゲッペルス国民啓蒙・宣伝相宅で行われた一夜のパーティーを舞台に繰り広げられる人間模様を通じ、映画論やドイツ映画史、ホロコーストにまで切り込むもので、広範囲にわたっているのに舞台として収束している。いい作品です。初演当時には数々の演劇賞に輝いたのもうなずける。
三谷演劇は今回初めて鑑賞しましたが、やっぱり三谷さんはTVとか映画じゃなくて演劇の人なのかなと思う部分があります。舞台を見て、映画を思い起こすとどうしても映画が演劇的だった記憶もある。
この作品を語るのに外せないのは、映画に対してのオマージュであり、映画論でもある。
「映画とは大勢の叡智の結集によって完成するもの」と頭ではわかっていても、己の野心や浅はかさ、そもそもの才能のなさが傑作の完成の邪魔になる。まして当時はナチス政権下でもあり、政治の意向に沿った作品しか認められない時代。ヒトラーの総意に沿った感覚が最上とされていたので、当然として映画製作にもその影響は出る。
レニ・リーフェンシュタールがいくら声高に自身のポリシーを語ろうとも、その根底には映画に対して純粋に向き合う姿勢がなかったり、エミール・ヤニングスに至っては稚拙な映画理論に加えて自身の欲でしか動かなかったり、ヘルマン・ゲーリング自身は空虚な政治人間に過ぎなかったり。集まった俳優たちは出世しか考えない者ばかり。誰一人として純粋に映画に向き合うものはそこにはいない。
それでは主役のゲッベルスはと言えば、芸術を愛する彼ならではの考えは出るものの、所詮全権を持っている訳ではなく実現は難しい。加えてナチス政権下の政治背景が生み出す高慢さ、思想の偏りは芸術の妨げにしかなっていない。
ここで語られる、「国民の映画に関しての理想」は、後世に一体どこまで実現されたのか。そんな作品を探しだすのは難しい。何故なら映画とは、製作国のその時代の政策に真っ向から反するものは作ることができないからだ。映画が常に大勢の叡智の結集によって作られるよう、またそういう時代が続くようにと願ってはいても、現実はそうではないことは誠に皮肉ではあるが、それが真実なのかもしれない。それでも映画を愛する人々は確実に存在するし、その想いを持ってなおこれからも映画は続く。
そこにさらに問題を投げかけたのは、フリッツのエピソードだろう。彼の様な立場の人間は多かったに違いない。ここまでナチスが出て来て、歴史の暗部が何も出て来ない訳はない。いくら映画を愛してはいたとしても、それと民族意識とは別物である感覚は、人間ならば当然のことだろう。フリッツとしては生きるためにゲッベルスの下僕をしていたに過ぎないのだから。
160分強の時間内にかなりのエピソードを入れるためか、個々のバックグラウンドは重要度に応じて詳しい役もあり、省略されている役もあった。フリッツに関しては後半のメインとなる役なので、これは十分時間を取っていてよいのだけど、もう少し掘り下げてほしかったかなと思われる役もある。
例えばグスタフ・グリュントゲンスがどのようにナチスと敵対したのかが曖昧だったり、マグダ・ゲッベルスの苦悩もさらっとセリフでの説明になってしまっていたので、ここももう少し修羅場が多くてもよかったのでは。
ケストナーがこういうパーティーに来たかどうか、マグダとの恋愛もフィクションかもしれないが、そこは舞台なのでよくわからないけど、このエピソードに寄ったのは少々もったいない。
そして想像するに、エミール・ヤニングスはもっとナチス崇拝者っぽかったのではなかろうか。そしてヘルマン・ゲーリング役は明らかに着せすぎ(実物はそんなに太ってないでしょう?)、そのせいか凄みが感じられなかったのは残念ですが。
単に映画好きにも大いに深く考えさせる作品でもあり、また20世紀前半のドイツ映画史に残る錚々たるメンバーを演じるだけに、当時の関係者が夢を叶えることなく散った最期にも頷かされる。ベテラン勢の技量もあり見ごたえある舞台だった。カーテンコールが少し少ないかなとも思ったのだけど、静止画の様なコールの、それぞれの役者の表情が生き生きとしており見事。映画論の舞台に相応しい絵画の様であった。
ロビーにあったお花です。ピントがズレてるのもあるけど。
佐江ちゃんからもありましたね。AKBからは桜の花。
そして有志一同で、私も参加させていただいたお花もちゃんとありました!
結構多くの方が参加されてましたね。こうして見れると嬉しいです。
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