旧友の江川さんと合流し、わかくさ幼稚園をあとにして南相馬に出かけました。
彼が八王子に住んでいたころ、ご縁があって拙僧の晋山結制(住職の新任式)でビデオ撮影をしてもらいました。
つきあいは、もう16年におよびますが、ここ数年は疎遠になっておりました。実際に会って話したのは4,5年ぶりでしょうか。
久しぶりの再会に家族の消息などの話題に花が咲き、彼が除染作業という大変な仕事をしていることを忘れてしまいそうです。
さて、福島市内を抜けて阿武隈川沿いの道を走り、途中で国道114号線にのりました。
そのまま走り続ければ浪江町の方向に行けるのですが、震災の災害通行止め箇所がありますので、川俣町で国道349号線、県道12号線に迂回して飯舘村を通って南相馬に入ることにしました。
よく道を知ってるねェ、といったら、除染で刈り取った草木の運搬をしていたので覚えたそうな。
「ダンプだけじゃなくて、簡単な刈り払い機の修理だってできるしバックホ―やらクレーンもバリバリ動かしてるぜ!」とプラダのサングラスをかけた坊主頭がニヤッと笑います。
もともと器用な人でしたが、重機も動かせるようになったと聞いてびっくり。
「除染出来なくなったら、東京オリンピックの建設現場で働こうと思ってんだ。」
桜が満開の山道田舎道を、南相馬の除染会社に移ることになってその下見に来た時の道だから、と案内してくれます。
「今度の会社はゼネコンさんのJVだから、日当も4000円上がるし、4畳だけど一人部屋の寮もあるし、賄い付きだから、福島のいまのところより良いんだよ。」
除染やってて被ばく線量とかは大丈夫なの?と聞くと、
「う~ん、まあねえ・・・血液検査してるとだいたいの被ばく量がわかるけど・・・・まあ、まだ大丈夫なんだが、最近、白血球が多いって言われててさあ・・・・」
って、どっかやられてんじゃないのかなあ・・・脳天気な顔して笑ってますけど、話しの内容は深刻なもの。心配です。
飯舘村は特に線量が高い地区で、除染作業の方以外は、だれもいません。
聞こえる音は行きかう車の音と除染作業の重機の音だけ。
あちこちに「除染作業中」ののぼりが立ち、黒いトンバッグに詰めて並べられた汚染土やその上に被せられたブルーシートが、除染作業が終わった後の田んぼの上に異物感丸出しで横たわっています。
だーれもいない 町。
だーれもいない 村。
理不尽と不条理と、後悔と怒りと諦めと・・・この場所を去らなければならなくなった方々にはいろんな感情があったことでしょう。
しかし、いまは何も感じとることができません。もうここにはだれもいない、いや、いられないのですから。
途中でガソリンを詰めて原町区にはいり、南相馬の役所を左に見て海側に進み、海岸線に近い6号線を南下します。
「震災時浸水地区」というような標識が制限速度の標識と一緒に掲示されています。こんな標識、初めてみました。
6号線に入ってしばらく行くと、今度こんなところに住むことになるんだ、といって江川さんが教えてくれたのが下の建物。
似たようなプレハブの寮が町のあちこちにあるそうです。エアコン完備、相部屋じゃないし、御飯も付いてるし、風呂屋も近いからね、楽だよ、と笑います。
「ただねえ、風呂屋さんから、除染の人は午後8時以降でお願いしますって言われてんだと。」
は?それって放射能のせい?と訊くと、
「いやいや、そうじゃなくて、除染作業の人は背中にお絵描きしてる人がけっこういるから、一般の人が怖がっちゃうんだって」
ふーむ・・・・
福島第一でバルブ閉め忘れやスイッチ押し間違いのミスが相次ぎ、水漏れやいろんな事故が起きるのも・・・そんなところに遠因があるのかもしれません。
嘘かほんとか、三宅さんが言っていた「原発建屋の中での作業は1日10万円を超すそうだ」といった話が、頭の中で生々しく響きます。
そこを左に曲がって海側に行ってみよう、との声で我に返り、細い道に進みます。
田んぼだったのでしょうか?道の両側には荒れ地が続きます。だったとしても、塩害でもう耕作はできないでしょう。
さらに先に進むと、瓦礫処理の作業場がありました。
作業員の方が、黙々と瓦礫処理に取り組んでいました。本当にご苦労様です。
さらに海側に進むと、田んぼの中にボートが一隻。なんだか震災発生当時、石巻で見た光景と同じです。
さらに進むと、東松島野蒜海岸や大浜、月浜でいやというほど見た、全半壊した家が立ち並ぶ地域に入ってしまいました。
・・・放射能の影響とはいえ、南相馬も本当に復旧も片付けも進んでいないんですね・・・・いわんや原発周辺地域では・・・。
流されて基礎だけになってしまった家の玄関だったと思われる場所に、供えられたばかりの一対の花がありました。
ああ、ここでも無くなった方がいるんだ。そう思い車を降りて線香に火をつけ、お供えしようとふとみると、まだ新しいミニカーの玩具がひとつ、花の陰に置かれてありました。
お父さんか、お母さんか、他の家族の方か・・・・・誰かがお供えしたミニカー。言葉になりません。
絡子をかけて数珠を取り出し、懇ろに読経をさせていただきました。
何カ所かで読経供養させていただき、もと来た道を戻ります。
今度は、南相馬の小高地区を通って帰ろうということになりました。
小高地区も線量が高く、帰還は認められていません。除染を進めてくれ、という住民の声が特に多い地区のひとつです。
ここでもやはり、除染関係者以外は誰も見かけることはありませんでした。
小高川の堤防(だと思います、間違ってたらごめんなさい)沿いの桜並木。原発の事故がなければ、桜が満開のこの時期、きっとたくさんの方が花見をしていることでしょう。
小さな橋の袂で、危うく転びそうになりました。橋と堤防の間の段差が解消されていないのです。
これも三年前のまま、なのでしょう・・・。
県道120号線を相馬野馬追斎場地へ向かい、さらに市役所の前を通って県道12号線、福島への道に出ました。
途中、川俣町の秋山地区にある駒ザクラを見て来ました。山間に咲く一本の巨大な桜。根元にカタクリが咲き、満開の花をつけたその姿はまるで山の女神のようです。
いろんなことを考えてズブズブになった頭の中が、大きな桜の精に抱かれて、少し軽くなった感じがしました。
滝桜とか、福島にはいろんな桜の名所があるんですね。
桜に限らず、花は本当に雑念や悩みを消してくれます。生きている、というむき出しの真実がそこにあるからだと思います。
ところで、上の写真でお気付きかもしれませんが、この桜の周辺もやはり除染がなされていました。
白く見える部分は、除染されてあらたに撒かれた砂なのです。公園に整備されているように見えますが、実は違うのです。
以前に撮られた写真を見ると、あたり一面は緑の草地が広がって、そこにはたくさんのタクリの花が咲いていました。早く、元の緑一杯の状態に戻りますように。
高台から駒ザクラのある山のふもとに眼を移すと、車を降りたときには気付かなかった汚染土の仮置き場がありました。
何と言ってよいのか・・・・・これもまた、複雑な現実です。
重くなったり軽くなったりする心を抱えながら、福島市内に戻ったのは午後6時過ぎ。現地の方にさまざまな話を聞きながら、福島駅西口の夜は更けて行ったのでした。
今回、義捐金をお届けに行って、すこしだけ福島の様子を垣間見させて貰いましたが、やはり行ってその中に身を置いてみないと分からないことばかりでした。
いろんな矛盾を抱えてはいるものの、日々、震災や原発事故からの復興、復旧が行われていますが、福島、特に浜通りに関しては本当に遅れていると感じざるを得ませんでした。
オリンピックだ、リニアだ、なんてわあわあ騒いでいる状況じゃないなあ、とあらためて感じ、重たい宿題をもらってきたような感じです。
できることは限られているけれど、すこしでもみんなの心が軽くなれるような、そんな御手伝いができれば、とあらためて心に誓ったことです。
道のりは長いけど、粘り強くがんばりましょう !
まとまりのない文章になりましたのに、最後までお付き合いいただき有難うございました
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園内のチューリップ、イイ感じです。そろそろ終わりに近づいてきました。
次の主役にはツツジが控えています。これもまた楽しみですね(^-^)
今日はここまで。