さんぜ通信

合掌の郷・倫勝寺のブログです。行事の案内やお寺の折々の風光をつづっていきます。 

典座教訓 私訳(2)

2009-10-01 23:04:48 | お坊さんのお話

                             秋の雲   もちの木霊園より

先日の倫勝寺講座・第2節「典座教訓を読む」の第2回講義で読みましたテキストの、拙僧訳を掲載いたします。
誤記、誤植、誤訳等、お気づきの点がございましたら御指摘ください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(第1回より続き)

次にすべての知事は庫裡において、明日はどのような味付けでどのようなおかずを食べ、
どのようなお粥を作るかということ等を相談する。
「禅苑清規」には「材料や昼食・朝食の味付け、およびその量を決めるには、
まず庫裡の知事の方々と相談しなさい」と言われている。

ここで言うところの「知事」とは
都寺(つうす)、監寺(かんす)、副寺(ふうす)、維那(いの)、典座、直歳(しっすい)
の六役である。

味付けや量について相談し、決まりがついたならば住職の居室である方丈や
修行僧達の日常生活の場である衆寮などの厳浄牌(告知板)に貼りだしなさい。
そしてその後、明日の朝のお粥の準備を始めるのである。

(四)典座の仕事の実際

お米をといだりおかずを調えたりすることは、典座がみずから手を下し、
よくよく注意して細かいところまで目を配り、まごころを持ってその勤めを行わなければならない。
一瞬といえどもいいかげんに怠けたり、なげやりになったり、
一つのことはよく注意して見るが別のことには注意を怠るような、そんなことがあってはならない。

典座の辦道の大事なところは、功徳という大海のなかに在ってもさらに功徳の一滴一滴を自分で注ぎ足してゆくことであり、
また善根という山の山頂にあっても、塵のような小さな功徳をさらに一つ一つ積み上げていくことなのではないだろうか。

「禅苑清規」には「苦い、酸い、甘い、辛い、塩辛い、淡いの六種類の味が調わず、
あっさりして柔らかであること(軽輭・きょうなん)、
きれいでけがれがないこと(浄潔・じょうけつ)、
仏法にかなった調理がされていること(如法作・にょほうさ)
の三種類の徳が備わっていなければ、典座が修行僧たちに食事を供養したことにはならない」と言っている。

ゆえに、米をとぐときには、まず米に砂が混じっていないかをよく見わけることが大事である。
また、よりわけた砂を捨てる時には、そこに米が混じっていないかをよくよく気をつけてみなければならない。
細かいことまで念を入れて米と砂を見分け気を緩めることがなければ、
調理したものにおのずから三種類の徳は充分に行き届き、六種の味わいもすべて備わることであろう。

(五)自ら手を下す

綿密な修行をしたことで知られる雪峰義存和尚(せっぽうぎそん 822-908)が
洞山良价禅師(とうざんりょうかい 807-869)の修行道場で典座の職に任ぜられた時のことである。


ある日、雪峰和尚が米をといでいると洞山禅師がやってきてこう尋ねた。

「砂をといで米を取り除くのか、それとも米をといで砂を除いているのか。」

雪峰は答えた。

「米も砂も両方一緒に取り除きます。」

洞山は重ねて問う。

「それでは修行僧はいったい何を食べるのだね」

雪峰は米の入っている御盆をひっくり返してしまった。
洞山禅師はその様子を見てこういった。

「汝は後日別の指導者に会い、そのもとで指導を受けることになるだろう」と。


古来より仏道を志す祖師方が、熱心に典座の修行を行ってきたことはこの通りである。
後世のこれから修行をしようとする私たちが、この修行を怠ったり慢心してなまけたりすることがあって良いものだろうか。
先達の方々は戒めて言うのである。「タスキがけをして自ら励むことが、典座の仏道修行である」と。

もし米をといでいて砂と誤って米をとぎ捨てるようなことがあれば、典座が自ら流し台を点検し拾い集めなさい。
「禅苑清規」に「食事を作るとき、典座自ら親しく点検していけば、自然に調った食事となる」と。

米をとぎ終えたあとの水も、簡単に捨てたりしてはいけない。
昔からとぎ水を漉す袋を備えておき、米の一粒も無駄にしなかったのである。

お粥の米を水の分量を計って鍋に入れたなら、これを護ることに気を配って、
鼠が触れたり、無用のものが覗いたりしないようにしなければならない。

(五)仕事の整理と食器類の整理

明朝のお粥のおかずを調理する際に、今日の昼食にいただいたご飯やお汁などの片付けもする。
ご飯の御櫃や汁桶、諸々の調理道具もみな心をこめてきれいに洗い清め、
高い所に置くべきものは高い所に、低い所に置くべきものは下の所にきちんと整理整頓しておいておく。
菜箸や柄杓、杓子など一切の器物も同じように丁寧に取り扱い、そっと置きなさい。その後、明日の昼食材料の準備にかかるのである。

まず、お米の中の虫がいたらこれを取り除く。
緑豆や籾殻、砂や石なども心をこめて選り分けるのである。

お米や野菜を選り分けている時、典座に付き従って修行をしている行者(あんじゃ)は、
かまどの守護神である「竈公真宰 そうこうしんさい」にお経を唱えて供養する。

次におかずや汁の材料を分け並べて支度にとりかかる。

(第3回目に続く)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

          

良价禅師と雪峰和尚とが交わした問答は、良价禅師が雪峰和尚の修行を咎めているわけではなく、
ある程度の境地に達し、さらに心をこめて典座の修行をする雪峰和尚の姿勢を
好ましく見ていたゆえの問いかけであったのではないかと思います。

「米」と「砂」とは対立する二つのもの、「悟り」と「煩悩」を象徴的にあらわすものです。
良价禅師の「砂をといで米を取り除くのか、それとも米をといで砂を除いているのか。」という問いに
「一時に去る」と雪峰が答えたことは、
悟りも煩悩も私には一切関係ありません、そういったことへの執着はもうありません、ということを表すのでしょう。

しかし、良价禅師に「それでは修行僧は何を食するのだ」とさらに問われ、
煩悩も悟りも頭の中の作りごと、もともとから何もないのだ、とばかりに雪峰はお米の盆をひっくり返してしまいました。

良价禅師はそこに、雪峰本人も気付いていない悟りへの執着を見たのではないでしょうか。
だからこそ、これからも諸方を遍歴する必要があるという、先の答えとなったのではないのでしょうか。

禅の教えは喫茶喫飯、行住坐臥、つまり日常生活にこそ核心があると思います。
「百尺竿頭さらに一歩を進める」という有名な禅の言葉がありますが、
それは高い枝のうえから手を離して空中を飛びまわる、などということではありません。
悟りを得たここが大事、と一生てっぺんにしがみついているのではなく、地面に降りてくるということです。
そして悟ったということも忘れ、日常をおくることがとても大事なことなのだ、と教えてくれている言葉であると私は思います。
「日日是好日」なのです。

未熟な住職が言うことではありませんが、雪峰和尚がもし百尺竿頭から下りて一日一日を大事に修行していたならば、
修行僧はいったい何を食べるのだ、と言う再度の問いに対してお盆をひっくり返すことなどせず、
典座の日常である「米とぎ」を黙々と続けていたのではないか、と拙僧は思います。
もしかしたらお米をとぎながら「方丈さん、お腹がすきましたか?ご飯の時間はまだですよ」と答えていたかも知れません。

だいじなお米を撒いてしまって・・ちゃんと拾ってとぎ直したのかな、と拝読しながら余計な心配もしてしまうところでもあります。

いずれにせよ、後世に大きな影響を与え仰がれ続ける祖師となられた雪峰も、
典座をしっかり勤めることで修行力を増していったのだ、ということをお伝えになるために
道元禅師はこの例をひかれたのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日はここまで。


 



最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんにちは (風月)
2009-10-02 14:25:06
拝読させて頂きました。あらためて唐代の禅僧シリーズの『雪峰』をちょっと読んでみました。雪峰という方は、かなり意表をついた行動に出る、飛んだ人という印象がありますね。やはり雲門などという傑物を弟子に生み出した方だったのだろうと思ったりしました。

今、道元禅師の台所事情などを少し勉強しているのですが、仏道修行としても一粒のお米を大事にしますが、実際問題として弟子を食べさせるのも大変だったのではないかと思っています。

ところで美しい写真ですね。
返信する
Unknown (りんしょう)
2009-10-03 08:18:23
コメントありがとうございました。
良价さまと雪峰さまの問答に、超未熟な私が評釈などさしはさめるわけはないのですが、以前この問答で長く引っかかってしまったことがあるので、今回文章にしてみました。
問答の最中に浄瓶をけとばしたりしたのも雪峰さまだったと思いますが(記憶違いであればスミマセン)、仏道への激しい希求があったからこその行動だったのだろうと思います。
典座は料理が出来ればよいということではありませんので、祖師がたの典座にまつわる話はいろんな面で腹にこたえますね。

写真は隣の霊園の展望台からとったものです。
日本画を意識して撮影してみました。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。