「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(6)

2016-07-24 19:16:00 | NPB
 すっかり、長期シリーズ化しております(笑)。
 相変わらず、基本的に敬称略で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかは、ちょっとカンベンしてたもれ(おい)。

 さて、迎えた1991年のドラフト会議(11月22日開催)。

 前回書きましたが、やり投げ選手やら大工さんやら元力士やら東大生やら多士済々が指名される中、当時のオリックスブルーウェーブは4位で愛工大名電高校の鈴木一朗を指名します。

 云わずと知れた、あのお方ですね。
 高卒新人4位入団ながら、ルーキーイヤーから一軍に登場して、その大いなる可能性を見せつけて、今にして思えば「なぜ、4位で?!」ということになるのでしょうけど、まあ、この年の新人、特に1位2位がほぼ外れ無し状態というくらいに候補がそろっていたという事情もありました。そもそもオリックスの1位も後のメジャーリーガー(田口壮)ですし(笑)。

 で、まあ、どうしてもイチローに関しては、「若手時代にD監督に干されて云々」というエピソードが語られてしまうのですが、成績を見ているとむしろ使っている方なんじゃないのか、という気はします。
 むしろ、田口を潰しかけたエピソード(送球イップスになった)とかの方が問題だよな、と。
 それ以上に急激にチームカラーを変えようとした、つうか虚塵のコピーを作ろうとして舞い上がったというのが問題だったんじゃないか、と。
 かなり口うるさいタイプだったという話は聞いてますし(それでもスミス、クロマティら外国人選手には、「ウザいけどナイスガイ」と慕われていた模様)、球界の盟主(笑)黄泉瓜虚塵群でヘッドコーチなんかをやっている分には、ここまで貶められなかったのではなかろうかと思うわけです。
 パンチ、ブーマーといった元在籍選手の発言なども見る限り、根が深いというべきか、フロントへの不信感も加わり、チーム内部は相当崩壊していたのではないかと思われます。
 そんな中、近鉄の監督を辞して解説者を務めていた仰木彬氏が後任監督に就任します。
 そこから鈴木一朗はイチローとなり一気に才能を開花、ついで(?)に壊れかけていた田口までが覚醒します。
 そして、オリックスはほんの短い期間ではありますが、黄金時代を迎え(94年リーグV、翌年日本一=よー考えたら、後のメジャーリーガーが4人もいるんだもんなあ……)、「西武が強過ぎてつまらん」という風評、Jリーグ開幕、平成の大相撲ブームが重なって、野球一辺倒ではなくなってきた世間の目をつなぎとめることに成功します。
 

 しかし、暗い影は確実に忍び寄ってきました。
 1993年のドラフト逆指名とフリーエージェント制度の導入です。
 さらに、草魂監督を迎えた近鉄は、これと同時に超絶暗黒時代に突入していきます。
 94年オフの騒動にはじまり、さらに球界を揺るがす大事件に繋がる伏線になっていったと云っても過言ではないでしょう。

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