「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(12)

2017-04-30 18:16:00 | NPB
 また、ずいぶんと間が空いて、気が付けば2017シーズンも開幕して早1か月。
 この調子だと、交流戦が始まってしまうので、ペースを上げねば……。

 さて、この「独自研究」シリーズも12回目。
 どこまで書きましたっけ?
 ああ、1998年まで来ましたね。
 というわけで、その年のドラフト会議です。

 この年の目玉といえば、そう――

 
 4億円の置物松坂大輔

 でした。
 この年、まさに、甲子園は松坂の為にあった、といっても過言でないくらい高校野球の世界では大活躍でした。
 特に夏の選手権なんて、準決勝で延長17回まで一人で投げて(当然、200球超え)、そこから翌日の決勝戦でノーヒットノーランですからね。
 世間は軽く引いてました(笑)。
 プロ志望ということで、当然、どの球団に入るのか、注目が集まっていたのですが、何か横浜ベイスターズ入りが「既成の事実」であるかのように語られ始めておりました。さらに「本当の志望球団は巨人だ」、みたいな話もチラホラしてました。
 高校生なんで、逆指名権は無いわけで、当然のように、意中の球団以外からの指名でなければ、社会人入りするだろう、という予想も出ておりました。

 そして、当日――
 横浜、西武、日本ハムの競合の末、西武が指名権獲得。

 いやあ、結構、叩かれてましたね「特攻」した日本ハム共々に。
 「松坂君がかわいそう」という意見が多く、もっとラディカルなところでは「パ・リーグに行ったら折角の才能が潰れてしまう」という意見もあったりして、指名拒否→日産自動車入りが確実みたいな報道がされてましたよね。
 気が早いメディアによっては、日産自動車の合宿所訪問しーの、初任給(確か18万強だった記憶)とか待遇の話が出ーの、とまあ、完全に西武は悪役(過去の蓄積があったうえに、この年、やらかしてますし)でした。

 とにかく、清原を失い、色々と陰りを見せていた西武は、「球団の存亡をかけて」という表現が決して冗談と思えないほどのテンションで交渉に臨み、執念で契約にこぎつけます。

 なお、横浜はハズレ1位で、「ああーっと」の人、日本ハムは、スララガーの人を指名してます。

 そして翌1999年4月、さっそく1軍デビューを果たし、片岡篤史フルスイングヒラメ筋負傷事件(違)を引き起こします。さらに内角高めを放られたフランクリンが怒って詰め寄ったら、後日、「日ハムの暴力外国人」とつるし上げを食らうなんて事態も起きました。
 その後も、近鉄のお偉いさんが松坂の集客力に期待するあまり、「あんまり最初から打ち込んで、自信なくされても――」と、暗に片八百長を現場に要求するような発言をして、問題になったり、イチローを3打席3三振に仕留めて、「自信が確信に変わりました」という名言を残したり――以降の活躍は、周知のとおり。
 あ、2年目に、ちょっと不祥事も起こしてますけどね(しかも、この時点で早くも、あの夫人の影がチラチラと)。

 レベル云々の話をすると、この年、日本一になったのは、福岡ダイエーホークスなんですけどね。
 そこで、この間手に入れたブルーブックを紐解きますと――

 総得点4位(563)総失点3位(553)
 本塁打3位(140)盗塁2位(80)チーム打率4位(.257)
 失策率4位(81個)チーム防御率4位(3.65)
 
 ホントにどうやって、優勝したんだ、このチーム?!

 そして、99年のシーズンをもって、イチローがシアトルマリナーズに移籍します。
 
 ここから、怒涛と狂乱の2000年代に突入していきます。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿