「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(18)

2017-05-28 07:44:00 | NPB
 さて、ここで改めて2004年開幕前の動きを振り返っておきましょうか。

 この年、ついに日本ハムが東京ドームから札幌ドームに本拠地を移転します。
 考え様によっては、東京ドームサイドから、半ばネグレクトに近い扱い(※)を受けていて、いくら親会社が巨大であったとはいえ、経営的にも限界に近かったということを考えれば、新天地を求めていくのは、仕方のないことだったのかも知れませんな。
 ついでに、2002年ごろの親会社がやらかし(牛肉偽装事件)→大社の爺様失脚のイメージを払拭したいという思惑もあったような。

 (※註)使用料を上乗せして払っていた。8月に「死のロード」以上に死のロードを強いられていたetc

 しかし、本来は大阪の会社(創業地は徳島)なんですけどね(苦笑)>日本ハム

 で、それの際して、前年1月に渡邊孝男(元西武→サンワード貿易)と契約するなど、少しずつ北海道にゆかりのある選手、スタッフなどをチームに迎えていたのですが、その一方で、スター不在に悩んでいたのもまた事実でした。
 そこで、移転準備も佳境の入っていた球団は、オフに大勝負に出たのでした。

 SHINJO獲得

 思わず、フォントをデカくしちゃいましたけど、2003年11月時点では、球団史上最大級の事件だったのではないか、と。落合獲得で自信を持っていたから、清水の舞台から飛び降りることが出来たというか、それにしても、まさか本当に来てもらえると思ってなかったというか、球団も契約前後は振り回されていた感じもしてました。

 11月19日、映画の試写会にゲストで呼ばれていたSHINJO氏、何を思ったか、いきなり勝手に入団発表しちゃいます。しかも、背番号1(当時、阿久根が付けていた)とか決めちゃうし。
 球団幹部、そして阿久根が仰天したどころの騒ぎじゃなかったでしょーねー。

 普通だったら、フライングによる「騒ぎ」で終わるところなんですが、何せ移籍先がおそらく当時12球団一ファンが少ないと言われていた日本ハムでしたから、余計に「大騒ぎ」になりましたよね。
 事実上、獲得競争はCLMと一騎打ちになっていた、と云われていますが、その時点(つまり、パ・リーグの球団からしか正式にオファーが無かった)で「新庄も、もう終わりなのかなー」「あっという間に落ちぶれたなあ」的な空気は流れてましたね。
 かくして宇宙人2人の獲得に成功した球団関係者にとっては、おそらく嵐のような半月が経過し、12月3日、正式契約→入団発表の運びになるのですが、札幌ドームに現地の人々が2000人押し寄せ、急きょ公開発表会になり、

「札幌ドームを満員にする」
「チームを日本一にする」
「これからはパ・リーグです!」

 ――と、高らかに宣言。
 
 とはいえ、札幌はともかくとして、東京あたりでは、比較的冷ややかな反応でしたね。
 いくら何でも言い過ぎだろ、と。

 ところが、一年後、新庄改めSHINJOは、「スーパースター」といった表現するのも陳腐、パ・リーグさらに日本プロ野球界の救世主に思われるほどに、突き抜けた存在となっていたのでした。

 実際、ホントにこっから、始まっちゃったんでしょうね、パ・リーグの現在の隆盛は。

(交流戦に触れぬまま、つづく)

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