「黒い五月」の活動日誌

ティーカップから引っ越してきました。

何故、交流戦だとパ・リーグが強いのか?(10)

2017-02-26 19:39:00 | NPB
 とうとう10回目に突入してしまいましたよ。

 相変わらず、基本的に敬称略で、しかも思いっきり主観で書きなぐっております。
 ついでに記憶違いとかも、カンベンしてください(苦笑)。

 さて、やっと1995年ですよ。
 この年、イチローは2冠王(+盗塁王、最多安打、最高出塁率、で、決して前年の成績が突然変異的なものでないことを証明しました。
 
 ただ、この年あたりから、ひそかにそして着実に「パ・リーグのレベル低下」を指摘する声が大きくなりはじめます。

 打撃主要3部門と投手主要3部門のタイトルの数字が、いずれもセ・リーグより下回ったこと。
 特に打点80(イチロー、初芝、田中幸雄)は、パ・リーグ歴代最少でしたしね。
 本塁打28(小久保)も、ここ20年くらいに限っても、加藤ボール時代の2012年のおかわり君の27本に次ぐ少なさでした。

 もっというと、この年については、オリックスがリーグ優勝はしたものの、日本シリーズでは、ID野球のヤクルトの前に屈してしまったのも、評価を下げる原因にもなっているような……。

 実際のところ、この後、イチローが首位打者を2000年まで7年連続で獲得したのですが、偉業というよりは、当時の雰囲気としては「7年も独占された」という感じになってました。
 
 渡米する直前の2年くらいになってくると、半ばビーンボールまがいの内角攻めをした挙句、打たれまくる投手、度々レーザービームの餌食になる走者、そして何よりもイチローよりも打てない打者が槍玉に上がるような状況でしたね。

 まあ、翌年の日本シリーズは、世間の期待、希望とは裏腹に、長嶋ジャイアンツをボッコボコにするんですけどね。前年の恨みつらみまで、叩きつけるがごとく――というほど数字的には圧倒してないハズなのですが、ひたすら仰木マジックにカンピューターが翻弄され、勝手に壊れていったというのが正しいのかも知れません。
 高田、四條、勝呂といったあたりを使って、しっかりと傷口に塩を塗り込んだのも印象的。
 あとは直接的じゃないにしても、イチローvs河村コーチ(2軍担当だったけど)の師弟対決というアングルもありましたね。

 当時はですねえ、いくら2年連続でリーグ制覇していたとはいえ、本当にBWに関する情報が不足していたんですよ。
 基本的に、世間の認識は、「イチローと愉快な仲間たち」でしたから。
 あと、知られている選手といえば、前述の元巨人組と元ヤクルトの鈴木平、元阪神の野田、あとは球が遅いという意味で有名だった星野伸之と、そのボールを素手で捕ってしまったスコラ中嶋くらいなもの。

 そもそもテレビに出てくる解説者の多くが、イチローすらまともに見てるかどうか怪しいくらいでしたし(解説者よりもアナウンサーの方が情報が豊富だったり)、それ以前に阪急→オリックス在籍経験のある野球評論家という存在自体が、かなりレアな存在、米田哲也氏は別格(とはいえ少しだけ阪神に在籍)としても、あとは、あの「世界の小さな盗塁王」福本さんと、トリプルスリー達成しても世間に気づいてもらえなかった簑田さん(現役最後は巨人)くらいなものだったか?加藤英司さんはハムで小笠原を育ててましたし、山田さんは、仰木さんと衝突を繰り返しながらコーチしてましたし。
 さらに福本さんはABC&おっサンテレビで、簑田さんは、まだまだネットが発展途上だったテレ東系。地上波の中継は年に数回、ラジオもライオンズびいきのJOQRだのみ。
 一歩間違うと、イチローの存在自体が都市伝説みたいな(苦笑)。
 

 それを思うと、実に絶妙なタイミングで引退に追い込まれたパンチ佐藤。
 なんのかんの言われても、パ・リーグ出身者にメディアでの活躍の道を開いた功労者であること間違いないでしょうね(佐々木信也氏という偉大過ぎる先達はいますが)。
 いや、決して大げさではなく。
 もし、今、あの当時の状況だったとしたら、名球会員なら声はかかるにしても、キー局やスポーツ紙(あるいは夕刊紙)となると西崎、里崎クラスでも厳しい、ましてや岩本勉(言っときますけど、この人、芸人じゃないですよ)、金村さん(漫談師じゃないですよ。そもそもパンチ後援会の会員だった=これ、マジ)クラスだとローカルでも枠があったかどうか。
 実はこのくだりも、後の交流戦で、パ・リーグが無駄に強くなった遠因だったか?

 とりあえず、あの時は「前年、ヤクルトにコテンパンされたチームが、巨人に勝てるわけがない」といった空気でしたからね。
 区営サウナでおっさんたちに「あんちゃん、このイトウタカヒデって知ってるか?」と訊かれて、伊藤隆偉について4解説していたこともありましたなあ(苦笑)

 思えば、この年が20世紀におけるパ・リーグの最後の輝きだったような気がしますね。