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以前、魚をリリースすることについてこんな記事を書いた。
昨日、釣った魚は完璧にフライを飲み込んでいて、
針を取る際に、出血させてしまった。
このまま、リリースしてもこの魚は生きていけないだろうなと思い、
ランディングネットに収めたままキープさせてもらった。
実は、キープしたのは2尾目である。
一尾目はフライを初めて最初の一匹。
管理釣り場での魚だったが、
初めて釣った魚なので最初で最後と思って食べた。
今回、塩焼きにして食したその魚は臭みもなく、
タンパク質の極めといっていいくらい美味であった。

動物の最も本能的な意義は子孫を残すことである。
フライではリリースする人が多い。
それはその魚が生き延びることによって、
子孫を残してくれることを期待していることが一番ではないかと思う。
しかし、リリースした魚がそのままちゃんと生きていけるのだろうか?
何しろ口に大きな針が刺さった魚である。
この魚が生き延びる確率については諸説あるが、
少なくとも私が釣ったアマゴは水の中で支えてやっても、
自分で泳いでいこうとしなかった。
ランディングネットで窒息で絶命する刹那、
最期の暴れをしたがそれきりだった。
まだ15時半くらいだったが、今日はそれでいいと思った。
キャンプをした後だったのでクーラーボックスに入れて、
途中の店で氷を買って入れた。
しかし、その手には何か罪悪感が・・・
初めての川でポイントもわからないまま、
魚を釣るのはとても難しい。
実は岡山から鳥取に行ったり、また広島に行ったりと、
走行距離は二日間で700キロを超えた。
そんな思いをしてして釣った一匹。
夏場だからそれほど魚の多い渓ではなかった。
ちょっとしたポイントでつつくのがいるが小さい。
ちょろちょろとした流れの堰堤の下で、
ここでいなければもうお手上げというポイント。
姿勢を低くしてポイントに近づく。
上はボサっているのでサイドキャストしか無理。
それも後ろにはラインが伸ばせず、ロールキャストもどきのキャスト。
瞬間全てを忘れて、自然の一部となり、
自分が魚ならどこにどう潜んでいるだろうという感覚。
ここにいるという流れの少し上にアプローチ。
思い通りの場所で出た。
かかったけど岩の下に潜られてなかなか上がってこない。
バレないようにテンションをかけながら、上流に歩いて角度を変えて、
魚をひっぱり出そうとする。
しばらくやり取りしてネットに収まったのは20センチほどのアマゴだった。
美しい。
でも思いのほか深くフライを吸い込んでいてリリーサーを使うけれども、
なかなか取れなかった。
それだけ本物だと思って私の偽物を食べてくれたんだ。
疑似餌の釣りとしては完璧なのではないかと思う。
針を外したら血が滲む。
リリースしてもこれは生きていけないなぁ。
であれば成仏させるためにキープしよう。
そう思うまで結構な時間がたっていたのだと思う。
こんな思いをしてまで釣った魚をリリースする必要があるのか。
その時思ったのはリリースすることによって
贖罪しているのではないか?
朝ごはんや晩ご飯だと思って食べた水性昆虫が偽物で、
しかも針がついていて釣られて、写真を撮られてリリースされた。
このダメージは魚にとっていかがなものだろう?
リリースして元気に下の流れに戻っていったというのは、
フライフィッシャーのただの自己満足ではないのか・・・
ここまで書いても私には結論が出ない。
前に読んだ「食う寝る坐る」という本では、
出家した際に変わったことは殺生について考えた時に、
自分の血を吸っている蚊を叩くときに一瞬躊躇するようになったとあった。
そこまでの達観はできないが、
人間の生命は動物を殺した上に成り立っている。
もうそろそろ結論の出せないこの話題についてはやめよう。
生きるということはそれぞれの生命にとって究極的に大切で、
それを他のものに犯されることはあってはならない。
原理主義的と言われるかもしれないがも
こんなことを考えさせられるフライフィッシングという釣りは、
やっぱり奥が深い。
そんなことを悩むから、
もういいからやめたいとならないし、
こうして釣れるまでにものすごい努力があった。
本当につれなくって、もういいかなと思った時に
こうして少しだけ釣れる。
だからなかなかやめられない。
反省や後悔を常にしながら釣りをしている。
それは人生そのものではないか?

以前、魚をリリースすることについてこんな記事を書いた。
昨日、釣った魚は完璧にフライを飲み込んでいて、
針を取る際に、出血させてしまった。
このまま、リリースしてもこの魚は生きていけないだろうなと思い、
ランディングネットに収めたままキープさせてもらった。
実は、キープしたのは2尾目である。
一尾目はフライを初めて最初の一匹。
管理釣り場での魚だったが、
初めて釣った魚なので最初で最後と思って食べた。
今回、塩焼きにして食したその魚は臭みもなく、
タンパク質の極めといっていいくらい美味であった。

動物の最も本能的な意義は子孫を残すことである。
フライではリリースする人が多い。
それはその魚が生き延びることによって、
子孫を残してくれることを期待していることが一番ではないかと思う。
しかし、リリースした魚がそのままちゃんと生きていけるのだろうか?
何しろ口に大きな針が刺さった魚である。
この魚が生き延びる確率については諸説あるが、
少なくとも私が釣ったアマゴは水の中で支えてやっても、
自分で泳いでいこうとしなかった。
ランディングネットで窒息で絶命する刹那、
最期の暴れをしたがそれきりだった。
まだ15時半くらいだったが、今日はそれでいいと思った。
キャンプをした後だったのでクーラーボックスに入れて、
途中の店で氷を買って入れた。
しかし、その手には何か罪悪感が・・・
初めての川でポイントもわからないまま、
魚を釣るのはとても難しい。
実は岡山から鳥取に行ったり、また広島に行ったりと、
走行距離は二日間で700キロを超えた。
そんな思いをしてして釣った一匹。
夏場だからそれほど魚の多い渓ではなかった。
ちょっとしたポイントでつつくのがいるが小さい。
ちょろちょろとした流れの堰堤の下で、
ここでいなければもうお手上げというポイント。
姿勢を低くしてポイントに近づく。
上はボサっているのでサイドキャストしか無理。
それも後ろにはラインが伸ばせず、ロールキャストもどきのキャスト。
瞬間全てを忘れて、自然の一部となり、
自分が魚ならどこにどう潜んでいるだろうという感覚。
ここにいるという流れの少し上にアプローチ。
思い通りの場所で出た。
かかったけど岩の下に潜られてなかなか上がってこない。
バレないようにテンションをかけながら、上流に歩いて角度を変えて、
魚をひっぱり出そうとする。
しばらくやり取りしてネットに収まったのは20センチほどのアマゴだった。
美しい。
でも思いのほか深くフライを吸い込んでいてリリーサーを使うけれども、
なかなか取れなかった。
それだけ本物だと思って私の偽物を食べてくれたんだ。
疑似餌の釣りとしては完璧なのではないかと思う。
針を外したら血が滲む。
リリースしてもこれは生きていけないなぁ。
であれば成仏させるためにキープしよう。
そう思うまで結構な時間がたっていたのだと思う。
こんな思いをしてまで釣った魚をリリースする必要があるのか。
その時思ったのはリリースすることによって
贖罪しているのではないか?
朝ごはんや晩ご飯だと思って食べた水性昆虫が偽物で、
しかも針がついていて釣られて、写真を撮られてリリースされた。
このダメージは魚にとっていかがなものだろう?
リリースして元気に下の流れに戻っていったというのは、
フライフィッシャーのただの自己満足ではないのか・・・
ここまで書いても私には結論が出ない。
前に読んだ「食う寝る坐る」という本では、
出家した際に変わったことは殺生について考えた時に、
自分の血を吸っている蚊を叩くときに一瞬躊躇するようになったとあった。
そこまでの達観はできないが、
人間の生命は動物を殺した上に成り立っている。
もうそろそろ結論の出せないこの話題についてはやめよう。
生きるということはそれぞれの生命にとって究極的に大切で、
それを他のものに犯されることはあってはならない。
原理主義的と言われるかもしれないがも
こんなことを考えさせられるフライフィッシングという釣りは、
やっぱり奥が深い。
そんなことを悩むから、
もういいからやめたいとならないし、
こうして釣れるまでにものすごい努力があった。
本当につれなくって、もういいかなと思った時に
こうして少しだけ釣れる。
だからなかなかやめられない。
反省や後悔を常にしながら釣りをしている。
それは人生そのものではないか?
そこからの経験値が今回の記事の考えなのでしょうね
次はどんなことを思うのでしょうね
楽しみですね
でも案外もっと単純で簡単なことなのかもしませんね。
かの開高健先生は次のようにおっしゃっています。
・・・
どうしてあなたは魚を逃がしてやるのかとたずれたから、
「私は挑戦し、征服するが、殺さない。支配しない。そういうことには興味がないのです」
と答えた。どうにも大げさで、キザで、こう書いていてもペンが赤くなりそうだが、そう答えちまったのである。
・・・
なんか、いいでしょ
これからもカッコいい森の音ワールド
楽しみにしています
おおきにです。