城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

茶臼山陣城@大阪府

2023-12-11 17:00:00 | その他城
2023年12月11日

昨日の京都城巡りから大阪市内に入ったので、本日は茶臼山陣城にやってきました。

夕方の到着だった為、急ぎ足で周りました!

大河ドラマ「どうする家康」で大阪冬の陣と夏の陣の回となり佳境を迎えています。

縁あってこのタイミングで大阪に来れたので、やはり茶臼山には足を運ぶべきと思い向かいました。

茶臼山といえば、大坂冬の陣の際は徳川家康の本陣があった場所。
さらに大阪冬の陣の際は、この戦いで日本一の兵(ヒノモトイチノ ツワモノ)と称されるようになった真田幸村が陣を置いた場所になります。

JR南海線の新今宮駅から歩いて15分程で茶臼山公園に到着しました。



あべのハルカス前からのショット。
線路の奥に見える木々のあたり一帯が茶臼山公園です。

最近、NHKの歴史探偵で大坂の陣のVR再現映像を見ました。

この茶臼山の前には高さ5m、長さ1kmにも及ぶ堀のような自然地形の谷があったそうです。

あべのハルカス側から向かうと、電車の線路がかなり下がった位置にあります。

もしかして、その自然地形を利用してできたのがこの線路か!?なんて妄想を膨らませていると身体に電流が走りました。

実際は分からないのですが、そんな妄想を膨らませることができるのも、戦国のロマンです。



公園入り口に入ると、オシャレな空間が広がります。
この時期はイルミネーションやスケートリンクもあり、カップルが多くいました。

この空気感と自分の中で、歴史跡の期待度のギャップが激しくて多少ショックを受けましたが、陣の跡は更に奥のようで安心しました。



一度この空間から出て、案内図通りに茶臼山山頂に向かいます。
写真の右手が茶臼山となります。



この地で激戦が繰り広げられたと考えると、当時を勝手に想像してしまいます。



茶臼山は小高い丘のような山で、簡単にアクセスできます。



階段を登り切ると、中心にこんもりと盛られた場所があります。

そこに真田幸村についての案内板が建てられています。



あべのハルカスも近くに見えます。
大坂夏の陣ではこの先に徳川家康の本陣があり、兵力で劣る西軍の真田幸村は徳川家康の首だけを狙い、三度に渡って本陣を攻め込みました。

大坂冬の陣では大阪城を防御する為の出城、真田丸を戦の最前線に築いて迎え撃ち、
夏の陣でも最前線に陣を張って東軍の徳川を迎え撃ちました。



最頂部には真田幸村の看板が立ち並びます。



真田幸村はワタクシの好きな武将にランキングされています。

昔から好きでしたが大河ドラマ真田丸を見て、もっと好きになりました。

堺雅人が演じた真田幸村は本当にカッコよかった。



真田家は二度、領地だった長野県の上田城で徳川軍と戦っています。
知将だった父の真田昌幸は戦巧者だったので、どちらも勝利しています。



真田家の歴史を紐解くとすごく面白く奥が深いです。
特に真田幸村に関しては日本人の美学そのものと言っても過言ではないと思っています。

関ヶ原で東軍につくか西軍につくかで、真田家は父昌幸、兄信之、信繁(幸村)で会議を開きます。真田家が生きる道を模索した結果、兄信之は東軍に、昌幸と信繁は西軍につきました。

そして、関ヶ原では東軍の徳川が勝利して天下を納めました。
結果として真田昌幸と信繁は和歌山県の九度山に12年間幽閉されます。

一国を納めていた戦国大名にとっては、とても暇じい生活だったようです。

幽閉中に父昌幸は死に、信繁は豊臣秀頼の呼びかけに応じて西軍として大阪の陣に参戦します。

既に戦国武将として表舞台から消したにも関わらず、大坂の陣で活躍した真田幸村はまさに日本人の大好きな、底辺から這い上がった武将と言えます。



冒頭にも書きましたが、大阪冬の陣では東軍の徳川本陣跡でもあるのですが、徳川家康の説明看板は一切ありません。笑

さすが大阪。



山頂下は公園になっていて、広めの曲輪の跡のようになっています。



だいぶ暗くなってきた上に、雨が降ってきました。
しかし、この薄暗さも雰囲気があってまた良き!



本陣跡の堀と通天閣のコラボレーション。





歴史探偵のVR大坂の陣では、真田隊は徳川の陣から見えないように右手に巨大な馬出を隠していたようです。

敵を十分に引きつけてから、天然の地形を利用して一斉攻撃。
敵がどんどん引きつけられ、徳川本陣が薄くなってから、隠した馬出から一気に真田幸村率いる本体が徳川本陣を側面から回り込んで攻めました。



本陣を攻められたことで、徳川家康は敗走。この時に自刃を決心したと伝わっています。

話が長くなるので割愛しますが、その後形勢が逆転し真田幸村は戦死。西軍は敗れ豊臣家は滅亡します。

東軍150000に対して西軍50000の劣勢な状況の中で勝てる策を見い出し、あと一歩まで徳川家康を追い詰め、華々しく散った真田幸村。

個人的に日本人は散り方を大事にする人種だと思っています。
滅びの美学はワタクシも含めた日本人が大好きです。

鬼滅の刃では煉獄さんが炭治郎達と乗客を守るために去った時。

ドランゴンボールならピッコロが孫悟飯をかばって去った時

その散り方に人々は感動しました。

あと一歩で勝てたのに・・
もし真田が勝っていたら・・
あの時豊臣秀頼が大阪城から参陣したら・・・

真田幸村の最後は、まさに日本人の美学の芯を突いているのです。

地の底から這い上がり、勇猛果敢な戦いぶりに日本一の兵と呼ばれるほど名を上げた真田幸村。

ぜひ大阪に行った際は、この地を訪れて頂きたい。



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