城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

江戸城【二回目】@東京都

2024-07-27 09:00:00 | 100名城
2024年07月27日

休日の土曜日。
暑い日が続いているので、早朝に散歩も兼ねて江戸城にやってきました。

江戸城は日本で最大の巨大城郭でした。
東京の中心部ということもあり、現在残っている遺構はだいぶ縮小されましたが、それでも圧巻の城郭を至る所で感じることができます。

今日は竹橋方面へ内堀周りを散歩したいと思います。

7時頃に東京駅に到着。



東京駅前から江戸城に続く、片側4車線の永代通り。
現在は日本の中枢なので、見上げるほどの高層ビルが立ち並びます。


ここが江戸城のメインゲートとなる、大手門。
巨大な櫓門が見えます。
大手門から東皇居に入れますが、今日は早朝の為まだ開城していません。

この大手門の石垣は改修の際に伊達政宗が担当したといわれています。



江戸城の内堀。
皇居ランでも使われる内堀周りは約5.5Km。

九段下や、武道館方面まで歩いたらさらに長い距離を誇ります。

やはり日本最大の城郭はスケールが大きいです。



江戸城は高低差があり、大手町駅や東京駅方面にある大手門側は下にあるので、やや石垣も高さは控えめ。



竹橋方面にあるのは平川門。
こちらも伊達政宗を含めた大名によって造られました。



平川門は三の丸の正門となっており、大奥に通じる門だったことから、お局門とも呼ばれていたそうです。

時間が早いため、こちらもまだ開門していないので外観だけ。



竹橋付近では、他では見ることができないロケーションを拝むことができます。

水堀と立派な石垣。
そして、その上を通る首都高速道路。

貴重な遺構の上に堂々と高速を通すとは、独創的すぎます。

城好きな方なら目を疑う光景。



北の丸方面から見た、本丸方面の石垣。
こちらは高低差のある江戸城の上の方にあるため、石垣が大手門側よりはるかに高くなっています。



土塀も何も残ってはおりませんが、石垣だけでも十分見惚れてしまうほどの、素晴らしい石垣群を見ることができます。



清々しい朝とのコラボレーション。
大都会の中で見る、美しい三連の高石垣。



北桔橋門と石垣。
江戸城本丸と北の丸を繋ぐ門であり、天守直結の門のため、鉄壁の強固な作りになっているように思えます。



九段下から日本武道館に抜けるには、田安門を通過します。

今ある江戸城の中では最古の建築物であり、重要文化財です。



石垣は綺麗な切込接で、門自体は高麗門。
田安門は寛永13年1636年頃に建てられた門とされています。



田安門の橋から見た堀。

この一帯は内堀ではなく、ダムのような役割を果たした場所なので、石垣ではなく土塁と腰巻きと鉢巻の石垣なのでしょうか。


主郭を囲む堀と比べて防御力がやや劣る堀かなと思ったが、田安門を抜けると巨大な枡形と巨大な渡櫓門。

江戸城のメインゲートではないのに、この迫力。

抜かりの無い防御力。


枡形の石垣も切込接。
江戸城は10年以上の期間で築城されたので、石垣一つとっても場所によって技術が違います。



枡形の石垣で貴重な彫印を発見!



石垣を積んだ職人や担当した武将などが石垣に刻印をすることはよくあることですが、天下の江戸城でこんなに間近に見れるのは貴重。



もう一つ発見!
400年以上の時を超えて、現代に伝わる職人からのメッセージです。



巨大な渡櫓門の上部は破損のため大正期末期あたりに撤去されたものを、昭和に復旧。

今はなかなか復元するにも難しい時代となってしまったので、昭和に復元したのはありがたい話。



近くで見ると、上を見上げるほど高いのでより迫力が伝わります。



格式と迫力と守備における実用性。

天守を見るのも素晴らしいのですが、やはり個人的には城門も外すことができない。



裏からは横架材も見え、日本の木造建築の技術を堪能することができます。

これを眺めるだけでも、飽きることがありません。

いつか内部も見てみたい。



裏からのショット。
シンプルにかっこいい。

今では武道館に向かう人やランナーなど多くの方がこの門をくぐります。


今日は朝から二時間ほど歩き、九段下駅より帰宅。

江戸城の外堀外周は14kmの巨大城郭な為、一度で全てをコンプリートするのは難しいので、少しずつ魅力を感じていきたいと思います。

近いうちに、半蔵門から江戸城を周ってみたいと思います。






大垣城@岐阜県

2024-06-25 06:00:00 | その他城
2024年6月25日

仕事で視察のために岐阜県に初上陸。

岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。

時代を席巻した織田信長が拠点としていたので、まさに歴史舞台の中心にあったエリア。

そして、明智光秀の出身地でもあります。
 


新幹線、岐阜羽島駅に降り立ち大垣市に向かいます。
宿泊も大垣市だったので、次の日は当然大垣城に行くことにしました。

天下分け目の関ヶ原の際に、石田三成が拠点としたのが大垣城。
本来はこの地が関ヶ原の主戦場になると言われていました。

そんな歴史の転換期の中心となった大垣城ですから、当然ながら期待度も大きくなります。

早朝6時に大垣駅前から歩いて大垣城を目指します。



大垣城までは歩いて10分程ですが、その途中にはたくさんの水路が張り巡らされています。



大垣城の縄張りの名残りとなる、水路をひたすら歩いてみました。



当時の絵図を見ると、大垣城は多くの水堀と川を生かした城郭であったことが分かります。

三重の堀で区画した、総構えの近世城郭です。

そして、駅前から続く商店街や細路地を見ても、当時の縄張りをそのまま生かしたような感じがして、城下町らしさが残ります。



朝早かった為、車や人がいなく、のんびり当時を妄想しながら歩くことができました。

400年以上前に、この道を戦国武将も歩いていた事を想像すると、なんか震える。



江戸の街並みも素晴らしいですが、こんなレトロな昭和感漂うのも、個人的には好きです。
ノスタルジックな雰囲気を味わえる大垣市は素晴らしい。



駅前から続くメインストリートから細路地に入ると、大垣城が見えてきます。



大垣城のメインゲートとなるのは東門。

多聞櫓と艮隅櫓が出迎えます。

艮隅櫓は空襲で焼失してしまい復元。消失前は国宝に指定されていました。

多聞櫓は大垣城唯一の現存建築物。

元々は柳口門にあったものを、こちらに移築したとされています。



やはり城門の前に立つと心がワクワクしてしまいます。

天守閣も魅力的ですが、城門も大好きなワタクシ。

敵を迎え撃ったり、肩を並べる武将に対する牽制や威圧を与える城門は、城郭に欠かせない存在となります。



大垣城の天守。裏からのショット!
もちろん、天守も旧国宝です。

層塔型天守で天守の左側には南附多聞、右側には東附多聞が接続した複合型天守。



復元天守を支える石垣。
石材そのものを生かした野面積み。

素晴らしい!
大垣城の石垣は一部を除いて、再建時に修復、積み直されました。


石材が白っぽいのが分かります。

石垣のほとんどが、大垣城近くの赤坂金生山の石灰岩。
石垣の中には化石が多く含まれているようです。

その情報を知らなかった為、化石を見つけることができませんでした。



天気は曇りでしたが、最高のショット。
下段は乾隅櫓。上段には四重四階の天守。

大垣城の天守も一国一城令や廃条例を免れた貴重な天守で、国宝に指定されていましたが、残念ながら焼失。

しかし、鉄筋コンクリート造で当時の外観を完全に復元。
比翼千鳥破風がとてもおしゃれ。

時期的に木々が生い茂っており、天守の前にも木があったので、ここからしか綺麗に撮れませんでした。



城内には昭和初期の写真がありました。
写真で見るとなかなか迫力ある天守です。

悔しいのは終戦の17日前に、日本の宝が空襲で失われたこと。

この大垣城が現存していたら。と考えてしまいます。



こちらは本丸鉄門跡。



現在の大垣城には、本丸への入り口として4つの門と門跡がありますが、当時はこの鉄門前に橋が架けられていて唯一の入り口となっていたんですね。



かつては10の櫓があり、城下町を取り囲んだ総構えの巨大な城郭だった大垣城は、今ではだいぶコンパクトになりました。

草木が多くて、あまり良い写真が撮れないのが残念ですが、焼失したにも関わらずここまで復元したのは、すごくプラスなことかと思います。
模擬で作られた門などには少々疑問に思いますが・・

石川康通が大垣城に入場してから大垣藩ができ、松平氏が現在の近世城郭に改修。
以降、幕末まで戸田家がこの地を納めました。

今でも大垣城はこの地のシンボルとなっていることを実感。
幾つもの時代のヒストリーを持った大垣城は、日本にとっても貴重な城郭といえます。

次こそは岐阜城に行く計画をしたいと思います。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



石垣山城@神奈川県

2024-05-04 14:30:00 | 続100名城
2024年5月4日

最近は出張が無かった為、城巡りに行けていなかったので、ゴールデンウィークを利用して、神奈川県小田原市にある石垣山城に行きました。

続100名城にも選ばれている城跡で歴史の転換期となる、重要な城であり念願叶って訪問となりました。

軽く石垣山城の説明をしますと、織田信長が討たれ、豊臣秀吉が天下統一の目前と迫った時代。

関東方面の最大勢力は小田原の北条氏でした。

秀吉は北条氏の討伐に向けて、全国の諸大名を小田原に参陣させます。

難攻不落の小田原城を攻略するために、海山全てを15万人以上の軍勢で包囲しました。

小田原城の向かい側にある山に、陣を敷いた豊臣秀吉は、関東では初となる石垣の城を築城。これが後に石垣山城と呼ばれるようになりました。

それを小田原城から見た北条氏は降伏。
北条家は滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ手中に納めることとなりました。



歩いて登る方もいますが、城の麓まで車でも行くことができます。

上には駐車場もありますが、休日は混雑しています。
電車の場合は早川駅から約2kmあります。

一番最初に現れるのは南曲輪の石垣です。



崩れてはいますが、全体の形は残っています。
高さもあり、かなりの迫力です!

石垣山城の入り口となる場所なので、諸大名が小田原に参陣した際、この石垣を見て度肝を抜かれたのではないでしょうか。



隅石は巨石を使っていて、よく見るとなんとなく算木積みされているのが見てとれます。



調べたところ、まだ算木積みが発展途上時の積み方のようです。



南曲輪の左手はまだ状態が非常に綺麗です。



この石垣を積んだのは、最先端で最高技術を有した穴太衆。
安土城から始まり、幾つもの名城の石垣を積んだ石工職人集団です。

ちょうど新しい技術の転換期あたりの石垣と考えると、この遺構の価値は計り知れません。



二の丸(馬屋曲輪)を囲っている石垣。
ここも、状態が良い石垣を見ることができます。



上から見たショット。
ややアールでスタジアムのようで迫力ありますね。



二の丸は現在は広場となっています。
この広大な芝生の敷地。

即席突貫の工事だったにも関わらず、このスケールの城郭を造るとは、さすが天下人です。



本丸に向かう、物見台あたりの石垣。
状態はよくありませんが、隅石なのは分かります。

この時代の石垣は勾配が緩やかなのが特徴。

後に算木積みの技術が主流になることで、城の石垣はどんどん急勾配で高い石垣へと変貌していきます。



本丸となる本城曲輪の石垣も崩落しています。

城は軍事施設であり、役目を終えると敵又は敵になる可能性がある人達に使わせないために、わざと壊すそうです。

石垣山城も破城の可能性もありますが、関東大震災で多くが崩落したとされています。



中段くらいの石垣は綺麗に残っている箇所もあります。



このショットだと中段の石垣がハッキリ分かります。

勝手な憶測ですが、手前側に崩落した石垣は最上段あたりの石垣で、わざと崩落させたと考えれば、崩落した石垣の裏には最下段の石垣が、より良い状態で残っているのではないかと考えてしまいます。



この本城曲輪は本丸だったので、この城のメインの場所。

さらに小田原城に面した石垣になるので、籠城した北条氏に見せつける重要な石垣だったと考えます。



本丸となる本城曲輪。
二の丸も大きな敷地でしたが、本丸はさらに大きな敷地を誇ります。



本丸からの景色は絶景!
相模湾の豊富な漁場が今も昔も、この地に住む人々の生活を支えています。

しかし、1590年に豊臣軍は約15万人で相模湾にも水軍を置いて、小田原城を全包囲します。



本丸から見た小田原城。

秀吉もきっとここから、同じ景色を見ていたと思うと心が震えてしまいます。



本丸の奥には天守台跡があります。
今では石材が散らばっていて、こんもりと土が盛り上がっています。



天守台の下には西曲輪が広がります。



石垣の規模は南曲輪や馬屋車に比べると小さめですが、しっかりと石垣が残っています。


天守台から獣道のような細い道があったので、降りてみたのですが立ち入り禁止だったのでしょうか。

誰も人がいなかったので早々に撤収。



最初に見て周った二の丸の下に、石垣山城の見どころポイント井戸曲輪があります。



二の丸から25mの高低差があり、石垣が一番状態良く残っています。

この井戸は淀君が利用したことから、淀君の化粧井戸とも呼ばれています。



素晴らしい石垣!
ぐるっと囲んだような石垣。



石垣山城は関東大震災で、多くの石垣が崩落しましたが、この井戸曲輪は430年以上の時を超えて綺麗に残っています。

そして、今でも井戸からは水が湧き出ています。



石の形をそのまま生かした野面積み。
石垣は常に進化を遂げてきましたが、初期の野面積みはやはり個人的には好きです。

小田原征伐後、石垣山城がどのようにして廃城になったのかは、分かっていないようです。

しかし、歴史の表舞台から消えて割と早い段階で廃城になったと思われます。

誰も足を踏み入れない地になっても石垣だけは、この状態として残っている。

これは奇跡というべきか。

穴太衆の技術の高さを感じます。



本来は陣城なので、簡易的な造りになるのが一般的ですが、関東では初の総石垣で天守や櫓をもつ城が完成しました。

四万人を動員して造った石垣山城はわずか80日で完成。

号令と共に木を伐採し、夜が明けたら突如城が出現したので、石垣山城は一夜城とも呼ばれています。



最後は登城した南曲輪の石垣を最後に見て終了です。

総石垣の城は織田信長が作った安土城が始まりと言われています。

石垣の進化を見るのも楽しみの一つ。

天候にも恵まれた一日。

観光客も多く、麓にはヨロイヅカファームがあり、スイーツを求めてきた人も多くいたので、石垣山城は大変賑わっていました。

石垣山城は国の指定史跡であり、続100名城。

天下人豊臣秀吉の凄さ、穴太衆の石垣技術の凄さを改めて感じることができる貴重な城址でした。



にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



浜離宮恩賜庭園@東京都

2024-04-06 16:20:00 | 庭園
2024年4月6日

大門の増上寺に行った後は浜松町の浜離宮恩賜庭園に移動。

桜も見たいと思っていましたが、何よりも江戸時代の歴史に深く関わりがあるので、一度は行くべきスポットです。

増上寺からはゆっくり歩いて25分ほどで、交通アクセスで直接行く場合は汐留駅が最寄駅。
まさに都会のど真ん中。



浜松町駅方面から大通りを道なりに歩くと、堀のような水路が現れます。



美しく、遠くまで続く石積み。
どう見ても近世城郭の水堀にしか見えません。

そう!
浜離宮恩賜庭園は江戸幕府によって造られた、大名庭園。

6代将軍、徳川家宣によって将軍家の別邸、浜御殿として大改修。
11代将軍、徳川家斉の時に現在の庭園が完成しています。



綺麗な切込接の石垣。
城郭でいう外堀にあたります。

ちなみに庭園の規模は25万㎡、東京ドーム5個分という巨大な敷地面積を誇ります。


 
石垣をよく観察すると、綺麗に積まれた石垣の中に、不規則な箇所を発見。

おそらく、積んだ時代が異なるのかもしれないですね。

石垣の角に積む、算木積みになっているので、拡張された可能性あり。



矢穴の跡も発見、
石工職人が綺麗に並べるために石材を加工した痕跡。



中の御門口から入場します。
浜離宮恩賜庭園内部には、中の御門口と大手門口から入ることができます。



来た時期が良かったです。
中の門口から入るとすぐに、満開の桜がお出迎えしてくれます。



潮入の池。
周辺には茶屋などもあり、この素晴らしい雰囲気を味わいながら、茶を楽しむこともできます。

高層マンションや高層ビル、そして海に囲まれた浜離宮には、昔と変わらず今でもゆったりとした時間が流れます。



江戸時代になり、戦のない平和な世が訪れました。
この大名庭園では、将軍家や大奥が釣りなどをして楽しんでいました。





大手門口近くには内堀のような水路があります。
都会のロケーションと重なり、とても映えます。




大手門口の石垣。



おそらく、櫓門だったのではないかと連想させる造り。

この石垣を見るかぎり、現存していれば城同等の立派な門だったに違いありません。



築地川を利用した堀。
本当に庭園なのかと思うほど、防御力高めの造り。

中間の突出した石垣が大手門の石垣。



築地川を渡るための大手門橋は、当時は木造でしたが関東大震災で焼失した為、石造りで復元。



出隅の算木積みの石垣が美しい。

海と直結しているので、この堀には海の魚が普通に泳いでいました。

庭園内の池も、海から水を引いているので海の魚が泳いでいるようです。



至る所に異なる時代に積まれたと思われる、出隅部の石垣を見ることができます。



排水機能も備わっています。

切込接という加工された石材を綺麗に積んだ石垣は、雨などで大量の水が地面に染みた時に石垣に負荷がかかって崩落してしまいます。

しかし、石垣技術の進化によって、石材の裏側に小さな石を大量に詰めることで、水の負荷が極度にかからないように工夫されました。

そして、更なる進化によって石材による排水溝が作られるようになりました。

そんな築城技術も詰まった浜離宮の石垣です。

堀にはクラゲが泳いでいるのも良き。

海側には船着場もあり、当時の将軍御一行は船でこの庭園に来ていたようです。


増上寺→東京タワー→浜離宮恩賜庭園のルーティーンは少々疲れてしまい、早めに撤退してしまいましたが、歴史好き、城好きには見どころが多かったですね。

また改めて来たいと思います。


にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村



増上寺@東京都

2024-04-06 14:00:00 | 
4月に入り、例年よりも遅く桜が咲き始めた今年。
3月3日に姫路城に行って以来、忙しくて城や寺など巡ることが出来ない日々が1ヶ月以上続きました。

花見も兼ねて、今回は浜離宮恩賜公園に行くことにしました。

その前に、増上寺へ向かいます。
増上寺は港区にある超有名なお寺。
ドラマの撮影などでも度々使われています。

安倍元首相の葬儀も増上寺で行われました。

場所はJR浜松町駅か、都営大江戸線大門駅。

駅前の大通りを歩くと増上寺の門が現れます。



こちらが駅前続く道の先にある表門。
鉄骨で復元されたもですが、実はここにあった増上寺の門は徳川家康から贈られた江戸城の門だったと言われています。

元は現在の日比谷にあった増上寺ですが、慶長3年に江戸城拡張の際に現在の地に移動。

その際に江戸城の門も移築したようです。



復元とはいえ、立派な門です。
一応、高麗門で当時と同じディテールを1.5倍に大きくしたとされています。

ちなみに、当時の門は空襲で消失してしまいました。

大開発中で高層ビルが立ち並ぶ浜松町駅界隈ですが、この高麗門で突如歴史ある街並みに雰囲気がガラリと変わります。



表を抜けると、ど迫力の三門が出現!
1611年に徳川幕府の助成によって建立。

元和7年に一度、台風で倒壊するも翌年に再建され400年の時を超えて現代に至ります。



徳川の家紋、三葵。
幕府のお膝元であり、徳川縁の寺院という格式をすごく感じます。



三門を抜けると本堂が見えます。



東京タワーと高層建築物と超歴史的な建築物。
ここでしか見ることができないスペシャルなロケーション。

そして、徳川家の家紋がカッコ良すぎる。



京都や奈良の日本を代表する寺も素晴らしいですが、これはビックシティ東京が織りなす景色。

徳川幕府の威厳を感じること間違いありません。



桜満開で絶妙な訪問日。

脇の細い道を抜けて、裏手に回ると徳川将軍家の霊廟があります。



こちらに埋葬されているのは、
二代将軍徳川秀忠
五代将軍兄弟の綱重
六代将軍家宣
七代将軍家継
九代将軍家重
十二代将軍家慶
十四代将軍家茂

などなど江戸幕府の将軍が集結しています。
しかし、こちらの霊廟は世界大戦時の空襲で焼失してしまいました。

中には入ることができません。



冒頭にも書きましたが、都会のど真ん中というロケーションが本当に素晴らしかった。

そして、今では大都市として発展し、江戸の面影は薄くなってしまいましたが、増上寺にくれば江戸幕府そして徳川家の痕跡が色濃く残っている貴重なスポットだと言えます。

桜の咲く素晴らしい季節に訪問することができました。