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つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

石神井城@東京都

2025-03-30 15:00:00 | その他城
2025年3月30日

昨日の大雨から一変して、晴天となった日曜日。
新しいマウンテンバイクを購入したので、自転車で約40分程かけて練馬区の石神井城へと向かいました。

石神井城は豊島氏の居城の一つ。

豊島氏は平安時代末期から室町時代中期にかけて、現在の台東区・文京区・豊島区・北区・荒川区・板橋区・練馬区・足立区あたりで勢力を誇っていました。



石神井城の周りを流れる石神井川。
川は防御、生活、物資流通など城造りには欠かすことのできないファクターとなります。

石神井は開発が進んで、綺麗な住宅街となっています。



石神井城跡は現在、石神井公園となっており花見シーズンということもあり、多くの人が各々の時間を過ごしていました。

池に浮かぶ森が石神井城となります。



橋を渡れば石神井城の内郭入口です。



橋の前には石碑があり、漢字が薄く羅列しているので何て書いているのかは分かりませんでしたが「城」や「道灌」の文字は読み取ることができたので、石神井城に関する内容を記した石碑と思われます。



橋の右側。
石神井公園全体が整備された池が広がります。

こちらは三宝寺池で、石神井城の水濠でした。

つまり、三宝寺池と石神井川に挟まれた台地に石神井城は築かれていたことになります。

堅固な城だったと思われますが、室町時代の1477年に太田道灌に攻められ落城。その後廃城という結末を迎えます。



橋の左側。
草木が生い茂った場所が石神井城の内郭です。



石神井城跡の石碑。
この裏が内郭の土塁となります。



石碑の脇から階段を登っていきます。



内郭跡はフェンスで囲まれていて入ることができません。

高く土塁が盛られているのはフェス外からでも確認できます。



階段の先は広場となっています。

石神井城は四角く区画した曲輪がいくつもあったらしいので、小高いこの辺りも曲輪だったと思われます。



内郭跡は一段高くなっており、曲輪の周りは空堀で防御されているのが分かります。

発掘調査で土塁を崩して空堀を埋めていることが判明しており、踏み固められていることから、廃城後は道として利用されていたと考えられています。



発掘調査で当時は堀幅11.6m。堀底幅3m。深さ6.1mと推定されています。

6mオーバーの高低差なら、かなり立派な空堀だったと思われます。

当時よりも低くなっているものの、この内郭の空堀と土塁は状態が良く、東京都の指定史跡となっています。

現在、史跡を保存する為に養生期間として立ち入りができなくなっています。



せっかくなので、可能な限り内郭の周りを歩いてみます。

水濠の裏側は公園に通じる道となっていますが、土塁の形と高さをより感じることができます。



いい感じの細道ですね。
個人宅の長屋門もあり、かなり雰囲気が良き。



続いて三宝寺池の周りを少し歩きます。



池の周りは高い土の壁が続きます。



遺構なのかは不明ですが、この池自体が石神井城の水濠であったことを考えると、遺構なのではないかと想像してしまいます。



三宝寺池に橋が架かっており、橋の先には厳島神社があります。



詳細は不明ですが、江戸時代にはあったと資料に残されています。



厳島神社からの景色は素晴らしい。
桜も綺麗に咲いていて、心が和みます。

続いて石神井城の裏手にある三宝寺に向かいます。

石神井城に来たら必ず寄って頂きたいスポット。



何か遺構がないか歩いていて、たまたまこの山門を目にしたので立ち寄りました。



一目で分かる只者でない威厳ある四脚門。

この門の正式名称は御成門。
文字からもその凄さを感じます。

江戸幕府三代将軍 徳川家光が鷹狩りの際にこの寺に立ち寄ったことで、御成門と名付けられました。



境内最古の建築物で、1827年に建立。
城郭建築でも山門はありますが、彫刻を見ると寺院建築らしさを強く感じます。



守護・魔除けとされる獅子。そして、悪夢を食べるとされる空想動物の獏も彫られています。



寺の中央には鐘楼堂があり、この梵鐘自体は1675年の鋳造で、練馬区指定文化財に指定されています。



続いて本堂。
江戸時代と明治に消失しましたが、昭和26年に再建されました。



軒から破風と彫刻。

よく見ると手前の横架材の両端部は天女になっています。
5分ほど芸術的な彫刻に見惚れてしまいました。



我々歴史・城好きにとっては大好物の物がこの三宝寺には移築されています。

年季の入った長屋門。



城門クラスの大きな長屋門は、幕末のキーポインターとなる勝海舟の屋敷にあった長屋門がこの地に移築されているのです。



たまたま通りすがったお寺にこんな素晴らしい物があるとは思っておらず感激しました。

この移築長屋門は有名なのでしょうか。
全くPRされることもなく、ひっそりと鎮座しているので、存在を知らない方も多いかもしれませんね。



もはや城門といってと分からないほど、立派な門です。

1960年に解体移築されたそうです。



門扉も重厚感があり、かなりシブいです。
石神井城に来た際はセットで寄るべきスポット。

石神井城はあまり遺構が残ってはいませんが、確実に城の雰囲気を味わうことができます。

石神井城の説明看板を見て、城があったらしいよ。と会話している方を多く見かけました。

石神井公園として認知されているので、石神井城の存在はだいぶ薄めですが、区内に残る城跡としては江戸城を除けばかなり状態が残っている方だと思います。

桜も見ることができ、満足の1日となりました。

絶好調のマウンテンバイクでまた都内を散策したいと思います。



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臼井城@千葉県

2025-03-23 15:00:00 | その他城
2025年3月23日

一気に春の陽気に包まれ始めた3月23日の休日。

数日前は都内でも雪が降っていましたが、一転して20°近い気温まで上昇。

3月2日に広島城に行きましたが、前日に捻挫をしてしまい、まだ完治していないので城巡りを控えていましたが、晴天の暖かい気温に我慢ができず城巡りを決行!

近場であまり足に負担がかからないように千葉県の臼井城に初訪問しました。

臼井城は千葉県佐倉市にある城で、築城年は明らかではありませんが、徳川家康が江戸に入った際に重臣の酒井氏が城主を務め、酒井氏の移動と共に1604年に廃城になりました。

電車に揺られ京成の臼井駅に到着したのは12時頃。

Googleマップで駅から臼井城まで歩いて目指しますが、この辺り一帯がアップダウンの多い地形だなと思いながら、20分程歩いて登城口に到着です。

臼井城といえば北条軍の原氏と、上杉謙信が臼井城の戦いで激突したのが有名です。

勝率95%とも言われる、戦国最強の上杉謙信が明確に敗北した戦でもあります。

その臼井城に上杉謙信の毘沙門天パワーストーンと、春日山城の勝利の御守りを身に付けて徘徊します。



まずは徘徊ルートの確認。
臼井城は現在公園となっており、パンフレットなども無い為、Googleマップを見ながら予測で遺構を探します。

大きく分けると青く記した空堀あたりが二の丸跡で、右側が本丸跡。

その他は現在住宅などになっており、はっきりとした遺構を確認することができませんでした。

臼井城一帯が小高い山となっているので、遺構がありそうな予感がして、一応広域を歩きました。



まずは公園の駐車場があり、その脇から入城します。

実はこの駐車場がある場所こそ、空堀であることが後から判明。



左側には桜も咲き始めた大きな広場となっており、ここが二の丸跡になります。

暖かい気温なので既にお花見をしている方もいました。
激戦を繰り広げた臼井城には、今はゆったりとした時間が流れています。

本丸は右側なので、まずは本丸を目指します。



そして、さっそく空堀が現れます。
桜も咲いていて、とても綺麗な一枚になりました。

左側の草木が生い茂っている小高い場所が本丸となります。



空堀沿いを進むと本丸があります。
振り返っての一枚。

明らかに通路が土橋になっていることが分かります。



土橋の保存のために盛土をしています。

本丸を守る空堀なので、当時はさらに深かったと推測できます。

左側は駐車場があった空堀になります。



改めて駐車場から撮った写真。
土橋になっているのが分かります。

駐車場を空堀の堀底に設けるとは斬新。

一瞬で土橋だと分かるようになったのは、ワタクシも少しは成長しているようです。



土橋の先は本丸。
本丸は土塁で囲まれており、虎口になっていたと思われます。



本丸から振り返っての一枚。
先程通過してきた土橋も見えます。

本丸を背にして虎口の右側の土塁は高めで、整備されて階段があります。

この場所には櫓があったようです。



櫓跡から見下ろした、虎口。
櫓台には整備された階段で登ることができます。



本丸から見た櫓台。

木が生えているので分かりにくいですが、形は何となく分かります。



本丸の土塁。

この土塁の下には登城の際に見た本丸を囲む空堀があります。



虎口から見た本丸土塁。
高めに盛られていて、堀底となる駐車場までは6mくらいではないかと思います。


本丸は広めで、完全に独立した曲輪になっています。



本丸に入って左側は搦手となっており、本丸下に細長い曲輪を配しています。

搦手側を防御する腰曲輪のような役割だったのかなと、勝手に想像します。

その謎の曲輪から本丸を撮った写真。
本丸の土塁が分かりやすいです。



本丸の右側はかなり急な切岸となっています。



綺麗に整備がされていて、見事な切岸を見ることができます。

今は住宅街が広がります。

後ほど行くのですが、住宅街の先に見える小高い森は臼井田宿内砦で、臼井城を守る防衛拠点がありました。  



本丸からの景色。
目の前には印旛沼があり、臼井城の背後を守っています。

この近くには日本100名城の佐倉城と、続日本100名城の本佐倉城がありますが、軍事施設として適した場所とされたのは、この印旛沼の存在は大きいと思われます。

以前、本佐倉城に行った際にボランティアの方が、印旛沼は当時はもっと大きかったと言っていたので、より臼井城に近い場所まで沼の水がきていた可能性があります。


本丸の搦手側から一度下山します。


こちらは搦手側の登城口。

一帯が山になっているので、遺構が見つかるのではないかと思い城の周りをぐるりと回ったのですが、それらしきものは見つけることができませんでした。



一周回って、二の丸の外側に戻ってきました。

ポツンと石碑があり、太田図書の墓と看板があります。

上杉謙信との臼井城との戦いが有名ですが、室町時代中期に太田道灌の軍は千葉氏率いる臼井城を包囲したものの、堅固な臼井城を前に撤退するところを攻め込まれ太田道灌の弟の太田図書助資忠含む53人がここで討死しました。

まさに戦国時代を生きてきた城であり、壮絶な戦いをした城です。



太田図書の墓の前は、二の丸を囲む巨大な空堀となっています。
しかし、草木が多すぎて写真に残せないのが残念。

空堀沿いを歩くと橋がありますが、空堀を分断するこの橋は土橋か木橋があったと思われます。



橋から見た空堀。



橋の反対側の空堀。
高さ10m以上はある、かなり深い空堀です。



橋の先には公園入り口があり、ここから入城すると二の丸になります。

二の丸も土塁で囲まれています。



橋を振り返っての一枚。

右側は二の丸土塁。おそらく門があったと予想します。



二の丸から空堀を見てみます。
想像以上に巨大な空堀。

数々の戦国武将が堅固な臼井城を攻め落とせなかった理由の一つとしては、この巨大な空堀の存在が大きいと思います。



続いて臼井城の支城となる臼井田宿内砦に向かいます。

帰りに駅から撮った一枚。
奥に見える森が臼井田宿内砦です。



京成臼井駅と臼井城、宿内砦の位置関係。
この辺りはアップダウンが多く、京成臼井駅から宿内砦まで急な上り坂。
宿内砦から一度降って、さらに臼井城でまた登ります。

さらに、臼井城の背後には印旛沼。
このエリア全体が自然地形を生かした要塞だったのではないかと思われます。


 
臼井田宿内砦の入り口。 

住宅街の中にポツンと入り口があります。
元々は臼井城を守る支城は5つありました。

しかし、ベッドタウンとして開発されたことで住宅地が立ち並び、支城は姿を消して臼井田宿内砦跡だけが残りました。



砦跡は現在宿内公園となっており、広場となっています。

奥に進むと、少し高くなった場所に明らかに土塁と思われる土の壁が現れます。



主郭と思われる場所は土塁で防御されています。



土塁の上を歩くことができます。



主郭の広場。

一帯が草木で生い茂っていることと、広場以外はフェンスで立ち入ることができないので、はっきりとした遺構を見ることができるのは、先ほどの土塁のみ。

しかし、この砦全体が削り落としたような切岸になっていて、急な崖になっています。


主郭から見た景色。
木が邪魔ですが印旛沼を望むことができます。


臼井田宿内砦から5分くらいの場所には稲荷台公園があります。

実はここは稲荷台砦という、臼井城の支城でした。



今は住宅地のど真ん中の為、遺構は残っていませんが、この公園の地形は名残を残しているような気がしました。

急な坂が多いのですが、稲荷台砦跡は急な斜面で曲輪を囲んでいます。



左側が稲荷台砦跡。

普通に歩いていたら通り過ぎてしまいそうですが、城としてフォーカスすると、切岸のように削り落とした城に見えてきます。



稲荷台砦跡からの景色は完全に新興住宅街です。

とても充実した日となりました。

臼井城と支城となる砦を併せて見て周ると、範囲が広いのでけっこう歩きます。

有名な戦の舞台にもなった歴史的に貴重な城なので、もっと有名になって草木も含めて整備を進めてもらえたら、ホットスポットになりそうです。

次は京成臼井駅から近い、上杉謙信一夜城に向かいます。


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広島城@広島県

2025-03-02 17:00:00 | 100名城
2025年3月2日

本日は打ち合わせで広島に来たので、前乗りして広島城へと向かいました。

広島城は日本100名城に選定され、国の史跡にも登録されています。

また、名古屋城、岡山城と並ぶ日本三大平城
なのでとても人気の城です。

広島城を築城したのは毛利輝元。

小国の大名だった毛利氏は、毛利元就の時代に中国地方を支配する大名となります。

毛利元就の孫にあたる毛利輝元は豊臣政権下で五大老にまで上り詰めます。

そして、本拠地の安芸郡山城から新たに広島城を築城。
1589年 築城開始
1590年 堀と城塁が完成
1591年 毛利輝元が入城
1593年 石垣工事が完了
1599年 全工事完了

しかし、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、西軍総大将だった毛利氏は減封の上、山口県の萩に転封。

以降は福島正則が入り、1619年からは浅野氏が250年に渡って広島城主となり明治を迎えます。

福島正則の時代に内堀、中堀、外堀を備えた現在の巨大城郭に変貌を遂げます。

しかし、明治期に外堀は埋められ、昭和期に中堀が埋められ、現在は本丸、二の丸、内堀のみが残ります。

それでも当時の面影を十分に見ることができるので、広島城は今でも人気の城です。


残っている本丸と二の丸は、内堀で完全に囲まれているので、城内には表御門と裏御門跡からしか入ることができません。

今回は水堀周りを少し歩きながら、表御門から入城します。



水の上に浮かぶ石垣に囲まれた曲輪は本丸。
水堀の広大さと美しさが目を惹きます。

内堀幅は西側で104mを超えていましたが、現在は少し埋められて狭くなっています。それでも北側の堀幅は60mを超え、現在も残っています。

その巨大さは数字を見ても明らかです。

内堀の周りは道路が整備されており、埋められて堀幅が小さくなったとはいえ、周囲約1.3kmもあります。



さらに、広島城には櫓が88基もあり、全国で最も多く櫓を配していた城でしたが、現在は櫓台の石垣のみが残っています。

本丸を囲む石垣には定間隔で櫓台が配置されていて、本来は角地に設置する櫓ですが、中間にも多くの櫓が上がっていました。



櫓の数も規格外の多さですが、天守クラスの櫓台石垣が幾つもあったのに驚きました。

実際に足を運んで自分の目で見たことで、広島城の規模の大きさを体感することができました。



左側は二の丸で奥に見える城門は表御門。



二の丸は完全に独立した曲輪となっており、規模が小さいことから、本丸を守る為の馬出として設計されたと考えられています。

航空写真を見ても、敵を迎え撃つための重要な曲輪となっているのが分かります。



二の丸の隅には復元された太鼓櫓と多聞櫓、奥には平櫓が並びます。

平櫓と多聞櫓の半分は明治期に取り壊され、残った多聞櫓の半分と太鼓櫓は、石垣を残して原爆により倒壊炎上しました。

当時の現存写真も残っており、平成初期に復元されました。

下見板張で外壁を保護する為に、素地の木材で仕上げています。


平櫓と表御門。
二の丸の石垣は打込接となっており、加工した石を使用しています。

隅部は算木積みで直方体の石材を交互に積んでいるのが分かりやすく見ることができます。

建築物は天正末期に築造されたものでしたが、石垣は積み直されたのでしょうか。

技術が本丸を囲む石垣に比べて進んでいると思われます。


三の丸と二の丸は御門橋で接続。
二の丸を通過するには、この表御門を抜けます。

二重の櫓門形式で、長押と呼ばれる水平材と柱が外観に出ているのが特徴。

これは真壁造という日本の伝統的工法で、柱と柱の間に壁を形成する技法。

建築士の試験で出題されたことを思い出しました。



表御門は天正末期に造られ、1945年の原爆倒壊まで約350年間現存していました。

旧陸軍が作成した実測図と発掘調査、当時の写真を元に平成3年に復元。

現存の礎石を使用しているようです。



多聞櫓と平櫓には無料公開されています。



平櫓内部は畳張になっています。

平櫓は表御門と繋がっている為、門の出入りを監視する役割があったそうです。



多聞櫓の長さは約68m。
近世城郭では、櫓と櫓を多聞櫓で繋いでいることが多かったのですが、復元ケースが少ないので、この姿を目に焼き付けておきます。



多聞櫓から見た中御門跡。

手前に見える礎石は馬屋跡になります。



二の丸と本丸には足の橋が架かっており、右側の石垣は中御門の櫓台石垣。

左側の石垣には単体の櫓が上がっていました。



左側の櫓台。
天守台のような大きな櫓台です。

石垣の隅部を見ると、二の丸の隅部に比べて無骨な積み方になっているので、これこそ天正末期や慶長初期の積み方のように思えます。

この荒々しい石垣が芸術です。

そして、築城ラッシュの数十年間で石垣技術が如何に進歩したかを感じることができます。


反対側の右側には中御門の石垣が残り、表御門のように櫓門となっていました。

中御門の櫓台には鏡石があり、広島城で一番大きな石材が使われています。



中御門は残念ながら原爆によって倒壊。そして、中御門の石垣には原爆の放射能によって赤く変色しています。



振り返っての一枚。
中御門は枡形になっています。

敵が侵入した際に折れ曲がることでスピードが遅くなり、さらに門の前で立ち往生しているところを銃などで狙い撃ちします。



中御門の隅石は綺麗な算木積みになっており、隙間なく加工されています。

そして、いよいよ本丸となります。



本丸は上段と下段があり、下段には現在護国神社があります。

廃城令の後、本丸にあった御殿建築などは取り壊され、広島城には日本軍の大本営や司令部などが置かれました。

大本営跡が本丸上段に残ります。



広島城は輪郭式なので、本丸の北西隅に五重五階の天守が鎮座。

千鳥破風が施された望楼型の独立天守ですが、絵図では写真を撮っている南側と右手の東側に渡櫓が伸びて小天守が結合する連結型の天守でした。

現在は大天守のみで、内部は資料館となっています。



1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。
古風な感じの外観が、味があってカッコいい!



南小天守の天守台石垣。
まだ石垣初期に近いゴツゴツとした石で積まれています。



反りが美しい天守台石垣。

芸術的な野面積みの天守台石垣は約14m!
石材一つ一つが大きめですごい迫力。

天守と天守台を合わせると、約40mの大天守になります。



小天守は明治に取り壊されましたが、大天守は廃城令を免れて現存していました。
しかし、1945年の原爆によってバラバラに倒壊しました。



天守最上部は回縁となっていて、特徴としては寺院建築でよく見られる華頭窓になっていること。



天守最上階からの南西側の内堀。
かなり大きな内堀ですが、もっと幅があったと考えると巨大な城郭だったのだと改めて感じます。

下に見える曲輪は南小天守跡。



北東方面の内堀。
この水堀が本丸を囲んでおり、更に中堀と外堀まであったので、天守から見る景色は壮大で格別だったと思われます。

広島の街も一望できます。



天守から見た東小天守跡。

天守を軸にして東小天守と南小天守をL型に展開することで、天守前は巨大な枡形のようになり、かなり攻撃力の高い設計をしています。



東小天守の天守台。

天守入り口あたりは大勢の人で賑わっていますが、東側は誰もいませんでした。



東小天守跡からの大天守。
めちゃくちゃカッコいい!

東側からだと入母屋破風が見えるので、南側とはテイストが全く異なります。

白漆喰の白亜の天守も美しいですが、下見板張も渋くて良いですね。



広島城は毛利氏の後の福島正則の時代、浅野氏の時代などで、石垣が修復されたりもしているので、毛利氏の時代の石垣は一部しか残っていませんが、天守台はまさに毛利氏時代の貴重な石垣!

本当は天守台石垣を近くで見たかったのですが、昨日足を捻挫した為、階段を降りることが困難だったので、今回は断念。



本丸には大天守の礎石が原型のまま移されています。



帰りは裏御門から広島城を後にしました。

裏御門にも表御門同様に櫓門がありましたが、現在は櫓台が残ります。



裏御門右側の石垣。
横長の大きな櫓台が城の裏手を守ります。



裏御門左側の石垣。
裏御門の前は枡形になっていました。



広島城は太田川のデルタ地帯に造られているので、立地そのものが天然の要害に守られています。

幾つもの貴重な建築物は残念ながら戦争で失われましたが、広島城天守が木造で復元されることが議会で決定したとニュースで放送されました。

現在、資料館となっている天守内の展示品は、三の丸跡に新たに造られている資料館に移動され、耐震に問題がある天守は解体されます。

天守からの眺望はしばらく見ることができなくなるので、今のうちに見ておきたいと思い、怪我しているにも関わらず無理して天守最上階まで登りました。

広島城は戦国、江戸時代の文化を伝える貴重な遺構であり、戦争復興の証です。

できることならば、もう一度解体される前に行きたいと思います。



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多賀城@宮城県

2025-02-24 16:00:00 | 100名城
2024年2月24日

二本松城に登城した次の日は、宮城県の多賀城にやってきました。

多賀城は奈良時代の政庁で、宮城県においては仙台城と同じく、日本100名城に選定されています。

日本三大史跡といえば、福岡県の太宰府、奈良の平城宮、そして宮城の多賀城です。

多賀城跡に来た理由は二つ。
ワタクシは小学校、中学校の時に多賀城跡に来たことがあります。

むしろ、多賀城跡の前にある道路に関しては1000回以上は軽く通過しています。

実はワタクシは高校の時に仙台育英の多賀城キャンパスに通っていた為、毎日多賀城跡の前を自転車で通っていました。

当時の印象は「何もない」でした。
さらに、高校の時は城も歴史も興味がなかったので、そんな薄い印象しか無かったとも言えます。

そんな多賀城跡に南門が復元され、城内も整備されたので、一度行きたいと思っていました。

そして、もう一つの理由は2024年に多賀城碑が国宝に認定されたこと。

この石碑も小学校の時に見た時は、その辺にある石くらいにしか思っていませんでしたが、まさか国宝クラスの代物だったとは思いもしませんでした。

多賀城跡は現在も整備が進めらており、無料の駐車場もあるので今回は車で向かいました。



無料駐車場から政庁側に向かうと、水堀のようになっていて土塁が残っています。

この土塁上に、かつては築地塀があり四方約900mを囲んでいました。

左側には国宝の多賀城碑があります。


幾つか石碑が並ぶ中で、お堂の中に大事に守られているのが国宝の多賀城碑になります。



小学生以来に拝見しましたが、一見はただの石にしか見えません。

しかし、この石に刻まれた古文書が実は凄い内容でした。



よく見ると薄らですが文字を確認できます。

内容としては、
・多賀城の創建された年や、修造された年が刻まれている。
・京や蝦夷との距離が示されている。
・多賀城の所在地が示されている。
・この石碑が建立された日が示されている。

長年、偽物とされていた石碑でしたが、研究結果から本物であることが証明されました。

多賀城の造営に関する記録が無いことと、そもそも奈良時代の金石文が珍しいことから、この石碑の重要さが認められて、重文から国宝に認定されました。

地震が多い地域にも関わらず、1300年もの間残っているのは貴重です。
そして、普段は石垣に思いを馳せているワタクシですが、改めて石の凄さを感じました。

石に刻まれたメッセージは、雨風にさらされながら果てしない時を経ても、ちゃんと我々に届いています。

本物は別場所に保管してレプリカをこの地に置くという噂もあるので、早めに見に来ました。


そして、復元された南門。
4月一般公開開始に向けて準備万端そうです。



まだ近くに寄ることはできませんが、奈良時代の素晴らしい門の、築地塀が復元されています。

高さ14.5m、幅11mで礎石の上に造られた八脚門です。

門が復元され、多賀城碑が国宝に認定されるなど、間違いなく多賀城には機がきています!



政庁南面大路には発掘調査で石垣が発見されていたので、今回の整備で復元されました。


多賀城跡のメインストリートなる大路の下部には水が溜まる為、雨水を処理する枡が発見されました。

発掘調査に基づいて、石組枡も復元されました。



大路の右側は城内エリアとなり、多くの柱穴が発見されているエリアで、建築物跡のイメージがつくように復元されています。

政庁の下あたりに位置するこの場所には、多くの建築物がありました。



メインストリートとなる南大路。
復元した南門から真っ直ぐ伸びていて、政庁跡に繋がります。



政庁があった場所は土塁で囲まれています。

東西103m、南北116mのほぼ正方形で、築地塀を巡らせて区画されていました。



入り口には政庁南門跡があります。
奈良時代後半には礎石で建築され、北側は当時の礎石がそのまま残っています。



正殿と後殿の跡。
この他にも、脇殿や楼などが計画的に配置されていました。



政庁の礎石も一部は当時のものが残っています。

多賀城跡は幾つかの地区に分かれています。
政庁跡から管理棟の脇を抜けて、大畑地区に向かいます。



大畑地区には外郭東門跡があります。
こちらも土塁で囲まれています。

門の形式は八脚門。
隅には櫓が設置されていて、築地塀を巡らせていました。



反対側から見た東門跡。
普段、戦国・江戸期あたりの城を巡っていますが、門一つとっても規模が巨大です。



大畑地区も発掘調査したのは、これでもごく一部。

大畑地区だけでも広大な空き地で、さらに土の中に遺構は眠っているので全て調査するのは難しそうです。

世紀の発見の可能性も、まだまだあるということでしょうか。



大畑地区の東門跡近くには、陸奥総社宮があります。

こじんまりとした神社ですが、この陸奥総社宮が実は凄い神社!

建立時期は神社のホームページを見ても、ハッキリとは分からないようです。
Wikipediaを見ると諸説あるようですが、平安時代に陸奥国100の神社の祭神を合祀して創建されたと伝えられいます。

現在の拝殿は江戸時代の享保19年(1734)に建てられたもの。

江戸時代になると仙台藩初代藩主の伊達政宗による領内寺社整備が行われ、陸奥総社宮には歴代藩主の尊崇が篤く、親拝代参などがあったそうです。

難しい内容ですが、仙台藩伊達家にはお隣の塩釜市にある塩竈神社に参拝していました。
塩竈神社の参拝前には陸奥総社宮で参拝する習わしがあり、領民もその習わしの通りに陸奥総社宮で参拝したそうです。



総社宮を後にして、作貫地区から駐車場へ戻ります。



この作貫地区には小さな小屋があり、空堀覆屋と書いています。



中を除くと地中に眠っていた発掘調査で出土した空堀が、小屋内で保存されて公開されています。

橋脚跡も記されています。



小屋の上から覗くこともできます。

これは斬新な展示方法。
大体は調査が終わると埋め戻しを行いますが、このような形で一般公開しているのは素晴らしい。


約1時間半ほど散策して今回は終了しましたが、広大な土地の為全てを周ることはできませんでした。

改めて大人になって史跡を見ると、こんなに広い敷地だったのかと感じました。

現在復元された南門の前にはガイダンス施設が造られている途中でした。

多賀城はこれから、さらに熱いスポットになることは間違いないでしょう。

また改めて訪城したいと思います。

二本松城@福島県

2025-02-23 07:18:00 | 100名城
2025年2月23日

仙台で設計打ち合わせと実測のため、前乗りして二本松城に訪問。

二本松城は会津若松城、白河小峰城と並んで、福島県の日本100名城に選定されています。

歴史上では戊辰戦争時に壮絶な戦いをした、二本松藩の少年隊がとても有名です。

奥州管領の畠山氏から始まり、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と有名な大名が納めてきた歴史もあります。

東京駅から東北新幹線で郡山駅まで行き、東北本線で二本松駅を目指します。



郡山駅のホームに向かうエスカレーターには会津の看板!

松平容保公の写真もあります。



郡山駅から磐越西線で会津に行けるので、プロモーションされています。

やはり会津はカッコいい!
この時点でテンションが上がります。



郡山駅から二本松駅までは5駅、25分程度。

「丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型どった駅舎」として、東北の駅百選に選定されています。

左の石垣は天守台で、駅舎は多聞櫓をイメージしているのかな?

街が一体となった城下町造りの取り組みに非常に感心しました。



駅のロータリーには少年隊の像があります。
城に直接足を運んで行くということは、その地域の歴史に触れること。

そうして、歴史は守り語り継がれていきます。

二本松市の取り組みは、観光のモデルケースだと思います。



歩いて二本松城を目指します。

駅前には奥州街道があり、駅から割とすぐの場所に大手門跡があります。

Googleマップで二本松城を検索して向かうと本城に誘導されますが、大手門から本城の麓までは1km程あるので注意です。



江戸城や大阪城のように、隙間なく美しく加工された切込接の石垣。

石垣の2段だけ残っています。



反対側は私有地のため入ることはできませんが、立派な算木積みは確認できました。

初代二本松藩主、丹羽長重から大手門を築造することは悲願でしたが、財政状況もあり1832年に幕府から許可を得て普請。

本格的な櫓門が完成しました。

しかし僅か35年後の戊辰戦争後に、門前の堀は埋められ大手門は取り壊されました。



大手門跡の先は急な坂道になります。
両脇は民家が連なっており、安土城の大手道を彷彿とさせます。

民家には近世の石材を使われていますが、この辺りは石を使っている家が多いのが特徴。

私有地なので写真は控えたのですが、明らかに城の石垣だったと思われる矢穴の入った石材が、民家の花壇に使用されているのも発見。

個人的には二本松市に根付いた石文化を感じました。



急な上り坂を登って、そのまま主郭へと続くのかと思いきや、今度は急な下り坂になります。

この辺りには久保丁門という城門がありました。

アップダウンする珍しい城郭設計。
城全体を自然地形を利用して区画しているようです。



そして、何より気になったのは久保丁門があった場所は、山の頂が人工的にV字にカットして大手門から続く道が貫通していること。

見た目は完全に堀切。主郭への道を通しているので、切り通しですね。

石垣で有名な二本松城ですが、中世城郭の醍醐味、宝探しのようなワクワク感を味わいながら進みます。

二本松城の麓には情報館があるので、二本松城と二本松藩について改めて学び、パンフレットを持って登城開始です。



情報館を出ると二本松城の藩校だった敬学館の跡があります。

本来は文化観光施設が建設予定でしたが、絵図を元に発掘調査を行い、遺構が発掘されました。



大手門跡から続く山城テイストから一変して、情報館の前には三ノ丸下の巨大な石垣が出現!



高さ10mから13mの圧巻の石垣が三の丸を囲みます。
加藤氏時代に積まれた石垣と確定しています。



高い石垣に土塀があるだけでも雰囲気がガラリと変わります。



石を切り出す際にできる打ち込みの証、矢穴も至る所で確認できます。



三ノ丸の左手の石垣には排水口らしき穴を見ることができます。



直下にある巨石は排水した水の受け材でしょうか。



少年隊像と登城口。

詳しく書くと長くなるので割愛しますが、少年隊は13歳から17歳の少年を含んだ二本松藩の藩兵で、戊辰戦争時に戦場へと出兵します。

新政府軍の総攻撃に二本松城は陥落し、少年隊も多くの命が失われました。

会津藩の白虎隊と並んで、悲劇として現代でも語り継がれています。

12歳って小学6年生か中学1年生ですよ。

少年が国を守る為に戦う精神。武士道を感じると、ワタクシなんてまだまだ甘いと戒められます。


像があるあたりは、広大な広場と駐車場になっていますが、千人溜という藩兵が集まる場所とされていました。

戊辰戦争時は少年隊兵もここから出陣していきました。



二本松城は標高345mの平山城。

いよいよ枡形になっている麓の三ノ丸正面より入城です。
とても絵になるショット!



高石垣に囲まれた枡形は、異常なほど威圧感があります。



右は二重櫓、正面は箕輪門、右は多聞櫓となります。

二重櫓は当時は存在していなく、模擬で建築されました。

古い絵図を見ると、箕輪門の櫓門が二重櫓の位置まで伸びているように見えました。

戊辰戦争時に新政府軍によって、箕輪門は焼き払われましたが、昭和に復元。



軒丸瓦や鬼瓦は丹羽氏の家紋。

江戸時代は初代藩主丹羽長重から幕末まで、10代に渡って丹羽氏が納めました。

二本松市はやはり礎を築いた丹羽氏推しです。


箕輪門を抜けると石垣の枡形虎口を通過して三ノ丸下段に入ることができます。

この枡形虎口には建築物は建造されなかったようです。



上からのショット。

確かに建築物を築造するには、やや土台が細いようにも感じますが、土塀くらいはあったのでしょうか。

三ノ丸に続く重要な門なので、箕輪門から連続して折れ曲がる設計。

三ノ丸は城郭の平城の部分にあたり、御殿が並びました。



三ノ丸下段の狭間から見た、箕輪門前の枡形。

敵の動きがよく見えます。



本坂御殿跡と石垣。
スルーされてしまいそうな、三ノ丸の脇にある御殿跡。

今は使われているのか不明な倉庫が建っています。


三ノ丸から主郭に向かう途中には、二本松藩士の自刃の石碑があります。

この他、二本松城には幾つもの悲しい歴史の足跡が残っています。



主郭に向かう道中には至る所に中世城郭の遺構らしきものが広がります。

空堀かなと思って撮った一枚は、畠山氏時代の虎口と推測されています。



日影の井戸は日本三大井戸の一つ。

深さは16mで、さらに岩盤を通して北に14mも伸びています。

中を覗いてみると、水が今だに溜まっていました。
※湧き出ているのかは不明。



本丸下南面大石垣。

二本松城における最も古い石垣の一つが、本丸下に残っています。

約13mの高石垣は、慶長初期に蒲生氏郷の時代に、全国各地で名城の石垣を積んだ穴太衆によって築かれました。

自然石で芸術的に積まれた野面積みの石垣。



本丸東櫓台の石垣。
石垣の折れ方が鋭角なのが特徴的。



本丸の石垣は崩壊して、原型を留めていない状態でした。

平成3年の発掘調査によって、本丸の形状と規模が判明し、学術調査と合わせて全面修築、復元を果たしました。



奥には天守台。
発掘調査で江戸初期の野面積みの石垣が発掘されましたが、隅部は後世に積み直されて算木積みだったそうです。



北側からのショット。
張り出している石垣は天守台。

右側に写っている石垣は、発掘調査で発見された野面積みの本丸石垣を、後世に残すために移築したもの。



本丸には枡形の食い違いの虎口を通過します。



虎口の右手は本丸東櫓台。



本丸のレベルから少し高く積まれた石垣は本丸東櫓台の頂部。



本丸東櫓台の上から見た枡形虎口



本丸東櫓台から見た天守台。
本丸を囲む石垣の中で、天守台だけは少し外側へせり出しています。

多聞櫓で繋がっていたとされていますが、実際に天守が上がっていたかは、謎に包まれています。



天守台からの景色。

山頂は雲で隠れていますが、標高1700mの安達太良山を望むことができます。



天守台から見た本丸西櫓台方面。
こちらにも多聞櫓が繋がっていたと想定されています。

本丸の構造を見ても、個人的にはどこかの時代には天守があったのではないかと思っています。



天守台から登城してきた道を見ると、現在は駐車場になっていますが、本丸下から飛び出すように円形の曲輪を見ることができます。



帰りに謎の円形の曲輪を調査。

人工的に切り落とされたかなり高めの土手。
この土手が一周囲んで独立した曲輪になっています。

こちらは乙森という曲輪で、東西27m・南北42m・四方150mを塀で囲んでおり、本丸東側を補完する重要な施設であったと考えられています。

中世に造られた曲輪なのか謎ですが、上から見ると丸型の馬出に見えます。

最近、諏訪原城で丸馬出を見過ぎた為か、思考がどうしてもその方向へ進んでしまいます。



本丸の北側、西側には中世の二本松城の遺構が残っているので、登ってきた逆側から一度下ります。

天守台下には蒲生氏時代の2段の石垣を見ることができます。



本丸天守台と併せて3段の石垣は芸術的。

穴太衆の石垣を東北の地で見られるのは感動です。この時代にはまだ石垣の勾配が緩めなのも特徴。

土造りの城から石垣の城へと変化する過程で、石垣技術は数十年で飛躍的に進化を遂げます。

石垣造の城が少ない東方の地では、特に貴重な遺構です。



本丸の北側の茂みの中に入ると堀切のように尾根を分断した遺構がありました。



形状の美しい空堀が残っています。



この辺りは完全に中世の山城らしさを見ることができます。

見事な石垣に目が行きがちですが、テイストの異なった山城の遺構も同時に見れるのが、二本松城の魅力の一つ!



L字型の空堀。
この辺りは畠山氏時代のものと思われる遺構が多く残っています。

室町時代に奥州管領に任ぜられた畠山氏は、二本松城を築城。

戦国時代の1585年、1586年に伊達政宗の攻撃により二本松城は開城され畠山氏は滅亡。

1591年に伊達家は米沢城から岩出山城に転封された為、二本松城は会津若松城の支城として蒲生氏郷の拠点となり改修が進められます。



空堀脇の土塁。

空堀内部からは、あまり大きさを感じなかった土塁ですが、外側から見ると大きな土塁であることが分かります。



まだまだ二本松城の石垣は終わりません。

山城の遺構を堪能していると搦手門が出現。

中世城郭と近世城郭がMIXされた面白い城ですね。



打込接の綺麗な石垣。



この石垣の脇に門が置かれていました。
前には当時の礎石が残っています。

蒲生氏時代の冠木門と思われる掘立柱の門があり、加藤氏時代に礎石を用いて改修されました。
その際に搦手門の石垣も造ったと思われます。

この石垣の反対側にも石垣がありましたが、現在はほぼ原型が残らない状態です。

一度本丸に戻って、登ってきた道から下山します。



箕輪門の枡形を正面に見て左側は、死闘を繰り返した城郭のテイストから一変して、平和な江戸期らしさが残ります。

池が2段で連なっていて、上段が「るり池」。

初代二本松藩主、丹羽長重の造園の姿が残っています。



下段は霞ヶ池。



るり池、霞ヶ池の間の道を進むと洗心亭があります。
二本松城内の茶亭。色々ありながらも元の今の位置に再移築された現存建築。

かや葺屋根が素晴らしい雰囲気を出しています。

るり池や霞ヶ池を見ながら、茶を楽しんでいたのでしょう。

洗う心と書いて洗心亭という名前も素敵です。



城という軍事施設の中での、穏やかな時間。

城主もこの場所で同じ空間を過ごしたと考えると、エモーショナルゾーンに突入したのでセルフタイマーで自撮り。笑



洗心亭の裏手から登ると本宮館跡があります。
尾根上に平場を築いて、建物が建築されていました。

畠山氏に仕えていた氏家新兵衛と遊佐丹波守の居館と推測されています。



本宮館跡には現在、丹羽霊神社があります。
お参りをして下山です。



帰りも同じルートで帰り、駅前の二本松神社脇の裏手に何やら石垣らしきものを発見。

下段は近世っぽいのですが、奥の竹藪にある石垣は城郭っぽい感じもします。

ここは大手門と同じライン上にあるので、可能性はあるのかなと。

山全体、町全体を城郭化しているので、二本松城は領域が広い為、見て周るのに3時間半は費やしました。

それでも全ては見れなかったので、次回の宿題です。

今年の5月は会津若松城に行く予定なので、福島の歴史に触れる良い機会でした。


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