城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

仙台城【二回目】@宮城県

2024-02-17 16:00:00 | 100名城
2024年2月17日

若林城→松音寺→瑞鳳殿→最後は宮城県の誇り、仙台城に向かいました。

普段、東京では電動自転車で怠けているワタクシが、主発地点と到着地点も含めて1日で約45kmの大移動を自転車でやってのけました。

好きな事への執念はこんなにも強いものかと自身で感心してしまいました。

しかし、江戸時代はこんな距離は歩いて移動していたと考えると、まだまだ足元にも及びません。

さて、瑞鳳殿で伊達家の霊廟を見た後は、ゆっくりと広瀬川を眺めながら移動しました。



仙台城に向かう大橋からのショット。

木に埋もれて分かりずらいですが、仙台城の石垣が見えます。



本丸は標高130mの青葉山に築かれました。
昨年の夏以来の訪問です。

昨年は途中、突然のゲリラ豪雨に見舞われた為、今回はゆっくり周りたいと思います。



大橋を渡り直進すると左手に三の丸、右手には二の丸があります。

写真は二の丸下の石垣と、奥には大手門脇櫓があります。

大手門脇櫓と二の丸の間には、当時は大手門がありましたが、仙台空襲で焼失。

また、現在は大橋から直線的に大手門跡を車道が突き抜けていますが、かつては二の丸石垣の前で90度に折れ曲がり、食い違いで大手門を通る道でした。

ちょうど写真のアングルを眺めながら大手門を抜けたと思われます。



大手門脇櫓も大手門同様で仙台空襲で焼失しましたが、1967年に復元されました。

高さ約11.5m、入母屋造。
切妻破風もあります。



裏から見た脇櫓。
L字型建築物の隅にもう一層を足したような造りで、よく見ると珍しい形の建築物。

さらに二つの入り口に、瓦葺の庇が取り付けているあたりも、現代では普通ですがこの時代の建築物では珍しいかも。



脇櫓と道を挟んで向かい合うように、綺麗に積まれた石垣が二の丸下の石垣です。

隅には少しですがL字の土塀があがっています。



この土塀、仙台城にとっては大変貴重なものです。
脇櫓は復元ですが、この土塀は現存建築物。

1978年の宮城県沖地震、2011年の東日本大震災で被災。

宮城県沖地震の際には壁の表面をモルタルで修旧されましたが、東日本大震災で被災した際に土塀本来の漆喰壁に戻されました。

時代がちゃんと城の価値を改め始めた証拠だと思います。



仙台城には残念ながら廃城令で御殿などは陸軍に取り壊された上、残った建築物も仙台空襲で焼失したので、脇櫓とこの土塀以外の建築物はありません。



ちょうどこのアングルから見る中央の道路にまたがって大手門がありました。



当時の写真が案内板にあります。
仙台城にはこんな立派な櫓門が存在し、藩主が通る際に開門されていました。

建築物が残らない仙台城ですが、ついに2036年にこの大手門が復元予定です。

発掘調査が進められていますが、現在この場所は普通に道路が走っていて、アスファルト舗装がされています。

さらに坂の途中にあるので、降雨の際の水の問題など様々な弊害もありそうですが、大手門の復元を楽しみにしています。


二の丸跡は現在、東北大学河内キャンパスになっています。

二の丸は二代藩主、忠宗の時代に造営。

東西約310m、南北約200mの大きな敷地には、伊達政宗の居城となっていた若林城から建築物を移築したと伝わっています。

幕末まで藩政の中心は二の丸で行われていましたが、明治から昭和にかけて後の陸軍第二師団が駐在。

御殿建築は明治15年の火災で殆どを消失させてしまいました。



大手門から本丸に向かうと大きな食い違いの虎口となっていて中門跡が現れます。

しかし、ここは東日本大震災の傷跡がまだ残っています。



ここは復旧工事は進んでいないのでしょうか。

中門跡からは金箔瓦も出土しています。
ちなみに中門は大正時代に取り壊され、第二師団の長官舎に移築。

現在も残っていますので、再移築してもらいたい。

しかし、仙台城の問題は主軸となっているこの道が一般車両の通れる普通の道路になっている事でしょうか。

令和4年の福島沖地震で石垣が崩落した事で現在は車の通行はできないので、バスのみが通っています。

車が走っている時点で再移築はできないですね。



中門を抜けると、仙台城一の見どころと言っても過言ではない、高い石垣が見えてきます。

太陽によってシルエットが浮かび上がる巨大な石垣は、まるで軍艦のような迫力。



緩やかな斜度から上部で聳り立つように垂直になります。

当時はこの隅の石垣の上には三重の艮櫓があがっていました。



石垣の高さは圧巻の17m。
山の上にこの高さの石垣なので、迫力が凄いです。

ちなみに、この石垣は仙台城築城時から三代目。
東日本大震災で崩落した際に、以前の石垣が中から出てきたことで判明したそうです。

つまり、伊達政宗時代の石垣はこの中に眠っています。まるで豊臣期の大阪城のようです。



現在見れる石垣は、石工技巧の当時最先端だった切込接。石垣を加工して、横目地が綺麗に揃えています。

上下の縦目地をズラす事で上からの荷重を分散します。

ここまで積み方が美しい石垣は、他城でもなかなか見ることができません。



高石垣の端部、この上には二重の東脇櫓があがっていました。



護国神社の鳥居を抜けると本丸。
左には東脇櫓、右奥の石垣には三重の西脇櫓、中央には詰の門が建っていました。

今は石垣しか残っていませんが、想像しただけでもテンションが上がります。

特に右側の西脇櫓の石垣を見ると、他城の天守台並みの大きさ。



本丸大広間の礎石跡。

東西33m、南北26mの場内最大規模で藩の重要な儀式や賓客のもてなしに使われました。

藩主が座る上段の間と、将軍や天皇を迎えた際に座る上々段の間があり、建築物の高さ18mで畳430畳分の巨大な御殿。

内部は金色で煌びやかな空間だったそうです。
豪華絢爛な桃山様式の障壁画、襖絵は狩野派の絵師、狩野左京。

建築物の規模、狩野派による絵などを考えると、伊達政宗が建立した松島の瑞巌寺に似ているような気もします。

瑞巌寺は国宝で大改修も終わったばかりなので、瑞巌寺を見ると豪華絢爛な仙台城の大広間とリンクするかもしれません。



先ほど上がってきた17mの高石垣の上からのショット。



艮櫓跡からショット。仙台市内を一望できます。

この一大都市を築いたのは間違いなく伊達政宗。
伊達政宗は生前、城下町の整備にも力を入れていて、それが今の仙台市の礎となり幕末まで伊達家が仙台の地を守り続けました。


仙台城といえば、やはり伊達政宗の騎馬像。
仙台市の象徴でもあります。

こちらの像は三代目。
初代は現在城下にある仙薹緑彩館の脇にあります。

二代目は仙台城の前に伊達政宗が居城していた岩出山城に現在は移設されています。



仙台城には懸造という崖にせり出した建築物もありました。

清水寺も懸造ですね。
絵図も存在するので死ぬまでに再建して見れることを願っています。





本丸を一通り周り、元きた道を戻ります。
西脇櫓の先は現在立ち入り禁止。



奥を覗くと地震で崩落した石垣の修復中。
切込接の石垣が仙台城の顔になっていますが、時代の違う野面積の石垣が見えます。

来年の3月まで修復中。
石垣の復旧には想像以上の時間を要します。



帰りは別ルートで山を降ります。



こちらは全く積み方が異なる石垣が姿を表します。
カラーコーンがあって、近寄ることはできません。



こちらは清水門跡の石垣。



清水門は二階建ての門で石垣の規模から見ても、大きな建築物だったであろうと想像します。

昔の写真も無いので、想像の世界ですが無骨な野面積が個人的には好きですね。

しかし、この清水門跡の石垣は幾度も地震で損傷して、その度に復旧しています。



巽門跡。
こちらは三の丸から本丸に向かう為の門。
巽門は当時の写真がネットに出ています。

櫓門の形状で大手門と並んで立派な門だったようです。

しかし、巽門も残念ながら仙台空襲によって焼失しました。



三の丸の前には土塁と水堀。
仙台城は周りが川や渓谷などの自然地形を利用している為、堀はこの三の丸前のみとなります。


三の丸の内側から見た土塁。
石垣も素晴らしいですが、この土塁も綺麗に残っていて良き。

三の丸は東西約140m、南北約120mの広さで、年貢米などを貯蔵していたようです。

現在は仙台市博物館になっています。



こちらが初代伊達政宗騎馬像。
ちょうど日が沈み始めて、ダイヤモンド伊達政宗状態に。

奥には仙台城。

この像に胴体がない理由は、昨年のブログを見て頂ければと幸いです。

今回は存分に仙台城を見ることができました。
同時にまだ復旧が続いているのを目の当たりにし、いつ何処で地震がくるわ分からない日本において、どこの城を見に行っても今の姿をよく目に焼き付けておくことが必要なのだと実感しました。

まずは石垣の復旧と大手門の復元がすごく楽しみです。
また、移築建築や仙台藩縁の寺院なども多く存在するので、今後も少しずつ周っていきたいと思います。


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