城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

増上寺@東京都

2024-04-06 14:00:00 | 
4月に入り、例年よりも遅く桜が咲き始めた今年。
3月3日に姫路城に行って以来、忙しくて城や寺など巡ることが出来ない日々が1ヶ月以上続きました。

花見も兼ねて、今回は浜離宮恩賜公園に行くことにしました。

その前に、増上寺へ向かいます。
増上寺は港区にある超有名なお寺。
ドラマの撮影などでも度々使われています。

安倍元首相の葬儀も増上寺で行われました。

場所はJR浜松町駅か、都営大江戸線大門駅。

駅前の大通りを歩くと増上寺の門が現れます。



こちらが駅前続く道の先にある表門。
鉄骨で復元されたもですが、実はここにあった増上寺の門は徳川家康から贈られた江戸城の門だったと言われています。

元は現在の日比谷にあった増上寺ですが、慶長3年に江戸城拡張の際に現在の地に移動。

その際に江戸城の門も移築したようです。



復元とはいえ、立派な門です。
一応、高麗門で当時と同じディテールを1.5倍に大きくしたとされています。

ちなみに、当時の門は空襲で消失してしまいました。

大開発中で高層ビルが立ち並ぶ浜松町駅界隈ですが、この高麗門で突如歴史ある街並みに雰囲気がガラリと変わります。



表を抜けると、ど迫力の三門が出現!
1611年に徳川幕府の助成によって建立。

元和7年に一度、台風で倒壊するも翌年に再建され400年の時を超えて現代に至ります。



徳川の家紋、三葵。
幕府のお膝元であり、徳川縁の寺院という格式をすごく感じます。



三門を抜けると本堂が見えます。



東京タワーと高層建築物と超歴史的な建築物。
ここでしか見ることができないスペシャルなロケーション。

そして、徳川家の家紋がカッコ良すぎる。



京都や奈良の日本を代表する寺も素晴らしいですが、これはビックシティ東京が織りなす景色。

徳川幕府の威厳を感じること間違いありません。



桜満開で絶妙な訪問日。

脇の細い道を抜けて、裏手に回ると徳川将軍家の霊廟があります。



こちらに埋葬されているのは、
二代将軍徳川秀忠
五代将軍兄弟の綱重
六代将軍家宣
七代将軍家継
九代将軍家重
十二代将軍家慶
十四代将軍家茂

などなど江戸幕府の将軍が集結しています。
しかし、こちらの霊廟は世界大戦時の空襲で焼失してしまいました。

中には入ることができません。



冒頭にも書きましたが、都会のど真ん中というロケーションが本当に素晴らしかった。

そして、今では大都市として発展し、江戸の面影は薄くなってしまいましたが、増上寺にくれば江戸幕府そして徳川家の痕跡が色濃く残っている貴重なスポットだと言えます。

桜の咲く素晴らしい季節に訪問することができました。



瑞巌寺@宮城県

2023-10-29 15:00:00 | 
2023年10月29日

涌谷城の後は日本三景松島にやってきました。

大変な混み具合の松島。
今回、松島の目的は瑞巌寺です。

1609年に伊達政宗が建立。
仙台城築城の際に、市民の精神の拠り所として伊達政宗が縄張りを行なって造営。

前回、訪問したのは6年前くらい。
2008年からの10年間、平成の大修理中だった為、全てを見ることができなかったので、再びやってきました。



日本三景松島の海沿いを歩きながら瑞巌寺に向かいます。
最寄りの駅は松島海岸駅です。
松島駅もあるので注意です。



国宝瑞巌寺の入り口。



伊達家の竹に雀と三引両の家紋の提灯が門に掲げられています。



門を抜けると杉の木が本堂前まで広がります。
以前はもっと杉の間を抜けて行くような参道でしたが、杉の木が伐採され減ってしまいました。

それは東日本大震災の時、松島にも津波がきてこの瑞巌寺を襲いました。

奇跡的にこの杉の参道の先まで津波は到達したものの、本堂の前で止まりました。

この杉の伐採は悲しくも震災の爪痕なのです。



内側から見た総門。





参道の右手の道には洞窟遺跡群があります。



約200mに渡って、岩壁に洞窟や仏が彫られています。



松島は古来より「奥州の高野」と呼ばれていて、亡き人の供養が営まれた場所でもありました。




本堂には庫裡(くり)から入ります。
庫裡とは寺院の台所です。

こちらも国宝に指定されています。


寺内は撮影禁止のため、写真は外観のみ。



構造は切妻造の本瓦葺。
入母屋の上には煙出しがのっかります。

美しい曲線です。



上部には複雑に組んだ梁と束。
漆喰の壁に彫刻が施されています。

派手さはないものの、細かなところを見ると芸術が光ります。

内部も基本的にはシンプルな作りですが、天井などを見ると細かな箇所に彫刻なども見受けられました。



城の望楼型天守のミニチュア版みたいです。



庫裡の脇にあるこの建造物が個人的には気になってしまいました。

岩を掘ってスッポリ入れたような建物。

その先には非公開の大書院があります。



先ほどの庫裡から本堂に入りますが、本堂の外観はこちらの中門から入ると見ることができます。



寺内の写真を撮ることができないのが残念ですが、本堂内は平成の大修理を終えて伊達政宗が心血を注いで完成させた創建当時の姿に甦りました。



よく見ると金色に輝く部屋が見えます。

瑞巌寺の外部は非常にシンプルですが、寺内は各部屋によってテーマがあり、絵画や彫刻で豪華絢爛に装飾されています。

京都、根来の大工衆が集められ、金色の豪華な襖絵は狩野派。当時の最先端技術によって瑞巌寺は完成しました。



瑞巌寺入り口の銅像。



銅像の後ろのみが先行して赤く紅葉しています。とても不思議な光景。


派手好きな伊達政宗らしさが表現された寺院です。

仙台城の大広間も内部は豪華絢爛だったものの、現在は残っていません。

その片鱗をこの瑞巌寺で見ることができるので、仙台に来た際には是非行ってもらいたいスポットです。



瑞巌寺に行った際に併せて観覧したいのが伊達政宗歴史館。

伊達政宗の一生をロウ人形で再現しています。

ここも計4回くらい来ているのですが、歴史を学ぶ度に見方が変わるので、何度も来ています。

写真撮影可だったので、超簡単に紹介。



伊達政宗の初陣の様子。
ちなみに初陣は15歳です。



人取橋の戦いの様子。
19歳の政宗が7000人の兵で、兵力30000人の連合軍と渡り合った有名な戦い。

伊達政宗の勇名を轟かせることになった重要な戦いとなっています。



小田原参陣に遅れたことで秀吉に討たれそうになるも、この死装束のパフォーマンスと、秀吉の好きな茶を最後に習いたいと申し出て乗り切ります。

小田原北条氏とは同盟関係だった伊達家にとっては難しい決断でした。



一揆を企てたことが秀吉にバレて再度討たれそうになります。

再び死装束に今度はキリストを彷彿とさせる、金色の十字架を持参して上洛します。

そして再び許されます。笑

しかし、山形の米沢から宮城の岩出山に移封となります。

結果的には現在の大都市仙台は、この移封があったから実現したといっても過言ではありません。



朝鮮出兵の様子。このシーンだけはミニチュア。

兵は500人の要請に対して、3000人を率いて参陣しました。

2月13日に入京した伊達勢は、3月17日に京都を出発し、肥前名護屋城に向かいます。
大軍の第一陣は前田利家。第二陣は徳川家康。第三陣が伊達政宗でした。

伊達軍の豪華な軍装は京都の人々を大いに驚かせたようです。



紺地に金の日の丸の幟が30本、それを持つ足軽は具足の下に無量の襦袢、黒の具足には金の星印。

さらに鉄砲100挺、弓50張、槍100本、それぞれの足軽は銀のし付の脇差し、朱鞘の太刀をはき、金のとんがり笠をかぶっていました。

さらに騎上侍30騎は、黒幌に金の半月のだし、黄金装の太刀をはき、馬鎧は豹や虎、熊の皮に孔雀の尾をつけていました。

さらに伊達政宗は華麗でした。

赤地の錦の直垂に、黒漆塗りの五枚銅の鎧。
黒ラッシャの地の裾に紅ラッシャの山形模様で金モールを放射型に走らせた陣羽織。

そんな派手な振る舞いをする人を「伊達者」と呼ぶようになったという説があります。

伊達勢の軍装の派手さは後世に語り継がれるほどのインパクトがあったということです。



伊達政宗は日本初となる西洋船をつくり、幕府公認で慶長遣欧使節をメキシコとスペインに送っています。

大工800人、鍛冶700人、雑役3000人で完成させた船は、西洋諸国からサン・ファン・バウティスタ号と呼ばれていました。



実際に渡航は成功してローマ法王にも会っています。

貿易を目的とした派遣でしたが、結果的には幕府のキリスト弾圧によって実現することはできませんでした。

この航海は7年にも及びました。

貿易を目的としていますが、真の目的は諸説言われています。

スペインと軍事同盟を結んで幕府を転覆させる計画があったというのが、昔からの説です。

近年ヴァチカン秘密文書館が所蔵する、使節に対するローマ教皇の回答が新たな史料として加わりました。
回答によれば、なんと政宗側から「政宗をカトリック王に叙任してほしい」「カトリック騎士団を創設したい」との要望があったというのです。

この辺りの話もロマンがあって個人的には好きですね。



大坂夏の陣で東軍についた伊達政宗。
領地を減封され、伊達家の所領の米沢を奪われ、三度殺されそうになった豊臣秀吉は、好かない相手だったかもしれません。

しかし天下を納めた秀吉の大阪城が、夏の陣の際に火の手で落城する姿を見て、伊達政宗は涙を流し忍んだと言われています。

その後、天下泰平の世になり伊達政宗は仙台市の発展のために生涯を尽くしました。


等身大のロウ人形で生涯を知れるので、非常に面白い資料館です。

是非、瑞巌寺と併せて訪問してもらいたいです。





震災で被災しても立ち上がり、歴史を伝え続けて頂いている地元の方々に感謝しかありません。


寺×食事
松島は食事も充実した観光スポット!



牡蠣が有名な松島。
ゴロっと入った牡蠣カレーパン。

昔からやっている路面店でホタテの串焼き。

やはり仙台は牛タン。
三陸産カキフライと牛タンの欲張りメニューは利久で頂きました。

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東大寺

2023-03-26 14:00:00 | 
2023年3月26日

小学校でも習うので日本人なら誰でも知っている東大寺の奈良の大仏。

修学旅行でも奈良と京都は定番ですね。

自分は修学旅行は北海道でしたし、奈良には昔1人で用事のついでに立ち寄ったことがあります。確か20歳くらいだったかな。

その際、奈良の大仏が見たかったのですが、奈良の大仏が何処にあるのかが思い出せませんでした。

その頃はスマホもなく知識を持ち歩くことなどできませんでしたので、小学校の授業を思い出して、平城京という名が頭に浮かんできたのを覚えています。

車にもカーナビが無かったので、紙の地図を見ながら平城京に行ったのを覚えています。

平城京には当然大仏様はいなく、モヤモヤした気持ちで帰ったのを思い出します。

それから17年の月日が過ぎ、再び奈良の地に足を踏み入れましたので、今度こそは奈良の大仏を見に行きました。

JRの奈良駅を降りるとすぐに奈良公園があります。
土砂降りでしたが、歩いて散策することにしました。

まずは興福寺あたり向かいます。
見どころは五重塔ですね。

てか、本当に鹿がたくさんいることに驚きました。



何気に鹿とのショットがいい感じです。
興福寺の建立は天平2年。730年です。
その後は5度も消失したようですが、現在の塔は応永33年、1426年に再建されたもの。

高さ45mで古都奈良を象徴する建物です。



東大寺の大仏殿に向かう途中。
街自体の雰囲気も凄く良きです。

東大寺大仏殿に入る前に南大門を通ります。
どこに行っても鹿が、我が物顔で歩いています。

この門はかなりエグい木造建築物です。

天平創建時の門は平安時代に倒れてしまったらしいのですが、現在の門は鎌倉時代に再建したもの。
非常に貴重な建造物です。


屋根裏まで達している大円柱18本は21mもあるそう。門自体は約25m!
お城の門もかなり大きくて立派ですが、10m程です。

それを考えると、いかに巨大な門か分かります。


いよいよ東大寺に入っていきます。


鹿さんが入れるのはここまでです。


東大寺の大仏殿


デカい!
とにかく建造物のデカさに驚かされます。

奈良時代に創建。2度の火事にあい、江戸時代に今の形となりました。

驚きなのが、現在の建物は桁行57mです。
この時点で世界最大級の木造建築。

しかし、鎌倉時代の東大寺は11間。つまり88mだったらしい。

江戸時代の財政難によって規模を縮小して再建したので、これでも小さくなったのだとか。


建物の高さはま48.7m

柱、扉など全てにおいて規格外の大きさを誇ります。

鎌倉時代の建築技術、大仏様。
天井には化粧屋根、柱には指肘木、用木に彩色をあしらうのが特徴。

建築士の試験勉強の時に習いました。

日本の建築技術って凄いですね。
こんな巨大な物を何千年も前に作っていたのですから。



城でいう鯱のようなものが母屋の天辺に着いていたので、何だろうと思っていたら仏壇の中に置いてありました。

基本的には装飾だと思いますが、どうやら水を効率的に流すものらしい。

水処理は建築において、昔も現代も課題です。


とにかく柱の迫力が圧巻。
大仏も当然大きくて迫力あるのですが、自分としては大仏を格納している建築物に感動することが多かったかな。

この技術を次の世代に伝えていくのが宮大工。本当に誇り高き仕事です。


仏閣×食事
麺屋 龍 新大宮店

ご当地のスタミナラーメンを頂く!

詳しくは↓↓