城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

仙台城【二回目】@宮城県

2024-02-17 16:00:00 | 100名城
2024年2月17日

若林城→松音寺→瑞鳳殿→最後は宮城県の誇り、仙台城に向かいました。

普段、東京では電動自転車で怠けているワタクシが、主発地点と到着地点も含めて1日で約45kmの大移動を自転車でやってのけました。

好きな事への執念はこんなにも強いものかと自身で感心してしまいました。

しかし、江戸時代はこんな距離は歩いて移動していたと考えると、まだまだ足元にも及びません。

さて、瑞鳳殿で伊達家の霊廟を見た後は、ゆっくりと広瀬川を眺めながら移動しました。



仙台城に向かう大橋からのショット。

木に埋もれて分かりずらいですが、仙台城の石垣が見えます。



本丸は標高130mの青葉山に築かれました。
昨年の夏以来の訪問です。

昨年は途中、突然のゲリラ豪雨に見舞われた為、今回はゆっくり周りたいと思います。



大橋を渡り直進すると左手に三の丸、右手には二の丸があります。

写真は二の丸下の石垣と、奥には大手門脇櫓があります。

大手門脇櫓と二の丸の間には、当時は大手門がありましたが、仙台空襲で焼失。

また、現在は大橋から直線的に大手門跡を車道が突き抜けていますが、かつては二の丸石垣の前で90度に折れ曲がり、食い違いで大手門を通る道でした。

ちょうど写真のアングルを眺めながら大手門を抜けたと思われます。



大手門脇櫓も大手門同様で仙台空襲で焼失しましたが、1967年に復元されました。

高さ約11.5m、入母屋造。
切妻破風もあります。



裏から見た脇櫓。
L字型建築物の隅にもう一層を足したような造りで、よく見ると珍しい形の建築物。

さらに二つの入り口に、瓦葺の庇が取り付けているあたりも、現代では普通ですがこの時代の建築物では珍しいかも。



脇櫓と道を挟んで向かい合うように、綺麗に積まれた石垣が二の丸下の石垣です。

隅には少しですがL字の土塀があがっています。



この土塀、仙台城にとっては大変貴重なものです。
脇櫓は復元ですが、この土塀は現存建築物。

1978年の宮城県沖地震、2011年の東日本大震災で被災。

宮城県沖地震の際には壁の表面をモルタルで修旧されましたが、東日本大震災で被災した際に土塀本来の漆喰壁に戻されました。

時代がちゃんと城の価値を改め始めた証拠だと思います。



仙台城には残念ながら廃城令で御殿などは陸軍に取り壊された上、残った建築物も仙台空襲で焼失したので、脇櫓とこの土塀以外の建築物はありません。



ちょうどこのアングルから見る中央の道路にまたがって大手門がありました。



当時の写真が案内板にあります。
仙台城にはこんな立派な櫓門が存在し、藩主が通る際に開門されていました。

建築物が残らない仙台城ですが、ついに2036年にこの大手門が復元予定です。

発掘調査が進められていますが、現在この場所は普通に道路が走っていて、アスファルト舗装がされています。

さらに坂の途中にあるので、降雨の際の水の問題など様々な弊害もありそうですが、大手門の復元を楽しみにしています。


二の丸跡は現在、東北大学河内キャンパスになっています。

二の丸は二代藩主、忠宗の時代に造営。

東西約310m、南北約200mの大きな敷地には、伊達政宗の居城となっていた若林城から建築物を移築したと伝わっています。

幕末まで藩政の中心は二の丸で行われていましたが、明治から昭和にかけて後の陸軍第二師団が駐在。

御殿建築は明治15年の火災で殆どを消失させてしまいました。



大手門から本丸に向かうと大きな食い違いの虎口となっていて中門跡が現れます。

しかし、ここは東日本大震災の傷跡がまだ残っています。



ここは復旧工事は進んでいないのでしょうか。

中門跡からは金箔瓦も出土しています。
ちなみに中門は大正時代に取り壊され、第二師団の長官舎に移築。

現在も残っていますので、再移築してもらいたい。

しかし、仙台城の問題は主軸となっているこの道が一般車両の通れる普通の道路になっている事でしょうか。

令和4年の福島沖地震で石垣が崩落した事で現在は車の通行はできないので、バスのみが通っています。

車が走っている時点で再移築はできないですね。



中門を抜けると、仙台城一の見どころと言っても過言ではない、高い石垣が見えてきます。

太陽によってシルエットが浮かび上がる巨大な石垣は、まるで軍艦のような迫力。



緩やかな斜度から上部で聳り立つように垂直になります。

当時はこの隅の石垣の上には三重の艮櫓があがっていました。



石垣の高さは圧巻の17m。
山の上にこの高さの石垣なので、迫力が凄いです。

ちなみに、この石垣は仙台城築城時から三代目。
東日本大震災で崩落した際に、以前の石垣が中から出てきたことで判明したそうです。

つまり、伊達政宗時代の石垣はこの中に眠っています。まるで豊臣期の大阪城のようです。



現在見れる石垣は、石工技巧の当時最先端だった切込接。石垣を加工して、横目地が綺麗に揃えています。

上下の縦目地をズラす事で上からの荷重を分散します。

ここまで積み方が美しい石垣は、他城でもなかなか見ることができません。



高石垣の端部、この上には二重の東脇櫓があがっていました。



護国神社の鳥居を抜けると本丸。
左には東脇櫓、右奥の石垣には三重の西脇櫓、中央には詰の門が建っていました。

今は石垣しか残っていませんが、想像しただけでもテンションが上がります。

特に右側の西脇櫓の石垣を見ると、他城の天守台並みの大きさ。



本丸大広間の礎石跡。

東西33m、南北26mの場内最大規模で藩の重要な儀式や賓客のもてなしに使われました。

藩主が座る上段の間と、将軍や天皇を迎えた際に座る上々段の間があり、建築物の高さ18mで畳430畳分の巨大な御殿。

内部は金色で煌びやかな空間だったそうです。
豪華絢爛な桃山様式の障壁画、襖絵は狩野派の絵師、狩野左京。

建築物の規模、狩野派による絵などを考えると、伊達政宗が建立した松島の瑞巌寺に似ているような気もします。

瑞巌寺は国宝で大改修も終わったばかりなので、瑞巌寺を見ると豪華絢爛な仙台城の大広間とリンクするかもしれません。



先ほど上がってきた17mの高石垣の上からのショット。



艮櫓跡からショット。仙台市内を一望できます。

この一大都市を築いたのは間違いなく伊達政宗。
伊達政宗は生前、城下町の整備にも力を入れていて、それが今の仙台市の礎となり幕末まで伊達家が仙台の地を守り続けました。


仙台城といえば、やはり伊達政宗の騎馬像。
仙台市の象徴でもあります。

こちらの像は三代目。
初代は現在城下にある仙薹緑彩館の脇にあります。

二代目は仙台城の前に伊達政宗が居城していた岩出山城に現在は移設されています。



仙台城には懸造という崖にせり出した建築物もありました。

清水寺も懸造ですね。
絵図も存在するので死ぬまでに再建して見れることを願っています。





本丸を一通り周り、元きた道を戻ります。
西脇櫓の先は現在立ち入り禁止。



奥を覗くと地震で崩落した石垣の修復中。
切込接の石垣が仙台城の顔になっていますが、時代の違う野面積の石垣が見えます。

来年の3月まで修復中。
石垣の復旧には想像以上の時間を要します。



帰りは別ルートで山を降ります。



こちらは全く積み方が異なる石垣が姿を表します。
カラーコーンがあって、近寄ることはできません。



こちらは清水門跡の石垣。



清水門は二階建ての門で石垣の規模から見ても、大きな建築物だったであろうと想像します。

昔の写真も無いので、想像の世界ですが無骨な野面積が個人的には好きですね。

しかし、この清水門跡の石垣は幾度も地震で損傷して、その度に復旧しています。



巽門跡。
こちらは三の丸から本丸に向かう為の門。
巽門は当時の写真がネットに出ています。

櫓門の形状で大手門と並んで立派な門だったようです。

しかし、巽門も残念ながら仙台空襲によって焼失しました。



三の丸の前には土塁と水堀。
仙台城は周りが川や渓谷などの自然地形を利用している為、堀はこの三の丸前のみとなります。


三の丸の内側から見た土塁。
石垣も素晴らしいですが、この土塁も綺麗に残っていて良き。

三の丸は東西約140m、南北約120mの広さで、年貢米などを貯蔵していたようです。

現在は仙台市博物館になっています。



こちらが初代伊達政宗騎馬像。
ちょうど日が沈み始めて、ダイヤモンド伊達政宗状態に。

奥には仙台城。

この像に胴体がない理由は、昨年のブログを見て頂ければと幸いです。

今回は存分に仙台城を見ることができました。
同時にまだ復旧が続いているのを目の当たりにし、いつ何処で地震がくるわ分からない日本において、どこの城を見に行っても今の姿をよく目に焼き付けておくことが必要なのだと実感しました。

まずは石垣の復旧と大手門の復元がすごく楽しみです。
また、移築建築や仙台藩縁の寺院なども多く存在するので、今後も少しずつ周っていきたいと思います。


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瑞鳳殿@宮城県

2024-02-17 13:00:00 | その他建築物
2024年2月17日

若林城に行った後、仙台駅近くの松音寺で若林城から移築された大手門を見て、瑞鳳殿に向かいました。

瑞鳳殿とは仙台藩祖の伊達政宗の霊屋。
また伊達家二代目伊達忠宗、三代目伊達綱宗の霊屋もあります。

自転車で周ったので疲れましたが、効率は圧倒的に良いですね。

瑞鳳殿は仙台城の本丸と向かい合うように経ヶ峯に位置します。

麓に自転車を停めて、小高い山を登っていきます。


この地は伊達家の墓所が置かれていたので、限られた人のみが入ることができた禁断の地だったようです。

この地は戦後に伊達家から仙台市に寄贈されました。



まずは二代藩主、伊達忠宗が瑞鳳殿と共に創建した瑞鳳寺が現れます。

城門のような立派な薬医門。
3間一戸の切妻造り、本瓦葺き。
先ほど見た移築された若林城の大手門と同じです。

そう考えると、松音寺に移築されたとされる若林城の城門というのは、信憑性が高いように思えます。



石畳の階段を登って瑞鳳殿に向かいます。
不整形な石板を綺麗に敷き詰められた見事な石工技術。



至る所にある石垣が気になってしまいます。
土砂崩落を防ぐ為に、石垣が積まれています。

この石垣一つ、仙台藩の貴重な遺構です。



受付でお金を支払い先に進むと、華麗な涅槃門(ねはんもん)が現れます。



涅槃とは煩悩を取り去った悟りの境地の状態を意味するようです。



素晴らしい彫刻と煌びやかな装飾。



涅槃門を下から覗くと、麒麟の彫刻が彫られています。

麒麟とは平和な場所にやってくると言われる伝説の生き物。



再建された拝殿。
この拝殿を抜けると本殿があります。



ついに本殿に到着です。
桃山文化の豪華絢爛な建築物。
瑞鳳殿は昭和6年に国宝に指定されたものの、仙台空襲によって全て焼失。

昭和54年に復元されました。



伊達家の竹に雀の家紋も金色に輝き、奥州の王と呼ばれた伊達政宗の霊屋らしい派手な造り。



空襲で本殿が焼失し、発掘調査が行われましたが、その際に伊達政宗の遺骨が出土。

伊達政宗の遺体は楕円形の木製座棺に納められ、石灰を詰めていたことで遺骨の保存状態は良好だったようです。





瑞鳳殿の上には龍瓦があがっています。
焼失する前も、8体の龍が据え付けられていました。



焼失しても青銅製の龍瓦はかろうじで4体は焼け残っていて、保管されてきました。



こちらは感仙殿、善応殿の門。
漆塗りの上品な光沢が目を惹きます。



二つ並んだ霊屋。
こちら二つも仙台空襲で焼失してしまいましたが、その後復元。



感仙殿は二代藩主、伊達忠宗の霊屋です。
伊達政宗の瑞鳳殿に比べると、華頭窓の上あたりがややシンプル。



善応殿は三代藩主、伊達綱宗の霊屋。

江戸時代は転封や改易、お家取り潰しなど様々な弊害がある中で、仙台藩は明治までこの仙台の地を守り続けました。

伊達家は仙台の心なのです。

これだけの歴史的建築物が戦争によって失ったことは残念ですが、復元して歴史を伝え続けているのは素晴らしいこと。

仙台城に行くならば、絶対にセットで周ってもらいたいスポットです。



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若林城@宮城県

2024-02-17 12:00:00 | その他城
2024年2月17日

先週の熊本県から今週は福島県で現場視察があった為、週末は仙台市へ。
桃太郎電鉄並みの移動距離です。

宮城県といえばやはり伊達政宗。

そして伊達政宗が築き、居城としたのは仙台城です。
一国一城令により、一つの藩に一つの城しか持てない時代でしたが、62万石を有した仙台藩には3つの城と21の要害がありました。

要害とは一国一城令に配慮した呼び名で、実際は軍事施設なので城と同等。

3つの城とは仙台城、白石城、そして若林城。

実は若林城は仙台の方でも知らない方が多いのです。
伊達政宗の為に1928年に築城し、伊達政宗が亡くなった1636年に廃されました。
政宗自身が細部まで指揮して築城したと言われています。

元は伊達政宗の隠居城と言われてきましたが、研究の結果で実際の執務も若林城で行ったとされています。
伊達政宗の晩年は、仙台城には年に一度行く程度だったようです。

ある意味では幻の城かもしれません。

市営地下鉄河原町駅から徒歩10分程度。



Googleマップの上空写真。
城郭の形がハッキリと分かります。

東西400m、南北350m、土塁の高さ5m。
仙台にも近世城郭の平城があったのですね。



若林城はもしかしたら日本で最も入城するのが困難な城かもしれません。

ちなみに、標柱と説明板があるこの場所が大手門跡。



実は若林城は現在、宮城刑務所になっています。
高い土塁の上には高い塀があり、中を覗くこともできません。

平和な江戸時代に築城された城は、400年の時を超えて難攻不落となっています。



広い宮城刑務所ですが、土塁が綺麗に見えるのはおそらく、隅のこのアングル。

5mの土塁に堀幅約20mの堀跡が巡っていて、土塁や門の配置から戦を意識した城とも言われています。

土塁の高さが際立っています。



刑務所職員の駐車場には入れない為、少し離れた場所からのショット。

塀を作る際に堀の上部を削ってしまったそうです。
本来はもっと高い土塁でした。



若林城の周りには水路が巡っています。

伊達政宗は若林城の築城と共に城下町の整備も行いました。

若林城は今でも発掘調査が続いています。

これまでの発掘調査で若林城の大型建築物は、仙台城の二の丸に移築されたことが判明。

しかし宮城刑務所がある以上、若林城が観光スポットになることはないでしょう。

仙台藩の貴重な遺構なだけに、やはり残念な気持ちになってしまいます。

これ以上、近づくことができない為に若林城の散策は終了です。




しかし、これで終わるわけにはいきません。

調べたら若林城の大手門が移築されていることが判明。


場所は仙台駅から歩いて15分程の若林区新寺にある松音寺にあります。

この一帯はお寺の密集地であり、伊達家に所縁のある寺院が多く存在します。

松音寺に移築されたと言われる山門は、城門らしい威厳ある立派な門です。



裏からのショット。
控柱も梁も木材をしっかりと感じる三間一戸の薬医門。

仙台市登録有形文化財に指定されています。



年季が入った桟瓦葺。
門の上部の丸瓦は三つ巴。しかし、土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋です。



門の正面には若林城門と書かれています。

仙台藩二代藩主、伊達忠宗から拝領したと伝わっています。



切妻造り。



土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋。
この瓦こそが伊達家との繋がりを意味する確固たる証。



松音寺の鐘楼門。
寺院の門でありながら、鯱が上がっています。



鯱は仙台藩では伊達一門の証だったので、関わりある建築物なのかと思ったのですが、調べても移築などの情報を得ることが出来ませんでした。

ものすごい気になります。

仙台藩には多くの城があったにも関わらず、現存建築が皆無に近いので、本当に若林城の城門であればかなり貴重です。

若林城は大人気の武将、伊達政宗の城なのでもっと多くの方に知って貰いたいものです。



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熊本城@熊本県

2024-02-10 10:00:00 | 100名城
2024年2月10日

設計の打ち合わせの為、1泊2日で生まれて初めて熊本の地にやってきたワタクシ。

羽田空港から阿蘇くまもと空港に到着です。



初日の飛行機は天気が良く、窓側だったので外を眺めていると琵琶湖の上空近くを通過!

小さくですが彦根城が見えました。
超拡大すると、ちゃんと城郭の形が分かります。

初日に無事打ち合わせを終え、熊本城の近くに宿泊。
当然、熊本城に行きます。

しかし、帰りの飛行機は11時55分。
阿蘇くまもと空港まではここから約50分ほど。

手荷物検査やレンタカーの返却などを考慮すると遅くても9時45分くらいには熊本城を出ないと間に合わない。

数ヶ月後に再び熊本に来るので、今日はあえて復旧が進む現在の熊本城を見ておこうと思いました。

朝の7時半にホテルをチェックアウトして熊本城に向かいます。



繁華街から南大手門の方へ歩きます。

城郭入り口には熊本城を築城した加藤清正の銅像があります。

藤堂高虎と並んで築城名人として名高い武将です。

その所以こそが、この熊本城。



難攻不落の熊本城を観れるということで気分は上々でしたが、入城してすぐに震災の現実を目の当たりにしました。



ここには馬具櫓が存在していました。
櫓は震災で解体され、さらに石垣も崩れたままとなっています。

そして、立ち入り禁止のためにこちらからの入城は出来ません。

到着が早かった為、南大手門側はまだゲートが開いていなかったので、このまま外郭を歩きます。



馬具櫓から続いている長塀。
川に面した石垣に直線242mの長い塀。

この内、80mが震災で倒壊したものの2021年に復旧完了しました。



長塀の端部には立派な石垣の上に平御櫓があります。



残念ながらこちらも立ち入り禁止のため入城することができなかったので、遠くから眺めるだけとなりました。

ここから坂道を登って城郭の反対側に歩いていきます。



城の前の巨大な敷地にバリケードがされていたので、覗いてみると地震で崩落した石垣が並べられていました。

震災から8年が経つというのに、まだこれだけの石垣が路頭に迷っている姿を見て心が痛みます。



東竹の丸と本丸の石垣。
上は方は崩落したまま。

石垣が崩れないようになのか、全体的にネットがかけられています。



当然、石垣が崩れる可能性もあるので立ち入り禁止。



天守は復旧完了しましたが、石垣はまだまだ傷を負ったままというのが現状です。



損傷はしているものの、本当に石垣が素晴らしい城であることが分かります。

どこを見ても高い石垣で熊本城は守られています。



天守の裏側、加藤神社より入城します。





加藤清正の築城術といえば、やはり石垣。
下部の緩い勾配から上段は垂直に聳り立つ技術。

清正流石垣とも呼ばれています。

しかし、崩落した石垣はさらなる崩落を防ぐためかコンクリートで固められています。

応急処置を施されていますが痛々しい姿。



現在、本丸の宇土櫓は修復中。
鉄骨で足場は組まれて、大規模な修復です。

宇土櫓は大天守に並ぶ熊本城の顔です。
櫓でありながら五重で、もはや他の城の天守閣を凌ぐ大きさ。

400年以上、現存していた宇土櫓も甚大なダメージを受け、2023年末にやっと復旧工事が始まりました。

解体してからの復旧なので工期はなんと10年!

時間はかかりますが、元に戻った姿を是非10年後見てみたい。



城内には大量の瓦が置かれています。

こんなに近くで見れることもないので、ある意味ではレアだと思うのですが、この尋常ではない数を見て呆然とします。







江戸時代の熊本城には50以上の櫓がありましたが、40以上が明治政府によって解体されてしまいました。

残った櫓は写真の通り、全てダメージを受けて既に解体されてしまった櫓もあります。



二の丸に向かう途中には、奥に未申櫓が見えます。

しかし、ここはまさに震災当時の状況と変わらないように思えます。





石垣は崩落、土塀も未だに崩れた状態のまま。
震災の生々しい傷を目の当たりにしました。



未申櫓は明治に解体されましたが、2003年に木造で復元された二層三階の櫓です。



この奥には大天守につながりますが、今回は時間の都合上、ここで撤退です。

2時間ほど周りましたが、難攻不落と呼ばれた理由がよく分かりました。

熊本城はまだまだ魅力が多いのですが、立ち入り禁止もあり見ることができないエリアも多いのが現状です。



熊本城が難攻不落であることを証明したのは明治時代。

江戸幕府の時代は終わり、新政府と薩摩が激突した西南戦争。

この熊本城も舞台となりました。

西郷隆盛率いる薩摩はわずかな手勢で熊本城に籠城した新政府を攻略することができませんでした。

3日間の猛攻を耐え凌ぎ、一人も入城させることを許さなかったそうです。
その後も52日間の籠城戦を制し敗走した西郷隆盛は、
「おいどんは官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」という有名な言葉を残しました。

270年の時を超えて、最強の城であることが証明されました。

これだけの時が経過していれば武器も雲泥の差で最新鋭になっているのに、籠城戦を制することができる軍事施設を造った加藤清正はまさに築城の名人です。

そんな熊本城が震災に見舞われたのは悲しい現実。

当初、復旧まで20年といわれた工期は延長され、35年の2052年と修正されました。

今でも進行形で懸命に復旧に取り掛かっている会社、職人さんには頭が下がります。

なんとか、この素晴らしい熊本城を再建して頂きたいものです。

また数ヶ月後に訪問したいと思います。



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大坂城@大阪府

2024-02-06 15:00:00 | 100名城
2024年2月6日

朝イチに明石城に行き、神戸での打ち合わせと現場視察が終わり、やや時間があったので出張の最後は大阪城に行くことにしました。

大阪城といえば、やはり豊臣秀吉。
大阪府民の心にも豊臣秀吉が強く刻まれています。

しかし、現在の大阪城は歴史上ではやや複雑。

豊臣秀吉の時代の天守閣は大坂夏の陣で焼失、その後徳川家が天守閣を造るも落雷焼失、現在の天守閣は昭和6年に府民の寄付金によって復興されました。

当時は発掘調査も進んでいなかった為、今残っている大阪城は豊臣秀吉が造ったものと皆思っていたそうです。

しかし、実際には秀吉時代の大坂城は江戸幕府に埋められて新たな巨大城郭に変貌を遂げました。

つまり、現在見ることのできる櫓も石垣も、全て徳川が造ったものになります。

徳川期の石垣の上に豊臣期の天守閣を復興した形になります。

何はともあれ、天下人が造った城には違いありませんのでしっかり楽しみたいと思います。

大阪城は巨大なので、1日で周るのは困難なので今日はごく一部だけ周りたいと思います。



まずは大坂城のメインとなる門、大手門から入城します。

やはり観光客が多いです。
人が映らないように写真を撮るのも一苦労です。



大手門の前には巨大な水堀があり、まずは千貫櫓がお出迎えしてくれます。



大手門を抜けると巨大な枡形虎口になっていて、続櫓と多聞櫓が現れます。

この枡形は日本で一番の大きさを誇ります。



こちらは多聞櫓。

何が凄いって、使われている石材が全て巨石ということに衝撃を受けました。



続櫓。そして注目は続櫓の下。

巨大な石材が三つ連なっています。
ちなみに、この石材は大きい順に大手見附石、大手二番石、大手三番石となります。

重量150t。小豆島産の石材らしいのですが、こんなデカい石をどうやって運んだのか不思議です。



個人的に、城門の柱と石垣が取り合っている箇所が好きなんですよね。

ちなみに、この多聞櫓と続櫓は現存。
たまに特別公開しています。



多聞櫓、裏からのショット。



一応、角は算木積みになっていますが、全てが規格外の大きさの石で積まれています。



大手門を抜けると空堀があります。
当時の最新技術とも言える切込接の石垣。

隅の算木積みされた石垣の大きさも見ものです!

奥には本丸を繋ぐ桜門が見えます。



桜門にかかる橋の上からのショット。



美しい空堀。
既に城のスケールが違いすぎて驚愕。



桜門を抜けると枡形になっています。
そして大阪城名物でもある巨大な石材、蛸石が現れます。



理解できないほど巨大な石。
高さ5.5m、長さ11.7m、最低重量108t。
表面露出面積59.4㎡と大阪城一の面積。

36畳分くらいの大きさですから、一般のマンションで言えば2LDKクラスです。

岡山県の犬島産の石らしい。

当時はこの蛸石の上には多聞櫓があがっていました。



そして、本丸と天守閣が現れます。
徳川が築いた巨大な天守台にあがっているのは、屏風を元にして豊臣期の城を再現した天守閣。

個人的には豊臣期の天守らしく、白ではなく黒の外観にして欲しかったかな。

本丸は現在は広場となっていて、多くの観光客で賑わいます。

天守閣の復興から28年後の1959年に地質調査をした結果、地下9.3mから花崗岩で高さ4mの石垣が出てきました。

上端に火災による火を受けた跡があったことから、大坂夏の陣で焼失したと伝わる、豊臣秀吉が築いた大坂城の可能性が浮上。

同時期に東京で発見された豊臣期の本丸図と出土した石垣の位置が一致したことで、豊臣期の城は徳川幕府によって埋め立てられて再建されたことが断定されました。

豊臣秀吉が築いた大坂城は、今も地下深くで眠っています。



現在、天守閣の中は資料館になっています。
徳川期の大阪城はかなり巨大な天守だったようですが、豊臣期も権威の象徴としての壮麗な城だったようです。

資料館に関わらず、城全体的に基本的には豊臣秀吉がメインの内容。

さすが徳川嫌いな大阪。











大阪城からの景色。
1614年と1615年にこの城を中心とした大阪の陣が勃発。

主戦場となった大阪を一望できるこの眺め。
高層ビルが立ち並んでいる現代でも、きっと昔と変わらぬ風を感じることができるはず。


秀吉が亡くなった後も大阪を中心とした関西で絶大な力を持っていた豊臣家。

天下は変わり、豊臣家を上回る力があることを示すために、徳川家は豊臣期よりもあえて大きな城を築城したと言われています。

必要以上に大きな巨石も、そんな思惑の一つかもしれない。



城内には豊国神社があり、豊臣秀吉を祀っています。
銅像も勇ましい。

豊臣秀吉一択の大阪ですから、きっと数十年後には大阪城はより豊臣期チックに変貌を遂げている可能性が十分あり得ます。

歴史の舞台の最前線だった大阪城はやはり半日では全てを堪能することができませんでした。
また近いうちに訪れたいと思います。



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