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つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

石神井城@東京都

2025-03-30 15:00:00 | その他城
2025年3月30日

昨日の大雨から一変して、晴天となった日曜日。
新しいマウンテンバイクを購入したので、自転車で約40分程かけて練馬区の石神井城へと向かいました。

石神井城は豊島氏の居城の一つ。

豊島氏は平安時代末期から室町時代中期にかけて、現在の台東区・文京区・豊島区・北区・荒川区・板橋区・練馬区・足立区あたりで勢力を誇っていました。



石神井城の周りを流れる石神井川。
川は防御、生活、物資流通など城造りには欠かすことのできないファクターとなります。

石神井は開発が進んで、綺麗な住宅街となっています。



石神井城跡は現在、石神井公園となっており花見シーズンということもあり、多くの人が各々の時間を過ごしていました。

池に浮かぶ森が石神井城となります。



橋を渡れば石神井城の内郭入口です。



橋の前には石碑があり、漢字が薄く羅列しているので何て書いているのかは分かりませんでしたが「城」や「道灌」の文字は読み取ることができたので、石神井城に関する内容を記した石碑と思われます。



橋の右側。
石神井公園全体が整備された池が広がります。

こちらは三宝寺池で、石神井城の水濠でした。

つまり、三宝寺池と石神井川に挟まれた台地に石神井城は築かれていたことになります。

堅固な城だったと思われますが、室町時代の1477年に太田道灌に攻められ落城。その後廃城という結末を迎えます。



橋の左側。
草木が生い茂った場所が石神井城の内郭です。



石神井城跡の石碑。
この裏が内郭の土塁となります。



石碑の脇から階段を登っていきます。



内郭跡はフェンスで囲まれていて入ることができません。

高く土塁が盛られているのはフェス外からでも確認できます。



階段の先は広場となっています。

石神井城は四角く区画した曲輪がいくつもあったらしいので、小高いこの辺りも曲輪だったと思われます。



内郭跡は一段高くなっており、曲輪の周りは空堀で防御されているのが分かります。

発掘調査で土塁を崩して空堀を埋めていることが判明しており、踏み固められていることから、廃城後は道として利用されていたと考えられています。



発掘調査で当時は堀幅11.6m。堀底幅3m。深さ6.1mと推定されています。

6mオーバーの高低差なら、かなり立派な空堀だったと思われます。

当時よりも低くなっているものの、この内郭の空堀と土塁は状態が良く、東京都の指定史跡となっています。

現在、史跡を保存する為に養生期間として立ち入りができなくなっています。



せっかくなので、可能な限り内郭の周りを歩いてみます。

水濠の裏側は公園に通じる道となっていますが、土塁の形と高さをより感じることができます。



いい感じの細道ですね。
個人宅の長屋門もあり、かなり雰囲気が良き。



続いて三宝寺池の周りを少し歩きます。



池の周りは高い土の壁が続きます。



遺構なのかは不明ですが、この池自体が石神井城の水濠であったことを考えると、遺構なのではないかと想像してしまいます。



三宝寺池に橋が架かっており、橋の先には厳島神社があります。



詳細は不明ですが、江戸時代にはあったと資料に残されています。



厳島神社からの景色は素晴らしい。
桜も綺麗に咲いていて、心が和みます。

続いて石神井城の裏手にある三宝寺に向かいます。

石神井城に来たら必ず寄って頂きたいスポット。



何か遺構がないか歩いていて、たまたまこの山門を目にしたので立ち寄りました。



一目で分かる只者でない威厳ある四脚門。

この門の正式名称は御成門。
文字からもその凄さを感じます。

江戸幕府三代将軍 徳川家光が鷹狩りの際にこの寺に立ち寄ったことで、御成門と名付けられました。



境内最古の建築物で、1827年に建立。
城郭建築でも山門はありますが、彫刻を見ると寺院建築らしさを強く感じます。



守護・魔除けとされる獅子。そして、悪夢を食べるとされる空想動物の獏も彫られています。



寺の中央には鐘楼堂があり、この梵鐘自体は1675年の鋳造で、練馬区指定文化財に指定されています。



続いて本堂。
江戸時代と明治に消失しましたが、昭和26年に再建されました。



軒から破風と彫刻。

よく見ると手前の横架材の両端部は天女になっています。
5分ほど芸術的な彫刻に見惚れてしまいました。



我々歴史・城好きにとっては大好物の物がこの三宝寺には移築されています。

年季の入った長屋門。



城門クラスの大きな長屋門は、幕末のキーポインターとなる勝海舟の屋敷にあった長屋門がこの地に移築されているのです。



たまたま通りすがったお寺にこんな素晴らしい物があるとは思っておらず感激しました。

この移築長屋門は有名なのでしょうか。
全くPRされることもなく、ひっそりと鎮座しているので、存在を知らない方も多いかもしれませんね。



もはや城門といってと分からないほど、立派な門です。

1960年に解体移築されたそうです。



門扉も重厚感があり、かなりシブいです。
石神井城に来た際はセットで寄るべきスポット。

石神井城はあまり遺構が残ってはいませんが、確実に城の雰囲気を味わうことができます。

石神井城の説明看板を見て、城があったらしいよ。と会話している方を多く見かけました。

石神井公園として認知されているので、石神井城の存在はだいぶ薄めですが、区内に残る城跡としては江戸城を除けばかなり状態が残っている方だと思います。

桜も見ることができ、満足の1日となりました。

絶好調のマウンテンバイクでまた都内を散策したいと思います。



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臼井城@千葉県

2025-03-23 15:00:00 | その他城
2025年3月23日

一気に春の陽気に包まれ始めた3月23日の休日。

数日前は都内でも雪が降っていましたが、一転して20°近い気温まで上昇。

3月2日に広島城に行きましたが、前日に捻挫をしてしまい、まだ完治していないので城巡りを控えていましたが、晴天の暖かい気温に我慢ができず城巡りを決行!

近場であまり足に負担がかからないように千葉県の臼井城に初訪問しました。

臼井城は千葉県佐倉市にある城で、築城年は明らかではありませんが、徳川家康が江戸に入った際に重臣の酒井氏が城主を務め、酒井氏の移動と共に1604年に廃城になりました。

電車に揺られ京成の臼井駅に到着したのは12時頃。

Googleマップで駅から臼井城まで歩いて目指しますが、この辺り一帯がアップダウンの多い地形だなと思いながら、20分程歩いて登城口に到着です。

臼井城といえば北条軍の原氏と、上杉謙信が臼井城の戦いで激突したのが有名です。

勝率95%とも言われる、戦国最強の上杉謙信が明確に敗北した戦でもあります。

その臼井城に上杉謙信の毘沙門天パワーストーンと、春日山城の勝利の御守りを身に付けて徘徊します。



まずは徘徊ルートの確認。
臼井城は現在公園となっており、パンフレットなども無い為、Googleマップを見ながら予測で遺構を探します。

大きく分けると青く記した空堀あたりが二の丸跡で、右側が本丸跡。

その他は現在住宅などになっており、はっきりとした遺構を確認することができませんでした。

臼井城一帯が小高い山となっているので、遺構がありそうな予感がして、一応広域を歩きました。



まずは公園の駐車場があり、その脇から入城します。

実はこの駐車場がある場所こそ、空堀であることが後から判明。



左側には桜も咲き始めた大きな広場となっており、ここが二の丸跡になります。

暖かい気温なので既にお花見をしている方もいました。
激戦を繰り広げた臼井城には、今はゆったりとした時間が流れています。

本丸は右側なので、まずは本丸を目指します。



そして、さっそく空堀が現れます。
桜も咲いていて、とても綺麗な一枚になりました。

左側の草木が生い茂っている小高い場所が本丸となります。



空堀沿いを進むと本丸があります。
振り返っての一枚。

明らかに通路が土橋になっていることが分かります。



土橋の保存のために盛土をしています。

本丸を守る空堀なので、当時はさらに深かったと推測できます。

左側は駐車場があった空堀になります。



改めて駐車場から撮った写真。
土橋になっているのが分かります。

駐車場を空堀の堀底に設けるとは斬新。

一瞬で土橋だと分かるようになったのは、ワタクシも少しは成長しているようです。



土橋の先は本丸。
本丸は土塁で囲まれており、虎口になっていたと思われます。



本丸から振り返っての一枚。
先程通過してきた土橋も見えます。

本丸を背にして虎口の右側の土塁は高めで、整備されて階段があります。

この場所には櫓があったようです。



櫓跡から見下ろした、虎口。
櫓台には整備された階段で登ることができます。



本丸から見た櫓台。

木が生えているので分かりにくいですが、形は何となく分かります。



本丸の土塁。

この土塁の下には登城の際に見た本丸を囲む空堀があります。



虎口から見た本丸土塁。
高めに盛られていて、堀底となる駐車場までは6mくらいではないかと思います。


本丸は広めで、完全に独立した曲輪になっています。



本丸に入って左側は搦手となっており、本丸下に細長い曲輪を配しています。

搦手側を防御する腰曲輪のような役割だったのかなと、勝手に想像します。

その謎の曲輪から本丸を撮った写真。
本丸の土塁が分かりやすいです。



本丸の右側はかなり急な切岸となっています。



綺麗に整備がされていて、見事な切岸を見ることができます。

今は住宅街が広がります。

後ほど行くのですが、住宅街の先に見える小高い森は臼井田宿内砦で、臼井城を守る防衛拠点がありました。  



本丸からの景色。
目の前には印旛沼があり、臼井城の背後を守っています。

この近くには日本100名城の佐倉城と、続日本100名城の本佐倉城がありますが、軍事施設として適した場所とされたのは、この印旛沼の存在は大きいと思われます。

以前、本佐倉城に行った際にボランティアの方が、印旛沼は当時はもっと大きかったと言っていたので、より臼井城に近い場所まで沼の水がきていた可能性があります。


本丸の搦手側から一度下山します。


こちらは搦手側の登城口。

一帯が山になっているので、遺構が見つかるのではないかと思い城の周りをぐるりと回ったのですが、それらしきものは見つけることができませんでした。



一周回って、二の丸の外側に戻ってきました。

ポツンと石碑があり、太田図書の墓と看板があります。

上杉謙信との臼井城との戦いが有名ですが、室町時代中期に太田道灌の軍は千葉氏率いる臼井城を包囲したものの、堅固な臼井城を前に撤退するところを攻め込まれ太田道灌の弟の太田図書助資忠含む53人がここで討死しました。

まさに戦国時代を生きてきた城であり、壮絶な戦いをした城です。



太田図書の墓の前は、二の丸を囲む巨大な空堀となっています。
しかし、草木が多すぎて写真に残せないのが残念。

空堀沿いを歩くと橋がありますが、空堀を分断するこの橋は土橋か木橋があったと思われます。



橋から見た空堀。



橋の反対側の空堀。
高さ10m以上はある、かなり深い空堀です。



橋の先には公園入り口があり、ここから入城すると二の丸になります。

二の丸も土塁で囲まれています。



橋を振り返っての一枚。

右側は二の丸土塁。おそらく門があったと予想します。



二の丸から空堀を見てみます。
想像以上に巨大な空堀。

数々の戦国武将が堅固な臼井城を攻め落とせなかった理由の一つとしては、この巨大な空堀の存在が大きいと思います。



続いて臼井城の支城となる臼井田宿内砦に向かいます。

帰りに駅から撮った一枚。
奥に見える森が臼井田宿内砦です。



京成臼井駅と臼井城、宿内砦の位置関係。
この辺りはアップダウンが多く、京成臼井駅から宿内砦まで急な上り坂。
宿内砦から一度降って、さらに臼井城でまた登ります。

さらに、臼井城の背後には印旛沼。
このエリア全体が自然地形を生かした要塞だったのではないかと思われます。


 
臼井田宿内砦の入り口。 

住宅街の中にポツンと入り口があります。
元々は臼井城を守る支城は5つありました。

しかし、ベッドタウンとして開発されたことで住宅地が立ち並び、支城は姿を消して臼井田宿内砦跡だけが残りました。



砦跡は現在宿内公園となっており、広場となっています。

奥に進むと、少し高くなった場所に明らかに土塁と思われる土の壁が現れます。



主郭と思われる場所は土塁で防御されています。



土塁の上を歩くことができます。



主郭の広場。

一帯が草木で生い茂っていることと、広場以外はフェンスで立ち入ることができないので、はっきりとした遺構を見ることができるのは、先ほどの土塁のみ。

しかし、この砦全体が削り落としたような切岸になっていて、急な崖になっています。


主郭から見た景色。
木が邪魔ですが印旛沼を望むことができます。


臼井田宿内砦から5分くらいの場所には稲荷台公園があります。

実はここは稲荷台砦という、臼井城の支城でした。



今は住宅地のど真ん中の為、遺構は残っていませんが、この公園の地形は名残を残しているような気がしました。

急な坂が多いのですが、稲荷台砦跡は急な斜面で曲輪を囲んでいます。



左側が稲荷台砦跡。

普通に歩いていたら通り過ぎてしまいそうですが、城としてフォーカスすると、切岸のように削り落とした城に見えてきます。



稲荷台砦跡からの景色は完全に新興住宅街です。

とても充実した日となりました。

臼井城と支城となる砦を併せて見て周ると、範囲が広いのでけっこう歩きます。

有名な戦の舞台にもなった歴史的に貴重な城なので、もっと有名になって草木も含めて整備を進めてもらえたら、ホットスポットになりそうです。

次は京成臼井駅から近い、上杉謙信一夜城に向かいます。


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清洲城@愛知県

2025-02-07 11:00:00 | その他城
2025年2月7日

今日は設計打ち合わせがあった為、岐阜県へ!

打ち合わせが13時からだったので、朝6時半に家を出て岐阜駅に向かう東海道本線を途中下車。

清洲城を訪城しました。

個人的に清洲城のイメージと言えば、織田信長の居城だった。そして、織田信長が本能寺の変で討たれた後、家老が集まって織田家の後継ぎ問題と領地配分を決めた清洲会議かな。

あとは東海道新幹線からも見える天守としても有名ですね。

清洲駅で下車し、歩いて約15分ほど。



看板通りに歩くと清洲公園の駐車場が現れ、そこから天守方面に向かいます。


 
やはり清洲城と言えば、この撮影スポット。



朱色の橋と天守がとても映えます



橋の下を流れるのは五条川。
清洲城は五条川が天然の堀となっていました。



城造り、城下町に水は欠かせません。

川は城の守りの要にもなりますし、物資運搬にも使えるので、この辺りは城を造るには適していたのかもしれないですね。



城郭をを囲む塀には信長塀の説明がありました。

信長が桶狭間に出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願して勝利したので、そのお礼に奉納したと言われる塀をモデルに造られています。



こちらは清洲城の模擬天守。
織田信長の時代には天守はありませんでした。

清洲会議で織田信雄が清洲城を相続して、天守が建てられました。

ちなみに、当時の天守はこの場所ではなく先ほど歩いてきた川の反対側にありました。



清洲城は残念ながら遺構がほぼ残っていません。
しかし、当時の石垣が調査で見つかっており、川沿いに復元展示されています。

橋の手前にあり、ついつい天守に気を取られてしまい、行く時は完全に見逃しておりました。



本丸南側の石垣と考えられており、河川事業に伴う遺跡調査で発見されました。

かなり無骨な野面済み。
石材一つ一つは大きめで丸み帯びています。

川の軟弱地盤に対応するために、梯子胴木という木材の組み方で、石材の下に木を敷いています。

電車のレールみないな感じ。



石垣が発見されたのは、線路の高架を抜けた公園のあたりです。


 
復元石垣のあたりは本丸だった場所になり、清洲古城跡の石碑があります。



清洲古城跡はちょっとした広場になっています。



広場の中央には織田信長を祀った小社があります。



その脇にある織田信長の石碑。
右大臣織田信長公古城跡と書かれています。



線路を抜けて右手は公園になっていて、この辺りが本丸の南側となります。

つまり本来の清洲城の本丸は、現在は線路によって完全に分断されていることになります。



公園内にはたくさんの石碑が置かれています。



そして、織田信長と正室の帰蝶の銅像もあります。


ここから天下への道のりが始まりました。



本来の本丸南側あたりからのショット。
模擬天守には賛否がありますが、この建築物があることで人が集まるのは確か。

そして、足を運んで学ぶことが歴史もあるので、歴史に触れるキッカケとして個人的には模擬天守は有りなのかなと思っています。

建築物自体の価値は無くても、やはり天守はカッコいいですしね。



帰りは来た道を戻って清洲駅に向かいます。
駐車場あたりから撮った写真。

奥には模擬天守、手前の木々が生い茂った場所が清洲古城跡で織田信長の石碑があった場所。

家に帰って写真を見ていたら、空から古城に向けて光の柱が!

縁起のいい一枚になりました。


清洲城は徳川家康が関ヶ原の合戦後に、名古屋城を築城したことで、城下町ごと名古屋に遷都しました。

これを清洲移しと呼ばれています。

尾張の中心は清洲から名古屋へと移動したことで清洲城は廃城。

遺構はほぼ残って無いに等しい城ですが、確実に織田信長の息吹を感じることができました。




茅ヶ崎城@神奈川県

2025-01-18 16:00:00 | その他城
2025年1月18日

午前中に小机城を訪城した後は、茅ヶ崎城に移動!
電車で30分くらいで行けるので、ぜひセットで周って頂きたいですね。

地下鉄ブルーライン センター南駅が最寄りになります。
住所は神奈川県横浜市都筑区。

駅から10分程度で茅ヶ崎城に到着です。



センター南周辺はニュータウンですが、その住宅街の中にポツンと現れる森。

現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。



標高は約35mなので、これから中世城郭に足を踏み入れるビギナーさんも、訪城しやすいと思います。

公園化されているので、至る所にベンチもありピクニックもできそうです。



公園入り口から階段を上がって進むと、中郭と西郭に向かう道で分岐します。

まずは中郭を目指します。



中郭の下には北郭があり、広めな曲輪が広がります。



北郭の前には中郭があります。
茅ヶ崎城は資料が少ないため、解明されていないことが多い城でもあります。

中郭は茅ヶ崎城のメインとなる本丸の可能性が高いエリア。



かなり大きな土塁が中郭を取り囲んでいます。
約4mほどでしょうか。当時はもっと大きな土塁であった可能性が高いです。



中郭も公園として、大きな広場になっています。草木の茂みで分かりづらくなっていますが、全面的に土塁で囲んでいます。

この場所が重要な場所であったことが分かります。



中郭南側には石で区画されています。
発掘調査でここには建物の跡が発見されています。

礎石チックな石垣並んでいますが、実際は掘立柱の跡が発見されているので、礎石の持たない建物でした。

この遺構は倉庫の跡だったようです。

茅ヶ崎城では居住となる遺構はまだ発見されていないようです。

続いて、中郭南側より西郭へ向かいます。



中郭南側出入り口。

土塁が途切れた間には虎口があったのではないかと連想させる造り。



中郭の土塁沿いを西側へ歩きます。
右手には中郭の綺麗な土塁を見る事ができます。



右側が中郭、左側は西郭。
この辺りの遺構は良好で城郭の形がハッキリと分かります。



西郭内部。
左側は土塁なっています。
右手は広い曲輪になっていますが、入ることはできません。



中郭と西郭を分断する空堀は、現在公園の通路になっています。

城跡だと認識して眺めると、綺麗な空堀になっているのが分かります。

北側に向けて傾斜になっているので、もしかしたら割と深い空堀だった可能性があります。



先には虎口跡があります。
手前左側が中郭、奥が西郭。その間に虎口があり、道もグイッと曲げてあります。

案内板もしっかり建てられているので、かなり分かりやすいです。



再度、中郭に戻ります。
やはり中郭を囲む土塁は高さがあり迫力があります。



東郭に行くには、中郭から行くのが近道です。
中郭の南側より出て、左手に進むと東郭に行く事ができます。

階段で下って、すぐに階段を登るので、V字になっているのが分かります。

ここも中郭と東郭を分断する空堀だったとも思われます。

何気なく下って登るだけの階段ではありますが、城の形状を想像しながら歩くと中世の山城らしさを感じる事ができます。



東郭は完全に孤立した曲輪になっていますね。

東郭は茅ヶ崎城で最も高い位置にあることから、物見台の役割があったようです。
現在は木々が多いですが、周囲を一望できる見晴らしの良さがあります。

また、籠城戦の際に最後の最後に逃げ込む曲輪だったとも考えられています。

北側の下には行くことはできませんが、腰曲輪が配されています。



茅ヶ崎城に来た際は、ぜひ見て欲しいスポットがあります。

見過ごしてしまいそうなほど、住宅街に馴染んでいるのですが、北郭の道路には土橋跡があります。



これのどこが土橋跡かというと、台形のコンクリートの形そのものが土橋の形になっています。

つまり、この道路そのものが空堀だったと思われます。



この角度から見ると、よりイメージがつきます。

台形のコンクリートになっている、土橋跡は、右側の住宅地まで伸びていて、住宅地のあたりはもう一つの曲輪であったと思われます。

ニュータウンに馴染みすぎた遺構ですね。
これはこれで面白い保存の仕方です。

コンクリートの上に小さく土橋跡という看板があります。

これ一つあるだけで、まったくイメージが変わります。
この他にも城内には至る所に、丁寧に看板が配されているのは素晴らしかったです。



最後に茅ヶ崎城の南側にある、正覚寺をサラッと見てまわります。
城の麓にありますが、直接行くことはできないので、ぐるりと城の周りを歩いて向かいました。

素晴らしい惣門を見る事ができます。
まるで城門のように立派です。

正覚寺の創建は室町時代とされています。



ハッキリとした史実は分からないのですが、茅ヶ崎城主の菩提寺という話もありますし、北条氏との関わりがあったとも言われています。

その他、ネットでは豊臣秀吉の話もありました。

不明確な部分が多いので、気になる方は調べてみて下さい。



近くには早淵川が流れています。
時を忘れてしまいそうなくらい穏やかです。

約2時間ほど、ゆっくり散策。
住宅地に囲まれた公園ではあるものの、しっかりと遺構が残っていたので、楽しむことができました。

茅ヶ崎城は今でも謎に包まれています。
小机城の支城という説が有力でしょうか。

小田原合戦の際の、戦の記録がないので小机城と同じく小田原合戦の際は戦わず放棄された可能性もあります。

城の全容はベールに包まれていますが、豊臣の大軍勢に対抗するには規模が小さいかなと思います。

しかし、ここには間違いなくこの地を守り抜いた城の息吹を感じる事ができます。

北条氏の滅亡と共に、茅ヶ崎城も廃城となったようです。

謎多き中世城郭は、謎そのものが楽しみ方の一つでもあります。

最後は歩いて15分くらいのところにある、横浜市歴史博物館に行きました。

近いので、併せて楽しめるかと思います。
茅ヶ崎城の御城印も歴博で購入できます。

とても充実した、素晴らしい1日でした。
茅ヶ崎城の中郭で食べたコンビニのおにぎりが、格別に美味しく感じました。



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滝の城@埼玉県

2024-12-29 17:00:00 | その他城
2024年12月29日

柳瀬川を挟んで埼玉県所沢市と東京都清瀬市の県境に位置する場所に、滝の城という城があります。

近くにカインズホームとベイシアがあるので、年末の買い物に行った際に近くの城で検索してヒットしたので訪問しました。

聞いたことがない城で何気なく行ったのですが、結論的には想像を超えた素晴らしい城でした。

サクッと30分程で周るつもりでしたが、興味深い遺構が多くて結局は2時間ほど滞在。


現在滝の城は、滝の城址公園となっていて球技場などがある地域の公園となっています。

車の場合は無料の駐車場もありますが、ワタクシが行った時は年末年始だからでしょうか、駐車場は閉鎖されていました。

電車でのアクセスは東所沢駅から徒歩25分ほど。



目の前を流れる柳瀬川に架かる橋は城前橋。

このような、ちょっとしたPRでも個人的にはとても大事だと思っています。



今回ワタクシは高速道路側の駐車場方面から入城しました。

ちなみに主郭部とされている場所は反対側なので、のんびり歩きながら向かいます。



公園に入るとすぐに池があります。
時間は約15時頃。ランニングや犬の散歩をしている方が数名いるのみで、とても静かです。

この辺りは田んぼもあって平地ですが、右手は森となっていて、約25m程の高低差があります。



森の中に整備された道があるので入ってみました。

先程までいた田畑の景色とは一変して、やや城っぽさの雰囲気が出てきます。



堀切のように尾根を分断したこの辺りには、滝跡があります。

左手が城郭部で右手は城外。
滝の城とは、ここを流れていた滝が由来とされています。



こちらも同じく、気になってしまう形状をした道。
公園整備で作ったのか道なのかは不明ですが、人工的に山を削って道を通しているのは明らかです。

そんな想像をしながら見て周るのが、中世城郭の楽しさ。

資料が少なくて未解明が多い故に、宝探しをしている探検家のように、ワクワクしてくるのです。


小高い丘のような山ではありますが、見ての通り切り落としたような急な崖が主郭まで続いています。

ここが中世の平山城と知って歩くと納得の造り。



公園の反対側に来ると一般道があり、この辺りが城跡とされています。



やや急な坂を登ると、道路がぐるりと周り混んでいます。

まさに道路の中心部が城の遺構となっていて、土塁と空堀になっています。

ちなみに、この道路は視界も悪く交通量が多いので注意が必要です。



坂を登りきると城山神社の入り口があり、そして滝の城の主郭の入り口となります。

派手なノボリ旗には北条家の家紋。



早速、二重堀が現れます。

滝の城は外堀、中堀、内堀の三重で構成された、まさに戦国時代の戦うための城です。


各曲輪を分断するように空堀が設けられています。



高低差は約2.5〜3mくらいでしょうか。

滝の城は関東管領の山内上杉氏家臣の大石氏が築城し、後に北条氏照もしくは北条氏照の家臣が居城し改修したとされています。



素晴らしい遺構が、状態良く残っています。
堀の形状が分かりやすく、草木が整備されているのも好印象!

草木が多くて遺構が分からない城もあるので、その点では中世の城をあまり行ったことがない方でも、楽しめるのではないでしょうか。

遺構の看板も各所に設置されているので分かりやすい。



堀底にも自由に入ることができるのも魅力!

写真では伝わらない迫力を、実際に遺構の中で間近に見ることができます。


  
土橋を渡り鳥居を抜けると、二の丸があります。



土橋から見た右手は、先程歩いていた空堀です。



土橋から見た左手は、二の丸をぐるりと空堀が囲んでいます。

こちらは三日月のように、Rを描いた空堀。
二の丸を囲む空堀が、滝の城の中堀となります。



左手は二の丸で、土塁がハッキリと残っています。

右手は本丸を囲む空堀。
こちらも綺麗なRを描いて、この空堀が内堀となります。



本丸跡には城山神社があり、一際大きな曲輪となっています。



城山神社の本殿には、可愛い猫ちゃんがお出迎え。



人懐っこく、とても癒されます。
ここで参拝している人を見守ってくれます。

滝の城の現在の城主は、この猫ちゃんかもしれません。



本丸からの景色。
遮るものが何も無く、東京方面を一望することができます。

目の前には天然の水堀となる柳瀬川が流れています。
また、生活や物資の流入の観点から見ても、水という資源は城造りおいて、とても重要です。



本丸を見た後は、少し戻って三の丸を目指します。

右手は本丸。もはや芸術。
石垣の城も当然ながら素晴らしいし芸術的ですが、滝の城のように中世の土造りの城もまた良き。



空堀を観察しつつ、土橋を進みます。
先にある少し小さな曲輪は馬出し。



馬出しからのショット。
空堀の前には本丸があり、発掘調査で本丸側に門の跡が発見されました。



発掘調査で本丸の空堀側に門跡が発見されたことで、馬出しと本丸を繋ぐ、木橋があったという仮説が浮上しました。

実際に見てみると、空堀の中でもこの場所だけ、少し堀底が盛り上がっているので、ここに何かがあったのは間違いなさそうです。



馬出しを超えると三の丸があります。
別名は茶呑み曲輪。

北条氏時代に下野、現在の栃木出兵の際はこの滝の城から出陣したとされていて、北条氏照が来た際はこの三の丸で家臣とお茶を楽しんだことから、茶呑み曲輪と呼ばれています。

戦いに明け暮れているイメージの戦国時代のホッとするような話。



三の丸の奥には大井戸跡があります。



三の丸からの景色。
崖の下には腰曲輪のような、東曲輪が見えます。

いつの間にか日が暮れ始めています。



続いて中堀を通って三の丸を囲む空堀を進みます。

写真のように、至る所に土橋があります。



右側が三の丸。

数週間前に行った、同じ北条氏照の居城だった滝山城を彷彿とさせます。

それを何気なく行った城で見つけてしまったので、テンションが上がってしまうのは当然です。



実際に東曲輪にも行ってみました。
横長の曲輪ですね。

ここに何があったのかは不明ですが、この東曲輪は中堀と内堀が交差する分岐点になるので、縄張りの位置付けとしてはとても重要だと思いました。


右手が三の丸、左手は本丸、正面は馬出し。

各曲輪を空堀で全体的に区切って、曲輪同士が堀切になるこの築城スタイルは北条氏らしさがあります。

この空堀は先程の東曲輪に繋がっています。

高低差もあり、堀底から眺めると3次元のようで素晴らしい!



この堀底を歩けるのが良いですね。
振り返っての一枚。

右手が本丸、左手が三の丸。
正面には夕暮れが近づく城下。



食い違いのように、うねった空堀。
張り出した曲輪から横矢で攻撃するのが狙いなのでしょうか。

そんなことを想像しながら堀を歩き進めます。自然の中で繰り出す妄想は最高のスパイス。



一番最初に通った土橋に戻り、社務所側の二の丸と本丸の内堀を歩きます。

高低差は4〜5mくらいはありそうです。



左手が本丸ですが、各曲輪が交互に跳ね出して食い違いになっています。



振り返っての一枚。
右手が本丸になります。

先ほどは堀底がフラットな地形になっていましたが、ここは堀底がキュッと狭まったV型の薬研堀になっています。



最後は霧吹きの井戸跡へ。

ここには龍が住んでいたという伝説があり、内容は割愛しますが、この地域では伝説に由来した地名となっているようです。

本丸の下では七世紀後半の横穴古墳も発見されていることから、神秘的なものを感じてしまいます。

今は、のどかで静かな時間がゆっくりと流れています。



夕暮れも近づいてきました。
柳瀬川から撮った一枚。

右手には滝の城があります。

工夫を凝らした滝の城は、小田原城、八王子城と同じく、豊臣秀吉による小田原征伐で落城し、その後廃城となりました。

その後表舞台からは消え、眠り続けていたことで滝の城には良好な遺構が残っていたのでしょう。
当然、地域の方々が守り続けてきたことも忘れてはいけません。

開発によって失われた城は、日本中に沢山あります、

そして、1925年に埼玉県の史跡として文化財指定されたことで、表舞台から消えた城は今の時代を生き、次の時代に引き継がれています。

5月には戦国滝の城まつりが開催されているようです。

発掘調査を何度もされて、これだけの遺構が残っている城なので、もっともっと幅広い方に知って欲しいと純粋に感じました。

コンパクトな城なので軽装備で行けるし、遺構がハッキリしているので分かりやすいので、中世城郭にあまり行ったことがない方でも楽しめます。

今回、時間の都合で外堀周辺を周ることが出来ませんでした。

北条氏の城だと結論づいた理由には、外堀で障子堀が見つかったことが起因しています。
まさに北条氏を代表する築城術です。

次は、もっと幅広い範囲で散策したいと思います。

年内最後の城巡りは最高の形で終わることが出来ました。




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