城好き設計士の放浪

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

大垣城@岐阜県

2024-06-25 06:00:00 | その他城
2024年6月25日

仕事で視察のために岐阜県に初上陸。

岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。

時代を席巻した織田信長が拠点としていたので、まさに歴史舞台の中心にあったエリア。

そして、明智光秀の出身地でもあります。
 


新幹線、岐阜羽島駅に降り立ち大垣市に向かいます。
宿泊も大垣市だったので、次の日は当然大垣城に行くことにしました。

天下分け目の関ヶ原の際に、石田三成が拠点としたのが大垣城。
本来はこの地が関ヶ原の主戦場になると言われていました。

そんな歴史の転換期の中心となった大垣城ですから、当然ながら期待度も大きくなります。

早朝6時に大垣駅前から歩いて大垣城を目指します。



大垣城までは歩いて10分程ですが、その途中にはたくさんの水路が張り巡らされています。



大垣城の縄張りの名残りとなる、水路をひたすら歩いてみました。



当時の絵図を見ると、大垣城は多くの水堀と川を生かした城郭であったことが分かります。

三重の堀で区画した、総構えの近世城郭です。

そして、駅前から続く商店街や細路地を見ても、当時の縄張りをそのまま生かしたような感じがして、城下町らしさが残ります。



朝早かった為、車や人がいなく、のんびり当時を妄想しながら歩くことができました。

400年以上前に、この道を戦国武将も歩いていた事を想像すると、なんか震える。



江戸の街並みも素晴らしいですが、こんなレトロな昭和感漂うのも、個人的には好きです。
ノスタルジックな雰囲気を味わえる大垣市は素晴らしい。



駅前から続くメインストリートから細路地に入ると、大垣城が見えてきます。



大垣城のメインゲートとなるのは東門。

多聞櫓と艮隅櫓が出迎えます。

艮隅櫓は空襲で焼失してしまい復元。消失前は国宝に指定されていました。

多聞櫓は大垣城唯一の現存建築物。

元々は柳口門にあったものを、こちらに移築したとされています。



やはり城門の前に立つと心がワクワクしてしまいます。

天守閣も魅力的ですが、城門も大好きなワタクシ。

敵を迎え撃ったり、肩を並べる武将に対する牽制や威圧を与える城門は、城郭に欠かせない存在となります。



大垣城の天守。裏からのショット!
もちろん、天守も旧国宝です。

層塔型天守で天守の左側には南附多聞、右側には東附多聞が接続した複合型天守。



復元天守を支える石垣。
石材そのものを生かした野面積み。

素晴らしい!
大垣城の石垣は一部を除いて、再建時に修復、積み直されました。


石材が白っぽいのが分かります。

石垣のほとんどが、大垣城近くの赤坂金生山の石灰岩。
石垣の中には化石が多く含まれているようです。

その情報を知らなかった為、化石を見つけることができませんでした。



天気は曇りでしたが、最高のショット。
下段は乾隅櫓。上段には四重四階の天守。

大垣城の天守も一国一城令や廃条例を免れた貴重な天守で、国宝に指定されていましたが、残念ながら焼失。

しかし、鉄筋コンクリート造で当時の外観を完全に復元。
比翼千鳥破風がとてもおしゃれ。

時期的に木々が生い茂っており、天守の前にも木があったので、ここからしか綺麗に撮れませんでした。



城内には昭和初期の写真がありました。
写真で見るとなかなか迫力ある天守です。

悔しいのは終戦の17日前に、日本の宝が空襲で失われたこと。

この大垣城が現存していたら。と考えてしまいます。



こちらは本丸鉄門跡。



現在の大垣城には、本丸への入り口として4つの門と門跡がありますが、当時はこの鉄門前に橋が架けられていて唯一の入り口となっていたんですね。



かつては10の櫓があり、城下町を取り囲んだ総構えの巨大な城郭だった大垣城は、今ではだいぶコンパクトになりました。

草木が多くて、あまり良い写真が撮れないのが残念ですが、焼失したにも関わらずここまで復元したのは、すごくプラスなことかと思います。
模擬で作られた門などには少々疑問に思いますが・・

石川康通が大垣城に入場してから大垣藩ができ、松平氏が現在の近世城郭に改修。
以降、幕末まで戸田家がこの地を納めました。

今でも大垣城はこの地のシンボルとなっていることを実感。
幾つもの時代のヒストリーを持った大垣城は、日本にとっても貴重な城郭といえます。

次こそは岐阜城に行く計画をしたいと思います。


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若林城@宮城県

2024-02-17 12:00:00 | その他城
2024年2月17日

先週の熊本県から今週は福島県で現場視察があった為、週末は仙台市へ。
桃太郎電鉄並みの移動距離です。

宮城県といえばやはり伊達政宗。

そして伊達政宗が築き、居城としたのは仙台城です。
一国一城令により、一つの藩に一つの城しか持てない時代でしたが、62万石を有した仙台藩には3つの城と21の要害がありました。

要害とは一国一城令に配慮した呼び名で、実際は軍事施設なので城と同等。

3つの城とは仙台城、白石城、そして若林城。

実は若林城は仙台の方でも知らない方が多いのです。
伊達政宗の為に1928年に築城し、伊達政宗が亡くなった1636年に廃されました。
政宗自身が細部まで指揮して築城したと言われています。

元は伊達政宗の隠居城と言われてきましたが、研究の結果で実際の執務も若林城で行ったとされています。
伊達政宗の晩年は、仙台城には年に一度行く程度だったようです。

ある意味では幻の城かもしれません。

市営地下鉄河原町駅から徒歩10分程度。



Googleマップの上空写真。
城郭の形がハッキリと分かります。

東西400m、南北350m、土塁の高さ5m。
仙台にも近世城郭の平城があったのですね。



若林城はもしかしたら日本で最も入城するのが困難な城かもしれません。

ちなみに、標柱と説明板があるこの場所が大手門跡。



実は若林城は現在、宮城刑務所になっています。
高い土塁の上には高い塀があり、中を覗くこともできません。

平和な江戸時代に築城された城は、400年の時を超えて難攻不落となっています。



広い宮城刑務所ですが、土塁が綺麗に見えるのはおそらく、隅のこのアングル。

5mの土塁に堀幅約20mの堀跡が巡っていて、土塁や門の配置から戦を意識した城とも言われています。

土塁の高さが際立っています。



刑務所職員の駐車場には入れない為、少し離れた場所からのショット。

塀を作る際に堀の上部を削ってしまったそうです。
本来はもっと高い土塁でした。



若林城の周りには水路が巡っています。

伊達政宗は若林城の築城と共に城下町の整備も行いました。

若林城は今でも発掘調査が続いています。

これまでの発掘調査で若林城の大型建築物は、仙台城の二の丸に移築されたことが判明。

しかし宮城刑務所がある以上、若林城が観光スポットになることはないでしょう。

仙台藩の貴重な遺構なだけに、やはり残念な気持ちになってしまいます。

これ以上、近づくことができない為に若林城の散策は終了です。




しかし、これで終わるわけにはいきません。

調べたら若林城の大手門が移築されていることが判明。


場所は仙台駅から歩いて15分程の若林区新寺にある松音寺にあります。

この一帯はお寺の密集地であり、伊達家に所縁のある寺院が多く存在します。

松音寺に移築されたと言われる山門は、城門らしい威厳ある立派な門です。



裏からのショット。
控柱も梁も木材をしっかりと感じる三間一戸の薬医門。

仙台市登録有形文化財に指定されています。



年季が入った桟瓦葺。
門の上部の丸瓦は三つ巴。しかし、土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋です。



門の正面には若林城門と書かれています。

仙台藩二代藩主、伊達忠宗から拝領したと伝わっています。



切妻造り。



土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋。
この瓦こそが伊達家との繋がりを意味する確固たる証。



松音寺の鐘楼門。
寺院の門でありながら、鯱が上がっています。



鯱は仙台藩では伊達一門の証だったので、関わりある建築物なのかと思ったのですが、調べても移築などの情報を得ることが出来ませんでした。

ものすごい気になります。

仙台藩には多くの城があったにも関わらず、現存建築が皆無に近いので、本当に若林城の城門であればかなり貴重です。

若林城は大人気の武将、伊達政宗の城なのでもっと多くの方に知って貰いたいものです。



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猿橋城@新潟県

2024-01-06 18:00:00 | その他城
2024年1月6日

年明け四城目は新潟県妙高市にある猿橋城に行きました。

おそらく知っている人は、ほぼいないであろう超マイナーな山城です。
前日に上杉謙信の居城である春日山城に登城し、春日山城の支城はこの界隈に多く存在しているのでネットや本で調べていました。

その中で支城かも分からず、誰がいつ何のために築城したのかも不明な城が猿橋城だったので、一番ミステリアスな城を攻略することにしました。

もう一点は、やはり人が少ない山城は冬を越えると熊が怖いので、一応熊が冬眠中の冬の内に攻略したいというのが、もう一つの理由でした。


猿橋城は新潟県と長野県の県境にある場所にあり、駅からは果てしなく遠い位置。

今回は車で行きました。

廃校となった小学校の脇に看板があったので、看板通りに向かいました。



山道の入り口。

雪もいい感じに溶けているので、予定通り登ることにしました。

時間は15時頃。微妙な時間でしたが、さっと登って雰囲気を見たらすぐに帰れば大丈夫と過信したのが間違いでした。



妙高市の市指定史跡なので、山道は整備されています。



右側の開けている場所は元々は畑か田んぼであったと推測します。

時期のせいか現在は広大な敷地が広がります。



振り返っての一枚。



まずは比較的、緩やかな道が続いていて道も通りやすいですね。





左手は急な斜面になっています。








いよいよ急な斜面を登り始めます。
山城っぽい雰囲気も出てきました。


主郭まで1/3ほど登ると90度に折れ曲がり、雰囲気もガラッと変わりました。



一応、生えてる木に100m間隔くらいで案内があるので、今のところ特に問題なく遺構を探しつつ先に進みます。



遺構かは不明ですが、土塁のように盛り上がった場所を発見。



実はこの辺りで道に既に迷っていました。

木が少なくなり、何処が城郭までの道なのか分からなくなっていて、この土塁が伸びている方向へ登って行ったのですが、途中で曲がるのが正解だったようです。



結果として道は間違っていましたが、斜面を登り進めると堅堀のようになっていることに気付きました。



近接して隣にも同じように堅堀のような斜面に沿って縦長に大きな窪みがありました。

こちらの方がやや幅広いですね。

城の遺構かは不明ですが、人工的に作られたのは間違いなさそうです。



おそらく道を間違えたかなと気付いたのですが、そのまま上に登れば尾根沿いを歩けるのではないかと思い、そのまま先に進むと獣が掘ったような穴を発見。

動物の足跡が周りの至る所にあったので、危険を感じつつも先に進みます。

後から地元の方に聞いたら、猪が掘った穴の可能性が高いとのこと。
やはり、道を外れるのは危険が多いと改めて感じました。



尾根まで登ったものの、木が多くて先に進むことは困難と判断して、一度登った道を下ります。

ここで大幅な時間をロスしてしまいました。



再度正しいルートに戻ることができ、食い違いになった道に出ました。

これぞ山城!
テンションが上がってしまいます。



途中、謎のスペースを発見。
堀のように不自然な斜面が半円状になっています。

遺構かは不明。
しかし、すごく気になります。
推測でも知ってる方がいたら教えて頂きたい。



謎の半円状の堀の脇を通って主郭へと進むことができます。
※本当に堀なのかは不明。



そして謎の堀の脇を登るとすぐに、また食い違いになっています。

きっと主郭が近い証拠。



さらに主郭に近ずくに連れて地形の凹凸が多くなっています。



この道の先が尾根で、90度曲がれば主郭になります。

かなり狭い道で右手は自然地形の高い堀のようになっていて、左手は急斜面の崖です。



まさに尾根沿いを歩いているという感覚。
山の形状がハッキリ分かります。



主郭は段々になっていて、まるで戦艦のように細長い曲輪。



人の足跡があるので、この時期に登城した強者が他にもいるようです。



振り返っての一枚。
まるで船の先端です。

女性といたら間違いなくタイタニックをしたくなるような形状。

残念ながら人の声も気配も全くない秘境のような地で、一人でテンションが上がってるオッサン。

寂しすぎます。



山頂には休憩所のような小屋があります。



雲がかかってますが、右手には標高2400mクラスの妙高山があります。

ちなみに、妙高山の麓は上杉謙信が川中島に出兵する際のルートでした。



左手は茂みがあって写真では見え辛いのですが、こちらにも山脈が広がります。

ちなみに、こちらも川中島に出兵する際のルートでした。

猿橋城を挟んで信濃への交通ルートがあるので何かしらの関係がある可能性が高いのかと勝手に妄想します。

また、猿橋城の形状として全体が急斜面な為、周りに曲輪らしきものはありませんでした。
主郭もかなり細長く大きな曲輪ではないので、居城としての城郭ではなく他に意図した役割があったのではないかと想像できます。



小屋の前には記念碑がポツンと建っています。
猿橋城の標高は370mなので、山城の中でも割と高め。

春日山城からは車で約20分ほど。
やや遠目ですが双方見晴らしが良い城なので主郭から見える位置です。

どうしても春日山城及び上杉謙信との関係性を探りたくなります。

この時、既に15時45分頃でやや薄暗くなってきてました。



小屋の裏に周ると空堀のようになっていて、主郭を守るための防御機能で間違いないかと思います。

そして、この先には尾根を分断する大堀切があるようです。

後から知ったので、大堀切を見なかった事に後悔。



日が落ちてきたので、太陽の光が少しでも当たる帰りは反対斜面を降る別ルートを選択。

写真でも伝わるほど、主郭の周りがかなり急斜面に切り出されているのが分かります。



こちらも山の形状が分かるほど尾根に沿って降ります。



振り返っての一枚。

帰りのルートはかなり斜面が急なので、連続した食い違いの道になっていました。

こちらのルートは廃校になった小学校の脇から出てきました。

やはり登ったルートの方がお勧めかもしれないですね。

ミステリアスな猿橋城は、登城してみると遺構らしきものが多く、想像よりも断然楽しいものでした。

探せばもっと遺構が眠っていると思われます。

情報が乏しい山城は初めてでしたが、逆に想像が膨らみ、宝探しのような感覚になったので、新たな楽しみ方を知ってしまいました。

猿橋城の近くには鳥坂城跡なる山城があるので、早ければゴールデンウィークに再度、上越地方に来たいと思います。


今回、遅い時間帯に登城したことで、帰りの山道は薄暗くなったのでライトを照らして一人で下山することになりました。
楽しかった反面、非常に反省の多い登城となりました。


今回の件の報告書をまとめました。

①そもそも登った時間が遅かった。
遅い時間だったので、サッと登って軽く雰囲気を見たら途中で引き返そうと思っていました。
→堅堀を見たら宝を見つけたかのようにテンションが上がり、さらなる宝を探したくなり登城を続けた。

②道を間違えた
確かに正規ルートが途中で分かり辛かったので道は間違えたとしても、気付いてからもけっこう先に進んだので引き返さず先に進んで、知らない山なのに新たなルートを探そうとした。
→正規ルート以外は獣のみが通る道があるので危険。

③それでも登り続けた
あと少しで山頂だからと思い、勿体なさを感じてしまい先に進み続けた。
→戦国時代の戦同様、撤退するのも勇気であり戦略である。

今回は事故もなく無事でしたが、自分が遭難してしまう思考を持ち合わせていたことに怖さを感じました。

山城は想像も膨らみ、宝探しのようで楽しい反面、やはり自然を相手にするので危険も多くある事を再認識しました。
標高370m程度と侮ったのが本当の反省でございます。

やはり、山城は可能な限り一人ではなく複数で行くのが間違いないと実感致しました。

以後、このような事が二度とないよう、全力で努めて参ります。

以上


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伏見城@京都府

2023-12-12 14:00:00 | その他城
2023年12月12日

大阪から再び京都へ。
淀城に行くか、二条城に行くか悩みましたが、時間もあるのでゆっくり伏見城を目指すことにしました。

伏見城は豊臣秀吉が隠居後の城として築城したのが始まりとされています。

伏見城は戦国時代に歴史のキーポイントとなる城ですが、城としては不運な運命でもありました。

元は豊臣秀吉の隠居城としての計画でしたが、息子の秀頼の誕生により天守を持つ本格的な城郭に整えられました。
初代の伏見城を指月伏見城と呼びます。

しかし1596年に慶長の大地震により築城中に倒壊。
この場所が城地に向かないと判断した秀吉は、現在の明治天皇伏見桃山陵になっている、伏見木幡山に移して新たに築城しました。

この時代の伏見城を木幡山伏見城と呼びます。

当時は最新技術を集結した五層の豪華絢爛な大天守が建っていたようです。

また政務の中心となっていたので、伏見城の周りには大名達の屋敷が並びました。

また豊臣家の財力によって城下町も整備され、水陸交通の要衝になり、情報と物資が集結する当代随一の近代的な都市となりました。

秀吉が亡くなった後は徳川家康が伏見で政務を行いました。

そして、1600年に天下分け目の関ヶ原の前哨戦として、豊臣軍と徳川軍が伏見城で激突した為、残念ながら伏見城は焼失。

天下を取った徳川家康は1602年に伏見城を新たに築きましたが、1623年に廃城となりました。

現在は全く違う場所に四代目となる模擬天守が1964年にキャッスルランドというテーマパーク内に建てられました。

現在キャッスルランドは閉園。天守の中に入ることもできません。



今回ワタクシは近鉄京都線の丹波橋駅から向かいました。

歩いて15分ほどで入口らしき所に辿り着きます。



最初に現れたのは桓武天皇陵。



このあたりも、おそらく城の一部だったと思われます。



後世に造られた可能性もありますが、周りは土塁のようになっています。

この裏には堀があったようなので確率は高そう。



桓武天皇陵を越えると巨大なゲートが見えてきます。

キャッスルランドの入り口。
現在は閉園しているので、自由に通過することができます。



大きな駐車場の先には模擬城門と模擬天守が見えてきます。



模擬とは言え凄い大迫力。江戸城の大手門並みに大きな櫓門です。





これまた立派な模擬天守。
大天守と小天守の連立。
大阪城の復興天守と似た造りになっています。



天守があった場所は若干違えど、この伏見のエリアに巨大な城があったことは事実ですからね。

雰囲気は存分に味わえます。

しかし、人が一人もいなかったので寂しい雰囲気でした。



続いて明治天皇伏見桃山陵の近くにあると言われる石垣を見る為に山林を抜けて向かいます。



天守近くにある森の中の池。
これは治部池と呼ばれています。

治部といえば石田三成。

この地に治部少丸という建物がありました。
石田三成は豊臣秀吉に信頼を得ていた奉行衆でしたので、伏見の城内に建築することを許されたそうです。

この池は当時、内堀の一部だったとのこと。



明治天皇伏見桃山陵に向かう広い砂利の道は桃山御陵山道。両側は杉の木で美しい山道となっています。

こちらも平日だからか、人が全くいません。



至る所で城らしい自然地形もあるのですが、説明看板やパンフレットもないので不明。



やっと当時の石材が現れました。
一つ一つが大きくインパクトあります。



矢穴と呼ばれる跡が石材の至る所に見られます。



矢穴とは石工職人が石材を割るときに、ノミで矢(クサビ)を入れる穴を掘ります。

そこに矢を入れて大ハンマーで叩くと綺麗に左右に割れる技術。

その痕跡がはっきりと分かる石材です。
この頃には石垣の技術がさらに上がり、石の形状をそのままに積んでいく野面積みから、石を加工して使用する切込み接や、打ち込み接が出てきました。

伏見城は石垣も最先端技術であったことが分かります。



当然、明治天皇陵には立ち入ることができないので、紅葉を見て引き返します。



こちらが木幡山伏見城の本丸があったとされている場所です。

残念ながら現在は伏見城跡として開放しているわけでは無いので、どこに行っても遺構などの説明書きも地図もありません。

また京都市が出しているパンフレットはあるらしいのですが、園内には一切ないので事前に調べていかないと、広大な土地故にどこを歩けば良いのか分からなくなります。

ワタクシは一度伏見城跡を出て、伏見桃山駅方面へ向かいます。

目指すは御香宮神社。
こちらは徳川家康が建立したとされる神社で、豊臣秀吉と徳川家康を祀っています。



一番の目的は御香宮神社の門を見ること!
重厚感のある巨大な門。



立派な石垣の上に漆喰の土塀と瓦が目を惹きます。



神社の門でありながら、上には鯱が鎮座しています。



これは伏見城の大手門を移築したそうです。
近くによると尚更、城門にしか見えません。



惚れ惚れするような立派な門。



これが伝説の伏見城の門だと思うと、感慨深いものがあります。



こちらの門は重要文化財に指定されています。

伏見の周りには伏見城から移築された建築物が存在しています。

石垣も至る場所で部分的に保存されています。

巨大だった伏見城は城郭の櫓なども移築されました。
天守は二条城へ移築。
櫓は福山城に移築されたのは信憑性が高く有力とされています。

その他、大阪城や江戸城にも伏見櫓は存在していて、いずれも伏見城から移築との言い伝えがあります。

歴史から姿を消した城でしたが、全国の至る所で伏見と名の付く建築物が存在します。


歴史的に外すことのできない城。

二日前に行った勝龍寺城。明智光秀の娘の玉(細川ガラシャ)が最後を迎えたのも、伏見城で勃発した関ヶ原の前哨戦。

徳川家康が征夷大将軍に任命されたのも伏見城。

一大シティとなった伏見城は、江戸時代には立ち入り禁止となりました。

静けさなども相まって、何となく禁足地に近い雰囲気がありました。
そんな不思議なエリアでした。


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茶臼山陣城@大阪府

2023-12-11 17:00:00 | その他城
2023年12月11日

昨日の京都城巡りから大阪市内に入ったので、本日は茶臼山陣城にやってきました。

夕方の到着だった為、急ぎ足で周りました!

大河ドラマ「どうする家康」で大阪冬の陣と夏の陣の回となり佳境を迎えています。

縁あってこのタイミングで大阪に来れたので、やはり茶臼山には足を運ぶべきと思い向かいました。

茶臼山といえば、大坂冬の陣の際は徳川家康の本陣があった場所。
さらに大阪冬の陣の際は、この戦いで日本一の兵(ヒノモトイチノ ツワモノ)と称されるようになった真田幸村が陣を置いた場所になります。

JR南海線の新今宮駅から歩いて15分程で茶臼山公園に到着しました。



あべのハルカス前からのショット。
線路の奥に見える木々のあたり一帯が茶臼山公園です。

最近、NHKの歴史探偵で大坂の陣のVR再現映像を見ました。

この茶臼山の前には高さ5m、長さ1kmにも及ぶ堀のような自然地形の谷があったそうです。

あべのハルカス側から向かうと、電車の線路がかなり下がった位置にあります。

もしかして、その自然地形を利用してできたのがこの線路か!?なんて妄想を膨らませていると身体に電流が走りました。

実際は分からないのですが、そんな妄想を膨らませることができるのも、戦国のロマンです。



公園入り口に入ると、オシャレな空間が広がります。
この時期はイルミネーションやスケートリンクもあり、カップルが多くいました。

この空気感と自分の中で、歴史跡の期待度のギャップが激しくて多少ショックを受けましたが、陣の跡は更に奥のようで安心しました。



一度この空間から出て、案内図通りに茶臼山山頂に向かいます。
写真の右手が茶臼山となります。



この地で激戦が繰り広げられたと考えると、当時を勝手に想像してしまいます。



茶臼山は小高い丘のような山で、簡単にアクセスできます。



階段を登り切ると、中心にこんもりと盛られた場所があります。

そこに真田幸村についての案内板が建てられています。



あべのハルカスも近くに見えます。
大坂夏の陣ではこの先に徳川家康の本陣があり、兵力で劣る西軍の真田幸村は徳川家康の首だけを狙い、三度に渡って本陣を攻め込みました。

大坂冬の陣では大阪城を防御する為の出城、真田丸を戦の最前線に築いて迎え撃ち、
夏の陣でも最前線に陣を張って東軍の徳川を迎え撃ちました。



最頂部には真田幸村の看板が立ち並びます。



真田幸村はワタクシの好きな武将にランキングされています。

昔から好きでしたが大河ドラマ真田丸を見て、もっと好きになりました。

堺雅人が演じた真田幸村は本当にカッコよかった。



真田家は二度、領地だった長野県の上田城で徳川軍と戦っています。
知将だった父の真田昌幸は戦巧者だったので、どちらも勝利しています。



真田家の歴史を紐解くとすごく面白く奥が深いです。
特に真田幸村に関しては日本人の美学そのものと言っても過言ではないと思っています。

関ヶ原で東軍につくか西軍につくかで、真田家は父昌幸、兄信之、信繁(幸村)で会議を開きます。真田家が生きる道を模索した結果、兄信之は東軍に、昌幸と信繁は西軍につきました。

そして、関ヶ原では東軍の徳川が勝利して天下を納めました。
結果として真田昌幸と信繁は和歌山県の九度山に12年間幽閉されます。

一国を納めていた戦国大名にとっては、とても暇じい生活だったようです。

幽閉中に父昌幸は死に、信繁は豊臣秀頼の呼びかけに応じて西軍として大阪の陣に参戦します。

既に戦国武将として表舞台から消したにも関わらず、大坂の陣で活躍した真田幸村はまさに日本人の大好きな、底辺から這い上がった武将と言えます。



冒頭にも書きましたが、大阪冬の陣では東軍の徳川本陣跡でもあるのですが、徳川家康の説明看板は一切ありません。笑

さすが大阪。



山頂下は公園になっていて、広めの曲輪の跡のようになっています。



だいぶ暗くなってきた上に、雨が降ってきました。
しかし、この薄暗さも雰囲気があってまた良き!



本陣跡の堀と通天閣のコラボレーション。





歴史探偵のVR大坂の陣では、真田隊は徳川の陣から見えないように右手に巨大な馬出を隠していたようです。

敵を十分に引きつけてから、天然の地形を利用して一斉攻撃。
敵がどんどん引きつけられ、徳川本陣が薄くなってから、隠した馬出から一気に真田幸村率いる本体が徳川本陣を側面から回り込んで攻めました。



本陣を攻められたことで、徳川家康は敗走。この時に自刃を決心したと伝わっています。

話が長くなるので割愛しますが、その後形勢が逆転し真田幸村は戦死。西軍は敗れ豊臣家は滅亡します。

東軍150000に対して西軍50000の劣勢な状況の中で勝てる策を見い出し、あと一歩まで徳川家康を追い詰め、華々しく散った真田幸村。

個人的に日本人は散り方を大事にする人種だと思っています。
滅びの美学はワタクシも含めた日本人が大好きです。

鬼滅の刃では煉獄さんが炭治郎達と乗客を守るために去った時。

ドランゴンボールならピッコロが孫悟飯をかばって去った時

その散り方に人々は感動しました。

あと一歩で勝てたのに・・
もし真田が勝っていたら・・
あの時豊臣秀頼が大阪城から参陣したら・・・

真田幸村の最後は、まさに日本人の美学の芯を突いているのです。

地の底から這い上がり、勇猛果敢な戦いぶりに日本一の兵と呼ばれるほど名を上げた真田幸村。

ぜひ大阪に行った際は、この地を訪れて頂きたい。



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