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つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

広島城@広島県

2025-03-02 17:00:00 | 100名城
2025年3月2日

本日は打ち合わせで広島に来たので、前乗りして広島城へと向かいました。

広島城は日本100名城に選定され、国の史跡にも登録されています。

また、名古屋城、岡山城と並ぶ日本三大平城
なのでとても人気の城です。

広島城を築城したのは毛利輝元。

小国の大名だった毛利氏は、毛利元就の時代に中国地方を支配する大名となります。

毛利元就の孫にあたる毛利輝元は豊臣政権下で五大老にまで上り詰めます。

そして、本拠地の安芸郡山城から新たに広島城を築城。
1589年 築城開始
1590年 堀と城塁が完成
1591年 毛利輝元が入城
1593年 石垣工事が完了
1599年 全工事完了

しかし、1600年の関ヶ原の戦いにおいて、西軍総大将だった毛利氏は減封の上、山口県の萩に転封。

以降は福島正則が入り、1619年からは浅野氏が250年に渡って広島城主となり明治を迎えます。

福島正則の時代に内堀、中堀、外堀を備えた現在の巨大城郭に変貌を遂げます。

しかし、明治期に外堀は埋められ、昭和期に中堀が埋められ、現在は本丸、二の丸、内堀のみが残ります。

それでも当時の面影を十分に見ることができるので、広島城は今でも人気の城です。


残っている本丸と二の丸は、内堀で完全に囲まれているので、城内には表御門と裏御門跡からしか入ることができません。

今回は水堀周りを少し歩きながら、表御門から入城します。



水の上に浮かぶ石垣に囲まれた曲輪は本丸。
水堀の広大さと美しさが目を惹きます。

内堀幅は西側で104mを超えていましたが、現在は少し埋められて狭くなっています。それでも北側の堀幅は60mを超え、現在も残っています。

その巨大さは数字を見ても明らかです。

内堀の周りは道路が整備されており、埋められて堀幅が小さくなったとはいえ、周囲約1.3kmもあります。



さらに、広島城には櫓が88基もあり、全国で最も多く櫓を配していた城でしたが、現在は櫓台の石垣のみが残っています。

本丸を囲む石垣には定間隔で櫓台が配置されていて、本来は角地に設置する櫓ですが、中間にも多くの櫓が上がっていました。



櫓の数も規格外の多さですが、天守クラスの櫓台石垣が幾つもあったのに驚きました。

実際に足を運んで自分の目で見たことで、広島城の規模の大きさを体感することができました。



左側は二の丸で奥に見える城門は表御門。



二の丸は完全に独立した曲輪となっており、規模が小さいことから、本丸を守る為の馬出として設計されたと考えられています。

航空写真を見ても、敵を迎え撃つための重要な曲輪となっているのが分かります。



二の丸の隅には復元された太鼓櫓と多聞櫓、奥には平櫓が並びます。

平櫓と多聞櫓の半分は明治期に取り壊され、残った多聞櫓の半分と太鼓櫓は、石垣を残して原爆により倒壊炎上しました。

当時の現存写真も残っており、平成初期に復元されました。

下見板張で外壁を保護する為に、素地の木材で仕上げています。


平櫓と表御門。
二の丸の石垣は打込接となっており、加工した石を使用しています。

隅部は算木積みで直方体の石材を交互に積んでいるのが分かりやすく見ることができます。

建築物は天正末期に築造されたものでしたが、石垣は積み直されたのでしょうか。

技術が本丸を囲む石垣に比べて進んでいると思われます。


三の丸と二の丸は御門橋で接続。
二の丸を通過するには、この表御門を抜けます。

二重の櫓門形式で、長押と呼ばれる水平材と柱が外観に出ているのが特徴。

これは真壁造という日本の伝統的工法で、柱と柱の間に壁を形成する技法。

建築士の試験で出題されたことを思い出しました。



表御門は天正末期に造られ、1945年の原爆倒壊まで約350年間現存していました。

旧陸軍が作成した実測図と発掘調査、当時の写真を元に平成3年に復元。

現存の礎石を使用しているようです。



多聞櫓と平櫓には無料公開されています。



平櫓内部は畳張になっています。

平櫓は表御門と繋がっている為、門の出入りを監視する役割があったそうです。



多聞櫓の長さは約68m。
近世城郭では、櫓と櫓を多聞櫓で繋いでいることが多かったのですが、復元ケースが少ないので、この姿を目に焼き付けておきます。



多聞櫓から見た中御門跡。

手前に見える礎石は馬屋跡になります。



二の丸と本丸には足の橋が架かっており、右側の石垣は中御門の櫓台石垣。

左側の石垣には単体の櫓が上がっていました。



左側の櫓台。
天守台のような大きな櫓台です。

石垣の隅部を見ると、二の丸の隅部に比べて無骨な積み方になっているので、これこそ天正末期や慶長初期の積み方のように思えます。

この荒々しい石垣が芸術です。

そして、築城ラッシュの数十年間で石垣技術が如何に進歩したかを感じることができます。


反対側の右側には中御門の石垣が残り、表御門のように櫓門となっていました。

中御門の櫓台には鏡石があり、広島城で一番大きな石材が使われています。



中御門は残念ながら原爆によって倒壊。そして、中御門の石垣には原爆の放射能によって赤く変色しています。



振り返っての一枚。
中御門は枡形になっています。

敵が侵入した際に折れ曲がることでスピードが遅くなり、さらに門の前で立ち往生しているところを銃などで狙い撃ちします。



中御門の隅石は綺麗な算木積みになっており、隙間なく加工されています。

そして、いよいよ本丸となります。



本丸は上段と下段があり、下段には現在護国神社があります。

廃城令の後、本丸にあった御殿建築などは取り壊され、広島城には日本軍の大本営や司令部などが置かれました。

大本営跡が本丸上段に残ります。



広島城は輪郭式なので、本丸の北西隅に五重五階の天守が鎮座。

千鳥破風が施された望楼型の独立天守ですが、絵図では写真を撮っている南側と右手の東側に渡櫓が伸びて小天守が結合する連結型の天守でした。

現在は大天守のみで、内部は資料館となっています。



1958年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。
古風な感じの外観が、味があってカッコいい!



南小天守の天守台石垣。
まだ石垣初期に近いゴツゴツとした石で積まれています。



反りが美しい天守台石垣。

芸術的な野面積みの天守台石垣は約14m!
石材一つ一つが大きめですごい迫力。

天守と天守台を合わせると、約40mの大天守になります。



小天守は明治に取り壊されましたが、大天守は廃城令を免れて現存していました。
しかし、1945年の原爆によってバラバラに倒壊しました。



天守最上部は回縁となっていて、特徴としては寺院建築でよく見られる華頭窓になっていること。



天守最上階からの南西側の内堀。
かなり大きな内堀ですが、もっと幅があったと考えると巨大な城郭だったのだと改めて感じます。

下に見える曲輪は南小天守跡。



北東方面の内堀。
この水堀が本丸を囲んでおり、更に中堀と外堀まであったので、天守から見る景色は壮大で格別だったと思われます。

広島の街も一望できます。



天守から見た東小天守跡。

天守を軸にして東小天守と南小天守をL型に展開することで、天守前は巨大な枡形のようになり、かなり攻撃力の高い設計をしています。



東小天守の天守台。

天守入り口あたりは大勢の人で賑わっていますが、東側は誰もいませんでした。



東小天守跡からの大天守。
めちゃくちゃカッコいい!

東側からだと入母屋破風が見えるので、南側とはテイストが全く異なります。

白漆喰の白亜の天守も美しいですが、下見板張も渋くて良いですね。



広島城は毛利氏の後の福島正則の時代、浅野氏の時代などで、石垣が修復されたりもしているので、毛利氏の時代の石垣は一部しか残っていませんが、天守台はまさに毛利氏時代の貴重な石垣!

本当は天守台石垣を近くで見たかったのですが、昨日足を捻挫した為、階段を降りることが困難だったので、今回は断念。



本丸には大天守の礎石が原型のまま移されています。



帰りは裏御門から広島城を後にしました。

裏御門にも表御門同様に櫓門がありましたが、現在は櫓台が残ります。



裏御門右側の石垣。
横長の大きな櫓台が城の裏手を守ります。



裏御門左側の石垣。
裏御門の前は枡形になっていました。



広島城は太田川のデルタ地帯に造られているので、立地そのものが天然の要害に守られています。

幾つもの貴重な建築物は残念ながら戦争で失われましたが、広島城天守が木造で復元されることが議会で決定したとニュースで放送されました。

現在、資料館となっている天守内の展示品は、三の丸跡に新たに造られている資料館に移動され、耐震に問題がある天守は解体されます。

天守からの眺望はしばらく見ることができなくなるので、今のうちに見ておきたいと思い、怪我しているにも関わらず無理して天守最上階まで登りました。

広島城は戦国、江戸時代の文化を伝える貴重な遺構であり、戦争復興の証です。

できることならば、もう一度解体される前に行きたいと思います。



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多賀城@宮城県

2025-02-24 16:00:00 | 100名城
2024年2月24日

二本松城に登城した次の日は、宮城県の多賀城にやってきました。

多賀城は奈良時代の政庁で、宮城県においては仙台城と同じく、日本100名城に選定されています。

日本三大史跡といえば、福岡県の太宰府、奈良の平城宮、そして宮城の多賀城です。

多賀城跡に来た理由は二つ。
ワタクシは小学校、中学校の時に多賀城跡に来たことがあります。

むしろ、多賀城跡の前にある道路に関しては1000回以上は軽く通過しています。

実はワタクシは高校の時に仙台育英の多賀城キャンパスに通っていた為、毎日多賀城跡の前を自転車で通っていました。

当時の印象は「何もない」でした。
さらに、高校の時は城も歴史も興味がなかったので、そんな薄い印象しか無かったとも言えます。

そんな多賀城跡に南門が復元され、城内も整備されたので、一度行きたいと思っていました。

そして、もう一つの理由は2024年に多賀城碑が国宝に認定されたこと。

この石碑も小学校の時に見た時は、その辺にある石くらいにしか思っていませんでしたが、まさか国宝クラスの代物だったとは思いもしませんでした。

多賀城跡は現在も整備が進めらており、無料の駐車場もあるので今回は車で向かいました。



無料駐車場から政庁側に向かうと、水堀のようになっていて土塁が残っています。

この土塁上に、かつては築地塀があり四方約900mを囲んでいました。

左側には国宝の多賀城碑があります。


幾つか石碑が並ぶ中で、お堂の中に大事に守られているのが国宝の多賀城碑になります。



小学生以来に拝見しましたが、一見はただの石にしか見えません。

しかし、この石に刻まれた古文書が実は凄い内容でした。



よく見ると薄らですが文字を確認できます。

内容としては、
・多賀城の創建された年や、修造された年が刻まれている。
・京や蝦夷との距離が示されている。
・多賀城の所在地が示されている。
・この石碑が建立された日が示されている。

長年、偽物とされていた石碑でしたが、研究結果から本物であることが証明されました。

多賀城の造営に関する記録が無いことと、そもそも奈良時代の金石文が珍しいことから、この石碑の重要さが認められて、重文から国宝に認定されました。

地震が多い地域にも関わらず、1300年もの間残っているのは貴重です。
そして、普段は石垣に思いを馳せているワタクシですが、改めて石の凄さを感じました。

石に刻まれたメッセージは、雨風にさらされながら果てしない時を経ても、ちゃんと我々に届いています。

本物は別場所に保管してレプリカをこの地に置くという噂もあるので、早めに見に来ました。


そして、復元された南門。
4月一般公開開始に向けて準備万端そうです。



まだ近くに寄ることはできませんが、奈良時代の素晴らしい門の、築地塀が復元されています。

高さ14.5m、幅11mで礎石の上に造られた八脚門です。

門が復元され、多賀城碑が国宝に認定されるなど、間違いなく多賀城には機がきています!



政庁南面大路には発掘調査で石垣が発見されていたので、今回の整備で復元されました。


多賀城跡のメインストリートなる大路の下部には水が溜まる為、雨水を処理する枡が発見されました。

発掘調査に基づいて、石組枡も復元されました。



大路の右側は城内エリアとなり、多くの柱穴が発見されているエリアで、建築物跡のイメージがつくように復元されています。

政庁の下あたりに位置するこの場所には、多くの建築物がありました。



メインストリートとなる南大路。
復元した南門から真っ直ぐ伸びていて、政庁跡に繋がります。



政庁があった場所は土塁で囲まれています。

東西103m、南北116mのほぼ正方形で、築地塀を巡らせて区画されていました。



入り口には政庁南門跡があります。
奈良時代後半には礎石で建築され、北側は当時の礎石がそのまま残っています。



正殿と後殿の跡。
この他にも、脇殿や楼などが計画的に配置されていました。



政庁の礎石も一部は当時のものが残っています。

多賀城跡は幾つかの地区に分かれています。
政庁跡から管理棟の脇を抜けて、大畑地区に向かいます。



大畑地区には外郭東門跡があります。
こちらも土塁で囲まれています。

門の形式は八脚門。
隅には櫓が設置されていて、築地塀を巡らせていました。



反対側から見た東門跡。
普段、戦国・江戸期あたりの城を巡っていますが、門一つとっても規模が巨大です。



大畑地区も発掘調査したのは、これでもごく一部。

大畑地区だけでも広大な空き地で、さらに土の中に遺構は眠っているので全て調査するのは難しそうです。

世紀の発見の可能性も、まだまだあるということでしょうか。



大畑地区の東門跡近くには、陸奥総社宮があります。

こじんまりとした神社ですが、この陸奥総社宮が実は凄い神社!

建立時期は神社のホームページを見ても、ハッキリとは分からないようです。
Wikipediaを見ると諸説あるようですが、平安時代に陸奥国100の神社の祭神を合祀して創建されたと伝えられいます。

現在の拝殿は江戸時代の享保19年(1734)に建てられたもの。

江戸時代になると仙台藩初代藩主の伊達政宗による領内寺社整備が行われ、陸奥総社宮には歴代藩主の尊崇が篤く、親拝代参などがあったそうです。

難しい内容ですが、仙台藩伊達家にはお隣の塩釜市にある塩竈神社に参拝していました。
塩竈神社の参拝前には陸奥総社宮で参拝する習わしがあり、領民もその習わしの通りに陸奥総社宮で参拝したそうです。



総社宮を後にして、作貫地区から駐車場へ戻ります。



この作貫地区には小さな小屋があり、空堀覆屋と書いています。



中を除くと地中に眠っていた発掘調査で出土した空堀が、小屋内で保存されて公開されています。

橋脚跡も記されています。



小屋の上から覗くこともできます。

これは斬新な展示方法。
大体は調査が終わると埋め戻しを行いますが、このような形で一般公開しているのは素晴らしい。


約1時間半ほど散策して今回は終了しましたが、広大な土地の為全てを周ることはできませんでした。

改めて大人になって史跡を見ると、こんなに広い敷地だったのかと感じました。

現在復元された南門の前にはガイダンス施設が造られている途中でした。

多賀城はこれから、さらに熱いスポットになることは間違いないでしょう。

また改めて訪城したいと思います。

二本松城@福島県

2025-02-23 07:18:00 | 100名城
2025年2月23日

仙台で設計打ち合わせと実測のため、前乗りして二本松城に訪問。

二本松城は会津若松城、白河小峰城と並んで、福島県の日本100名城に選定されています。

歴史上では戊辰戦争時に壮絶な戦いをした、二本松藩の少年隊がとても有名です。

奥州管領の畠山氏から始まり、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏と有名な大名が納めてきた歴史もあります。

東京駅から東北新幹線で郡山駅まで行き、東北本線で二本松駅を目指します。



郡山駅のホームに向かうエスカレーターには会津の看板!

松平容保公の写真もあります。



郡山駅から磐越西線で会津に行けるので、プロモーションされています。

やはり会津はカッコいい!
この時点でテンションが上がります。



郡山駅から二本松駅までは5駅、25分程度。

「丹羽十万石の城下町にふさわしく、二本松城を型どった駅舎」として、東北の駅百選に選定されています。

左の石垣は天守台で、駅舎は多聞櫓をイメージしているのかな?

街が一体となった城下町造りの取り組みに非常に感心しました。



駅のロータリーには少年隊の像があります。
城に直接足を運んで行くということは、その地域の歴史に触れること。

そうして、歴史は守り語り継がれていきます。

二本松市の取り組みは、観光のモデルケースだと思います。



歩いて二本松城を目指します。

駅前には奥州街道があり、駅から割とすぐの場所に大手門跡があります。

Googleマップで二本松城を検索して向かうと本城に誘導されますが、大手門から本城の麓までは1km程あるので注意です。



江戸城や大阪城のように、隙間なく美しく加工された切込接の石垣。

石垣の2段だけ残っています。



反対側は私有地のため入ることはできませんが、立派な算木積みは確認できました。

初代二本松藩主、丹羽長重から大手門を築造することは悲願でしたが、財政状況もあり1832年に幕府から許可を得て普請。

本格的な櫓門が完成しました。

しかし僅か35年後の戊辰戦争後に、門前の堀は埋められ大手門は取り壊されました。



大手門跡の先は急な坂道になります。
両脇は民家が連なっており、安土城の大手道を彷彿とさせます。

民家には近世の石材を使われていますが、この辺りは石を使っている家が多いのが特徴。

私有地なので写真は控えたのですが、明らかに城の石垣だったと思われる矢穴の入った石材が、民家の花壇に使用されているのも発見。

個人的には二本松市に根付いた石文化を感じました。



急な上り坂を登って、そのまま主郭へと続くのかと思いきや、今度は急な下り坂になります。

この辺りには久保丁門という城門がありました。

アップダウンする珍しい城郭設計。
城全体を自然地形を利用して区画しているようです。



そして、何より気になったのは久保丁門があった場所は、山の頂が人工的にV字にカットして大手門から続く道が貫通していること。

見た目は完全に堀切。主郭への道を通しているので、切り通しですね。

石垣で有名な二本松城ですが、中世城郭の醍醐味、宝探しのようなワクワク感を味わいながら進みます。

二本松城の麓には情報館があるので、二本松城と二本松藩について改めて学び、パンフレットを持って登城開始です。



情報館を出ると二本松城の藩校だった敬学館の跡があります。

本来は文化観光施設が建設予定でしたが、絵図を元に発掘調査を行い、遺構が発掘されました。



大手門跡から続く山城テイストから一変して、情報館の前には三ノ丸下の巨大な石垣が出現!



高さ10mから13mの圧巻の石垣が三の丸を囲みます。
加藤氏時代に積まれた石垣と確定しています。



高い石垣に土塀があるだけでも雰囲気がガラリと変わります。



石を切り出す際にできる打ち込みの証、矢穴も至る所で確認できます。



三ノ丸の左手の石垣には排水口らしき穴を見ることができます。



直下にある巨石は排水した水の受け材でしょうか。



少年隊像と登城口。

詳しく書くと長くなるので割愛しますが、少年隊は13歳から17歳の少年を含んだ二本松藩の藩兵で、戊辰戦争時に戦場へと出兵します。

新政府軍の総攻撃に二本松城は陥落し、少年隊も多くの命が失われました。

会津藩の白虎隊と並んで、悲劇として現代でも語り継がれています。

12歳って小学6年生か中学1年生ですよ。

少年が国を守る為に戦う精神。武士道を感じると、ワタクシなんてまだまだ甘いと戒められます。


像があるあたりは、広大な広場と駐車場になっていますが、千人溜という藩兵が集まる場所とされていました。

戊辰戦争時は少年隊兵もここから出陣していきました。



二本松城は標高345mの平山城。

いよいよ枡形になっている麓の三ノ丸正面より入城です。
とても絵になるショット!



高石垣に囲まれた枡形は、異常なほど威圧感があります。



右は二重櫓、正面は箕輪門、右は多聞櫓となります。

二重櫓は当時は存在していなく、模擬で建築されました。

古い絵図を見ると、箕輪門の櫓門が二重櫓の位置まで伸びているように見えました。

戊辰戦争時に新政府軍によって、箕輪門は焼き払われましたが、昭和に復元。



軒丸瓦や鬼瓦は丹羽氏の家紋。

江戸時代は初代藩主丹羽長重から幕末まで、10代に渡って丹羽氏が納めました。

二本松市はやはり礎を築いた丹羽氏推しです。


箕輪門を抜けると石垣の枡形虎口を通過して三ノ丸下段に入ることができます。

この枡形虎口には建築物は建造されなかったようです。



上からのショット。

確かに建築物を築造するには、やや土台が細いようにも感じますが、土塀くらいはあったのでしょうか。

三ノ丸に続く重要な門なので、箕輪門から連続して折れ曲がる設計。

三ノ丸は城郭の平城の部分にあたり、御殿が並びました。



三ノ丸下段の狭間から見た、箕輪門前の枡形。

敵の動きがよく見えます。



本坂御殿跡と石垣。
スルーされてしまいそうな、三ノ丸の脇にある御殿跡。

今は使われているのか不明な倉庫が建っています。


三ノ丸から主郭に向かう途中には、二本松藩士の自刃の石碑があります。

この他、二本松城には幾つもの悲しい歴史の足跡が残っています。



主郭に向かう道中には至る所に中世城郭の遺構らしきものが広がります。

空堀かなと思って撮った一枚は、畠山氏時代の虎口と推測されています。



日影の井戸は日本三大井戸の一つ。

深さは16mで、さらに岩盤を通して北に14mも伸びています。

中を覗いてみると、水が今だに溜まっていました。
※湧き出ているのかは不明。



本丸下南面大石垣。

二本松城における最も古い石垣の一つが、本丸下に残っています。

約13mの高石垣は、慶長初期に蒲生氏郷の時代に、全国各地で名城の石垣を積んだ穴太衆によって築かれました。

自然石で芸術的に積まれた野面積みの石垣。



本丸東櫓台の石垣。
石垣の折れ方が鋭角なのが特徴的。



本丸の石垣は崩壊して、原型を留めていない状態でした。

平成3年の発掘調査によって、本丸の形状と規模が判明し、学術調査と合わせて全面修築、復元を果たしました。



奥には天守台。
発掘調査で江戸初期の野面積みの石垣が発掘されましたが、隅部は後世に積み直されて算木積みだったそうです。



北側からのショット。
張り出している石垣は天守台。

右側に写っている石垣は、発掘調査で発見された野面積みの本丸石垣を、後世に残すために移築したもの。



本丸には枡形の食い違いの虎口を通過します。



虎口の右手は本丸東櫓台。



本丸のレベルから少し高く積まれた石垣は本丸東櫓台の頂部。



本丸東櫓台の上から見た枡形虎口



本丸東櫓台から見た天守台。
本丸を囲む石垣の中で、天守台だけは少し外側へせり出しています。

多聞櫓で繋がっていたとされていますが、実際に天守が上がっていたかは、謎に包まれています。



天守台からの景色。

山頂は雲で隠れていますが、標高1700mの安達太良山を望むことができます。



天守台から見た本丸西櫓台方面。
こちらにも多聞櫓が繋がっていたと想定されています。

本丸の構造を見ても、個人的にはどこかの時代には天守があったのではないかと思っています。



天守台から登城してきた道を見ると、現在は駐車場になっていますが、本丸下から飛び出すように円形の曲輪を見ることができます。



帰りに謎の円形の曲輪を調査。

人工的に切り落とされたかなり高めの土手。
この土手が一周囲んで独立した曲輪になっています。

こちらは乙森という曲輪で、東西27m・南北42m・四方150mを塀で囲んでおり、本丸東側を補完する重要な施設であったと考えられています。

中世に造られた曲輪なのか謎ですが、上から見ると丸型の馬出に見えます。

最近、諏訪原城で丸馬出を見過ぎた為か、思考がどうしてもその方向へ進んでしまいます。



本丸の北側、西側には中世の二本松城の遺構が残っているので、登ってきた逆側から一度下ります。

天守台下には蒲生氏時代の2段の石垣を見ることができます。



本丸天守台と併せて3段の石垣は芸術的。

穴太衆の石垣を東北の地で見られるのは感動です。この時代にはまだ石垣の勾配が緩めなのも特徴。

土造りの城から石垣の城へと変化する過程で、石垣技術は数十年で飛躍的に進化を遂げます。

石垣造の城が少ない東方の地では、特に貴重な遺構です。



本丸の北側の茂みの中に入ると堀切のように尾根を分断した遺構がありました。



形状の美しい空堀が残っています。



この辺りは完全に中世の山城らしさを見ることができます。

見事な石垣に目が行きがちですが、テイストの異なった山城の遺構も同時に見れるのが、二本松城の魅力の一つ!



L字型の空堀。
この辺りは畠山氏時代のものと思われる遺構が多く残っています。

室町時代に奥州管領に任ぜられた畠山氏は、二本松城を築城。

戦国時代の1585年、1586年に伊達政宗の攻撃により二本松城は開城され畠山氏は滅亡。

1591年に伊達家は米沢城から岩出山城に転封された為、二本松城は会津若松城の支城として蒲生氏郷の拠点となり改修が進められます。



空堀脇の土塁。

空堀内部からは、あまり大きさを感じなかった土塁ですが、外側から見ると大きな土塁であることが分かります。



まだまだ二本松城の石垣は終わりません。

山城の遺構を堪能していると搦手門が出現。

中世城郭と近世城郭がMIXされた面白い城ですね。



打込接の綺麗な石垣。



この石垣の脇に門が置かれていました。
前には当時の礎石が残っています。

蒲生氏時代の冠木門と思われる掘立柱の門があり、加藤氏時代に礎石を用いて改修されました。
その際に搦手門の石垣も造ったと思われます。

この石垣の反対側にも石垣がありましたが、現在はほぼ原型が残らない状態です。

一度本丸に戻って、登ってきた道から下山します。



箕輪門の枡形を正面に見て左側は、死闘を繰り返した城郭のテイストから一変して、平和な江戸期らしさが残ります。

池が2段で連なっていて、上段が「るり池」。

初代二本松藩主、丹羽長重の造園の姿が残っています。



下段は霞ヶ池。



るり池、霞ヶ池の間の道を進むと洗心亭があります。
二本松城内の茶亭。色々ありながらも元の今の位置に再移築された現存建築。

かや葺屋根が素晴らしい雰囲気を出しています。

るり池や霞ヶ池を見ながら、茶を楽しんでいたのでしょう。

洗う心と書いて洗心亭という名前も素敵です。



城という軍事施設の中での、穏やかな時間。

城主もこの場所で同じ空間を過ごしたと考えると、エモーショナルゾーンに突入したのでセルフタイマーで自撮り。笑



洗心亭の裏手から登ると本宮館跡があります。
尾根上に平場を築いて、建物が建築されていました。

畠山氏に仕えていた氏家新兵衛と遊佐丹波守の居館と推測されています。



本宮館跡には現在、丹羽霊神社があります。
お参りをして下山です。



帰りも同じルートで帰り、駅前の二本松神社脇の裏手に何やら石垣らしきものを発見。

下段は近世っぽいのですが、奥の竹藪にある石垣は城郭っぽい感じもします。

ここは大手門と同じライン上にあるので、可能性はあるのかなと。

山全体、町全体を城郭化しているので、二本松城は領域が広い為、見て周るのに3時間半は費やしました。

それでも全ては見れなかったので、次回の宿題です。

今年の5月は会津若松城に行く予定なので、福島の歴史に触れる良い機会でした。


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掛川城【二回目】・掛川古城@静岡県

2025-02-08 09:30:00 | 100名城
2025年2月8日

掛川市で一泊し、本日も過密スケジュールで東海道本線で三つの城を巡る旅に出ます。

昨晩はライトアップの掛川城を楽しみましたが、今日は快晴の掛川城をホテルの部屋から見ることができました。



たまたまですが、素晴らしい部屋を用意して頂きました。



最高にかっこいい天守!
朝起きてこのロケーションを見ることができるとは、本当に贅沢でした。

ホテルの朝食を食べ、7時30分に出発。

個人的にはオープン前は人が少ないので、良い写真も撮れるの為、朝一の城が好みです。



ホテルを出て約10分程で大手門に到着。
天守に続いて復元された櫓門。

出入りする冠木門下が4.4mありますので、馬に乗ったまま入城できます。



昨晩もこの角度から写真を撮りましたが、このスポットはとても映えます。

現在の大手門は、当時の位置から50m程離れた場所に復元されています。

天守もカッコいいですが、やはりワタクシは城門も大好きですね。

威圧的な佇まいに、とても痺れます。



大手門のすぐ裏手には、江戸時代末期に建築された大手門番所があります。 

城内に出入りする人たちの監視や警備をする役人の詰所。



中には入ることはできませんが、覗くことができます。

大手門に付随した番所は全国でも珍しいそうです。

 

とてもシンプルな造り。

明治の廃藩により、藩士が居宅用として譲り受けたことで現存していました。

昭和に掛川市に寄与されたことで、現在は貴重な市の指定文化財に登録されています。



掛川城の前を流れる逆川は天然の要害で守られています。



逆川と天守。
春になると逆川の川沿いには桜が咲きます。

いつか桜の季節に訪れてみたい。



三の丸広場からの一枚。
左には現存の太鼓櫓。

三の丸広場は定番の撮影スポット。

掛川城を大改修したのは山内一豊。
山内一豊は後に土佐に移り、初代土佐藩主となります。

そして高知城を造りますが、高知城の天守はは掛川城をベースにしたそうです。



天守は高知城とやや似ていますが、高知城は総石垣の要塞。掛川城は土造りの美しい城郭です。



天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。

以前は鉄筋コンクリートでの復元が多かったのですが、やはり外観だけでなく材質や工法など当時に近い形で復元するということは、次の世代に技術を継承していくことに繋がるので、とても大切なことだと感じます。



復元された四足門。

発掘調査では門の跡は見つかりませんでしたが、絵図に基づいて四つ足の薬医門を復元しました。



四足門の右手の三日月堀。
深さは8m。調査では堀南側で石垣も発見されました。

三日月堀は武田築城術でよく見られるスタイル。



三日月堀と天守。
やはり天守はどこから眺めても美しい。



三日月堀と並ぶように十露盤(そろばん)堀があります。

明治期に埋め立てられましたが、発掘調査によって復元されました。
しかし、本来の1/3程度の範囲で復元されたので、実際は本丸を守る大きな堀だったと思われます。



四足門の先には本丸門がありました。
現在は石垣のみが残ります。

左手の石垣の上には太鼓櫓が移築されています。



本丸門跡と天守。
復元模型を見ると、この場所には大きな櫓門が建っていました。



本丸から天守がある天守曲輪には曲がりくねった階段を登ります。

天守の前には天守下門がありました。



太鼓櫓は天守に続く階段からが一番綺麗に見えます。

本来、太鼓櫓がある場所には荒和布櫓という見張のための櫓が上がっていましたが、昭和30年に三の丸から太鼓櫓が移築されました。

太鼓櫓は城下に太鼓で時を知らせる為の櫓門であり、太鼓は二の丸御殿に移されています。



三の丸方面から見た太鼓櫓。
太鼓櫓には現在立ち入ることが出来ず、石垣下までしか近づくことが出来ません。

現地のスタッフさんに聞いたら、老朽化によってとても中に入れる状況ではないらしい。

太鼓櫓は貴重な現存建築なので、なんとか活かし続けて頂きたい。



二の丸御殿の入り口からのショット。
ここからなら写真も、風情があって映えます。



日本に現存の御殿建築は四城しか残っていません。
高知城、二条城、川越城、そして掛川城。

城は明治期には陸軍の駐屯地となった為、大きなスペースを要いる御殿建築は真っ先に解体されました。

掛川城の二の丸御殿は廃条例後は学校として使用、さらに町役場、消防署など役割を変えながら現存しました。



グッズ、御城印、日本100名城スタンプは二の丸御殿内にあります。

二の丸御殿は藩の政務や儀式や公式対面などで使われていました。



内部は書院造で20の部屋に分かれています。



御殿の縁側からのショット。



太鼓櫓で時を知らせていた太鼓は、市の文化財となっています。



掛川城は天守や御殿だけではありません。

裏側には竹の丸や茶屋などがあり、掛川城の魅力を引き立てます。

写真は竹の丸(旧松本邸)。
1590年に城主となった山内一豊は、城を拡張。その際に竹の丸が造成されました。



主郭部への通路上にあるので、防衛上重要な場所だったことから、重臣の屋敷地に割り当てられました。



掛川城に来たら、是非寄って頂きたいのが掛川古城!

三の丸から周りを眺めた時に、竹の丸方面に小高い山があります。

出城とかに最適そうな山だったので何気なく行ってみると掛川古城の案内がありました。

山一帯は切岸で急な土手になっています。



下には小学校があり、元は三の丸でした。校庭との高低差が結構あるので、中世の城らしさを感じることができます。



切岸の先には立派な大堀切があり、曲輪が分断されています。



まさか中世城郭の遺構を見れると思わなかったので驚きました。



堀切になっている本曲輪に行ってみると、全体が土塁になっています。



現在の本曲輪跡には、江戸時代の1656年に、当時の藩主北条氏重が幕府に願い出て、徳川三代将軍「徳川家光」の霊牌を祀るために建てた「龍華院大猷院(りゅうげいんたいゆういん)霊屋」が建ちます。

この建物は火災に会いましたが、1822年に藩主「太田資始」によって再建されたものです。



美しい装飾が施された霊屋。

何気なく行った場所がまさかの凄いスポットでした。

現在の掛川城からも歩いて10分程度なのでオススメです。



掛川古城から竹の丸あたりで見る天守が個人的には一番お気に入り。

本丸側から見る天守は、1Fが大きく横に張出して、ややゴツっとした望楼型天守らしい姿をしているのに対して、裏側から見ると完全に層塔型の姿をしています。

この角度から見る天守は、とてもシャープです。

昨年訪城した時には見ることのできなかった発見がとても多かったので、充実した時間を過ごすことができました。



掛川古城の存在を後から知ってしまった為、予定よりやや時間がオーバー。
9時30分に城を出て掛川駅に向かい、次の城を目指します!



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掛川城【ライトアップVer】@静岡県

2025-02-07 20:00:00 | 100名城
2025年2月8日

大垣城に行った後は新幹線で掛川市に移動。

岐阜や名古屋に宿泊して、その周辺の城を攻めることも検討したのですが、寒波が到来していたので、事前に天気予報を見まくって掛川市に泊まることを決めていました。

そして、次の日は掛川城→諏訪原城→興国寺城を東海道本線で巡る計画です。

ちなみに掛川城は二回目。

そして、忘れてならないのは掛川城のライトアップを見に行くこと!

ホテルに着いたのは18時。

ホテル選びにも一つのプランがありました。

掛川城方面のビジネスホテルはいくつかありますが、掛川城が一望できそうなビジネスホテルをチョイス。

何階のどっち向きの部屋になるかは運次第。

チェックインを済ませると部屋は10階!
部屋に入って窓を見ると



見事に掛川城方面の部屋でした!
テンションが上がったので、チェックインして荷物を整理して18時30分に掛川城へと向かいます。



大手門とライトアップされた天守。
本来の位置から50m程離れた場所に移築されたので、大手門は天守から少し離れていています。

しかし、ここから見える天守は映えるので、是非大手門を見てから天守に向かって欲しいですね。



大手門の先には逆川が流れていて、川に架かった橋からも幻想的で素晴らしい写真を撮ることができます。

春には川沿いに桜が咲きます。ワタクシはまだ春の掛川城を見たことがないのですが、とても素敵な景色になると思います。

今年は厳しいかもしれませんが、桜の季節にまた来たいですね。



三の丸広場から見た四足門と天守。
やはりライトアップされた城は特別感があります。 

天守は1994年に日本初となる本格的な木造で復元された、望楼型三層四階の複合型天守。



ほぼお客さんがいなかったので、独り占め状態!

何度も降りたり登ったりして、満足するまで角度を変えたりして写真を撮影しまくります。



天守内部には入れませんが、冠木門の前まで観覧できます。

白漆喰の壁は夜になると、闇に浮き出してカッコいいです。

日中に行く城は当然ながら好きですが、夜はちょっとしたスリルとワクワク感があるので、冒険しているような気分になります。



暗くて見えにくいですが、太鼓櫓が鎮座する石垣。

時を知らせる太鼓櫓は本来は三の丸にありましたが、昭和に本丸の荒和布櫓跡に移築されました。

ここは本丸に入る為の、最後の門となりますので、立派な櫓門だったようですが、現在は石垣のみが残ります。



二の丸御殿あたりからのショット。
掛川城天守の珍しいポイントとしては、1Fの左右が張り出している点。

少しでも天守を大きく見せる工夫なのだとか。

このアングルからだと分かりやすいです。

夜の掛川城を存分に楽しみました。

掛川市は城下の雰囲気も素晴らしく、更に観光マップの種類も他の地域に比べると圧倒的に多いです。

街全体が力を入れて盛り上げているのを感じます。

ビジネスホテルで一泊したら、明日は朝一から改めて掛川城を見てまわります!


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