歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(東北編③ ー岩手県ー)

2022-05-06 10:44:51 | 私の本州マラソン歴史紀行
【岩手県:平泉に奥州藤原氏を訪ねて】

 岩手県平泉に黄金の仏国土を開いた奥州藤原氏のルーツを訪ねて、宮城県と福島県のマラソン大会に参加しながら角田市の高蔵寺といわき市の白水阿弥陀堂を訪れた歴史紀行を前号(163号)に投稿してきた。
 本号では、陸奥守源頼義の蝦夷征討戦「前九年の役」で陸奥蝦夷の酋長安倍氏と命運を供にした藤原経清の子清衡が、出羽俘囚長清原氏の内紛に乗じた「後三年の役」で奥羽を制覇して中尊寺建立を中心に仏国土を開いた平泉の地を、岩手県のマラソン大会に参加しながら訪れた歴史紀行を寄稿していきたい。
 併せて、奥州藤原氏初代清衡の初上洛と平泉移転、中尊寺建立の背景、そして藤原経清が父とされる清衡の出自に抱いた疑問について、私的考察を纏めてみたい。

【中尊寺建立に込められた清衡の祈り】

 藤原清衡は、嘉保年中(1094~6年)に北上川上流の江刺郡豊田館から中流の磐井郡平泉に移住、柳之御所を構えて掘を巡らせた政庁を建設する一方で、長い戦乱で命を落とした御霊を鎮めて平和な極楽浄土を具現化する中尊寺の大伽藍を造営した。天治3年(1126年)の「中尊寺供養願文」の二階鐘楼の段に、清衡の中尊寺建立に込めた平和の理念と祈りが述べられている。

 「この鐘は、一音の及ぶごとに、千界どこにおいても、苦しみを抜き楽しみを与え、まったく差別ない。この衣関山では、官軍と言わずエゾの民と言わず、戦死した者、昔から数え切れない。人間だけでない。鳥・獣・魚介類にして屠られたもの、昔から今に至るまで、これまた計り知れない。たしかに霊魂はあの世に行っているかもしれないが、その朽ち果てた遺骨は今もこの世の塵となってさまよっている。この鐘が大地を動かして鳴り響くのにつれて、この救いのない者たちの霊をみな浄土へ導き給わんことを」(高橋富雄著「平泉の世紀」より)

 故無く罪なく命を落とした多くの冤霊の鎮魂の願いを鐘楼の洪鐘に託して、今日的な命題でもある非戦と恒久平和を、900年も前に清衡は主張していたのである。
 清衡が関山丘陵に創建した中尊寺の真南に、二代基衡が広大な浄土庭園のある毛越寺を、三代秀衡が中尊寺の東に宇治平等院鳳凰堂を模した無量光院を建立した。
 道の奥といわれる奥羽の中心部に、奥州藤原氏三代によって築かれた壮大な仏国土の理想郷であり朝廷に独立した黄金の都市平泉の栄華は、源頼朝の奥州征伐によって、わずか100年の短い命で消滅した。まさに国破れて山河ありである。

【平泉探訪サイクリング(11月6日(土))】

 東北六県のマラソン大会走破を目標に、宮城・福島・山形・秋田・青森を走り、残る岩手は、数次に亘る奥州藤原氏探訪の総括を兼ねて、2010年11月に奥州市で開催される奥州前沢マラソン大会にエントリーした。
 朝八時に埼玉の自宅を出立、スカイグルーの秋空が広がり、東北の紅葉が存分に満喫できそうである。
 東北新幹線の座席ポケットにあったJR東日本トラベル機関誌「トランヴェール」の特集『武家政権の夜明けに輝く北の王者と都』に、これから向かう平泉に思いを馳せながら読み耽って小一時間、ふと我に返り車窓を見やると、丁度福島から宮城の県境に差し掛かっていた。
 奥州合戦で源頼朝率いる鎌倉軍が平泉軍と対峙した阿津賀志山麓が眼下に広がり、濃霧の中に山麓から阿武隈川に向けて構築された防塁跡を探してみた。山越えすると霧は晴れ上がり、やがて雄大な蔵王が姿を現わした。

 一ノ関駅で東北本線に乗り換え、二つ目の平泉駅に着いたのが10時半、駅前観光案内所でレンタサイクルを借り、平泉探訪サイクリングに向けてペダルを踏んだ。
 東北本線の踏切を渡ると道端の白杭に「伽羅御所跡」とあったが、発掘調査跡らしきものは見当たらず、三代秀衡の御所跡未調査という立て札だけが立っていた。土地収用の問題や予算の制約もあるのだろうが、地下に埋もれたまま放置されている秀衡の屋敷が哀れである。
 伽羅御所跡に隣接する「柳之御所遺跡」は、発掘調査後が埋め戻されて立派な芝生の公園に仕上がっていた。盛土の上に立つと、360度の眺望が広がってきた。
 東の北上川の彼方に連なる束稲山は、平安時代に山一面に桜が咲いて平泉を訪れた西行が「聞きもせず束稲山のさくら花吉野の外にかかるべしとは」と詠んだという。
 柳之御所は「吾妻鏡」に記される平泉舘で、奥州藤原初代清衡の居館を三代秀衡が政庁に整備したといわれ、発掘された建物の跡に黒い砂利が敷き詰められていたが、傍らの壮麗な建物復元図や絵巻物の絵図と対比させながら、在りし日の平泉舘の姿を思い描いてみた。
 案内に四方を区画する塀が発掘されなかったとあり、外敵の侵入を警戒する必要のない仏国土の恒久平和が希求された世界だったのだろう。100年後の奥州合戦で四代泰衡が館に火を放ち逃亡したが、まさか平泉が戦火に見舞われるとは思ってもいなかったに違いない。
 
 中尊寺へ向かう道筋に「無量光院跡」の発掘現場が見えてきた。発掘跡地の説明板に、秀衡が宇治平等院鳳凰堂を模したという朱塗りの寝殿造りの復元図が描かれてあった。平泉舘の柳之御所と秀衡館の伽羅御所の近くで、この一帯が秀衡時代の平泉の中枢だったのだろう。
 田んぼの水が抜かれて干上がった浄土庭園跡と建物跡を一人巡りながら、左右に翼楼を伸ばした無量光院の復元図に、極楽を飛翔する鳳凰が西方浄土から舞い降りる姿を思い浮かべ、野晒しの礎石の位置関係と重ね合わせて、さながら発掘調査員気取りになっていた。
 中島跡に立つと、西側の本堂内の阿弥陀如来を前にして背後の金鶏山に没する日輪に向かって合掌する秀衡の姿が浮かんできた。まさに西方浄土の世界である。
 後日、ネットに無量光院復元CGを見つけた。夕日が背後の金鶏山の山頂に差し掛かり、光の帯が苑池に伸びていた。対面の東から上る朝日が池に反射して扉の開かれた本堂内に差し込み、堂内の阿弥陀如来像が美しく照り出される幻想的な光景が浮かんでくる。

 無量光院復元CC(平泉の文化遺産HPより)


 時計は昼近くなっていた。これまで幾たび登っただろう中尊寺の月見坂を、明日のマラソンの準備運動のつもりで一気に駆け上がった。途中の東物見から衣川流域を眼下に、この後に散策する古戦場跡を探してみた。
 月見坂の杉林が切れると、紅葉した広葉樹が陽を浴びて美しく照り輝き、本堂から金色堂までの境内で大勢の観光客が紅葉をバックに写真を撮り合っていた。
 
 中尊寺は寺塔四十余の大伽藍で、奥州藤原氏滅亡後も頼朝の庇護を得て存続したが、建武4年(1337年)の野火で金色堂と経堂を残して伽藍は全焼したという。
 中尊寺金色堂は、壁・床・天井・柱・屋根までが漆塗りに金箔を施して、皆金色の荘厳さと内陣一面を装飾する螺鈿細工の豪華さは、さすが国宝第一号である。
 金色堂は、西方浄土信仰により阿弥陀三尊像を本尊に極楽往生を祈る阿弥陀堂として東向きに建てられたが、堂内の須弥壇に奥州藤原氏三代清衡・基衡・秀衡の遺体が納められ、地上極楽世界が実現するまで肉体を現世に残す葬堂として法華教的な信仰もあったのだろう。
 三代の遺体が眠る須弥壇の夫々に、本尊の阿弥陀如来、両脇に観音・勢至菩薩、更に持国・多門二天と六地蔵菩薩の合計11躰の仏像が祀られており、二天の四天王は東西南北に配されて仏法を守護する天部の像、六地蔵菩薩は地獄に落ちた人々を救済する大地の像である。
 人は地獄に落ちると罪によって地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の裁きを受けるが、六道夫々の地蔵菩薩が救済してくれるという。阿弥陀如来を本尊にお堂全体が極楽浄土で黄金一色の天上界に眠る清衡が、なぜ地獄の救い主とされる六地蔵を必要としたのだろうか。



 須弥壇内の清衡の遺体調査から、骨萎縮が見られ脳疾患による半身不随だったらしい。晩年の清衡は己の不治の病が兄弟相克の殺戮を重ねてきた怨霊の祟りであり、生前の悪行から地獄に堕ちる恐怖に駆られ、代受苦の六地蔵を自分の遺体の周りに配させたのかもしれない。死に臨んでなお苦悶する清衡の姿が浮かんでくる。
 隣接する讃衡殿で、三体の巨大な丈六仏と中尊寺経、曼荼羅図等の宝物を鑑賞したが、精緻な紺紙金銀字交書一切経は、弥勒菩薩が現世に下生して一切衆生が済度される時まで、釈尊の遺教である一切経を経典に残すために、永遠不変な金で5390巻が書写されたという。壮大で荘厳な清衡の仏教への帰依が偲ばれる。

 境内の散策を終え月見坂を下山、国道4号線を北に衣川へ向かった。中尊寺の関山丘陵の北麓を東流して北上川に注ぐ衣川は、安倍氏が支配する奥六郡の最南端胆沢郡と国府側支配地の最北端磐井郡を境界しており、まさに朝鮮半島の38度線である。穏やかな流れを眼下にモダンな衣川橋を渡り、蝦夷安倍氏の旧支配地に入った。
 衣川橋の袂から左手に下りると「安倍一族鎮魂碑」が見えてきた。案内板に、清衡が平泉に移ってまもなく祖父安倍頼時の菩提を弔うため九輪塔を建立したとあり、この一帯が前九年の役で安倍軍が源氏軍を衣川に誘い込み、退路を絶って殲滅させた瀬原古戦場跡だとあった。
 九輪塔跡から西へ1キロほど、道標を頼りにようやく田んぼの中に礎石だけが並ぶ「長者ケ原廃寺跡」に着いた。説明板に、北門跡と本堂跡と南門跡の礎石が並ぶ中軸線を南に延長すると、中尊寺が鎮座する関山丘陵の最高峰に到達するとあった。



 10世紀末に建立された安倍氏の寺院跡といわれ、本堂と西塔を囲む100M四方の築地塀を巡らせた格式は、当時既に高度な仏教文化を持っていた証しであろうか。
 前九年の役は、安倍頼時が衣川以南に勢力を広げたことが要因といわれ、衣川北岸の長者ケ原廃寺跡はまさに安倍氏勢力伸張の拠点だったのだろう。東に束稲山、南に関山を望み、歴史の現場に立っている戦慄を覚えた。
 
 衣川に沿って北西に延びる国道三七号線を約七キロの風を切るサイクリングは、思わず大声で歌が出てしまう。
 遥か前方に冠雪の焼石連峰が見えてきた。衣川の渓谷が狭くなり深くなり、やがて二股に分かれて、右手の北側に沿った山裾に「安倍館跡」の看板が見えてきた。
 高さ90メートルの丘に館跡があり、安倍頼時の祖父の代から80年ほど居城だったという。今年夏に訪れた阿武隈川流域に住む安倍氏末裔のルーツについにやって来た感慨に耽ったが、人家まばらな普通の山村である。
 稲束の後片付けをしている娘さんに安倍館への登り口を教わったが、時間も遅くなりそうで断念、すぐ近くの「磐神社」へ向かった。安倍館跡の北側の田んぼの中に杉林に囲まれた赤い屋根の小さな社殿が見えてきた。
 参道の延長線は、奇しくも真南の安倍館の山裾に向かっているではないか。長者ケ原廃寺跡の南北を結ぶ聖なる線がここにもあった。
 社殿の裏に苔生す巨岩が居座り、岩の上に小さな石祠が乗っていた。本殿はなくこの巨石がご神体で守護神アラハバキ(荒覇吐神)として尊崇されていたのだろう。
 安倍館跡から真北に当たる磐神社の天空に煌めく北極星に向かって、一族の命運を掌る占星の巫女が、厳かに祈祷している光景が浮かんできた。

 もと来た道を戻り、今日最後の訪問予定の「衣川柵」へ急いだ。安倍頼時が山頂にあった安倍館から平坦な衣川流域に拠点を移し、18年間安倍氏の政庁が置かれ、前九年の役で安倍氏を破った出羽の清原氏が三代にわたり政庁を置いたといわれる衣川柵は、まさに父藤原経清と若き清原清衡が活躍した歴史舞台である。
 下調べしていた地図が曖昧で、途中道に迷って衣川渓谷に入り込んでしまい、小雨も降り出して自転車を曳いて山越えするはめになってしまった。
 薄暗くなってきてこれ以上の衣川柵探索は断念、関山丘陵の南麓を大きく迂回して、伝大池跡経由でようやく中尊寺登り口に戻ったのは午後四時を回っていた。
 帰路に往路で訪ねた「無量光院跡」に立ち寄ると、背後に聳える金鶏山が、ちょうど美しい夕焼け雲に包まれていた。西の空の落日を背景に金鶏山と無量光院を結ぶ線上に立ち、秀衡もかくあらん、金鶏山に向かって滅亡した奥州藤原氏の冥福を祈った。
 閉扉間際の「毛越寺」に辛うじて滑り込んだ。浄土庭園の池面に紅葉を映す夕闇迫る景観に、奥州藤原氏100年の栄枯盛衰に思いを馳せ、池端に立つ芭蕉句碑「夏草や兵どもが夢の跡」を、声を出して読みあげてみた。
 傍らの毛越寺伽藍復原図に、大泉ケ池の正面に金堂円隆寺と左隣に嘉勝寺が、廻廊を両翼に広げた美しい姿で描かれていた。背後の北側の塔山の北延長線上に金鶏山が位置しており、当時の末法思想の流行で山頂に経典が埋経されたという。ここ毛越寺にも長者ケ原廃寺跡と巌神社と同じ南北を結ぶ聖なる線があった。

 「中尊寺供養願文」に「即之四神具足之地也」とあり、清衡は陰陽道に基づく四神相応の都とされる平安京に倣って、背山臨水の平泉を新天地に求めたといわれる。
 四神は星宿を神格化した霊獣で、北を玄武(丘陵)東を青龍(流水)西を白虎(大道)南を朱雀(湖)によって守られる地勢が長く繁栄するとされ、平泉は、北に関山、東に北上川、西に奥大道、南に低湿地を配した四神具足の地で、その南玄関に毛越寺が造営されている。
 北を守る玄武は、長寿と不死の亀に、生殖と繁殖の蛇が巻き付いた形で描かれ、北にある冥界で神託を受け現世に持ち帰ると信じられている。毛越寺の北に当たる関山丘陵の金色堂に眠る清衡は、永遠と繁栄の玄武となり平泉の守護神とされていたのではないだろうか。
 背後の塔山の天空に輝く不動の北極星を神格化した妙見菩薩は、薬師如来の化身といわれているが、奇しくも毛越寺の本尊は薬師如来である。毛越寺こそ道教と仏教が融合した宇宙を具現化した世界なのかもしれない。

 毛越寺HPより


【奥州前沢マラソン大会(11月7日:午前)】

 一ノ関駅前ホテルの窓ガラスの結露を拭うと、濃霧の中に紅葉した大木の影が幻想的に浮かび上がってきた。
 始発電車にランナーの姿は数人だけ、濃霧のなか長い汽笛を鳴り響かせていた。昨日散策した衣川を渡るとまもなく、平泉の北隣の前沢駅に下車、大会専用のシャトルバスが私ら二人だけなのにすぐ発車してくれた。
 大会会場のスポーツセンター周辺も一面濃霧に包まれて肌寒い。霧の中に「ようこそみちのく前沢路へ」と書かれた歓迎横断幕の文字が浮かんでいた。
 着替えに入った体育館は、座る場所がないほどの混みようで、ステージ前の隙間に腰を下ろしてゼッケンを付けていると、まもなく頭の上で開会式が始まった。
 ゲストランナーの尾崎朱美さんの素敵な笑顔を間近に拝めたが、隣に座って着替えていた男性がやおら立ちあがって選手宣誓し始めたのには驚かされた。
 今日の出で立ちは、世界の子供たちを支援するPARACUPの青いTシャツに白のテニス帽、黒のアームウォームに手袋とロングタイツの防寒スタイルである。
 約3000人が参加する大会で、テントが軒を連ねる運動場を五周ほど走るうち、霧も薄くなり傍らの山並みの輪郭が浮かび上がってきた。まもなく我々ハーフ組と30キロ組の計900人が一緒にスタートした。
 まず前沢市商店街のメイン通り二キロの往復である。スピードをセーブして走る30キロランナーが一緒で比較的ゆったりした流れだったが、それでもキロ5分30秒は私にとってはハイペースである。
 スタート地点近くに戻り、いよいよ胆沢方面への上り坂コースに入った。大会資料でこの坂が10キロ地点まで続くことは承知しており、先月の三沢マラソンの反省から、完走目標のマイペースに心掛けた。
 長い上り坂にペースダウンして5キロ地点で29分、霧の中の山道をひたすら走り続ける情景に酔い痴れていた。霧の切れ間に見える棚田も、昔は一面の荒野だったのだろう。この大地を駆け巡る安倍貞任率いる蝦夷騎馬軍団の勇壮な姿を思い浮かべてみた。やがて薄日が差して霧の中に色付いた山並みが美しく映えてきた。
 2キロほど続いた急な上り坂がようやくだらだら坂に変わった。キロ6分30秒台に落ちていたが、ようやく平坦な田園風景が開けた10キロ地点で58分丁度。帰りの下り坂を考えれば、2時間が切れるかもしれない。

 田圃の水路に架かる橋の欄干に「寿安堰」の文字が一瞬視野を横切った。戻ってまで確認はしなかったが、今日のマラソンを終えた後にもし時間があれば、水沢市内の後藤寿庵の史跡を訪ねてみたいと思っていたので、その寿庵が造った堰を見られただけでラッキーである。
 後藤寿庵は禁制のキリシタンだったため、人格と才能を認める主君伊達政宗が幾度となく転宗を勧めたが、最後まで信仰を捨てず、政宗の許を去った武将である。
 政宗の海外への夢実現の遣欧使節に支倉常長を推薦したともいわれ、荒れた領地の灌漑事業に尽力して寿安堰を後世に残した寿庵の偉業にしばし思いを馳せていた。
 やがて左右に開ける田園風景の中に、防風林に囲まれた農家が点在する景色が広がってきた。この胆沢平野の散居集落は、富山の礪波と島根の出雲と共に日本三大散居集落といわれ、日本の田舎の原風景である。予期せぬ絵画のような美しい景観の中を感動の走りは続いた。
 
 前後に入れ替わるランナーの中で、下着のような薄いシャツに30キロのゼッケンを付けた白髪のランナーが気になっていた。苦しそうに身体を傾けて走る姿に、本当に30キロを走り切れるのかと心配になっていたが、並走していると、外見では窺い知れない逞しい精神力の持ち主のようで、ライバル心が掻き立てられていた。
 ハーフの折り返しで30キロ組の彼らと別れて下り坂になったが、上り坂のダメージが残っているのか、もうひとつスピードに乗れない。キロ六分前半のペースでは二時間切りはとても無理と思うと気が楽になってきた。
 15キロの給水所のバナナで体力補給、16キロの残り5キロで1時間37分、2時間1桁分台はいけそうだ。
 17キロ付近から同じピッチの足音がすぐ後ろにピッタリ付いてきた。同時に着地する足音が一つになり、規則正しく響いてくる。走りが少しでも遅れると、着地音がずれて自分が負けたような気になる。足音が乱れないように相手に合わせて走ろうと意識しはじめた。
 どんな人なのか振り向いてみようとも思うが、意識していることを知られそうで出来ない。相手が追い抜こうと並び掛けてきたが、ピッチを上げて前の位置をキープした。不思議な緊張感が4キロも続いた。
 市街地が近くなり、沿道の声援に応える声から若い女性らしいことが分かった。街中に入りゴールに向かう直線道路に右折するカーブで、内側から抜かれ先行されてしまった。気持ちが通じ合って並走してきた仲間に裏切られた思いで追走したが、追い付けぬままゴールした。
 完走証を受け取っていると「目標に頑張れました」と声掛けてきたので「足音が一緒で緊張しましたよ。お蔭で最後まで走れました」と互いの健闘を讃え合った。

 後半ピッチを上げて2時間7分45秒、総合順位379位、藤原経清や安倍貞任や源義家が駆け巡ったであろう山野を走れた充実感にしばし浸っていた。
 着替えも早々に、具だくさんのなめこ汁で暖をとり、参加賞の前沢牛弁当はザックに仕舞い込み、午後の胆沢探訪サイクリングに向け、前沢駅行きのバスに急いだ。

【胆沢探訪サイクリング(11月7日:午後)】

 前沢駅から二駅北の水沢駅に下車、駅前観光案内所でレンタサイクルを借り、いよいよ平泉前史の胆沢探訪サイクリングである。四号線をひたすら北へ走らせ、辺りはりんご畑に変わり、一時間程で胆沢城跡に着いた。
 「胆沢城」は、朝廷から派遣されて安倍氏の祖といわれる蝦夷の指導者「アルテイ」を倒した征夷大将軍坂上田村麻呂が802年に築いた古代城柵で、多賀城から鎮守府を移して蝦夷を抑える最前線基地として後三年の役の1083年頃まで存続したといわれる。
 広々した胆沢平野のど真ん中に発掘調査中のテントが張られていた。案内板に、一辺90mの土塀に囲まれた政庁の前門から外郭南門まで130mの道路があったとあるが、貢ぎ物にやって来る蝦夷を威圧する支配者の舞台装置であろうか。台状に土盛りされた正殿は約200平米の礎石建物で、基壇の痕跡がなく土間に机や椅子を使っていたのでは、と説明があった。
 北国の荒涼とした原野に、常時700人の兵士が交代で駐屯していたというが、遠国から徴用され、まさに四面楚歌の状態で敵地の中に孤立して、蝦夷と対峙し続ける心細さは如何ばかりだったろう。
 傍らの大木から降り注ぐ枯れ葉の舞を眺めながら、参加賞の前沢牛弁当を広げて古代ロマンに夢を馳せた。



 次は清衡の「豊田館跡」である。4号線を南下、東に左折し東北第一の大河北上川に架かる桜木橋を渡ると、路肩に「北上夜曲発祥の地」の木碑が立っていた。高校卒業の謝恩会にクラスで歌った懐かしい愛唱歌である。
 1941年当時水沢農学校の生徒だった菊地規さんの作詞で、北上河畔は通学路だったという。行き交う車の騒音に紛れて「匂い優しい白百合の濡れているよなあの瞳」と歌いながら、一時間程で豊田館跡に着いた。
 館跡の入口に「藤原清衡公豊田館跡」の石柱が立ち、「藤原経清、藤原清衡ゆかりの地」と書かれた幟が林立していた。標高50mの高台に上ると、眼下に胆沢平野が広がっていた。案内板に、藤原経清とその子清衡がここ豊田館に住んでいたとあり、経清は初め宮城県亘理地方を領する国府の官人だったが、岩手県奥六郡の安倍頼時の娘婿となり、ここ豊田館に移り住んだのだろう。
 「前九年の役」の最中にこの地で生まれ育った清衡は、安倍氏に味方して斬首された父経清の死後、敗将の子としてこの地で屈辱の日を送り、やがて養子に入った清原氏の内紛で起きた「後三年の役」に勝ち残り、清原氏と安倍氏の全領地を掌握して、後に豊田館から衣川を越えた磐井郡平泉に移り、仏国土の理想国家を建設する。

 豊田館の広場に方角が刻まれた石碑があり、平泉の真北に当たるとあった。昨日の平泉探訪サイクリングで立ち寄った長者ケ原廃寺も関山丘陵の真北、磐神社も安倍館の真北、二代基衡の建立した毛越寺も清衡の娘徳姫が建立したいわき市の白水阿弥陀堂も南向き、やはり北極星を世界の中心とする北辰信仰があったのだろうか。
 豊田館跡の住所は江刺区岩谷堂、神の住む岩屋の意味で、ここにも磐神社の巨岩に通じるアラハバキ信仰があったに違いない。安倍氏の本拠である衣川から真北20キロに位置しており、北上川左岸に張り出すこの高台こそ蝦夷安倍氏の聖なる地だったのではないだろうか。
 先ほど訪ねてきた胆沢城は、北上川を挟んで豊田館の真西に位置しており、坂上田村麻呂は蝦夷の聖なる岩谷堂に睨みを利かせる位置に城を築いたのかもしれない。
 
 1週間後の茨城県坂東市の「いわい将門マラソン」に参加した折、天慶2年(940年)の平将門の乱で、国府軍を破り関東全域を手中に収めた将門が、新皇を自称して独自に除目を行い中央から独立を宣言、本拠を下総国豊田郡から岩井郡(坂東市)に移したことを知った。
 奇しくも150年後に奥羽を制覇した清衡が本拠を江刺郡豊田館から磐井郡平泉に移したが、偶然だろうか。
 中尊寺経蔵別当職を任じた補任状で所領に与えた骨寺村に「岩井郡在之」と付記あり、磐井郡は清衡の頃には岩井郡と呼ばれていた。清衡は、東国の救世主となり東国の独立を標榜した平将門の再来を自負して、将門に倣って豊田から岩井に本拠を移したのであろうか。
 高橋富雄著「平泉の世紀」に「清衡が豊田館を移して平泉府館を定めのも岩井の地である。平仄があいすぎる。偶然以上のものを考えないわけにはいかない」とあった。


【藤原清衡に関する私的考察】

①平泉開府までの空白の8年間

 みちのくは道の奥、陸奥は陸の奥の意といわれ、平安京の都人にとって東国の地の果てであり、みちのくに住む民は、野蛮な異民族と見做され、大化の改新以後には、律令体制にまつろわぬ蝦夷と侮蔑されてきた。
 陸奥の蝦夷酋長安倍頼時は、岩手県中部に位置する奥六郡を支配して朝廷への貢租を怠り陸奥国府と対立、永承6年(1051年)に源頼義・義家親子率いる国府軍との間で「前九年の役」が起り、当初国府軍は苦戦するが、出羽の俘囚長清原武則・武貞親子が頼義の要請に大軍を率いて参戦、康平5年(1062年)の厨川の決戦で国府軍が勝利して安倍氏は滅亡した。安倍頼時の娘婿の藤原経清は斬殺され、妻の安倍氏女は幼い清衡を連れ子に敵将の清原武貞に再嫁した。
 奥羽の覇者となった清原氏の当主武則・武貞親子の死後、永保3年(1083年)に清原氏が二分して「後三年の役」が起きる。武貞の先妻の嫡男真衡と後妻(安倍氏女)の次男家衡と後妻の連れ子清衡が対決、勝利した真衡が急死すると、義家の戦後裁定を不服とする家衡が清衡の館を襲撃、義家の支援を得た清衡が、寛治元年(1087年)に家衡を破り奥羽の支配者となった。
 清原氏の内紛に乗じて奥羽(白河以北の東北全域)を制覇した清衡が、平泉に本拠を移して中尊寺を建立した供養願文に「徼外の蛮陬たりと雖も界内の佛土と謂うべし」と詠い、未開の野蛮な外社会に仏国土の平和郷を築いたのは、嘉保年中(1095年前後)といわれる。
 清衡が奥羽の覇者となって、平泉に仏国土を開府するまでの8年の間に、何があったのだろうか。
 8世紀に入り朝廷の収奪に抵抗する東国蝦夷の反乱が多発、朝廷は鎮圧のため征夷軍を数世紀に亘り派兵してきたが、奥羽の蝦夷社会を制覇した清衡は、かかる朝廷との間にどのような関係を構築していったのだろうか。私の好奇心は、清衡の空白の八年間に誘われた。

②平安京の摂関政治と院政

 桓武天皇が延暦13年(794年)に長岡京から山城国の平安京に遷都した。平安時代の幕開けである。
 桓武の皇位継承に功労のあった藤原氏が国政の中枢を担い、貞観8年(866年)に太政大臣の藤原良房が臣下初の摂政になると、藤原北家良房流が天皇の外戚として摂政・関白の要職を代々独占する、摂関政治である。
 寛仁2年(1018年)政敵を失脚させ政権を掌握して栄華を極めた藤原北家摂関家の道長の歌がある。
  この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 
       欠けたることも 無しと思へば
 前年に摂政を長男頼通に譲った道長は、二男教通を権中納言、左大臣に従兄の顕光、右大臣に叔父の公季、三人の娘を一条天皇、三条天皇、後一条天皇の中宮に入れて、まさに道長の摂関全盛期であった。
 道長の子頼通も関白を50年務め、父と共に藤原氏の全盛期を築くが、自身が女子に恵まれず、後冷泉天皇の皇后にした一人娘にも皇子が産まれず、頼通の晩年に藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位した。
 後三条天皇は、翌延久元年(1069年)の荘園整理令を摂関家領にも適用を拡大、国司の財源となる公領を圧迫する荘園を整理し、国衙領に戻すだけでなく院や天皇家への荘園の寄進を集中させ、皇室の財源を強化して権威の回復を図り、摂関家の経済基盤に打撃を与えた。
 更に桓武天皇以来の懸案である征夷完遂のため、翌延久二年に陸奥守源頼俊を派兵し、蝦夷を攻略して下北半島まで本州全土を支配下に入れ、天皇親政を進めた。

 延久四年に病のため譲位すると、母と妻が藤原氏の白河天皇が20歳で即位する、父に倣って天皇親政を押し進め、承保2年(1075年)に荘園整理令を発布して荘園管理に注力する。頼通の長男師実が摂関政治を復活させるが、応徳3年(1086年)に故後三条上皇の定めた皇位継承を無視して実子善仁親王に譲位、白河上皇となり幼い堀河天皇を後見する院政が始まる。

③清衡初上洛の背景

 白河上皇による院政が始まった5年後に、後三年の役で奥羽の覇者となった清衡が上洛してきた。
 関白師実の子師通の日記「後二條師通記」の寛治5年(1091年)11月15日の条に「盛長朝臣来云、関白殿御使也、清衡(陸奥住人也)馬二疋進上之由所仰也」朱註に「清衡始貢馬於殿下」とあり、清衡が摂関家に初めて貢馬したという。当時の最高献上品である奥州産の駿馬二頭を曳いて清衡の中央政界への初登場である。
 清衡の初上洛の目的は、なんだったのだろうか。「後二條師通記」の貢馬の後段に「文筥開見之處、二通解文申文等入於筥云々」とあり、貢馬と一緒に届けられた文箱を開けると、2通の解文と申文があったという。
 清衡が関白に何を頼み込んだのだろうか。荘園の寄進状といわれるが、清衡が師実に貢馬した直後の「後二条師通記」の11月21日に「関白師実が出羽庄の事について沙汰人に諮問した」とあり、摂関家領の荘園管理について、白河天皇の荘園整理令に基づき私領収公を進める出羽国司との間で緊張関係にあったようである。
 清衡は、所領寄進の見返りに在地領主として不輸不入権を得て奥州の実効支配の地位を上申したに違いない。後三年の役で奥羽の覇者となった清衡と出羽の荘園を国司に圧迫される摂関家の利害は一致していたのだろう。
 道長の玄孫で中御門右大臣藤原宗忠の日記「中右記」の寛治6年6月3日に「自陸奥国進国解、是清平企合戦、云々」とあり、清衡が関白に貢馬した翌年に、清衡に合戦企てありと、陸奥守の藤原基家が上奏してきた。
 後三年の役の翌年に陸奥守を罷免された義家の後任に赴任してきた基家と対立する清衡が、国司と事を構えるための、摂関家への根回しだったかもしれない。
 「中右記」の保安元年(1120年)には、越後小泉庄を巡って朝廷側の定使に清衡が訴えられた際、関白忠実の御厩舎人兼友が清衡の使に付いて申し開きしたとあり、師通の子忠実もまた、朝廷側の定使に訴えられた清衡を援けており、奥羽の摂関家荘園を国司国衙の収奪から守る役割を清衡に期待していたに違いない。

④「奥州後三年記」の編纂背景と清衡

 清衡が奥羽の覇権を掌握した後三年の役を記す「奥州後三年記」の編纂者を知る手懸りが下巻の中にあった。
 「武ひら家衡食物ことごとくつきて、寛治5年11月14日の夜、つゐに落をはりぬ、城中の家どもみな火をつけつ。烟の中にをめきののしる事、地獄のごとし」
 陸奥守源義家と戦う清原武衡と家衡が立て籠もる金澤の柵が落城した日が、なんと4年後に関白の使が師通の所に来て、陸奥住人清衡が関白に貢馬したと話していた日の前日と同じ年月日なのである。
 後三年の役の終戦日が、4年後に清衡が初上洛して貢馬した日と同じ年であるはずがなく、寛治元年の誤記なのは明らかだが、なぜ寛治5年と記されたのだろう。誤記の裏に何か作為が隠されているのではないだろうか。
 
 「奥州後三年記」は、出羽の清原真衡と叔父吉彦秀武の確執が発端となり、秀武の求めに応じて清衡と家衡が参戦するが、真衡の急死で休戦、家衡と清衡が対決する後半戦は陸奥守源義家が主役となり、奥羽の争乱を鎮圧した義家の武功と武徳が中心に語られ、朝廷に私戦と見做されて恩功なく敵将の首を道に捨てて虚しく帰京する場面で終わる、戦記史というより劇画的な物語である。
 清衡が貢馬した半年前の「後二條師通記」の寛治5年6月12日の条に「前陸奥守源義家、弟義綱ト兵ヲ構ヘントス、是日、宣旨ヲ五畿七道に下シ、義家ノ兵ヲ率イテ入京スルヲ停メ、又諸国百姓ノ田畠公験ヲ、義家ニ寄スルヲ禁ゼシム」とあり、陸奥守を罷免されていた義家は、朝廷に突き離されて苦境の最中にあった。
 義家が後三年合戦が私戦ではなかったと申し開きする証人として清衡を上洛させ、清衡からの要請で義家が介入した経緯を記して義家の武徳を讃える「奥州後三年記」を編纂させ上梓させたことを、後三年の役の終戦日を貢馬した日に故意に誤記することで、後世に伝えているのではないだろうか、まさに清衡のコードネームである。

⑤平泉遷都と中尊寺建立の背景

 寛治元年(1087年)に後三年の役の勝者となった陸奥守義家が、朝廷に私戦と見做されて左遷され、棚ぼたのように奥羽の最終勝者となった清衡が、嘉保年中(1094年から1096年)に豊田館から平泉に本拠を移して、最初の事業である中尊寺の建立に着手した。
 清衡が豊田館から平泉に遷都して仏国土を建設した理由とその原点は、いつどこにあったのだろうか。
 清衡が関白に貢馬した寛治5年(1091年)が、清衡の初上洛といわれているが、いみじくも清衡が平泉に本拠を移したとされる嘉保年中の3年前である。
 摂関家への貢馬のために初上洛した清衡は、京で何を見て何を学んだのだろうか。その時の見聞が、3年後の平泉移転と仏国土建設に繋がったことは明らかである。
 清衡上洛当時の平安京は、造寺造仏の数量をもって功徳を積むという風習が広がり、白河天皇に始まる「天皇の御願寺」ブーム下にあった。その高度に発展した荘厳な仏教文化が、みちのくの辺境で殺戮戦に明け暮れてきた清衡に大きな衝撃と感銘を与えたに違いない。
 承保3年(1076年)に白河天皇が洛東に造営した御願寺の「法勝寺」は、藤原道長が鎮護国家と仏法興隆を祈念して創建した法成寺をモデルにしたといわれる壮大な伽藍で、永保3年(1083年)に南庭に建立された高さ81メートルの巨大な八角九重塔は、東国から平安京に入る交通の要衝に聳え立ち、初上洛の清衡を迎えて、清衡もその威容に度肝を抜かれたに違いない。
 御願寺は、天皇や皇后のため祈願や追善を行う仏教寺院で、天皇一代の御願のみを修するため、法勝寺以降も堀河天皇が尊勝寺、鳥羽天皇が最勝寺、歴代天皇が勝の字を付けた御願寺を洛東に建立して「六勝寺」と呼ばれたが、法勝寺は六勝寺の中で最大の規模を誇っていた。
 白河天皇は「神威を助くるものは仏法なり、皇図を守るものもまた仏法なり」との考えで、国家と仏教を結び付けて権力維持を図るため、仏法を説く寺院として法勝寺を建立したともいわれている。
 初上洛した清衡は、当然に法勝寺の法話に招かれていたであろう。そこで説かれる仏法により世俗の世界が浄化されてこの世に極楽浄土が出現するとする考えが、殺戮に荒んでいた清衡の心に強く響いたに違いない。
  
 延暦13年(794年)に平安京へ遷都した桓武天皇は、122年前の壬申の乱で、大海人皇子(後の天武天皇)に敗死した大友皇子の弟志貴皇子の孫に当たる。
 天智天皇の第一皇子大友皇子から皇統を奪った天武天皇の皇統が文武、元正、聖武、孝謙、淳仁、称徳と続く中、藤原氏を巻き込む政争の中で、隠棲してきた天智天皇の曾孫山部親王が、天武皇統の異母弟の皇太子他戸親王とその母井上内親王を反逆罪で幽閉し死に至らしめ、父光仁天皇の譲位で桓武天皇に即位すると、奈良の平城京から長岡京に遷都、藤原種継暗殺事件の嫌疑で皇太弟の早良親王を流罪憤死させ、更に平安京に遷都させた。
 桓武天皇の平安京への遷都理由は、度重なる飢饉や疫病、近親者の相次ぐ不幸が、権力抗争で天武皇統の多くの皇族や実弟を粛清してきた怨霊の祟りと恐れ、旧体制の怨霊籠る平城京を逃れたともいわれている。
 朝廷による征夷の戦いだった前九年の役で、母方の安倍氏一族を滅ぼされ、父経清と叔父永衡が斬殺され、養子に入った清原氏の内紛で起きた後三年の役では、清原氏の兄弟(真衡、家衡)と叔父(武衡)を倒し、妻子たちが実弟家衡に襲撃される犠牲を払って、奥羽を制覇して初上洛してきた清衡は、300年前に多くの親族を犠牲に即位して平城京から平安京に遷都してきた桓武天皇に己の思いを重ね合わせ、安倍氏と清原氏の悍ましい怨霊籠る生まれ育った江刺の豊田館から、奥州衣川の平泉に新天地を求めて、戦いのない平和な仏国土を建設する構想を膨らませていったのではないだろうか。
  
 中尊寺落慶供養願文が「敬白、建立、供養し奉る、鎮護国家大伽藍一区の事」で始まり、清衡の仏国土建設の精神的支柱に、平安京の鬼門鎮護の天台宗総本山延暦寺に倣って天台宗の中尊寺建立を据えたともいわれる。
 更に供養願文に「禪定法皇を祈り奉る、太上天皇の寶算は無彊なり、御願寺と為し、長く國家區々の誠を祈らん」とあり、みちのくの地に、治天の君として君臨する白河法皇を奉り鳥羽天皇の永寿を称える公的な御願寺として朝廷の公認を受けることで、天皇の権威を背景に奥州藤原氏の正統性を主張していたに違いない。
 寛治五年の初上洛は、貢馬と奥州後三年記の上梓による摂関家との関係構築だけでなく、平泉に仏教による平和な社会を創生する貴重な上洛でもあったのだろう。

⑥平安京の法勝寺と中尊寺の伝大池跡

 令和元年11月に出場した尺八コンクール全国大会の会場となった京都アスニー一階「京都市平安京創生館」のフロアに上洛した清衡が初見えたであろう「法勝寺」の縮尺100分の1の復元模型が展示されていた。
 解説に「平安時代の終わり、今の岡崎の地に勝の字を含む六つの寺が建立された。白河天皇の「法勝寺」に始まり堀河天皇の「尊勝寺」鳥羽天皇の「最勝寺」など、法勝寺は有名な八角九重塔が建てられていた」とあった。
 縦横3、4メートル四方の伽藍模型の中心にある金堂は、両翼にコ字型廻廊を有し、南面に浄土庭園が広がり、池の中島に建つ八角九重塔は高さ81センチだが、初上洛を果たした清衡が、平安京の東玄関に聳え立つこの巨大な八角九重塔を前に立ちすくむ姿を思い浮かべてみた。

 京都市平安京創生館HPより


 この九重塔の姿を何かで見かけたようだと、京都から帰ってすぐ調べてみると、平泉中尊寺の讃衡殿に展示されていた金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図に、法勝寺の九重塔らしき宝塔が描かれていた。

 中尊寺HPより


 曼荼羅は、密教の経典に基づき主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像で、中尊寺の宝塔曼荼羅図は、金光明最勝王経全10巻を一巻毎に一枚の掛け軸に、経文を紺紙に金泥で宝塔の形に描かせ、写経と造塔造仏と経典解説の三功徳を一度に成就していた。
 この曼荼羅の宝塔は10層に見えるが、最下層に裳階を巡らせた九重の塔である。初層で結跏趺坐する釈迦如来が説法を行ない、塔の前面に浄土園池が広がり仏法を聴聞する者が集い、塔の周囲に経典内容を金銀泥により大和絵風の彩色画で描かれて、国宝に指定されている。
 法勝寺八角九重塔は、大日如来を中心に金剛界五仏が安置され、金堂と合わせて両界曼荼羅の世界を立体的に具現化されており、清衡は法勝寺で学んだ密教の世界を釈迦如来中心の浄土曼荼羅に融合させたのかもしれない。

 清衡が初上洛で見聞した法勝寺の伽藍に影響され、平泉への移転と中尊寺の建立を構想したことに間違いはないと思うが、平泉の中尊寺は、標高130Mの山上伽藍である。果たして京都盆地の平坦な東側に建立された法勝寺は、本当に中尊寺の原型だったのだろうか。
 改めて中尊寺の観光地図を広げてみると、数年前に会社OB有志の会で中尊寺を観光した折、メンバーに高齢者が多いことから、急勾配の月見坂ではなく南側の山麓を迂回して金色堂の裏から登った時に見かけた、三方を山に囲まれた伝大池跡と呼ばれる原っぱが思い出された。
 登り口近くの駐車場隣の池に、中尊寺ハスがピンクの花を咲かせて、金色堂の須弥壇の秀衡の棺に置かれていた四代泰衡の首桶の中から発見されたハスの実から開花させたと案内板にあったが、左手に広がる伝大池跡のことも記憶に残っていた。

 伝大池跡は、関山丘陵の山頂にある金色堂の裏側から桜川に下る緩い南斜面の下に、南北120M、東西60Mの原っぱが広がり、その真ん中に数本の樹木が生えた小山が、地山を均した地底の上に盛土して築かれた浄土庭園の中島だったことが発掘調査で確認されたという。
 中島の規模は、東西18~19M、南北26~27M、面積約350平方Mの広さで、普通の浄土庭園の中島ではなく、平安京の法勝寺の八角九重塔に匹敵する巨大な塔が建てるために築かれた中島のようである。
 中尊寺供養願文の冒頭に「敬白、建立、供養し奉る。鎮護国家大伽藍一區の事。檜皮葺堂一宇在左右廊廿二間、三重の塔婆三基、瓦葺経蔵、鐘楼、大門三宇、築垣、反橋、斜橋、龍頭鷁首晝船二隻」とある伽藍について、この伝大池跡が一時有力視されたが、近年の発掘調査で、伝小経蔵跡らしき礎石や瓦が発掘され、東に向いた浄土庭園の型式が確認はされたものの、供養願文に描かれる建造物や池泉橋脚の遺構は発見されなかったという。
 伝大池跡の北側の高低差10Mの高台に、現在宝物館の讃衡殿が建っており、清衡は大池跡に塔を頂いた浄土庭園を、後背のこの高台に法勝寺を模した寺院の造営を目指したが、地盤か地質か何らかの理由で大池跡への浄土庭園を断念、関山丘陵の尾根沿いの平地に庭園規模を縮小した弁天池を、周辺に金堂や阿弥陀堂などを配した現在の中尊寺伽藍を造営したのかもしれない。
 しかし法勝寺に見劣りする山上の中尊寺で清衡が満足するはずはなく、平坦な適地を探し出して法勝寺に匹敵する浄土庭園付き伽藍建立に挑み続けたに違いない。

⑦平泉毛越寺の円隆寺と嘉勝寺

 平泉の南玄関に当たる毛越寺では、毎年五月に南面に広がる大泉ケ池に龍頭鷁首の船を浮かべ、平安貴族の装束で優雅な曲水の宴が行われ、これぞ清衡が供養願文に描いていた世界である。毛越寺こそ、法勝寺に匹敵する清衡悲願の浄土庭園付き伽藍ではないのだろうか。
 毛越寺のホームページにある「臨池伽藍跡」に、願文の「左右廊廿二間」に比定できる翼廊を左右に広げた「嘉勝寺(左)」と「円隆寺(右)」が並んで描かれていた。


 
 「吾妻鏡」の文治五年九月十七日の条に「毛越寺の事、基衡之を建立す。先ず金堂を圓隆寺と号す(中略)嘉勝寺〔未だ功を終らざる之以前に基衡入滅す。仍て秀衡之を造り畢〕云々」とあり、円隆寺を基衡が、嘉勝寺は未完成のうちに基衡が亡くなり秀衡が完成させたという。
 しかし基衡が円隆寺の完成に続いて、同じ形で同じ規模の嘉勝寺を並べて建てる必要があっただろうかという疑問が浮かんできた。しかも嘉勝寺の位置が少し南側にずれており、隣接の円隆寺との並び方が不自然である。
 嘉勝寺は、嘉祥3年(850年)に慈覚大師が毛越寺の前身に創建した嘉祥寺跡に建立されており、祥を勝に置き換えて嘉勝寺に改名したのだとしたら、嘉勝寺こそ清衡が京の六勝寺を模した伽藍なのではないだろうか。
 初代清衡が手懸けたが、地盤などの問題があり建設途上で頓挫、二代基衡が東隣に円隆寺を新たに建立して南面に浄土庭園を造営、三代秀衡が祖父清衡の遺志を引き継いで未完の嘉勝寺を完成させたのかもしれない。
  
 毛越寺の発掘調査で、嘉勝寺翼廊の東廊の南端の柱穴が石敷を掘り込んでいたが、円隆寺翼廊の柱穴には見られないことから、大泉ケ池の護岸に玉石を敷き詰めた円隆寺の造営が先行すると結論付けられたというが、現嘉勝寺跡の玉石敷の下に、清衡が手掛けて未完に終わった古嘉勝寺の遺構が眠っているかもしれないではないか。
 供養願文には経蔵と鐘楼が独立して描かれているが、発掘調査で円隆寺跡の翼廊先端に確認された経蔵と鐘楼の遺構が、嘉勝寺跡には確認されておらず、嘉勝寺こそ清衡が願文に描いていた伽藍なのではないだろうか。

⑧「中右記」の清衡と清平

 清衡の名が中央に初めて現れるのは、藤原師通の日記「後二條師通記」の寛治5年(1091年)に関白師実へ貢馬する陸奥住人清衡だが、その後の清衡の動静について、同一人物と思われる記録が、中御門右大臣藤原宗忠の日記「中右記」の中に数件出てくる。
 私が確認しただけでも、寛治8年(1094年)5月4日に朝廷儀式で薪持役に「兵衛尉清衡」、承徳元年(1097年)正月30日の除目に「左衛門權少尉平清衡」、前述の保安元年(一一二〇年)六月の小泉庄事件での「清衡」の三件があった。
 清衡の薪持役が初上洛の3年後、承徳元年の除目で清衡のすぐ前に名のある源盛家が、清衡が貢馬した関白師実の家司、事件のあった小泉庄が、陸奥の平泉から日本海側を京に向かう往路に当たる、等から、兵衛尉清衡、左衛門權少尉平清衡、小泉庄事件の清衡の3人は、奥州平泉の清衡と同一人物と見て間違いないのだろう。
 「中右記」に「清衡」に類似した「清平」という名も出てくる。寛治6年(1092年)6月3日に「自陸奥国進國解、是清平企合戦云々」、天永2年(1111年)正月21日に「良俊行向陸奥国清平許如何」、そして「中右記目録」の大治3年(1128年)7月29日に「去十三日陸奥住人清平卒去云々、七十三」である。
 この清衡と清平を時系列的に並べると、清平(寛治六年)→清衡(寛治八年)→平清衡(承徳元年)→清平(天永2年)→清衡(保安元年)→清平(大治3年)とジグザグで、どうも「中右記」の著者宗忠は、清平と清衡が同じ人物とは考えていなかったようである。
 もし同一人物と承知していたら、大治3年の記事は「陸奥住人清衡卒去七十三」と明記したはずである。
 「中右記」の著者は、清衡と清平が何処の誰かを確かめることもなく、ただ伝聞を記録しただけなのだろう。

 清衡が奥羽の覇者となった後三の役を詳述する「奥州後三年記」に、清衡の父親が前九年の役の終わった康平5年(1062年)に斬殺された藤原経清だと記されており、これを定説とする裏付けに「中右記」の「清平卒去年令七三才」が決め手になっているのである。
 鳥羽上皇が編纂した「本朝世紀」の後三年の役が終わった1ケ月後の寛治元年12月26日に「是日、陸奥守義家朝臣言上斬賊徒武衡等首之由」と義家が賊徒武衡等の首を斬った旨を言上したと詳細に記されているが、同日の「中右記」は「今日進陸奥国解也、守義家朝臣追討俘囚了」と陸奥国司の報告を簡潔に記しただけである。
 朝儀に通じ公事次第を詳細に記す「中右記」の著者宗忠にとって、都から遠く奥州で起きた争乱、まして陸奥の住人の死亡など、興味も関心もなかったに違いない。
 宗忠が記した大治3年の「陸奥住人清平卒去七十三」の没年令が、裏付けを取ることなく伝聞されたままを記しただけだとしたら、清衡の出自に関わる重要な裏付け史料として、信用していいものか甚だ疑問である。 
 奥州藤原氏二代基衡と三代秀衡の没年令が、今なお不明にも関わらず、初代清衡の没年令だけが、当時の京に伝わっていたこと自体信じ難いが、なぜ清衡没年令七三才が伝聞されたのか、その背後を探ってみたい。

⑨清衡の父は藤原経清ではなかった(私説)

 「後二条師通記」と「中右記」に登場する清衡には、姓が付いておらず、承徳元年の除目で初めて平清衡を名乗っていたが、なぜ実父といわれる藤原経清の藤原氏ではなく、清原氏でもなく、妻の姓といわれる平氏なのだろうか。藤原氏を名乗れない事情があったのだろうか。
 実父とされる経清が、前九年の役で陸奥守頼義の配下から賊軍の安倍方に寝返って、斬殺された首が安倍貞任、重任と共に京に送られた朝敵だったからだとしても、それから既に35年もの歳月が経っている。
 清衡が関白師実に貢馬したことを日記に記した師通も三年後に父師実を継いで関白になっており、白河上皇の院政下でなお、政権の中枢にいる二人と誼を結ぶ清衡が同じ藤原北家流れの経清の実子であれば、貢馬の六年後の叙任時に藤原氏を名乗れないはずはないだろう。
 清衡の父はどうも藤原経清ではなかったらしいという話が、同人誌「まんじ」へ寄稿してきた「私の伊達政宗像を訪ねて」の下調べの中で、仙台市台原の白水稲荷神社を調べる最中に、偶然に出合った藤原相之助氏の著書「郷土研究としての小萩ものがたり」(昭和8年4月発行)の中にあった。 
 「平泉の初祖藤原清衡の母は、衣河の安倍頼時の女で、藤原秀衡の後裔亘理権太夫に嫁し、一子を挙げたが権太夫討死の後、連れ子をして出羽の清原武則に再嫁した。その連れ子が清衡であるとは従来の定説のやうだが、之は清衡が藤原氏と稱した理由の故事附けで、その實清衡は母の連れ子ではなくて武則の實子らしいのです。この事は清衡の死亡の年齢を逆算しても知れ、又金色堂の棟札によっても證せられます」
 亘理権太夫は藤原経清、清衡の母が再嫁した武則は長男の武貞の誤りと思うが、少なくとも清衡が母の連れ子ではないらしいとは、その時は「小萩物語」の内容に囚われて気にも留めず読み過ごしていたが、考えてみると東北古代史の常識を覆す衝撃的な話ではないか。

 藤原相之助氏は仙台戊辰史の著者で仙台市史編纂主任という当時の東北古代史の権威である。それ以上の追及はされなかったが、逆算しても知れるとは、73才死亡説に疑念を持たれていたことだけは確かなようである。
 この話をどこかで見た記憶があり、手元の書籍を調べてみると、高橋富雄氏が著書「奥州藤原氏四代」(昭和33年初版)で、清衡の没年令について触れていた。
 「『中右記』の記すところによって、藤原清衡は大治3年(1128年)7月13日に73歳を以て死去したことがわかる。(中略)73歳というのにも問題はないでもない。というのは、その時には71歳でなければならぬ天治3年=大治元年(1126年)のその供養願文には「已に杖郷の齢を過ぐ」とあって、杖国の齢を過ぐとはないし、それに近いともないので、天治3年にはまだ六〇代であったのではないかと思われるからである(『礼記』によると、五〇を杖家、六〇を杖郷、七〇を杖国、八〇を杖朝というのである)。しかしここではすべて『中右記』に従っておく。そうすればすでに龍粛氏が「奥州藤原氏三代の事蹟」にのべられたように、清衡が生まれたのは天喜4年(1056年)で前九年の最中のことになり、父経清が運拙く敗死する康平5年(1062年)には7歳であった」

 高橋富雄氏は、清衡の没年令が73才であれば、2年前の中尊寺供養願文作成された年に、清衡は杖国(70才)を過ぐ、とあるはずと言いながら、それ以上の詮索はしなかったが、清衡の父が経清ではなくなる可能性がある重大事項であり、とても見過ごすわけにいかない。
 已に杖郷(60才)の齢を過ぐという年令が、62、3才位とすると、中尊寺供養願文の天治3年(1126年)から逆算して清衡が生まれた年は1064年頃になり、経清が斬首された康平5年(1062年)の2年後では、母が敵将清原武貞に再嫁した後に生まれたことになり、前夫の経清が清衡の父親にはなりえない。
 
 そしてもう一点、高橋富雄氏は指摘していなかったが、中尊寺供養願文の「己に杖郷の齢を過ぐ」の38文字前に「垂拱寧息して三十餘年」という下りがある。
 垂拱とは、衣の袖を垂れて手をこまぬく意から、何もしないでいること、天下のよく治まるたとえである。 清衡は世が垂拱した30余年後に、杖郷の齢の60才を過ぎたという、垂拱したと語る年はいつのことだろうか。清衡の実年令を解明する重要な手懸りである。
 清衡は、寛治元年(1087年)に陸奥守源義家の支援を受け、後三年の役の最終勝利者となったが、翌寛治2年に義家が私戦だったと見做され陸奥守を解任されると、後任に赴任してきた藤原基家が清衡と対立して、とても垂拱寧息したと言える状況ではまだなかった。
 清衡が上洛して関白師実に貢馬した寛治5年の翌年に、その基家が清衡に合戦の企てありと朝廷に解文を送っていたが、翌7年(1093年)に任地の陸奥で卒去、兄義家と不仲な弟義綱が後任陸奥守に就任してきた。
 義綱が出羽で起きた反乱を鎮圧した功で嘉保2年(1095年)正月に美濃守に転任、後任に清衡に協力的な村上源氏の源有宗が陸奥守に就任してきた。奇しくも清衡が平泉に本拠を移したとされる時期である。
 衣川以北の奥六郡を支配する安倍頼時が衣川の外(以南)に進出したため、朝廷が源頼義を追討将軍に任じて前九年の役が起きたという経緯から、後三年の役を経て清衡が衣川以南の磐井郡平泉に本拠を移転したということは、奥羽の押領使として朝廷からの独立宣言であり、この嘉保2年こそ清衡垂拱寧息の年ではないだろうか。
 清衡の垂拱した年が嘉保2年(1095五年)で、その30余年後に杖郷(60才)を過ぎていたとすると、垂拱した時期の年令が30過ぎ、生年を逆算すると1064年頃となり、アプローチ方法を変えても、1062年に斬死した経清は、やはり清衡の実父にはなりえない。

 もし清衡の実父が清原武貞ではなく藤原経清だったとすると、敗軍の将の妻の連れ子として清原氏本拠の出羽から遠く離れた陸奥の江刺郡豊田館に居残って成長した清衡を支える勢力が、25年前に滅亡した安倍氏の残存勢力だけでは、当主清原真衡の急死による後継者争いに、30前後の清衡が、清原氏を二分して武貞の実子である家衡に勝利して清原氏を正統に継ぐだけの力と後援を果たして得られるものだろうか、甚だ疑問である。
 前九年の役を記す「陸奥話記」に、安倍軍が立て籠もる厨川の柵を攻略した頼義は、生虜の経清を鈍刀で斬首、安倍貞任・重任兄弟を斬殺、13歳の貞任の子童も斬り、則任の妻は3歳の兒を抱いて深淵に投死したとある。
 生虜になった経清に対して頼義が「汝、先祖相傳に予の家僕たり。朝威を忽諸して、旧主を蔑如するは、大逆無道なり」と苦痛を長引かせるため鈍刀で斬首、更に京に晒し首にさせた程に憎んでいた逆臣経清に遺児がいたら、貞任の息子を斬死させた頼義が見逃すはずがない。

 安倍軍の首魁貞任の子童が捕らわれて斬殺された経緯について「陸奥話記」は「貞任の子童は、年十三歳にして名を千世童子と曰う。容貌は美麗なり。甲を被り柵外に出てて能く戦ふ。驍勇の祖風有り。将軍は哀憐してこれを宥さんと欲す。武則は進みて曰く「将軍、小義を思いて、巨害を忘れることなかれ」と。将軍は、頷きて遂にこれを斬る。城中の美女数十人。皆、綾なる羅を衣ふ。悉く金翠を粧して烟に交りて悲しみて泣きこれを出ずる。各軍士に賜ふなり」と記していた。
 頼義は貞任の子を助命しようとしたが、清原武則が生かしておいては成長したら将来恨みを晴らそうとして危険だと進言して斬殺させたとあり、その武則が、経清の息子(清衡)を連れ子にする安倍頼時の娘を、息子武貞の妻に迎えることを果たして許すものだろうか。
 岩手大学教授樋口知志氏が著著「前九年・後三年合戦と兵の時代」で、前九年の役の敗戦で投降し助命された安倍宗任と正任そして経清の妻が、安倍頼時と清原光頼の妹との子で、捕えられ斬殺された貞任と重任は、頼時と磐井の金為行の妹との子ではないかと推論していた。
 であれば、光頼が頼義の参戦要請に容易に応じなかったことも、武則が甥の宗任・正任らを助命し姪に当たる経清の妻を息子武貞の後妻に認めたことも納得である。
 武則は、安倍氏を牛耳っている主戦派の貞任を排除して、清原氏の女系親族である宗任を清原氏の後見の下で安倍氏嫡宗を継承させて、自らも論功行賞に鎮守府将軍を条件に参戦したのであろうとも論じていた。
 武則が貞任の子を殺させながら、経清の子は殺さなかっただけでなく、息子の養子に迎えて成育させたのも、清衡の母が武則の姪であれば、あり得たかもしれない。

⑩清衡の藤原氏賜姓工作

 定説が清衡を藤原経清の子とする根拠は、後三年の役を詳述している史書「奥州後三年記」上巻の合戦発端の項に「みちの國に清衡家衡といふものあり。清衡はわたりの權太夫經清が子なり。經清貞任に相ぐしてうたれにし後、武則が太郎武貞、經清が妻をよびて家衡をばうませたるなり。しかれば清ひらと家ひらとは父かはりて母ひとつの兄弟なり」と記されていたことによる。
 本稿の④の後段で論述したように「奥州後三年記」が、清衡が貢馬と一緒に関白に上梓したものだとしたら、後三年の役の経緯と顛末を、更迭された源義家の武功と武徳を称賛する内容で編纂した上で、更に自分が母の前夫だった経清の子だったと記させ、併せて摂関家に藤原氏の賜姓を申し出ていたとは考えられないだろうか。
 自分を経清の子と記す「奥州後三年記」と辻褄を合わせるため、関白に上梓する際に自分の生年を経清死の7年前と申告していたのではないだろうか。この清衡生年の伝聞情報が、後に「中右記」著者藤原宗忠に大治3年に没した清衡の年令を73才と記させたのかもしれない。
 経清の子には清衡の外に「陸奥話記」に藤原経光の名が「白石氏家譜」に家祖として刈田経元の名があり、二人の緯が経で、清衡とは異母兄弟だったようである。
 正室の外に側室が幾人もいた時代である。経清に現存史料にない男子が他に存在していても不思議はなく、母が再嫁した武貞の子でありながら、経光のように戦死した史実に残らない前夫の子にすり替わり、経清の実子と称して藤原氏を名乗ろうとしたことは考えられよう。

 奥州藤原氏三代秀衡は、元陸奥守兼鎮守府将軍藤原基成の娘を正室に迎えて、その嫡男が四代泰衡である。基成は藤原北家流で初代摂関藤原良房の十三代、泰衡の代で名実とも正式な藤原氏となったのではないだろうか。

⑪清原氏の通字変遷(「頼」→「武」→「衡」)

 奥州藤原氏は、初代清衡、二代基衡、三代秀衡、四代泰衡、泰衡の兄弟が国衡、忠衡、高衡、通衡、頼衡、いずれも「衡」を通字にしている。
 清衡の父は定説で藤原経清とされ、私説で武貞と考えているが、通字の「衡」は、誰から受け継がれたのだろうか。清衡のルーツに繋がるもう一つの関心事である。
 安倍頼時の娘を妻に迎えて、経清と義兄弟となり、「前九年の役」で源頼義に特徴的な甲冑から謀叛を疑われて斬殺された平永衡から「衡」の字、経清から「清」の字を併せて「清衡」としたとする説があるが、母の連れ子として敵将清原武貞の養子となった経清の遺児だとして、逆賊永衡の「衡」を付けるものだろうか。
 清原氏系図をよくみると、通字の系統が見えてくる。武貞の祖父武頼の「頼」が父武則の兄光頼、その子頼遠に、武頼の「武」が父武則と息子の武貞、武衡に継がれて、清原氏は「頼」と「武」の二系統が並存している。
 「陸奥話記」に記載されている頼義に参軍した清原軍を率いる七将の名は、武貞、貞頼、秀武、頼貞、武則、武忠、武道、全員に「頼」か「武」が付いており、清原氏は「頼」と「武」の二系統の同族連合体制だったが、「前九年の役」の後半に、清原氏を参戦させてその武功で鎮守府将軍になった武則が、参戦に消極的だった兄光頼に代わって実権を掌握すると、清原氏は二系統の同族連合体制から「武」系統の単独支配体制に移っていく。
 しかし二一年後の「後三年の役」では、武貞の先妻の子に真衡、後妻の子に清衡・家衡、嫡男真衡に子がなく海道平氏から養子に迎えた後嗣に成衡、いずれも「衡」を通字にしており、清原氏は「武」から「衡」の系統に移っていた。この間に清原氏に何が起きたのだろうか。

 清原氏系図に、最初に「衡」の字が現れるのは、武貞の弟「武衡」である。武衡の脇書に、将軍三郎、住石城郡とあり、鎮守府将軍武則の三男で、岩城の海道平氏に養子に出されていたといわれる。武貞の子ら全員に「衡」が通字に使われており、どうもこの武衡が「衡」の元祖のようである。(最終頁の相関図参照)
 武衡は、後三年の役を記す「奥州後三年記」の後半に初めて登場して「将軍国解を奉て申やう、武衡、家衡が謀反すでに貞任、宗任に過たり」とあり、奥州後三年記の後半戦の主役は、源義家と武衡に変わっていた。
 しかし後三年の役が始まる以前に、既に兄武貞の子ら全員に弟武衡の「衡」の通字が付いており、清原氏の通字が「武」から「衡」の系統に移る武貞から武衡への政権移動が、後三年の役の前に既にあったのだろう。武貞が普通死では、通字の変遷は起り得ないだろう。兄弟の間に何があったのだろうか、想像を巡らせてみた。
 前九年の役と後三年の役の間の延久2年(1070年)に陸奥国で起きた延久蝦夷合戦の戦後論功で、清原貞衡なる武将が鎮守府将軍に任ぜられていた。
 この貞衡が、武貞の別名とする説があるが、武貞の嫡男真衡を貞衡に誤記したとする説が有力とされる。
 武貞が祖父・父から三代受け継いだ通字「武」を捨ててまで貞衡に改名する理由は考えられず「真」を「貞」と誤記したとする有力説のとおり、前将軍武則の直系の孫真衡が鎮守府将軍になったのだとすると、武則の子で真衡の父武貞は、将軍にならずにどうしたのだろうか。
  
 前九年の役が終わって僅か8年の間に武貞に何があったのだろうか。後妻に迎えた敵将経清の元妻で安倍頼時の娘との間に生まれた清衡と家衡を、後妻共ども武貞が溺愛して先妻の子真衡を疎んじていたとしたら、真衡と武貞との間に父子の確執があって不思議はない。後に起きた後三年の役は、真衡と清衡・家衡の戦いである。
 兄武貞の子全員に弟武衡の「衡」の通字が付いていること、真衡の後継者に岩城の海道平氏から養嗣子を迎えていることから類推すると、武貞と真衡の父子相克の対立と清原氏内の出羽清原氏本流と陸奥安倍氏旧勢力の主導権争いに、海道平氏に養子で出ていた叔父武衡が帰国して甥の真衡を援け、安倍氏に傾倒する武貞を追放する政変が武衡主導であったに違いない。

⑫「奥州後三年記」の清原武衡

 清原氏の通字を「武」から「衡」に変えた清原武衡が史書に登場するのは、後三年合戦の後半からである。
 清原氏嫡流の真衡に後嗣の男子なく、清原一門からでなく海道平氏から成衡を養嗣子に、その妻に源頼義の娘を迎え、その祝い席で叔父吉彦秀武の無礼を怒った真衡が成敗の兵を挙げて後三年合戦が始まり、真衡の異母兄弟清衡と家衡が吉彦秀武を、陸奥守義家が真衡を援けた。
 真衡の急死で休戦、義家の清衡に有利な戦後裁定を不服とした家衡が清衡館を襲撃して妻子を殺害、沼柵の攻防戦で清衡と連合する義家に勝利すると、陸奥の武衡が出羽の家衡のもとに「家衡が国司を追い返した名声は武衡の面目なり」と参戦してきたと奥州後三年記にある。
 「百錬抄」の寛治元年12月26日に「陸奥守義家言上斬賊徒平武衡之由」と武衡を平氏と呼んでおり、真衡死後の後半戦は、父武則の逝去で岩城から出羽に帰国して兄武貞を倒し清原氏を掌握していた平武衡が、真衡に加勢していた源義家の奥羽への野望に抵抗して家衡を巻き込んで挙兵した奥羽防衛戦だったのだろう。
 源氏を礼賛する「奥州後三年記」の編者は、清衡と家衡の対戦に武衡を途中から参戦させることで、源氏と平氏の私的合戦ではなく、源義家による奥羽争乱の鎮圧戦にすり替えて戦記物語化したのではないだろうか。
 「奥州後三年記」は、その武衡の最期について、ことさら悪意に満ちた残忍な手口を詳細に記している。
 武衡は、甥の家衡を応援して清衡・義家との戦いに敗れ、城中の池に飛び込み水に沈んで顔を叢に隠し、捕えられるとただ一日の命を請うが、義家は降人にあらずと斬首させた。更に義家は、源氏を誹謗していた千住の歯を金箸で折り舌を切り木の枝に吊るし、足元に武衡の首を置いて、千住が力尽きて武衡の首を踏むのを喜んだとあり、人格を貶められた最期はあまりに劇画的である。
  
 「奥州後三年記」に上中下の三巻あり、真衡の死後に清衡・義家軍と武衡・家衡軍が対決する中・下巻を見ると、義家の名が22回、武衡の名が28回、家衡の名が17回登場してくるが、清衡の名は中巻の冒頭に一回だけで、主役は武衡である。最終勝利者として奥羽の覇者になった清衡の影が薄いのは何故なのだろうか。
 朝廷から奥羽を簒奪した元凶と見られていた清衡の関与を隠蔽し、合戦途中から武衡を参戦させて家衡を煽動した悪役に仕立て上げ、後三年の役を義家が武衡の謀反を鎮圧する聖戦にすり替えるのが狙いだったのだろう。
 武衡は「奥州後三年記」の主役となり、無様な死に際を曝したが、その平武衡の娘が北方平氏として、清衡の妻となり、中尊寺経の願主となり、二代基衡の母となったのだとしたら、まさに歴史ロマンの主役である。

⑬金色堂棟木墨書から見える藤原清衡の相関図

 明治30年に行われた中尊寺金色堂修理の際、棟木に「大壇散位藤原清衡 女壇、安部氏、清原氏、平氏」と墨書されていたことが発見された。
 東北古代史研究の第一人者高橋富雄氏は、女壇三人の安部氏を母の頼時女、清原氏と平氏を清衡の妻の一人と考え、安倍氏、清原氏の二つの俘囚政権と在地一切の族長たちを踏まえて成立した第三の俘囚族長政権としての平泉政権の史上の位置が、血の上のつながりで示されていると著書「奥州藤原氏四代」に述べている。
 墨書銘文は「天治元年歳次甲辰八月廿日甲子建立堂一宇長一丈七尺、廣一丈七尺、大工物部清國、大行事山口頼近、小工十五人、鍛冶二人、大壇散位藤原清衡 女壇安部氏、清原氏、平氏」とあり、建造年月日と寸法に大工と大行事の名前まで記されており、大工棟梁が上棟式の模様を棟木に記録したものなのだろう。
 墨書の天治元年(1124年)は、清衡が没する大治3年の4年前である。中尊寺開創の年は、鍾銘から長治2年(1105年)といわれ、金色堂の建立は、清衡が20年掛けた中尊寺伽藍のいわば総仕上げであった。
 極楽浄土を具現した阿弥陀堂であり己の葬堂でもある金色堂の上棟式に臨む老いた清衡を支えるように寄り添う3人の女性の姿が私には浮かんでくる。
 棟木墨書の女壇三氏は、金色堂の上棟式に参列する清衡に最も身近な女性だったのではないだろうか。
 安部氏女は、定説では清衡の母で安倍頼時の娘とされるが、金色堂の上棟の頃には既に故人である。安倍氏系図をみると、頼時の三男宗任の娘で、後に基衡の正室になり秀衡の母となる女性がおり、滅亡した安倍氏一族の数少ない血族であり、清衡にとって大切な従妹である。
 清原氏女は、定説では同母弟の家衡に館を襲撃されて殺害された正室とされているが、38年も前の出来事である。女壇三氏の並び順が序列とすると、中央に書かれた清原氏が長男惟常の母で、清原氏当主武貞の先妻との娘か武貞が清原一族から養女に迎えた女であろうか。

 平氏女は、清衡発願による紺紙金銀字交書一切経の大般若経巻第22と第30の巻末奥書に「元永二年、大檀主藤原清衡、北方平氏」とある願主の北方平氏で、清衡の正室で次男基衡の母とされるが、正室が北方(きたのかた)と呼ばれるのは3位以上の貴族で、清衡は正六位上、基衡が庶兄惟常を倒して家督を簒奪するのは北方平氏と奥書された11年後、当時まだ正室ではない。
 北方が正室ではなく方角の北の意で、南の海道平氏に対して北の出羽に居る平氏を北方(ほっぽう)平氏と呼んでいたとしたら、養子先の海道平氏から出羽に戻っていた平武衡が北方平氏で、その娘が清衡の側室となり次男基衡の母ではないだろうか。長男でなく次男に衡の通字が付いたのは武衡の孫だったからに違いない。
 藤原清衡を巡る相関図を、金色堂の棟木墨書女壇三氏をベースに作成してみたので次頁に掲載する。
 清衡を藤原経清の実子とする定説と清原武貞の実子と考えた私説を並記、墨書女壇の安部女を清衡の従妹、清原氏を武貞の先妻の娘、平氏女を武衡の娘と想定した。独善的な相関図だが、拙論に併せて参照願いたい。

 三衡画像 上:清衡 右下:基衡 左下:秀衡


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