【神奈川県①:サザンの湘南海岸を走る】
宮城蔵王の麓に育ち、青く広い海に子供の頃から憧れてきたが、マラソンを始めて1年後の2008年1月に太平洋を望みながら千葉県南房総を走る館山若潮フルマラソンに挑戦、制限時間をオーバーしながら涙のゴールを果たした10ケ月後、神奈川県の相模湾を望みながら走る「湘南国際マラソン」にエントリーした。
湘南といえば我々世代にとって、やはりサザンオールスターズである。病から復活した桑田佳祐の歌が聞こえてくる。そして若大将加山雄三の湘南サウンドを思わず口ずさんでしまう。
若者のメッカであり青春のシンボルである湘南海岸を雪化粧の麗峰富士を望みながら1万5千人が走る湘南国際マラソンは、ランネット100撰の3位にランクされる、東京、長野マラソンに次ぐ人気の大会である。
湘南という言葉が醸す大正昭和ロマンの響きと小室哲哉の奏でる湘南乃風の若者たち、そして広大なシーサイドリゾートプールの大磯ロングビーチをメイン会場に、正月箱根駅伝の大磯・江ノ島間を、往路は相模湾と江の島を、復路は富士山を望みながら、フラットでほぼ直線のコースを折り返す制限時間六時間のゆったりフルマラソンで、多くの外国人と走れる国際大会というメジャーなネーミングも本大会エントリーの動機だったが、還暦を過ぎてなお、まだまだミーハーなのかもしれない。
湘南国際マラソンは、2007年3月に第1回が開催されたが、その前月に始まった東京マラソンが来年から3月開催に変更されたため、来年3月に東京と重なる第三回湘南国際マラソンが、今回の11月開催に変更になった。そのお陰で今回の湘南国際と4ヶ月後の東京マラソンの両方が走れることになりラッキーである。
【湘南の大船と江の島と大磯を訪ねて】
大会前日早朝に埼玉の自宅を出立、湘南新宿ラインで大船駅に途中下車、白亜の大船観音を拝しながら、路線バスで同期入社のY君を自宅に見舞った。
入社式直後の研修所で同室となって以来、何かにつけて親しくしてもらってきた、いつも同期の集まりの中心にいる人望の持ち主で、病床の彼を励ますつもりだったが、病と闘いながらなお気負いなく自然体で語りかける姿に、頑張る力を貰ったのは私の方かもしれない。
大船駅から湘南モノレールで紅葉付いた西鎌倉の町並みを江の島へ向かった。明日のマラソンコースの折り返し付近の下見のつもりだったが、観光客で溢れ高層リゾートマンションが林立、巨大なコンクリート橋になった弁天橋は、葛飾北斎の描いた江の島ではなかった。
弁天橋から目の前に広がる相模湾と西に延びる湘南海岸を望みながら、明日はあの長大な海岸線を走るのかと思うと気が遠くなってくる。あいにくの曇天で富士には会えなかったが、霊峰富士は明日に期待しよう。
片瀬江ノ島から藤沢駅経由で大磯駅に下車、大会会場の大磯ロングビーチに向う路線バスは、当日受付がなくなり前日受付のみになったためか大渋滞、3キロを1時間近くかけてようやく到着、ロングビーチの広い敷地に迷いながらどうにか受付を済ませた。
イベント会場のステージで大会応援団長の湘南ボーイ徳光和夫さんとゲストランナー千葉眞子さんが軽快なトークで大会を盛り上げていた。しばし前日祭の雰囲気を楽しんでいると、西の空に茜色の薄日が差してきた。
【鴫立庵と武相荘と白洲正子の華麗なる一族】
前日受付を無事に終わせたが、大磯ロングビーチからの帰りのバスも大渋滞となり、途中で止まってしまった。すっかり陽が落ちて暗くなる前にどうしても立ち寄りたかった鴫立庵まで歩くことにして、ひとつ手前のバス停で途中下車した。
西行の歌で有名な鴫立庵は、俳諧師の大淀三千風が元禄8年(1695年)に大磯に鴫立庵を結び、西行五百回忌に合わせて西行堂を建立、京都の落柿舎と滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つと言われる。
不確かな記憶を頼りに車のライトが激しく行き交う国道一号線を文字通り五里霧中、ようやく灯りの消えた黒い塊のような空間が見えてきた。暗がりの底から微かな滝の流れ落ちる音に誘われ、僅かな光を頼りに暗い石段を下りると、茅葺きの「鴫立庵」が朧げに見えてきた。
随筆家白洲正子が、著書「自伝」の中で、大磯の鴫立沢近くに祖父樺山資紀の別荘二松庵があり、幼い頃によく遊びに行ったと書いており、大磯に行くことがあればぜひ鴫立沢を訪ねてみたいと思っていた。
白洲正子の名は町田市に住む友に教わり、2年前に鶴川にある茅葺き屋根の「武相荘」を案内してもらった。
白洲は、アメリカとの戦争が始まれば食べ物の確保が一番必要だと町田市鶴川に農家を買い上げ、開戦翌年のドーリットルの東京初空襲にヨーロッパの状勢を知る二人はいち早く疎開、武蔵国と相模国の境の地にあることから無愛想をかけて武相荘と命名したという。
大きな古民家で、土間や囲炉裏端のアンティックな空間と書物が積み上げられた書斎にしばし佇み、正子の後半生の暮らしぶりを体感した。幼く能に親しみ14才で米国に留学した才女で、確かな審美観と精緻な文章で日本の美を追求する著書を何冊か読んできた。
武相荘の展示品から、終戦直後の日米外交交渉に活躍した夫白洲次郎の存在を初めて知った。
昭和六年に貿易会社のセール・フレイザー商会に勤務、海外赴任で駐英大使吉田茂と親交を深めた縁で、戦後、外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任、GHQの要求に英国仕込みの英語で渡り合って従順ならざる唯一の日本人と言わしめたという。
戦後のサンフランシスコ講和条約受諾演説を外務省が作成した英文草案から長さ30mの日本語の巻紙に強引に書き直させ、しかも草案になかった沖縄返還に言及して吉田茂首相に読み上げさせた話には驚かされた。
正子の祖父樺山資紀は、薩摩藩士で戊辰戦争では鳥羽伏見から白河・会津に転戦、西南戦争では熊本鎮台参謀長として熊本城を死守、戦後警視総監兼陸軍少将に昇進、西郷従道の引きで海軍に転じ、山縣有朋内閣で第2代海軍大臣を務め、清と英国を仮想敵国にした海軍増強計画を提言した。日清戦争では海軍軍令部長に就任、巡洋艦に改造された西京丸に乗艦して黄海海戦を戦い、戦後に海軍大将へ昇進、初代台湾総督を勤め、その後、内務大臣、文部大臣を歴任し枢密顧問官となった。
正子の父愛輔は、米国とドイツに留学、貴族院伯爵議員に選任され、ロンドン海軍軍縮会議に随行、戦時中は近衛文麿や吉田茂らと終戦工作に従事、戦後は日米協会会長や国際文化会館理事長など国際文化事業に携わった。
正子の母方の祖父川村純義も薩摩藩士で、戊辰と会津戦争で奮戦、維新後は海軍整備に尽力し海軍の実質的指導者として海軍創始期を担った。純義の妻春子の父椎原国幹の妹政佐が西郷隆盛の生母、西南戦争では当初中立で私学校党の制止に務めた。明治天皇の信認篤く皇孫裕仁親王の養育主任となり死後に海軍大将に昇進する。
傍系をみると、正子の母常子の妹花子が後妻になった伯爵柳原義光の妹が愛人と失踪事件を起こした歌人の白蓮、義光の娘徳子が昭和8年に発覚した華族恋愛不倫事件の中心人物、徳子の夫が北原白秋らと耽美派の「パンの会」を結成した伯爵歌人の吉野勇、義光の父柳原前光の妹愛子は明治天皇の側室で大正天皇の生母である。
正子の姉泰子の嫁いだ近藤廉治の妹栄が、明治維新の元勲大久保利通の三男利武の妻で、利武の兄牧野伸顕の娘雪子の婿が吉田茂、その孫が麻生太郎である。
従一位伯爵海軍大将を両祖父に、西郷隆盛から大正天皇、吉田茂に及ぶ家系は、まさに華麗なる一族である。
昭和2年の昭和金融恐慌で正子の父愛輔が理事をする十五銀行が倒産、米国留学中の正子を帰国させ、永田町の屋敷を手放した父母と大磯別荘に移り住んだ。
神戸で父の経営する白洲商店が金融恐慌で倒産し英国留学から帰国して英字新聞記者になっていた白洲次郎は、正子の兄丑二の紹介で正子と知り合い、お互いに一目惚れで昭和4年に結婚、新婚生活を大磯で過ごしたという。
正子が幼い頃に遊びに行った鴫立沢近くの祖父樺山資紀の二松庵は金融恐慌の際に手放しており、新婚の正子と次郎が住んだ大磯別荘は山の手側にあったらしい。
【鴫立沢と白洲正子と西行法師】
足元の暗がりから微かに聞こえてくる滝の音は、鴫立沢であろうか。両親から薩摩隼人の血が流れて韋駄天お正を自称していた正子は、この沢を遊び場に男勝りに走り回っていたに違いない。著書「白洲正子自伝」の表紙を飾る軍服礼装の祖父樺山資紀の膝に抱かれた正子の写真は、鴫立沢近くの二松庵の庭で撮られたのだろうか。
近くに住む老教授の指導で日本古典文学に傾倒していったと述懐していた大磯は、まさに物書き白洲正子の原点の地である。白洲正子の息吹を感じながら、暗がりの鴫立庵を覗き込んでいると、表通りを通った車のライトが傍らの白い立札に当り、立札に書かれた西行の短歌が暗闇に浮かび上がってきた。
正子は、著書「西行と私」の中で、当時は海岸の松林が迫り茅葺きの西行庵が建ち、傍を小さな沢が流れ、隣に建つ祖父の住まいに遊びに来た幼な児の自分はここで自然に西行の歌を覚えたと書いていた。
行き交う車の明かりを頼りに、西行の短歌を、声を上げて読んでみた。
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮
秋の夕暮れに鴫が飛び立つ様に、ものの哀れを知ることが不十分な身でも、しみじみとした趣は自然と感じられるものだと歌う、俗世を捨てた修行僧と歌人の生活を両立させようと旅を続ける西行の生き様が見えてくる。
西行は、藤原北家魚名の五代秀郷を祖とする俗名佐藤義清、鳥羽院に仕える下北面武士であり歌人でもあったが23才で出家した。出家の動機について、厭世、失恋、政治的不満など諸説あり、失恋の相手が高貴な身分の女房、一説に鳥羽院の中宮・待賢門璋子といわれている。
正子は、風流を解する心までは捨てきれず、仏道に打ち込むわけでもなく、人恋しさに堪えかねている西行の姿に、矛盾だらけで捉えどころないと言いながら、持って生まれた不徹底な人生を正直に生き抜き、その苦しみを歌に詠んではばからなかった西行の生き方に憧れていたのかもしれない。
鴫立庵(訪ねた時は真っ暗に近かったため、鴫立庵の公式HPから写真を借用しました)
【湘南国際マラソン大会(2008年11月)】
前泊した横浜駅前ホテルを朝五時半にチュックアウトしたが、横浜駅ホームはランナー姿の老若男女が幾重にも列をなし、入線してきた東京駅始発の東海道線は既に満席、さながら終戦直後の引き揚げ列車の様相である。
各駅に停車する都度、ホームに整列していた乗客が列を乱して2ドア車両に殺到、車内通路は満杯状態で、藤沢駅以降の乗客の殆どがホームに取り残されていた。
大磯駅に6時半到着、駅前からのバスは昨日と打って変わった順調な運行で、会場にはかなり早めに着いた。
昨日のうちに下見していたので余裕で着替えを済ませ集合案内の放送を待った。ランナー約1万2千人が大磯ロングビーチの駐車場からプリンスホテル前を経てスタート地点の国道一号線までの道路を埋め尽くしていた。
雨が弱まり西の空に薄日が差してきた。制限時間が六時間という余裕ある大会だが、少し意欲的に予想タイム4時間40分~5時間のグループに並んだ。
やがて9時のスタート合図と同時にウエーブのように歓声が前方から押し寄せて、1万余の大行列が国道一号線のスタート地点に向けて動き出した。
スタート台に立つゲストランナー間寛平さんの目を細めた笑顔に向けて手を振り歓声をあげながら6分余りのタイムラグでスタート地点を通過した。
大磯市内を走る国道一号線の沿道を埋め尽くした市民の応援に交じって女子学生さん達の金管バンドが行進曲「錨をあげて」を演奏して我々を鼓舞してくれていた。港町大磯をスタートする我々に相応しい選曲に中学時代のブラバン街頭行進が懐かしく思い出されてきた。
江戸時代の東海道の風情を彷彿させる松並木通りを走り抜け、やがて昨夜暗がりの中を探索した鴫立庵の苔生した茅葺き屋根が美しく見えてきた。西行と正子の心の通いに思いを馳せながら、大磯町を過ぎると右手に相模湾が広がり、湘南海岸の西湘バイパスに入った。
平塚市に入ると両側を防風林の松林に挟まれた幅広いハイウエーが真っ直ぐ東に延びていた。雨はすっかり上がり懸念していた湘南の風も苦にならない、キロ6分ちょっとのペースはやはり速すぎる。
平塚市には冨士支店時代に仕事で落ち込んでいた自分に優しく声掛けてくれたK代理が住んでおられたが、今年1月に亡くなられた。初めての社宅住まいに家族ぐるみでお世話になった頃が懐かしく思い出されてくる。
8キロ地点になる相模川に架かる湘南大橋を渡ると、左右の視界が大きく開けて、左手の相模川の川面を旋回するモーターボートの航跡が輪を描き、右手に広がる大海原と河口の造形物とのコントラストが絵画のように美しく、湘南の海岸を走っている喜びを満喫した。
茅ケ崎市内に入ると左右の松林が切れ、湘南海岸の砂浜が広がってきた。茅ケ崎サザンビーチの音楽が聞こえてきそうである。色とりどりのウエアの大集団は、脱落する人もなく整然と安定したペースで、先頭は遥かかなたである。10キロ地点の通過タイムは1時間3分30秒、少し速目だがなんとかこの流れに付いていこう。
西湘バイパスの道幅一杯に広がって走っていると、やがて左半分に誘導され、空いた反対車線を折り返してきたトップグループが風のように走り抜けていった。先頭はケニアの五輪メダリストのエリック・ワイナイナ選手だ。周りからウオーという感動の呻き声が沸き起こった。
次々にすれ違っていく先行のエリートランナー達に向けて周りから「頑張れ!頑張れ!」という拍手と声援が送られた。誰かの「頑張れ!は、俺たちもだけどね」の声に、笑い声が沸き上がった。楽しい仲間たちだ。
第1・第2の給水はパスしたが、第3給水所からドリンクの補給を取り始めた。身体はまだ水を求めていなかったが、早めの給水はフルマラソンの鉄則だと自分に言い聞かせた。やがて藤沢市に入り鵠沼海岸を過ぎると遥か右前方に江の島とタワーが見えてきた。
第1折り返し地点だが、江の島の姿がなかなか近づいてくれない。折り返してくるランナーの多さに、改めて自分がいかに遅れているかを思い知らされた。
江の島の手前の海岸通りに林立するリゾートホテル群の繁華街からの黄色い声援を受けながら、西浜の交差点でようやく折り返した。まもなくの第五給水所20キロ地点で2時間9分20秒。5キロ32分ペース、このペースでいくとゴールタイムは4時間33分になるが、そんなタイムは絶対にありえない。これからのペースダウンは明らかだ。
やはり筋肉疲労の悲鳴が出始めた。沿道の係員の「折り返してからが一番きついんだ。頑張れ!」の声は全くその通りだ。ウエストポーチから筋肉鎮痛スプレーを取り出して右太腿裏に吹き付けた。痙攣が起きてからでは遅い。早め早めに対処しよう。
復路の28キロと31キロの給水所では、誰もが長いテーブルに広げられたパンやバナナや甘物に手を伸ばし、後半の限界に挑戦するための体力を補強していた。
給水所に立ち寄らず走り抜けるランナーはもはや誰一人いなかった。係員達の温かい笑顔と激励と栄養の補給を受けて新たな英気を養ったランナーが順次走り出していった。そこはまさしく戦場の中のオアシスになっていた。
辻堂から茅ケ崎と両側に松並木が続く正面に見えるはずの富士の姿はついに現れなかった。苦しい走りを支えてくれるはずの富士山に見放されてしまったか。
30キロ地点で3時間25分。これまでの貯金は殆ど使い果たしてしまった。5キロ40分ペースに落ちたが、ゴールタイムの5時間切りは、まだ望みがあった。
往路で一般道から合流した西湘バイパスを、復路はそのまま二宮方面に直進である。太腿裏の痛みを鎮痛スプレーで宥めてみるが、いよいよ厳しくなってきた。左手に続く海岸線の砂浜に等間隔で陣取った釣り人の姿を遠望しながら、両手をガードレールにあてがい打ち寄せる波の音にリズムを合わせ太腿のストレッチを試みてみた。やがて太腿の上面や股関節にも痛みが走りだし、ストレッチと走りの間隔は短くなっていた。
ゴールのある大磯ロングビーチから、ゴールするランナーたちに向けられた大歓声が流れてくる右手の土手を見上げながら、土手下の西湘バイパスを二宮方面に向かったが、大会本部テント裏のフェンスに数10枚の大漁旗が掛けられ、大勢の地元や家族や大会関係者がフェンスに張り付けて声を限りに声援を送っていた。
2キロ先の二宮ICを折り返してゴールに向かって反対車線をラストランするランナーに向けられた声援なのだが、これから第2折り返し地点に向かう我々にとっても大きな力になってくれていた。
沿道に立っていた係員が「あと4キロ!このままいくと5時間切れるよ!」と叫んでいた。苦しい走りをよく知った心強い応援だ、ありがとう、まだいけるぞ。
左手の海岸線に100人近いサーファーが波乗りしている景色は壮観である。相模湾の大海原と延々と続く砂浜、これぞまさしく湘南海岸だ。走っては止まり、止まっては走り、また走っては止まる、ストレッチを繰り返しながら、湘南の海と共に走っていた。
第2折り返し地点までの2キロのなんと長いことか、まだかまだかと足を引きずる思いでようやく折り返した。
40キロの標識で4時間45分、残り2キロ余りを15分はとても無理だ、5時間切りは諦めたが、とにかくベストを尽くして走り切ろう。
フェンスに張り付いた応援団の目の前まで来て、また足が止まってしまった。屈伸を始めた。見ず知らずの私に向かって、仲間のように、頑張れ!もう少しだ!頑張れ!と励ましてくれた。不思議と恥ずかしい思いはしなかった。むしろ声援を受ける心地良ささえ感じていた。
西湘バイパスから大会会場に入るラストの上り坂ではコース沿いの大声援に感涙していた。ありがとう。ついに巨大なFINISHゲートに向う直線に入ったが、ラストスパートをする力は残っていなかった。朦朧としながら余力を全て使い果たす一念でゴールに向かった。
ネットタイムは5時間4分46秒、制限時間6時間内の完走者9710人中7634番、期待の富士の姿は叶わなかったが、湘南の海と美しい砂浜と緑の松林を満喫しながら三度目のフルマラソンはかくして終わった。
スタート前の整列中に耳にした三人元娘の会話が浮かんできた。「フルマラソンは、なんでこんなに苦しいの、もう二度と走らないって思うんだけど、やっぱりまた走るのよね」4ヶ月後の東京マラソンを最後にフルからハーフに切り替えようと思いながら走ってきたが、東京の次のフルマラソンがまだあるかもしれない。
【神奈川県②:雨の三浦半島を走る】
2008年11月の湘南国際フルマラソンを走った4ケ月後の三浦国際市民マラソン大会に参加した。
マラソンコースの三浦半島は、私にとって忘れられない思い出の地である。40年前の昭和43年3月、仙台から東京に転勤して首都圏の地理も何も知らない時分に最初に訪ねた観光地が三浦半島突端の城ヶ島だった。その時に同行したのが、郷里宮城の後輩S君である。
突然東京に来ていると連絡があり、受験前の大切な時間を私の夢実現のために犠牲にさせてしまった後ろめたさもあり、彼のために小旅行を企画、美空ひばりが歌う北原白秋の「城ヶ島の雨」が好きだったこともあり、独身寮の元住吉から直行できる城ヶ島を旅先に選んだ。
当時、恩師の転勤で低迷する出身中学の吹奏楽部を応援しようと吹奏楽部OB会を結成、後輩を指導しながらコンクール一般の部に出場、更に「音楽の町」作りの一環としてクリスマスダンスパーティを企画、その中心になったのがS君をリーダーにした高校3年生だった。
パーティは盛況裡に終えたが、高校生故に夜のパーティに参画できなかった彼らが翌朝に土足で汚れた会場の講堂を拭き掃除している姿に感涙した直後に私は東京へ転勤となり、大河原中学吹奏楽部OB会の活動は頓挫、協力してくれた高校3年生たちは大学受験に失敗、そんな時にS君が訪ねてきた。
【城ヶ島の雨と北原白秋と松下俊子】
「城ヶ島の雨」を作詞した北原白秋は、生涯に三人の妻を持った。最初の俊子は隣家の人妻で、明治45年7月に姦通罪に問われて収監され、出獄後に正式結婚するが1年余りで離婚、俊子の去った1年後に章子が白秋とすぐ同棲して結婚するが、章子の不貞が原因で離婚、翌年に見合結婚した菊子とは家庭的な平和が続き、二児を儲け童謡や民謡の境地を開き国民的詩人の名声を得て、22年の歳月を共にした菊子が白秋の最後を看取った。
福岡県柳川市の大酒造家に生まれ、家出同然に上京、早稲田の英文科予科に入り「文庫」と「明星」の詩壇に認められ、与謝野寛らと明治39年に南紀を、翌年に九州を旅行して42年に詩集「邪宗門」を上梓、後に「明星」を脱会してパリのカフェ文芸運動の「パンの会」に入り芸術の自由を謳歌し制作欲を爆発させていたが、明治43年9月に転居先で俊子と運命的出会いをする。
夫の放埒と虐待に絶望した俊子の不遇に寄せていた同情がやがて愛情に変わり、人妻の官能的な美しさに「女は白き眼をひきあけてひたぶるに寄り添ふ、淫らにも若く美しく」と俊子との愛の歌を数多く作っていく。
明治45年7月、俊子の夫に金目当てに姦通罪で告訴され、白秋は搔き集めた示談金で告訴が取り下げられ出獄するが、姦通の汚名と間男の侮辱に、白秋の憂鬱は病的なほど重くなり、人妻との恋に悶え苦しんだ末に、翌大正2年1月2日、三浦三崎で死のうとまでする。
死に切れず帰京すると1月25日に俊子との恋の記念歌集「桐の花」を発刊、5月にまだ離婚していない俊子を伴い、一家を上げて三浦三崎に逃避行する。異人館と呼ぶ洋風な庭の館と南国の海の明るさと陽光注ぐ三崎の再起をかけた新生活で詩歌の作品も大きく変貌を遂げていく。
7月に俊子との恋のモニュメントというべき詩集「東京景物詩」を発刊するが、出版元とのトラブルで収入を断たれ、同居する父と弟が悪徳ブローカーに引っ掛かったこともあり、白秋一家の生計は貧窮を極め、生活の窮状に無神経な俊子と家族との不仲も深まっていく。
9月に父たちが麻布に移転していくと、白秋と俊子だけが三崎に残り、異人館から見桃寺に間借、ようやく俊子の離婚が成立して翌10月に、島村抱月の依頼で「城ヶ島の雨」が作詞される。姦通罪の汚名を被る白秋に作詞を依頼した抱月は、妻子ありながら恋愛沙汰を起こした女優と芸術座を結成した日本近代劇の先駆者である。三浦三崎に愛の逃避行をしている白秋に作詞を依頼した抱月の思惑が何だったろうか。
翌3年3月に、獄中で肺結核になって喀血する俊子の療養のため、南の太陽のより輝く小笠原父島に渡るが、島の生活に馴染めず帰りたがる俊子を先に帰京させて、俊子は麻布の両親らと同居、白秋も翌7月に麻布の家に帰った。
歌集「輪廻三鈔」に「我は貧し、貧しけれども我をしてかく貧しからしめしは誰ぞ。而も世を棄て名を棄て更に三界に流浪せしめしは誰ぞ。我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我高きにのぼらむと欲すれども妻は蒼穹の遥かなるを知らず(中略)我深く妻を憫めども妻の為に道を棄て親を棄て己れを棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決し相別る」
裕福に育ち派手好きで天衣無縫、嫁としての遠慮もなく肺病で療養もお金も必要な俊子は、家族の飢えより自分の詩魂に没入する白秋の極貧生活に耐えられず、俊子を疫病神のように疎む白秋ら一家との不仲も険悪になっていた。
金に困り節操なく金策に走った俊子に逆上し「別れて贅沢出来る道を選べばいい」と叫ぶ白秋の侮辱と残忍な言葉に俊子は家を飛び出してしまう。この世に頼るは白秋ひとり、白秋の愛だけを信じてきた俊子の悲劇である。
白秋にとって俊子は一体何だったのだろうか。その答えは、俊子と出会う3年前の作詩「青き花」に見えてくる。
全くの偶然だが、今年(2024年)4月の尺八演奏会で北原白秋作詞の「青き花」(二代上原真佐喜作曲)を吹奏することになった。弦方が箏を弾きながら歌われる歌詞に「そは暗きみどりの空に、昔見し幻なりき。青き花かくてたづねて、日も知らずまた夜も知らず、国あまた巡り歩きしそのかみの、我や若人・・・」とある。
白秋の作詞「青き花」は、明治40年3月に作られ、42年に処女詩集「邪宗門」に収録された詩で、前書きに「南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために」とあり、明治39年に与謝野寛や吉井勇らと旅した南紀旅行を、夢に見た幻の青き花を訪ねる旅に見立てて、自分の青春彷徨を描いたといわれている。
尺八演奏会のプログラムに「メーテルリンクの『青い鳥』と同じイメージで、幸せの青い花を求めて人生を迷い歩く・・という白秋としては最もロマンチックな詩の一つであります」と曲目解説があったが、チルチルとミチルが幸福の青い鳥を探しに行くメーテルリンクの「青い鳥」を読んで「青き花」を作ったのだろうか。
調べてみるとは、メーテルリンクの「青い鳥」は1907年に発表、1908年にモスクワ芸術座で初演、日本に訳本が紹介されたのは1911年、白秋はその4年前に「青き花」を書いておりその可能性はなさそうである。作曲者はそのことを知らずに、メーテルリンクの「青い鳥」のイメージで曲付けしていたに違いない。
尺八13人と箏15人で演奏する「青き花」の美しいメロディと浪漫調の詩に魅惑され、作詩された背景を探るうち、白秋研究家河村政敏氏の「北原白秋私見―ノヴァーリスの影響をめぐって―」という論文に出合った。
河村政敏氏は、白秋の詩「青き花」は、ドイツの初期浪漫派の詩人ノヴァーリスの未完の長編小説「青い花」に由来するものではないだろうかと推論されていた。
小説「青い花」は「主人公が夢の中で見た花弁の青い花の中から少女の顔が浮かび出て微笑みかけ、自分の未来の幸福を象徴すると、ものに取り憑かれたようにその青い花を求めて遍歴の旅に出る。幾多の辛酸を経て夢に見た少女と瓜二つの少女ソフィーに巡り会うが、彼女は不慮の死を遂げる」というノヴァーリスの自伝的小説で、青い花を探し求める旅は、白秋の作詞「青き花」とよく似ている。
ノヴァーリスの名は、明治38年に山岸光宣が「帝国文学」に主要著作を紹介、翌39年に上田敏が「明星」にソフィーの面影を求めて綴った日記を紹介している。白秋は当時「明星」に詩を寄稿しており、南紀旅行前にノヴァーリスの「青い花」を読んでいた可能性はある。
明治40年3月に作られた「青き花」の後半に「羅曼底の瞳」と題して「この少女はわが稚きロマンチックの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。美しきソフィヤの君。(中略)悲しくも静かにも見ひらき給ふ青き華―乙女の瞳、ソフィヤの君」と書いており、白秋が幻像を抱く少女ソフィヤの名は、ノヴァーリスが旅に出て探し求めた青い花の少女ソフィーとよく似ている。やはり白秋はノヴァーリスの「青い花」を読んでいたのではないだろうか。
白秋が詩「青き花」の中で探し求めていたのは、幻の青き「花でも鳥」でもなく、ノヴァーリスのソフィーのような青き「幻の少女」だったに違いない。
白秋は「青き花」を作詩した3年後に、人妻俊子と運命的な出会いをする。そして逢瀬を重ねていた2年後の詩に「わがかなしきソフィーに白い月が出た、出て御覧ソフィー、勿忘草のやうな、あれあの青い空にソフィー」とあり、俊子に出会う前に、憧れの幻の少女をソフィヤと呼んでいた白秋が、俊子に出会ってからは、俊子をノヴァーリスが愛したソフィーの愛称で呼んでいた。
白秋にとって俊子は、なんだったのだろうか。俊子は、ノヴァーリスの世界への憧憬が生み出した想像上の恋人「青き花の少女」であり、白秋は、俊子にではなく、想像上の恋人ソフィーに恋し続けていたのかもしれない。
【三浦一族と鎌倉幕府】
三浦国際マラソンを走る2週間前、叔母の法事の席で従弟が「吾妻鏡」を読んでいると話していた。本屋で立ち読みしてみるとかなり難解だがなかなかに面白い。
私の歴史文学探訪は、源氏物語や伊勢物語の平安王朝ロマンや古代史の邪馬台国と卑弥呼の古代ロマンから中世の鎌倉幕府の黎明期へと飛んで行った。
そして源頼朝が一介の流人でありながら、1180年に高倉宮以仁王の平家追討令旨を受け、僅かな近習と共に打倒平家の旗揚げした頼朝が、最も頼りにしていたのが、私がこれから走ろうとしている三浦半島中部の衣笠城に拠点を持つ三浦氏一族だったことを知った。
三浦氏は桓武平氏の良文を祖とする一族で、総帥義明の長男義宗は早世、次男義澄が家督を継ぎ、娘の一人は上総広常の後見を受ける源義朝の側室となり庶長子悪源太義平の母である。平治の乱で義澄と広常が義平に従い義朝に加勢しており、もう一人の娘は広常の弟頼次の妻となり頼朝の旗揚げ時に頼次は三浦一族に加勢していた。
しかし荒天のため三浦一族の軍勢と合流できないまま旗揚げして初戦の石橋山合戦で敗退した頼朝は、久里浜から海路を房総半島に逃れ、居城の衣笠城を落とされて辛うじて房総に渡海してきた三浦義澄と合流する。
やがて房総の千葉氏と上総氏を従え、更にこれまで敵対していた武蔵・相模の武士団をも大同団結させて、旗揚げ時の弱小武士団は、2ヶ月足らずで数万を超える坂東武士団連合軍に膨れ上がり、念願の相模国の鎌倉入りを果たし、平家の大軍を富士川の戦いで撃退した。
頼朝は敗走する平家を追撃して一挙に上洛せんとしたが、三浦義澄と千葉常胤と上総広常が、今は東国を治めるのが先だと思い止まらせたと吾妻鏡にある。もしあのとき頼朝が源氏再興を図るべく敗走する平家を追撃し上洛を強行していたら、その後の鎌倉幕府も鎌倉時代から始まる武家社会も存在しなかったかもしれない。
当時の東国武士たちは、頼朝が切望する平家打倒より、中央権力から解放された東国武家社会の自立を夢見て頼朝の旗の下に結集、頼朝の平家追討という大義名文に便乗して頼朝に一族の命運を賭けながら、自国領地の安堵と新たな領地の獲得が究極の目的だったに違いない。
三浦半島の荒れた丘陵地帯が領国だった三浦一族にとって、富沃の平野への進出は一族の悲願だったのだろう。横浜市保土ヶ谷区和田町と港南区野庭町に、後に幕府の初代侍所別当となった義宗の長男和田義盛のゆかりの地がある。
頼朝の死後、専横する北条氏の排撃に立ち上がった従兄の和田義盛の誘いを断って和田氏を滅ぼし、三代将軍実朝を暗殺した公暁の求めを退けてこれを誅し、承久の乱では京都方の誘いを拒んで北条義時を助け、更に伊賀氏の陰謀にも応ぜず、北条に忠誠を尽くしてきた三浦氏だったが、1247年の宝治合戦で北条氏に滅ばされてしまう。
生者必滅は世の習いだが、歴史の中に消えていった三浦一族の土地を走り三浦氏の息吹を感じて来たい。
【三浦国際市民マラソン(2009年3月)】
空は白らいできたが、天気予報どおり曇天、横浜で京急三崎口行きに乗り換えた。久里浜駅を過ぎると車窓に大海原が広がり、窓ガラスの雨雫が斜めに流れていた。
久里浜は、三浦一族の居城衣笠城から東に5キロ、ここから東京湾を横断して安房まで15キロ、討死覚悟で衣笠城に立て籠もる父義明を残し、石橋山の挙兵に敗れて逃走する頼朝に従って久里浜から海路安房に逃れる義澄の心情は如何ばかりだったろう。
三浦海岸駅に下車、ホームから改札までランナーで埋まり身動きができない。本降りになった雨の中、更衣室のある地元小学校までの長い列に並ぶこと25分余、ようやく入れた体育館もすし詰め状態、一度外に出てしまうと再入場できなくなる。集合時刻までじっと待つしかない。
風邪の癒えた身体なので大事を取り透明のビニールカッパを羽織って雨の中に飛び出したがこれが正解だった。
海岸通りのスタート付近の砂浜に、大会ポスターに暖簾のように天日干しされた三浦大根と三崎マグロの鯉のぼりのモニュメントが組まれ、ランナーたちが冷たい雨に震えながら記念写真を撮っていた。
スタート20分前だったが海岸通りは既にランナーで埋まっていた。ハーフ完走予想タイム1時間50分台のプラカードに並んだが、さすがにビニールカッパ姿は少ない。気恥ずかしい思いもしたが、この降りしきる冷たい雨の中を寒さで足踏みしている周りのランナーを見遣りながら、やせ我慢しなくてもいいのにと秘かにほくそ笑んだ。
ハーフに先行して10キロレースのスタートの花火が上がった。元気のいい男性のマイクが、ゲストにホノルルマラソン準優勝の尾崎朱美さんを紹介していたが、参加者1万4千人の本大会はホノルルマラソンと日本唯一の姉妹レースで、大会終了後にホノルル招待抽選があるという。当選したらどうしよう。胸がときめいていた。
次いで我々ハーフもスタートした。スタートラインを跨いだのは、2分25秒後、前の方に並んだお陰でこの程度のタイムラグで済んだが、後になって制限時間内に辛うじて滑り込めることになるとは思いもしなかった。
追突しそうなほど詰まった状態が徐々に解消すると、やがて左手に雨に煙る灰色の大海原が広がってきた。1キロ標識を丁度6分で通過、2.5キロ地点で海岸線から分かれて山道に入ったが、両側に霊園が広がる狭い上り坂で、ペースが遅くなってきたが追い抜くことも出来ず、ひたすら前のランナーの背中を追い続けた。
標高80mのコース内最高地点を登りつめると、左手に岩堂山の真ん中をえぐられた山容が見えてきた。神奈川県内では最も低い山で三浦市内では最も高い山だといわれ、明治時代に清国やロシア艦隊の東京湾侵攻に備えた三崎砲台観測所が設置されていたという。
岩堂山の裾野を回る5キロ地点で32分30秒。雨と風は相変わらず吹き付けて来る。岩堂山を下ると視野が急に広がり、右手にキャベツ畑、左手に大根畑、はるか前方に巨大な風力発電の風車二基がゆったりと回り、その右手奥に城ケ島の姿がおぼろげに見えてきた。
吹き付ける風雨をまともに受けながら、広い畑の中をひたすら南へ走り抜け、ついに三浦半島南端の三崎の街に入った。ここまでで8キロだが快調な走りである。
白秋が姦通罪で告訴された収監から保釈されて一度は自殺しようと一人で訪れた三浦三崎に、まだ離婚が成立していない肺病で喀血する俊子を伴っての愛の逃避行は如何に、苦悩と希望の交錯する白秋に思いを馳せていた。
いよいよ城ヶ島大橋である。雨が降る城ヶ島はまさしく北原白秋の世界、思わず歌が口を衝いて出てきた。
≪雨はふるふる、城ヶ島の磯に、利休鼠の雨がふる、雨は眞珠か夜明の霧か、それともわたしの忍び泣き≫
白秋が一夜漬けで作詞した日も雨だったのだろう。利休鼠とは、千利休と深い縁のある抹茶の色で緑みがかった灰色、収監された重苦しい記憶を引き摺りながら、念願の俊子との結婚を果たして三崎の地で詩歌の世界に立ち直ろうとする心境を舟歌に謡ったのであろうか。
大橋の上から眺望する海原は、文字通り利休鼠の雨と雲に覆われていた。対岸の城ヶ島のループ状の坂を下ってすぐ折り返して再び大橋に駆け上がる橋桁の所に、S君と写真を撮った帆形の北原白秋詩碑が見えてきた。
40年前に、東北の田舎からはるばる城ヶ島までやって来たS君とここでどんな話をしたのだろう。何か気の利いた言葉をかけてあげられただろうか。その後、彼が水産大学に進学したと聞いたが、城ヶ島で見た青く広い海が彼の進路になにか影響を与えたのかもしれない。
城ヶ島を折り返し、大橋を渡り対岸の三崎町に戻り、三浦半島の南岸沿いの復路の県道215号に入ると、再びキャベツ畑が広がり、右手に寒々した岩礁の宮川湾の海が見えてきた。往路で見えていた風力発電の風車が目の前に巨大な姿を現した。プロペラより大きな三枚羽根が吹き荒ぶ風雨を受けてゆっくりと時計周りに回っている。ここが三浦半島で一番風が強いのだろう。ビニールカッパを被っていたが、両腕はずぶ濡れで冷え切っていた。
標高30mのキャベツ畑を一気に駆け下ると、遠浅に岩畳が露出する毘沙門湾が見えてきた。半弧を描く湾岸に沿ってランナーの列が白く長い糸の様に連なる美しい景観に、コースを外れてカメラに収めた。
続く江奈湾沿いの道路の真ん中に立った主婦が、ボールを手に何かを配っていた。走り寄ってボールを覗くと柿の種とピーナッツだった。「こんなもんしかないんだけど」と申し訳なさそうに、か細い声で謝っていた。大会関係者でもない沿道の一市民が、この冷たい風雨の中での個人的なご好意に、思わず涙して感謝の声を叫んだ。
江奈湾の15キロ地点で1時間35分。この5キロが32分。カメラ撮影のロスタイムを引けばキロ6分のイーブンペースだ。ゴール予想タイムも2時間12分位かと取らぬ狸の皮算用をしたが、そう甘くはなかった。
三浦半島南東端の剣崎燈台の山側を北に縦走する高低差50mの長い上り坂が始まった。最後の難関で事前のコース案内で承知はしていたが、さすがにきつい。雨は弱まってきたが、風は相変わらず強く、体感温度が零度以下の寒さで震えが止まらなかった。ここが頑張り所だ、歩くことだけはすまいと思うのだが、無理しなくてもいいよという悪魔の囁きに、もはや抵抗する術はなかった。長い上り坂を走る人はもういなかった。足を止める人はさすがにいない。ただ黙々と歩くだけである。
ついに歩きと屈伸の繰り返しが始まった。救護車が前方から後方に走り去っていった。ようやく1キロの上り坂が終わると、遥か前方に金田湾の海が見えてきた。雨は上がったが、冷たい海風が向かい風となって襲い掛かってくる。この最後の下り坂でタイムを取り戻したいところだが、もうそんな力は残っていなかった。
利休鼠色の空と海が広がる海原を右手に、やがて往路コースと合流すると見覚えのある湾岸コースである。残る3キロを、ひたすら向かい風に立ち向かうように一歩一歩、足を交互に前に進めるだけになっていた。
突然、風に乗ってゴール地点の放送が聞こえてきた。「あと4分で制限時間です。頑張ってください」え? あと4分? 自分の腕時計はまだ6分以上あるのになぜ?
そうだった、スタートの合図から計測するんだった。スタートのタイムラグが2分25秒もあった。不覚だった。これまで一度もハーフマラソンで制限時間を気にしたことがなかっただけにすっかり動転してしまった。
さっきまで歩いていた周りのランナーが一斉に走り出した。あれほど疲労困憊した様子だったのに、どこにそんな余力があったのか。自分も負けてはいられない。
ゴールの櫓が見えてくると、なんと秒単位のカウントダウンが始まっていた。私の前と後には誰もいない。カウントダウンはなんと私に向けられていたようだ。
「5秒!4秒!」冷酷なアナウンスだが、激励にも聞こえていた。手の平を拡げて腕を振って足を回転させた。
ゴールの電光掲示板が≪2時間19分56秒≫を表示していた。マイクの声が「3秒!2秒!1秒!」と感極まっていた。あと1秒だ! 頑張れ! そして「ゼロ!只今制限時間になりました」というマイクの声を耳にゴールラインを越えた。果たして間に合ったのか。
ゴール担当の係員が私の前に回り込んで胸のゼッケン番号を確かめて本部席に私の番号を伝える声が聞こえたが、完走証を手にするまでは不安だった。
寒さで震える手に渡された完走証に、公式タイム2時間20分2秒、ネットタイム2時間17分37秒。総合順位6047人中3933位とあった。2秒オーバーの私を着順に入れてくれていた。完走証に、天候:雨、気温:5度、湿度:95%、風:平均8mとあった。数字がいかに過酷な気象条件だったかと証していた。
ホノルルマラソンの夢はハズレたが、参加賞にTシャツと三浦特産の立派な大根を1本頂戴した。帰りの横浜経由の約2時間半の電車内で裸の太い大根を一本ぶら下げていたが、少しも恥ずかしくなかった。むしろ冷たく強い雨と風の中を21キロのハーフを走って来たんだと誇らしかった。
【神奈川県③:横浜に赤い靴を訪ねて】
我が家の飾り棚にブロンズ像「樹と少女」がある。安田生命保険会社創業110周年の記念品で彫刻家山本正道制作の複製品である。しおりに「高原の午後、樹の根元に腰を下ろして読書する少女の姿」とあり、同氏の略歴に横浜市山下公園の「赤い靴を履いた少女」を製作したと紹介されていた。共に可憐な少女の座像で、清楚で物悲しい孤高の佇まいは、メルヘンチックである。
昨年12月に放映された「内田康夫サスペンス浅見光彦~最終章横浜編~」で、光彦の母雪江が、旧友が横浜に営む老舗バーの片隅で秀麗な紳士が奏でる「赤い靴」の調べを聞き入っているシーンがあった。殺人事件解決の鍵になる曲なのだが、推理の展開よりももの悲しいピアノのメロディの方が頭にいつまでも残ってしまった。
≪赤い靴 履いてた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃった≫
≪横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って 異人さんに 連れられて 行っちゃった≫
大正時代に赤い靴が履けたのは良家の子女に違いなく、白いワンピースに赤い靴を履いたお嬢ちゃんが、外国人に拉致誘拐されたのであろうか。ドラマを見終えてすぐ「赤い靴」の歌について調べてみると、歌に隠されたある事実があったことを知り慟哭してしまった。
赤い靴を履いた少女のモデルとなったという岩崎きみは、私生児として明治35年に静岡県清水市に生まれ、3才の時に結婚した母が北海道に入植するには厳寒の開拓生活で幼児は育てられないと、函館に住むアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に養育を託し、帰国する宣教師に連れられて渡米してしまったという話を、母の再婚した夫から聞かされた野口雨情が、大正10年に「赤い靴」を作詞、翌年に本居長世の作曲で童謡になった。
≪今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう≫
≪赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える≫
アメリカ人になって幸せに暮らしているのだろうと思いながら、便りもなく今はどこでどうしているだろうと考えられてならないと、我が子を捨ててしまった母親の悲痛な自責の念がひしひしと伝わってくる。
ところが事実はもっと悲劇的だった。昭和48年11月の夕刊に「野口雨情の赤い靴の女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という投稿記事があり、当時北海道テレビ記者だった菊池氏が、5年の歳月を掛けて調べ上げ、その女の子が結核に冒され病弱なためアメリカに連れて行けず、東京麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、9歳で独り淋しく病死していたことが判明した。
母親は娘がてっきり米国に渡ったものと思い込み、孤児院で幼くして亡くなったことを知らずに一生を送っており、もし渡米せず日本に残っていると知ったなら探し出していたに違いない。悲しい薄幸な話ではないか。
野口雨情も本居長世も当然この事実を知らずに作っていたが「赤い靴」のメロディに童謡らしからぬ、どこか切なく涙を誘われるのは、本居長世が、生後1年で実母を亡くし父も出奔して祖父に育てられた、岩崎きみに似た境遇が作曲に投影されていたのかもしれない。
【山下公園の赤い靴を履いた少女像を訪ねて】
2010年3月に静岡県熱海市で開催される「熱海湯らっくすマラソン大会」に参加する際、横浜駅に途中下車して念願の「赤い靴を履いた少女像」に再会した。
3月も中旬だが、まだまだ早春である。青白い空が広がりまもなく日の出になるが、指先がかじかむ程に冷気が漂っていた。朝一番の電車に乗り込み、横浜駅で途中下車、関内駅からタクシーで山下公園に向かった。
路肩にタクシーを待たせ、埠頭に係留された氷川丸から少し離れた植え込みに囲まれた「赤い靴を履いた少女像」に急いだ。少女の像は思いのほか小柄だった。
彼女は「やっと来てくれたのネ」と微笑んでいた。髪を後ろに束ねて心持ち首を傾け、両手を両膝の上に組み、視線を海の遥か彼方に向けて、大きな丸い石に腰掛けていた。可愛いベルト付きの靴を履いた足先を少し前後にして、少しおませなポーズのワンピース姿を見ていると、米人宣教師に預ける際に清貧な生活の中から精一杯お洒落させてあげたであろう母親の思いが伝わってくる。
膝に乗せた両手は重ね合わせでなく座禅のように指を組んでお祈りをしているように見える。少女像の制作者山本正道は、彼女が渡米せずに孤児院で幼く死んだことも知らず野口雨情の詩をイメージして作成したという。
我が家の2階から手を伸ばし切り取ってきたミモザの花枝を、膝の上に組んだ少女の両手に添えてあげた。
黄色の小花をふんわり手鞠のように咲かせたミモザの花言葉は「感謝」「思いやり」「真実の愛」である。やむなく手放した娘を一時も忘れることがなかったであろう母の愛に思いを馳せて少女の像に十字を切った。
昭和54年に山下公園に設置された山本正道制作の赤い靴の少女像は、海に向かって何を考えているのだろう。母から引き離されアメリカに連れていかれる不安を抱きながら横浜の波止場から海を眺めているのだろうか。
我々の歌う「赤い靴」の歌は前掲の四番までだが、野口雨情は、発表はされなかったが、昭和53年に発見された草稿に、次の5番があったという。
≪生まれた 日本が 恋しくば 青い海 眺めて ゐるんだらう 異人さんに たのんで 帰って来(こ)≫
日本が恋しければ帰って来いと歌っており、赤い靴の少女像が制作された前年とすると、山本正道がこの五番の歌詞を知っていた可能性はある。母の事情で宣教師に預けられアメリカに連れてこられたが、自分の生まれた日本や母を恋しく思いながら太平洋を眺めている姿を正道は思い浮かべて像を造ったのかもしれない。
母が入植する厳寒の地では育てられないと外人宣教師に預けたというが、再婚するのに足手まといになる私生児のきみちゃんは、母に捨てられたのかもしれない。3才ではまだまだ親離れのできない母恋しの年令である。
慌ただしくタクシーに戻り、運転手さんに、埼玉の自宅からミモザの花を持参して献花してきたこと、彼女が結核に罹って渡米できず孤児院で早くに亡くなっていたこと、母親は預けた宣教師に連れられアメリカで仕合せに生きていると信じていたこと、もし渡米していなかったと知っていたら娘を探し出して会えていたかもしれませんねと、赤い靴を履いた少女の悲しいお話を冗舌に話しかけた。かくして関内駅から横浜駅に戻り東海道線の特急仕様の各駅停車に乗り換えて熱海へ向かった。
【赤い靴の少女と青い眼の人形】
「赤い靴」の3番に「今では青い目になっちゃって」幻になった5番に「異人さんに頼んで帰って来い」とあり、5番があって初めて歌のストーリーが完結するように思うのだが、なぜ雨情は5番を未発表にしたのだろうか。いつものこだわり症がうずいてきた。
奇しくも同じ時期にアメリカ生まれの青い眼の人形が日本にやってくる歌が、雨情と長世のコンビで作られていた。
「赤い靴」が児童雑誌「小学女生」の大正10年12月号に発表された同じ大正10年12月号の児童雑誌「金の船」に「青い眼の人形」が発表された。
青い眼をしたお人形は アメリカ生れの セルロイド
日本の港へ ついたとき 一杯涙をうかべてた
私は言葉がわからない迷い子になったらなんとしよう
やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
仲よく遊んでやっとくれ
雨情は2才の娘が当時流行のセルロイド製のキューピットと遊んでいる情景を見て書いたといわれているが、3才でアメリカに連れて行かれ、アメリカ人の子供として養育され、日本語の分からない青い眼のアメリカ人になってしまったが、生まれた日本が恋しいんだったら帰って来いと歌う「赤い靴」の5番の歌詞を独立させて、もしきみちゃんが日本の港に帰ってきた時の戸惑いに思いを馳せながら「青い眼の人形」の歌が作られたのかもしれない。
大正12年9月の関東大震災で日系アメリカ人を中心に受けた物資援助の答礼音楽使節として本居長世と娘姉妹と尺八の吉田晴風ら一行が、横浜港から渡米した。ハワイやアメリカ西海岸を演奏旅行したが、可愛い振袖姿で歌う本居姉妹は「本当にお人形のよう」と多くのアメリカ人の心をとらえ各地でひっぱりだことなり、本居長世は「『青い眼の人形』にいちばん拍手が多くて喜ばれた」と述懐していたという。
当時、日本からハワイやアメリカ本土への移民が盛んで、アメリカ国内では低賃金で従順に働く日本移民労働者への反感と人種的蔑視もあり反日感情が高まっていた。
昭和2年3月3日、親日家の牧師ギューリック博士が険悪な日米関係改善のため、平和と友情を標榜して子供世代からの国際交流をと世界児童親善会を設立、雛祭りの日に合わせて全米から募った1万3千体の人形が贈られ、横浜港から全国の小学校や幼稚園に届けられた。
人形には着替えのドレスやオーバーコート、ハンカチや靴下とたどたどしい日本語の手紙まで添えられて「青い目の人形」と呼ばれ、日米親善の懸け橋になったという。
太平洋戦争中に敵性人形として多くが処分されたが、山下公園近くの横浜人形の家に数体が展示されている。
青い目の人形の返礼として日本から58体の市松人形がクリスマスに合わせてアメリカに贈られた。この人形交流に向けて尽力したのが、1924年にカルフォルニア州議員提出の帰化不能外国人移民全面禁止条項が追加された排日移民法の成立を憂慮した実業家の渋沢栄一だった。
後にアメリカに移民先を失った日本は、代わりに満州を重視して1932年から昭和恐慌で疲弊した農村から満蒙開拓民(27万人)を移住させたが、在留邦人と権益保護を名目に日本陸軍が満蒙に進駐してやがて日中戦争に繋がり、1941年に排日移民法が反米感情を煽って対米戦争に突き進んでしまったのだとしたら、日本のお嬢ちゃんよ、仲良く遊んでおくれと歌った「青い眼の人形」の歴史的意義は大きかったといえよう。
宮城蔵王の麓に育ち、青く広い海に子供の頃から憧れてきたが、マラソンを始めて1年後の2008年1月に太平洋を望みながら千葉県南房総を走る館山若潮フルマラソンに挑戦、制限時間をオーバーしながら涙のゴールを果たした10ケ月後、神奈川県の相模湾を望みながら走る「湘南国際マラソン」にエントリーした。
湘南といえば我々世代にとって、やはりサザンオールスターズである。病から復活した桑田佳祐の歌が聞こえてくる。そして若大将加山雄三の湘南サウンドを思わず口ずさんでしまう。
若者のメッカであり青春のシンボルである湘南海岸を雪化粧の麗峰富士を望みながら1万5千人が走る湘南国際マラソンは、ランネット100撰の3位にランクされる、東京、長野マラソンに次ぐ人気の大会である。
湘南という言葉が醸す大正昭和ロマンの響きと小室哲哉の奏でる湘南乃風の若者たち、そして広大なシーサイドリゾートプールの大磯ロングビーチをメイン会場に、正月箱根駅伝の大磯・江ノ島間を、往路は相模湾と江の島を、復路は富士山を望みながら、フラットでほぼ直線のコースを折り返す制限時間六時間のゆったりフルマラソンで、多くの外国人と走れる国際大会というメジャーなネーミングも本大会エントリーの動機だったが、還暦を過ぎてなお、まだまだミーハーなのかもしれない。
湘南国際マラソンは、2007年3月に第1回が開催されたが、その前月に始まった東京マラソンが来年から3月開催に変更されたため、来年3月に東京と重なる第三回湘南国際マラソンが、今回の11月開催に変更になった。そのお陰で今回の湘南国際と4ヶ月後の東京マラソンの両方が走れることになりラッキーである。
【湘南の大船と江の島と大磯を訪ねて】
大会前日早朝に埼玉の自宅を出立、湘南新宿ラインで大船駅に途中下車、白亜の大船観音を拝しながら、路線バスで同期入社のY君を自宅に見舞った。
入社式直後の研修所で同室となって以来、何かにつけて親しくしてもらってきた、いつも同期の集まりの中心にいる人望の持ち主で、病床の彼を励ますつもりだったが、病と闘いながらなお気負いなく自然体で語りかける姿に、頑張る力を貰ったのは私の方かもしれない。
大船駅から湘南モノレールで紅葉付いた西鎌倉の町並みを江の島へ向かった。明日のマラソンコースの折り返し付近の下見のつもりだったが、観光客で溢れ高層リゾートマンションが林立、巨大なコンクリート橋になった弁天橋は、葛飾北斎の描いた江の島ではなかった。
弁天橋から目の前に広がる相模湾と西に延びる湘南海岸を望みながら、明日はあの長大な海岸線を走るのかと思うと気が遠くなってくる。あいにくの曇天で富士には会えなかったが、霊峰富士は明日に期待しよう。
片瀬江ノ島から藤沢駅経由で大磯駅に下車、大会会場の大磯ロングビーチに向う路線バスは、当日受付がなくなり前日受付のみになったためか大渋滞、3キロを1時間近くかけてようやく到着、ロングビーチの広い敷地に迷いながらどうにか受付を済ませた。
イベント会場のステージで大会応援団長の湘南ボーイ徳光和夫さんとゲストランナー千葉眞子さんが軽快なトークで大会を盛り上げていた。しばし前日祭の雰囲気を楽しんでいると、西の空に茜色の薄日が差してきた。
【鴫立庵と武相荘と白洲正子の華麗なる一族】
前日受付を無事に終わせたが、大磯ロングビーチからの帰りのバスも大渋滞となり、途中で止まってしまった。すっかり陽が落ちて暗くなる前にどうしても立ち寄りたかった鴫立庵まで歩くことにして、ひとつ手前のバス停で途中下車した。
西行の歌で有名な鴫立庵は、俳諧師の大淀三千風が元禄8年(1695年)に大磯に鴫立庵を結び、西行五百回忌に合わせて西行堂を建立、京都の落柿舎と滋賀の無名庵と共に日本三大俳諧道場の一つと言われる。
不確かな記憶を頼りに車のライトが激しく行き交う国道一号線を文字通り五里霧中、ようやく灯りの消えた黒い塊のような空間が見えてきた。暗がりの底から微かな滝の流れ落ちる音に誘われ、僅かな光を頼りに暗い石段を下りると、茅葺きの「鴫立庵」が朧げに見えてきた。
随筆家白洲正子が、著書「自伝」の中で、大磯の鴫立沢近くに祖父樺山資紀の別荘二松庵があり、幼い頃によく遊びに行ったと書いており、大磯に行くことがあればぜひ鴫立沢を訪ねてみたいと思っていた。
白洲正子の名は町田市に住む友に教わり、2年前に鶴川にある茅葺き屋根の「武相荘」を案内してもらった。
白洲は、アメリカとの戦争が始まれば食べ物の確保が一番必要だと町田市鶴川に農家を買い上げ、開戦翌年のドーリットルの東京初空襲にヨーロッパの状勢を知る二人はいち早く疎開、武蔵国と相模国の境の地にあることから無愛想をかけて武相荘と命名したという。
大きな古民家で、土間や囲炉裏端のアンティックな空間と書物が積み上げられた書斎にしばし佇み、正子の後半生の暮らしぶりを体感した。幼く能に親しみ14才で米国に留学した才女で、確かな審美観と精緻な文章で日本の美を追求する著書を何冊か読んできた。
武相荘の展示品から、終戦直後の日米外交交渉に活躍した夫白洲次郎の存在を初めて知った。
昭和六年に貿易会社のセール・フレイザー商会に勤務、海外赴任で駐英大使吉田茂と親交を深めた縁で、戦後、外務大臣に就任した吉田の懇請で終戦連絡中央事務局の参与に就任、GHQの要求に英国仕込みの英語で渡り合って従順ならざる唯一の日本人と言わしめたという。
戦後のサンフランシスコ講和条約受諾演説を外務省が作成した英文草案から長さ30mの日本語の巻紙に強引に書き直させ、しかも草案になかった沖縄返還に言及して吉田茂首相に読み上げさせた話には驚かされた。
正子の祖父樺山資紀は、薩摩藩士で戊辰戦争では鳥羽伏見から白河・会津に転戦、西南戦争では熊本鎮台参謀長として熊本城を死守、戦後警視総監兼陸軍少将に昇進、西郷従道の引きで海軍に転じ、山縣有朋内閣で第2代海軍大臣を務め、清と英国を仮想敵国にした海軍増強計画を提言した。日清戦争では海軍軍令部長に就任、巡洋艦に改造された西京丸に乗艦して黄海海戦を戦い、戦後に海軍大将へ昇進、初代台湾総督を勤め、その後、内務大臣、文部大臣を歴任し枢密顧問官となった。
正子の父愛輔は、米国とドイツに留学、貴族院伯爵議員に選任され、ロンドン海軍軍縮会議に随行、戦時中は近衛文麿や吉田茂らと終戦工作に従事、戦後は日米協会会長や国際文化会館理事長など国際文化事業に携わった。
正子の母方の祖父川村純義も薩摩藩士で、戊辰と会津戦争で奮戦、維新後は海軍整備に尽力し海軍の実質的指導者として海軍創始期を担った。純義の妻春子の父椎原国幹の妹政佐が西郷隆盛の生母、西南戦争では当初中立で私学校党の制止に務めた。明治天皇の信認篤く皇孫裕仁親王の養育主任となり死後に海軍大将に昇進する。
傍系をみると、正子の母常子の妹花子が後妻になった伯爵柳原義光の妹が愛人と失踪事件を起こした歌人の白蓮、義光の娘徳子が昭和8年に発覚した華族恋愛不倫事件の中心人物、徳子の夫が北原白秋らと耽美派の「パンの会」を結成した伯爵歌人の吉野勇、義光の父柳原前光の妹愛子は明治天皇の側室で大正天皇の生母である。
正子の姉泰子の嫁いだ近藤廉治の妹栄が、明治維新の元勲大久保利通の三男利武の妻で、利武の兄牧野伸顕の娘雪子の婿が吉田茂、その孫が麻生太郎である。
従一位伯爵海軍大将を両祖父に、西郷隆盛から大正天皇、吉田茂に及ぶ家系は、まさに華麗なる一族である。
昭和2年の昭和金融恐慌で正子の父愛輔が理事をする十五銀行が倒産、米国留学中の正子を帰国させ、永田町の屋敷を手放した父母と大磯別荘に移り住んだ。
神戸で父の経営する白洲商店が金融恐慌で倒産し英国留学から帰国して英字新聞記者になっていた白洲次郎は、正子の兄丑二の紹介で正子と知り合い、お互いに一目惚れで昭和4年に結婚、新婚生活を大磯で過ごしたという。
正子が幼い頃に遊びに行った鴫立沢近くの祖父樺山資紀の二松庵は金融恐慌の際に手放しており、新婚の正子と次郎が住んだ大磯別荘は山の手側にあったらしい。
【鴫立沢と白洲正子と西行法師】
足元の暗がりから微かに聞こえてくる滝の音は、鴫立沢であろうか。両親から薩摩隼人の血が流れて韋駄天お正を自称していた正子は、この沢を遊び場に男勝りに走り回っていたに違いない。著書「白洲正子自伝」の表紙を飾る軍服礼装の祖父樺山資紀の膝に抱かれた正子の写真は、鴫立沢近くの二松庵の庭で撮られたのだろうか。
近くに住む老教授の指導で日本古典文学に傾倒していったと述懐していた大磯は、まさに物書き白洲正子の原点の地である。白洲正子の息吹を感じながら、暗がりの鴫立庵を覗き込んでいると、表通りを通った車のライトが傍らの白い立札に当り、立札に書かれた西行の短歌が暗闇に浮かび上がってきた。
正子は、著書「西行と私」の中で、当時は海岸の松林が迫り茅葺きの西行庵が建ち、傍を小さな沢が流れ、隣に建つ祖父の住まいに遊びに来た幼な児の自分はここで自然に西行の歌を覚えたと書いていた。
行き交う車の明かりを頼りに、西行の短歌を、声を上げて読んでみた。
心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮
秋の夕暮れに鴫が飛び立つ様に、ものの哀れを知ることが不十分な身でも、しみじみとした趣は自然と感じられるものだと歌う、俗世を捨てた修行僧と歌人の生活を両立させようと旅を続ける西行の生き様が見えてくる。
西行は、藤原北家魚名の五代秀郷を祖とする俗名佐藤義清、鳥羽院に仕える下北面武士であり歌人でもあったが23才で出家した。出家の動機について、厭世、失恋、政治的不満など諸説あり、失恋の相手が高貴な身分の女房、一説に鳥羽院の中宮・待賢門璋子といわれている。
正子は、風流を解する心までは捨てきれず、仏道に打ち込むわけでもなく、人恋しさに堪えかねている西行の姿に、矛盾だらけで捉えどころないと言いながら、持って生まれた不徹底な人生を正直に生き抜き、その苦しみを歌に詠んではばからなかった西行の生き方に憧れていたのかもしれない。
鴫立庵(訪ねた時は真っ暗に近かったため、鴫立庵の公式HPから写真を借用しました)
【湘南国際マラソン大会(2008年11月)】
前泊した横浜駅前ホテルを朝五時半にチュックアウトしたが、横浜駅ホームはランナー姿の老若男女が幾重にも列をなし、入線してきた東京駅始発の東海道線は既に満席、さながら終戦直後の引き揚げ列車の様相である。
各駅に停車する都度、ホームに整列していた乗客が列を乱して2ドア車両に殺到、車内通路は満杯状態で、藤沢駅以降の乗客の殆どがホームに取り残されていた。
大磯駅に6時半到着、駅前からのバスは昨日と打って変わった順調な運行で、会場にはかなり早めに着いた。
昨日のうちに下見していたので余裕で着替えを済ませ集合案内の放送を待った。ランナー約1万2千人が大磯ロングビーチの駐車場からプリンスホテル前を経てスタート地点の国道一号線までの道路を埋め尽くしていた。
雨が弱まり西の空に薄日が差してきた。制限時間が六時間という余裕ある大会だが、少し意欲的に予想タイム4時間40分~5時間のグループに並んだ。
やがて9時のスタート合図と同時にウエーブのように歓声が前方から押し寄せて、1万余の大行列が国道一号線のスタート地点に向けて動き出した。
スタート台に立つゲストランナー間寛平さんの目を細めた笑顔に向けて手を振り歓声をあげながら6分余りのタイムラグでスタート地点を通過した。
大磯市内を走る国道一号線の沿道を埋め尽くした市民の応援に交じって女子学生さん達の金管バンドが行進曲「錨をあげて」を演奏して我々を鼓舞してくれていた。港町大磯をスタートする我々に相応しい選曲に中学時代のブラバン街頭行進が懐かしく思い出されてきた。
江戸時代の東海道の風情を彷彿させる松並木通りを走り抜け、やがて昨夜暗がりの中を探索した鴫立庵の苔生した茅葺き屋根が美しく見えてきた。西行と正子の心の通いに思いを馳せながら、大磯町を過ぎると右手に相模湾が広がり、湘南海岸の西湘バイパスに入った。
平塚市に入ると両側を防風林の松林に挟まれた幅広いハイウエーが真っ直ぐ東に延びていた。雨はすっかり上がり懸念していた湘南の風も苦にならない、キロ6分ちょっとのペースはやはり速すぎる。
平塚市には冨士支店時代に仕事で落ち込んでいた自分に優しく声掛けてくれたK代理が住んでおられたが、今年1月に亡くなられた。初めての社宅住まいに家族ぐるみでお世話になった頃が懐かしく思い出されてくる。
8キロ地点になる相模川に架かる湘南大橋を渡ると、左右の視界が大きく開けて、左手の相模川の川面を旋回するモーターボートの航跡が輪を描き、右手に広がる大海原と河口の造形物とのコントラストが絵画のように美しく、湘南の海岸を走っている喜びを満喫した。
茅ケ崎市内に入ると左右の松林が切れ、湘南海岸の砂浜が広がってきた。茅ケ崎サザンビーチの音楽が聞こえてきそうである。色とりどりのウエアの大集団は、脱落する人もなく整然と安定したペースで、先頭は遥かかなたである。10キロ地点の通過タイムは1時間3分30秒、少し速目だがなんとかこの流れに付いていこう。
西湘バイパスの道幅一杯に広がって走っていると、やがて左半分に誘導され、空いた反対車線を折り返してきたトップグループが風のように走り抜けていった。先頭はケニアの五輪メダリストのエリック・ワイナイナ選手だ。周りからウオーという感動の呻き声が沸き起こった。
次々にすれ違っていく先行のエリートランナー達に向けて周りから「頑張れ!頑張れ!」という拍手と声援が送られた。誰かの「頑張れ!は、俺たちもだけどね」の声に、笑い声が沸き上がった。楽しい仲間たちだ。
第1・第2の給水はパスしたが、第3給水所からドリンクの補給を取り始めた。身体はまだ水を求めていなかったが、早めの給水はフルマラソンの鉄則だと自分に言い聞かせた。やがて藤沢市に入り鵠沼海岸を過ぎると遥か右前方に江の島とタワーが見えてきた。
第1折り返し地点だが、江の島の姿がなかなか近づいてくれない。折り返してくるランナーの多さに、改めて自分がいかに遅れているかを思い知らされた。
江の島の手前の海岸通りに林立するリゾートホテル群の繁華街からの黄色い声援を受けながら、西浜の交差点でようやく折り返した。まもなくの第五給水所20キロ地点で2時間9分20秒。5キロ32分ペース、このペースでいくとゴールタイムは4時間33分になるが、そんなタイムは絶対にありえない。これからのペースダウンは明らかだ。
やはり筋肉疲労の悲鳴が出始めた。沿道の係員の「折り返してからが一番きついんだ。頑張れ!」の声は全くその通りだ。ウエストポーチから筋肉鎮痛スプレーを取り出して右太腿裏に吹き付けた。痙攣が起きてからでは遅い。早め早めに対処しよう。
復路の28キロと31キロの給水所では、誰もが長いテーブルに広げられたパンやバナナや甘物に手を伸ばし、後半の限界に挑戦するための体力を補強していた。
給水所に立ち寄らず走り抜けるランナーはもはや誰一人いなかった。係員達の温かい笑顔と激励と栄養の補給を受けて新たな英気を養ったランナーが順次走り出していった。そこはまさしく戦場の中のオアシスになっていた。
辻堂から茅ケ崎と両側に松並木が続く正面に見えるはずの富士の姿はついに現れなかった。苦しい走りを支えてくれるはずの富士山に見放されてしまったか。
30キロ地点で3時間25分。これまでの貯金は殆ど使い果たしてしまった。5キロ40分ペースに落ちたが、ゴールタイムの5時間切りは、まだ望みがあった。
往路で一般道から合流した西湘バイパスを、復路はそのまま二宮方面に直進である。太腿裏の痛みを鎮痛スプレーで宥めてみるが、いよいよ厳しくなってきた。左手に続く海岸線の砂浜に等間隔で陣取った釣り人の姿を遠望しながら、両手をガードレールにあてがい打ち寄せる波の音にリズムを合わせ太腿のストレッチを試みてみた。やがて太腿の上面や股関節にも痛みが走りだし、ストレッチと走りの間隔は短くなっていた。
ゴールのある大磯ロングビーチから、ゴールするランナーたちに向けられた大歓声が流れてくる右手の土手を見上げながら、土手下の西湘バイパスを二宮方面に向かったが、大会本部テント裏のフェンスに数10枚の大漁旗が掛けられ、大勢の地元や家族や大会関係者がフェンスに張り付けて声を限りに声援を送っていた。
2キロ先の二宮ICを折り返してゴールに向かって反対車線をラストランするランナーに向けられた声援なのだが、これから第2折り返し地点に向かう我々にとっても大きな力になってくれていた。
沿道に立っていた係員が「あと4キロ!このままいくと5時間切れるよ!」と叫んでいた。苦しい走りをよく知った心強い応援だ、ありがとう、まだいけるぞ。
左手の海岸線に100人近いサーファーが波乗りしている景色は壮観である。相模湾の大海原と延々と続く砂浜、これぞまさしく湘南海岸だ。走っては止まり、止まっては走り、また走っては止まる、ストレッチを繰り返しながら、湘南の海と共に走っていた。
第2折り返し地点までの2キロのなんと長いことか、まだかまだかと足を引きずる思いでようやく折り返した。
40キロの標識で4時間45分、残り2キロ余りを15分はとても無理だ、5時間切りは諦めたが、とにかくベストを尽くして走り切ろう。
フェンスに張り付いた応援団の目の前まで来て、また足が止まってしまった。屈伸を始めた。見ず知らずの私に向かって、仲間のように、頑張れ!もう少しだ!頑張れ!と励ましてくれた。不思議と恥ずかしい思いはしなかった。むしろ声援を受ける心地良ささえ感じていた。
西湘バイパスから大会会場に入るラストの上り坂ではコース沿いの大声援に感涙していた。ありがとう。ついに巨大なFINISHゲートに向う直線に入ったが、ラストスパートをする力は残っていなかった。朦朧としながら余力を全て使い果たす一念でゴールに向かった。
ネットタイムは5時間4分46秒、制限時間6時間内の完走者9710人中7634番、期待の富士の姿は叶わなかったが、湘南の海と美しい砂浜と緑の松林を満喫しながら三度目のフルマラソンはかくして終わった。
スタート前の整列中に耳にした三人元娘の会話が浮かんできた。「フルマラソンは、なんでこんなに苦しいの、もう二度と走らないって思うんだけど、やっぱりまた走るのよね」4ヶ月後の東京マラソンを最後にフルからハーフに切り替えようと思いながら走ってきたが、東京の次のフルマラソンがまだあるかもしれない。
【神奈川県②:雨の三浦半島を走る】
2008年11月の湘南国際フルマラソンを走った4ケ月後の三浦国際市民マラソン大会に参加した。
マラソンコースの三浦半島は、私にとって忘れられない思い出の地である。40年前の昭和43年3月、仙台から東京に転勤して首都圏の地理も何も知らない時分に最初に訪ねた観光地が三浦半島突端の城ヶ島だった。その時に同行したのが、郷里宮城の後輩S君である。
突然東京に来ていると連絡があり、受験前の大切な時間を私の夢実現のために犠牲にさせてしまった後ろめたさもあり、彼のために小旅行を企画、美空ひばりが歌う北原白秋の「城ヶ島の雨」が好きだったこともあり、独身寮の元住吉から直行できる城ヶ島を旅先に選んだ。
当時、恩師の転勤で低迷する出身中学の吹奏楽部を応援しようと吹奏楽部OB会を結成、後輩を指導しながらコンクール一般の部に出場、更に「音楽の町」作りの一環としてクリスマスダンスパーティを企画、その中心になったのがS君をリーダーにした高校3年生だった。
パーティは盛況裡に終えたが、高校生故に夜のパーティに参画できなかった彼らが翌朝に土足で汚れた会場の講堂を拭き掃除している姿に感涙した直後に私は東京へ転勤となり、大河原中学吹奏楽部OB会の活動は頓挫、協力してくれた高校3年生たちは大学受験に失敗、そんな時にS君が訪ねてきた。
【城ヶ島の雨と北原白秋と松下俊子】
「城ヶ島の雨」を作詞した北原白秋は、生涯に三人の妻を持った。最初の俊子は隣家の人妻で、明治45年7月に姦通罪に問われて収監され、出獄後に正式結婚するが1年余りで離婚、俊子の去った1年後に章子が白秋とすぐ同棲して結婚するが、章子の不貞が原因で離婚、翌年に見合結婚した菊子とは家庭的な平和が続き、二児を儲け童謡や民謡の境地を開き国民的詩人の名声を得て、22年の歳月を共にした菊子が白秋の最後を看取った。
福岡県柳川市の大酒造家に生まれ、家出同然に上京、早稲田の英文科予科に入り「文庫」と「明星」の詩壇に認められ、与謝野寛らと明治39年に南紀を、翌年に九州を旅行して42年に詩集「邪宗門」を上梓、後に「明星」を脱会してパリのカフェ文芸運動の「パンの会」に入り芸術の自由を謳歌し制作欲を爆発させていたが、明治43年9月に転居先で俊子と運命的出会いをする。
夫の放埒と虐待に絶望した俊子の不遇に寄せていた同情がやがて愛情に変わり、人妻の官能的な美しさに「女は白き眼をひきあけてひたぶるに寄り添ふ、淫らにも若く美しく」と俊子との愛の歌を数多く作っていく。
明治45年7月、俊子の夫に金目当てに姦通罪で告訴され、白秋は搔き集めた示談金で告訴が取り下げられ出獄するが、姦通の汚名と間男の侮辱に、白秋の憂鬱は病的なほど重くなり、人妻との恋に悶え苦しんだ末に、翌大正2年1月2日、三浦三崎で死のうとまでする。
死に切れず帰京すると1月25日に俊子との恋の記念歌集「桐の花」を発刊、5月にまだ離婚していない俊子を伴い、一家を上げて三浦三崎に逃避行する。異人館と呼ぶ洋風な庭の館と南国の海の明るさと陽光注ぐ三崎の再起をかけた新生活で詩歌の作品も大きく変貌を遂げていく。
7月に俊子との恋のモニュメントというべき詩集「東京景物詩」を発刊するが、出版元とのトラブルで収入を断たれ、同居する父と弟が悪徳ブローカーに引っ掛かったこともあり、白秋一家の生計は貧窮を極め、生活の窮状に無神経な俊子と家族との不仲も深まっていく。
9月に父たちが麻布に移転していくと、白秋と俊子だけが三崎に残り、異人館から見桃寺に間借、ようやく俊子の離婚が成立して翌10月に、島村抱月の依頼で「城ヶ島の雨」が作詞される。姦通罪の汚名を被る白秋に作詞を依頼した抱月は、妻子ありながら恋愛沙汰を起こした女優と芸術座を結成した日本近代劇の先駆者である。三浦三崎に愛の逃避行をしている白秋に作詞を依頼した抱月の思惑が何だったろうか。
翌3年3月に、獄中で肺結核になって喀血する俊子の療養のため、南の太陽のより輝く小笠原父島に渡るが、島の生活に馴染めず帰りたがる俊子を先に帰京させて、俊子は麻布の両親らと同居、白秋も翌7月に麻布の家に帰った。
歌集「輪廻三鈔」に「我は貧し、貧しけれども我をしてかく貧しからしめしは誰ぞ。而も世を棄て名を棄て更に三界に流浪せしめしは誰ぞ。我もとより貧しけれど天命を知る。我は醒め妻は未だ痴情の恋に狂ふ。我高きにのぼらむと欲すれども妻は蒼穹の遥かなるを知らず(中略)我深く妻を憫めども妻の為に道を棄て親を棄て己れを棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決し相別る」
裕福に育ち派手好きで天衣無縫、嫁としての遠慮もなく肺病で療養もお金も必要な俊子は、家族の飢えより自分の詩魂に没入する白秋の極貧生活に耐えられず、俊子を疫病神のように疎む白秋ら一家との不仲も険悪になっていた。
金に困り節操なく金策に走った俊子に逆上し「別れて贅沢出来る道を選べばいい」と叫ぶ白秋の侮辱と残忍な言葉に俊子は家を飛び出してしまう。この世に頼るは白秋ひとり、白秋の愛だけを信じてきた俊子の悲劇である。
白秋にとって俊子は一体何だったのだろうか。その答えは、俊子と出会う3年前の作詩「青き花」に見えてくる。
全くの偶然だが、今年(2024年)4月の尺八演奏会で北原白秋作詞の「青き花」(二代上原真佐喜作曲)を吹奏することになった。弦方が箏を弾きながら歌われる歌詞に「そは暗きみどりの空に、昔見し幻なりき。青き花かくてたづねて、日も知らずまた夜も知らず、国あまた巡り歩きしそのかみの、我や若人・・・」とある。
白秋の作詞「青き花」は、明治40年3月に作られ、42年に処女詩集「邪宗門」に収録された詩で、前書きに「南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために」とあり、明治39年に与謝野寛や吉井勇らと旅した南紀旅行を、夢に見た幻の青き花を訪ねる旅に見立てて、自分の青春彷徨を描いたといわれている。
尺八演奏会のプログラムに「メーテルリンクの『青い鳥』と同じイメージで、幸せの青い花を求めて人生を迷い歩く・・という白秋としては最もロマンチックな詩の一つであります」と曲目解説があったが、チルチルとミチルが幸福の青い鳥を探しに行くメーテルリンクの「青い鳥」を読んで「青き花」を作ったのだろうか。
調べてみるとは、メーテルリンクの「青い鳥」は1907年に発表、1908年にモスクワ芸術座で初演、日本に訳本が紹介されたのは1911年、白秋はその4年前に「青き花」を書いておりその可能性はなさそうである。作曲者はそのことを知らずに、メーテルリンクの「青い鳥」のイメージで曲付けしていたに違いない。
尺八13人と箏15人で演奏する「青き花」の美しいメロディと浪漫調の詩に魅惑され、作詩された背景を探るうち、白秋研究家河村政敏氏の「北原白秋私見―ノヴァーリスの影響をめぐって―」という論文に出合った。
河村政敏氏は、白秋の詩「青き花」は、ドイツの初期浪漫派の詩人ノヴァーリスの未完の長編小説「青い花」に由来するものではないだろうかと推論されていた。
小説「青い花」は「主人公が夢の中で見た花弁の青い花の中から少女の顔が浮かび出て微笑みかけ、自分の未来の幸福を象徴すると、ものに取り憑かれたようにその青い花を求めて遍歴の旅に出る。幾多の辛酸を経て夢に見た少女と瓜二つの少女ソフィーに巡り会うが、彼女は不慮の死を遂げる」というノヴァーリスの自伝的小説で、青い花を探し求める旅は、白秋の作詞「青き花」とよく似ている。
ノヴァーリスの名は、明治38年に山岸光宣が「帝国文学」に主要著作を紹介、翌39年に上田敏が「明星」にソフィーの面影を求めて綴った日記を紹介している。白秋は当時「明星」に詩を寄稿しており、南紀旅行前にノヴァーリスの「青い花」を読んでいた可能性はある。
明治40年3月に作られた「青き花」の後半に「羅曼底の瞳」と題して「この少女はわが稚きロマンチックの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。美しきソフィヤの君。(中略)悲しくも静かにも見ひらき給ふ青き華―乙女の瞳、ソフィヤの君」と書いており、白秋が幻像を抱く少女ソフィヤの名は、ノヴァーリスが旅に出て探し求めた青い花の少女ソフィーとよく似ている。やはり白秋はノヴァーリスの「青い花」を読んでいたのではないだろうか。
白秋が詩「青き花」の中で探し求めていたのは、幻の青き「花でも鳥」でもなく、ノヴァーリスのソフィーのような青き「幻の少女」だったに違いない。
白秋は「青き花」を作詩した3年後に、人妻俊子と運命的な出会いをする。そして逢瀬を重ねていた2年後の詩に「わがかなしきソフィーに白い月が出た、出て御覧ソフィー、勿忘草のやうな、あれあの青い空にソフィー」とあり、俊子に出会う前に、憧れの幻の少女をソフィヤと呼んでいた白秋が、俊子に出会ってからは、俊子をノヴァーリスが愛したソフィーの愛称で呼んでいた。
白秋にとって俊子は、なんだったのだろうか。俊子は、ノヴァーリスの世界への憧憬が生み出した想像上の恋人「青き花の少女」であり、白秋は、俊子にではなく、想像上の恋人ソフィーに恋し続けていたのかもしれない。
【三浦一族と鎌倉幕府】
三浦国際マラソンを走る2週間前、叔母の法事の席で従弟が「吾妻鏡」を読んでいると話していた。本屋で立ち読みしてみるとかなり難解だがなかなかに面白い。
私の歴史文学探訪は、源氏物語や伊勢物語の平安王朝ロマンや古代史の邪馬台国と卑弥呼の古代ロマンから中世の鎌倉幕府の黎明期へと飛んで行った。
そして源頼朝が一介の流人でありながら、1180年に高倉宮以仁王の平家追討令旨を受け、僅かな近習と共に打倒平家の旗揚げした頼朝が、最も頼りにしていたのが、私がこれから走ろうとしている三浦半島中部の衣笠城に拠点を持つ三浦氏一族だったことを知った。
三浦氏は桓武平氏の良文を祖とする一族で、総帥義明の長男義宗は早世、次男義澄が家督を継ぎ、娘の一人は上総広常の後見を受ける源義朝の側室となり庶長子悪源太義平の母である。平治の乱で義澄と広常が義平に従い義朝に加勢しており、もう一人の娘は広常の弟頼次の妻となり頼朝の旗揚げ時に頼次は三浦一族に加勢していた。
しかし荒天のため三浦一族の軍勢と合流できないまま旗揚げして初戦の石橋山合戦で敗退した頼朝は、久里浜から海路を房総半島に逃れ、居城の衣笠城を落とされて辛うじて房総に渡海してきた三浦義澄と合流する。
やがて房総の千葉氏と上総氏を従え、更にこれまで敵対していた武蔵・相模の武士団をも大同団結させて、旗揚げ時の弱小武士団は、2ヶ月足らずで数万を超える坂東武士団連合軍に膨れ上がり、念願の相模国の鎌倉入りを果たし、平家の大軍を富士川の戦いで撃退した。
頼朝は敗走する平家を追撃して一挙に上洛せんとしたが、三浦義澄と千葉常胤と上総広常が、今は東国を治めるのが先だと思い止まらせたと吾妻鏡にある。もしあのとき頼朝が源氏再興を図るべく敗走する平家を追撃し上洛を強行していたら、その後の鎌倉幕府も鎌倉時代から始まる武家社会も存在しなかったかもしれない。
当時の東国武士たちは、頼朝が切望する平家打倒より、中央権力から解放された東国武家社会の自立を夢見て頼朝の旗の下に結集、頼朝の平家追討という大義名文に便乗して頼朝に一族の命運を賭けながら、自国領地の安堵と新たな領地の獲得が究極の目的だったに違いない。
三浦半島の荒れた丘陵地帯が領国だった三浦一族にとって、富沃の平野への進出は一族の悲願だったのだろう。横浜市保土ヶ谷区和田町と港南区野庭町に、後に幕府の初代侍所別当となった義宗の長男和田義盛のゆかりの地がある。
頼朝の死後、専横する北条氏の排撃に立ち上がった従兄の和田義盛の誘いを断って和田氏を滅ぼし、三代将軍実朝を暗殺した公暁の求めを退けてこれを誅し、承久の乱では京都方の誘いを拒んで北条義時を助け、更に伊賀氏の陰謀にも応ぜず、北条に忠誠を尽くしてきた三浦氏だったが、1247年の宝治合戦で北条氏に滅ばされてしまう。
生者必滅は世の習いだが、歴史の中に消えていった三浦一族の土地を走り三浦氏の息吹を感じて来たい。
【三浦国際市民マラソン(2009年3月)】
空は白らいできたが、天気予報どおり曇天、横浜で京急三崎口行きに乗り換えた。久里浜駅を過ぎると車窓に大海原が広がり、窓ガラスの雨雫が斜めに流れていた。
久里浜は、三浦一族の居城衣笠城から東に5キロ、ここから東京湾を横断して安房まで15キロ、討死覚悟で衣笠城に立て籠もる父義明を残し、石橋山の挙兵に敗れて逃走する頼朝に従って久里浜から海路安房に逃れる義澄の心情は如何ばかりだったろう。
三浦海岸駅に下車、ホームから改札までランナーで埋まり身動きができない。本降りになった雨の中、更衣室のある地元小学校までの長い列に並ぶこと25分余、ようやく入れた体育館もすし詰め状態、一度外に出てしまうと再入場できなくなる。集合時刻までじっと待つしかない。
風邪の癒えた身体なので大事を取り透明のビニールカッパを羽織って雨の中に飛び出したがこれが正解だった。
海岸通りのスタート付近の砂浜に、大会ポスターに暖簾のように天日干しされた三浦大根と三崎マグロの鯉のぼりのモニュメントが組まれ、ランナーたちが冷たい雨に震えながら記念写真を撮っていた。
スタート20分前だったが海岸通りは既にランナーで埋まっていた。ハーフ完走予想タイム1時間50分台のプラカードに並んだが、さすがにビニールカッパ姿は少ない。気恥ずかしい思いもしたが、この降りしきる冷たい雨の中を寒さで足踏みしている周りのランナーを見遣りながら、やせ我慢しなくてもいいのにと秘かにほくそ笑んだ。
ハーフに先行して10キロレースのスタートの花火が上がった。元気のいい男性のマイクが、ゲストにホノルルマラソン準優勝の尾崎朱美さんを紹介していたが、参加者1万4千人の本大会はホノルルマラソンと日本唯一の姉妹レースで、大会終了後にホノルル招待抽選があるという。当選したらどうしよう。胸がときめいていた。
次いで我々ハーフもスタートした。スタートラインを跨いだのは、2分25秒後、前の方に並んだお陰でこの程度のタイムラグで済んだが、後になって制限時間内に辛うじて滑り込めることになるとは思いもしなかった。
追突しそうなほど詰まった状態が徐々に解消すると、やがて左手に雨に煙る灰色の大海原が広がってきた。1キロ標識を丁度6分で通過、2.5キロ地点で海岸線から分かれて山道に入ったが、両側に霊園が広がる狭い上り坂で、ペースが遅くなってきたが追い抜くことも出来ず、ひたすら前のランナーの背中を追い続けた。
標高80mのコース内最高地点を登りつめると、左手に岩堂山の真ん中をえぐられた山容が見えてきた。神奈川県内では最も低い山で三浦市内では最も高い山だといわれ、明治時代に清国やロシア艦隊の東京湾侵攻に備えた三崎砲台観測所が設置されていたという。
岩堂山の裾野を回る5キロ地点で32分30秒。雨と風は相変わらず吹き付けて来る。岩堂山を下ると視野が急に広がり、右手にキャベツ畑、左手に大根畑、はるか前方に巨大な風力発電の風車二基がゆったりと回り、その右手奥に城ケ島の姿がおぼろげに見えてきた。
吹き付ける風雨をまともに受けながら、広い畑の中をひたすら南へ走り抜け、ついに三浦半島南端の三崎の街に入った。ここまでで8キロだが快調な走りである。
白秋が姦通罪で告訴された収監から保釈されて一度は自殺しようと一人で訪れた三浦三崎に、まだ離婚が成立していない肺病で喀血する俊子を伴っての愛の逃避行は如何に、苦悩と希望の交錯する白秋に思いを馳せていた。
いよいよ城ヶ島大橋である。雨が降る城ヶ島はまさしく北原白秋の世界、思わず歌が口を衝いて出てきた。
≪雨はふるふる、城ヶ島の磯に、利休鼠の雨がふる、雨は眞珠か夜明の霧か、それともわたしの忍び泣き≫
白秋が一夜漬けで作詞した日も雨だったのだろう。利休鼠とは、千利休と深い縁のある抹茶の色で緑みがかった灰色、収監された重苦しい記憶を引き摺りながら、念願の俊子との結婚を果たして三崎の地で詩歌の世界に立ち直ろうとする心境を舟歌に謡ったのであろうか。
大橋の上から眺望する海原は、文字通り利休鼠の雨と雲に覆われていた。対岸の城ヶ島のループ状の坂を下ってすぐ折り返して再び大橋に駆け上がる橋桁の所に、S君と写真を撮った帆形の北原白秋詩碑が見えてきた。
40年前に、東北の田舎からはるばる城ヶ島までやって来たS君とここでどんな話をしたのだろう。何か気の利いた言葉をかけてあげられただろうか。その後、彼が水産大学に進学したと聞いたが、城ヶ島で見た青く広い海が彼の進路になにか影響を与えたのかもしれない。
城ヶ島を折り返し、大橋を渡り対岸の三崎町に戻り、三浦半島の南岸沿いの復路の県道215号に入ると、再びキャベツ畑が広がり、右手に寒々した岩礁の宮川湾の海が見えてきた。往路で見えていた風力発電の風車が目の前に巨大な姿を現した。プロペラより大きな三枚羽根が吹き荒ぶ風雨を受けてゆっくりと時計周りに回っている。ここが三浦半島で一番風が強いのだろう。ビニールカッパを被っていたが、両腕はずぶ濡れで冷え切っていた。
標高30mのキャベツ畑を一気に駆け下ると、遠浅に岩畳が露出する毘沙門湾が見えてきた。半弧を描く湾岸に沿ってランナーの列が白く長い糸の様に連なる美しい景観に、コースを外れてカメラに収めた。
続く江奈湾沿いの道路の真ん中に立った主婦が、ボールを手に何かを配っていた。走り寄ってボールを覗くと柿の種とピーナッツだった。「こんなもんしかないんだけど」と申し訳なさそうに、か細い声で謝っていた。大会関係者でもない沿道の一市民が、この冷たい風雨の中での個人的なご好意に、思わず涙して感謝の声を叫んだ。
江奈湾の15キロ地点で1時間35分。この5キロが32分。カメラ撮影のロスタイムを引けばキロ6分のイーブンペースだ。ゴール予想タイムも2時間12分位かと取らぬ狸の皮算用をしたが、そう甘くはなかった。
三浦半島南東端の剣崎燈台の山側を北に縦走する高低差50mの長い上り坂が始まった。最後の難関で事前のコース案内で承知はしていたが、さすがにきつい。雨は弱まってきたが、風は相変わらず強く、体感温度が零度以下の寒さで震えが止まらなかった。ここが頑張り所だ、歩くことだけはすまいと思うのだが、無理しなくてもいいよという悪魔の囁きに、もはや抵抗する術はなかった。長い上り坂を走る人はもういなかった。足を止める人はさすがにいない。ただ黙々と歩くだけである。
ついに歩きと屈伸の繰り返しが始まった。救護車が前方から後方に走り去っていった。ようやく1キロの上り坂が終わると、遥か前方に金田湾の海が見えてきた。雨は上がったが、冷たい海風が向かい風となって襲い掛かってくる。この最後の下り坂でタイムを取り戻したいところだが、もうそんな力は残っていなかった。
利休鼠色の空と海が広がる海原を右手に、やがて往路コースと合流すると見覚えのある湾岸コースである。残る3キロを、ひたすら向かい風に立ち向かうように一歩一歩、足を交互に前に進めるだけになっていた。
突然、風に乗ってゴール地点の放送が聞こえてきた。「あと4分で制限時間です。頑張ってください」え? あと4分? 自分の腕時計はまだ6分以上あるのになぜ?
そうだった、スタートの合図から計測するんだった。スタートのタイムラグが2分25秒もあった。不覚だった。これまで一度もハーフマラソンで制限時間を気にしたことがなかっただけにすっかり動転してしまった。
さっきまで歩いていた周りのランナーが一斉に走り出した。あれほど疲労困憊した様子だったのに、どこにそんな余力があったのか。自分も負けてはいられない。
ゴールの櫓が見えてくると、なんと秒単位のカウントダウンが始まっていた。私の前と後には誰もいない。カウントダウンはなんと私に向けられていたようだ。
「5秒!4秒!」冷酷なアナウンスだが、激励にも聞こえていた。手の平を拡げて腕を振って足を回転させた。
ゴールの電光掲示板が≪2時間19分56秒≫を表示していた。マイクの声が「3秒!2秒!1秒!」と感極まっていた。あと1秒だ! 頑張れ! そして「ゼロ!只今制限時間になりました」というマイクの声を耳にゴールラインを越えた。果たして間に合ったのか。
ゴール担当の係員が私の前に回り込んで胸のゼッケン番号を確かめて本部席に私の番号を伝える声が聞こえたが、完走証を手にするまでは不安だった。
寒さで震える手に渡された完走証に、公式タイム2時間20分2秒、ネットタイム2時間17分37秒。総合順位6047人中3933位とあった。2秒オーバーの私を着順に入れてくれていた。完走証に、天候:雨、気温:5度、湿度:95%、風:平均8mとあった。数字がいかに過酷な気象条件だったかと証していた。
ホノルルマラソンの夢はハズレたが、参加賞にTシャツと三浦特産の立派な大根を1本頂戴した。帰りの横浜経由の約2時間半の電車内で裸の太い大根を一本ぶら下げていたが、少しも恥ずかしくなかった。むしろ冷たく強い雨と風の中を21キロのハーフを走って来たんだと誇らしかった。
【神奈川県③:横浜に赤い靴を訪ねて】
我が家の飾り棚にブロンズ像「樹と少女」がある。安田生命保険会社創業110周年の記念品で彫刻家山本正道制作の複製品である。しおりに「高原の午後、樹の根元に腰を下ろして読書する少女の姿」とあり、同氏の略歴に横浜市山下公園の「赤い靴を履いた少女」を製作したと紹介されていた。共に可憐な少女の座像で、清楚で物悲しい孤高の佇まいは、メルヘンチックである。
昨年12月に放映された「内田康夫サスペンス浅見光彦~最終章横浜編~」で、光彦の母雪江が、旧友が横浜に営む老舗バーの片隅で秀麗な紳士が奏でる「赤い靴」の調べを聞き入っているシーンがあった。殺人事件解決の鍵になる曲なのだが、推理の展開よりももの悲しいピアノのメロディの方が頭にいつまでも残ってしまった。
≪赤い靴 履いてた 女の子 異人さんに 連れられて 行っちゃった≫
≪横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って 異人さんに 連れられて 行っちゃった≫
大正時代に赤い靴が履けたのは良家の子女に違いなく、白いワンピースに赤い靴を履いたお嬢ちゃんが、外国人に拉致誘拐されたのであろうか。ドラマを見終えてすぐ「赤い靴」の歌について調べてみると、歌に隠されたある事実があったことを知り慟哭してしまった。
赤い靴を履いた少女のモデルとなったという岩崎きみは、私生児として明治35年に静岡県清水市に生まれ、3才の時に結婚した母が北海道に入植するには厳寒の開拓生活で幼児は育てられないと、函館に住むアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻に養育を託し、帰国する宣教師に連れられて渡米してしまったという話を、母の再婚した夫から聞かされた野口雨情が、大正10年に「赤い靴」を作詞、翌年に本居長世の作曲で童謡になった。
≪今では 青い目に なっちゃって 異人さんの お国に いるんだろう≫
≪赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える≫
アメリカ人になって幸せに暮らしているのだろうと思いながら、便りもなく今はどこでどうしているだろうと考えられてならないと、我が子を捨ててしまった母親の悲痛な自責の念がひしひしと伝わってくる。
ところが事実はもっと悲劇的だった。昭和48年11月の夕刊に「野口雨情の赤い靴の女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」という投稿記事があり、当時北海道テレビ記者だった菊池氏が、5年の歳月を掛けて調べ上げ、その女の子が結核に冒され病弱なためアメリカに連れて行けず、東京麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられ、9歳で独り淋しく病死していたことが判明した。
母親は娘がてっきり米国に渡ったものと思い込み、孤児院で幼くして亡くなったことを知らずに一生を送っており、もし渡米せず日本に残っていると知ったなら探し出していたに違いない。悲しい薄幸な話ではないか。
野口雨情も本居長世も当然この事実を知らずに作っていたが「赤い靴」のメロディに童謡らしからぬ、どこか切なく涙を誘われるのは、本居長世が、生後1年で実母を亡くし父も出奔して祖父に育てられた、岩崎きみに似た境遇が作曲に投影されていたのかもしれない。
【山下公園の赤い靴を履いた少女像を訪ねて】
2010年3月に静岡県熱海市で開催される「熱海湯らっくすマラソン大会」に参加する際、横浜駅に途中下車して念願の「赤い靴を履いた少女像」に再会した。
3月も中旬だが、まだまだ早春である。青白い空が広がりまもなく日の出になるが、指先がかじかむ程に冷気が漂っていた。朝一番の電車に乗り込み、横浜駅で途中下車、関内駅からタクシーで山下公園に向かった。
路肩にタクシーを待たせ、埠頭に係留された氷川丸から少し離れた植え込みに囲まれた「赤い靴を履いた少女像」に急いだ。少女の像は思いのほか小柄だった。
彼女は「やっと来てくれたのネ」と微笑んでいた。髪を後ろに束ねて心持ち首を傾け、両手を両膝の上に組み、視線を海の遥か彼方に向けて、大きな丸い石に腰掛けていた。可愛いベルト付きの靴を履いた足先を少し前後にして、少しおませなポーズのワンピース姿を見ていると、米人宣教師に預ける際に清貧な生活の中から精一杯お洒落させてあげたであろう母親の思いが伝わってくる。
膝に乗せた両手は重ね合わせでなく座禅のように指を組んでお祈りをしているように見える。少女像の制作者山本正道は、彼女が渡米せずに孤児院で幼く死んだことも知らず野口雨情の詩をイメージして作成したという。
我が家の2階から手を伸ばし切り取ってきたミモザの花枝を、膝の上に組んだ少女の両手に添えてあげた。
黄色の小花をふんわり手鞠のように咲かせたミモザの花言葉は「感謝」「思いやり」「真実の愛」である。やむなく手放した娘を一時も忘れることがなかったであろう母の愛に思いを馳せて少女の像に十字を切った。
昭和54年に山下公園に設置された山本正道制作の赤い靴の少女像は、海に向かって何を考えているのだろう。母から引き離されアメリカに連れていかれる不安を抱きながら横浜の波止場から海を眺めているのだろうか。
我々の歌う「赤い靴」の歌は前掲の四番までだが、野口雨情は、発表はされなかったが、昭和53年に発見された草稿に、次の5番があったという。
≪生まれた 日本が 恋しくば 青い海 眺めて ゐるんだらう 異人さんに たのんで 帰って来(こ)≫
日本が恋しければ帰って来いと歌っており、赤い靴の少女像が制作された前年とすると、山本正道がこの五番の歌詞を知っていた可能性はある。母の事情で宣教師に預けられアメリカに連れてこられたが、自分の生まれた日本や母を恋しく思いながら太平洋を眺めている姿を正道は思い浮かべて像を造ったのかもしれない。
母が入植する厳寒の地では育てられないと外人宣教師に預けたというが、再婚するのに足手まといになる私生児のきみちゃんは、母に捨てられたのかもしれない。3才ではまだまだ親離れのできない母恋しの年令である。
慌ただしくタクシーに戻り、運転手さんに、埼玉の自宅からミモザの花を持参して献花してきたこと、彼女が結核に罹って渡米できず孤児院で早くに亡くなっていたこと、母親は預けた宣教師に連れられアメリカで仕合せに生きていると信じていたこと、もし渡米していなかったと知っていたら娘を探し出して会えていたかもしれませんねと、赤い靴を履いた少女の悲しいお話を冗舌に話しかけた。かくして関内駅から横浜駅に戻り東海道線の特急仕様の各駅停車に乗り換えて熱海へ向かった。
【赤い靴の少女と青い眼の人形】
「赤い靴」の3番に「今では青い目になっちゃって」幻になった5番に「異人さんに頼んで帰って来い」とあり、5番があって初めて歌のストーリーが完結するように思うのだが、なぜ雨情は5番を未発表にしたのだろうか。いつものこだわり症がうずいてきた。
奇しくも同じ時期にアメリカ生まれの青い眼の人形が日本にやってくる歌が、雨情と長世のコンビで作られていた。
「赤い靴」が児童雑誌「小学女生」の大正10年12月号に発表された同じ大正10年12月号の児童雑誌「金の船」に「青い眼の人形」が発表された。
青い眼をしたお人形は アメリカ生れの セルロイド
日本の港へ ついたとき 一杯涙をうかべてた
私は言葉がわからない迷い子になったらなんとしよう
やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ
仲よく遊んでやっとくれ
雨情は2才の娘が当時流行のセルロイド製のキューピットと遊んでいる情景を見て書いたといわれているが、3才でアメリカに連れて行かれ、アメリカ人の子供として養育され、日本語の分からない青い眼のアメリカ人になってしまったが、生まれた日本が恋しいんだったら帰って来いと歌う「赤い靴」の5番の歌詞を独立させて、もしきみちゃんが日本の港に帰ってきた時の戸惑いに思いを馳せながら「青い眼の人形」の歌が作られたのかもしれない。
大正12年9月の関東大震災で日系アメリカ人を中心に受けた物資援助の答礼音楽使節として本居長世と娘姉妹と尺八の吉田晴風ら一行が、横浜港から渡米した。ハワイやアメリカ西海岸を演奏旅行したが、可愛い振袖姿で歌う本居姉妹は「本当にお人形のよう」と多くのアメリカ人の心をとらえ各地でひっぱりだことなり、本居長世は「『青い眼の人形』にいちばん拍手が多くて喜ばれた」と述懐していたという。
当時、日本からハワイやアメリカ本土への移民が盛んで、アメリカ国内では低賃金で従順に働く日本移民労働者への反感と人種的蔑視もあり反日感情が高まっていた。
昭和2年3月3日、親日家の牧師ギューリック博士が険悪な日米関係改善のため、平和と友情を標榜して子供世代からの国際交流をと世界児童親善会を設立、雛祭りの日に合わせて全米から募った1万3千体の人形が贈られ、横浜港から全国の小学校や幼稚園に届けられた。
人形には着替えのドレスやオーバーコート、ハンカチや靴下とたどたどしい日本語の手紙まで添えられて「青い目の人形」と呼ばれ、日米親善の懸け橋になったという。
太平洋戦争中に敵性人形として多くが処分されたが、山下公園近くの横浜人形の家に数体が展示されている。
青い目の人形の返礼として日本から58体の市松人形がクリスマスに合わせてアメリカに贈られた。この人形交流に向けて尽力したのが、1924年にカルフォルニア州議員提出の帰化不能外国人移民全面禁止条項が追加された排日移民法の成立を憂慮した実業家の渋沢栄一だった。
後にアメリカに移民先を失った日本は、代わりに満州を重視して1932年から昭和恐慌で疲弊した農村から満蒙開拓民(27万人)を移住させたが、在留邦人と権益保護を名目に日本陸軍が満蒙に進駐してやがて日中戦争に繋がり、1941年に排日移民法が反米感情を煽って対米戦争に突き進んでしまったのだとしたら、日本のお嬢ちゃんよ、仲良く遊んでおくれと歌った「青い眼の人形」の歴史的意義は大きかったといえよう。
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