【東北の関ヶ原と仙台開府】
〈1〉会津征伐と百万石の御墨付
秀吉薨去の2年後、慶長5年(1600年)9月15日の天下分け目の関ヶ原の戦いに前後して、東北の関ヶ原といわれる西軍の上杉景勝と東軍の伊達政宗・最上義光の慶長出羽合戦が起り、再び戦乱の世となった。
東北の関ヶ原で戦った伊達氏と上杉氏はかつて蜜月の関係にあった。政宗の時代から100年ほど遡る伊達氏十三代尚宗が、越後守護上杉定実の姉を正室に迎え、その子十四代稙宗が三男実元を定実の養嗣子に送ろうとして、反対する嫡男晴宗と南奥羽を二分する天文の乱が勃発、勝利した晴宗が家督を相続して稙宗は隠居、実元の上杉入りは沙汰止みとなった。定実の死で後継のない越後上杉家は断絶、定実の娘の夫長尾晴景の実弟景虎が、越後守護を代行した。長尾景虎は、後に関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉家を継いで後の上杉謙信である。
謙信に子なく急死すると、謙信の実姉の子景勝と小田原北条氏から養子に入っていた景虎が後継を争い御館の乱が勃発、政宗の父輝宗は北条との同盟に基づき蘆名盛氏と景虎方に参戦するが、景勝が勝利して当主となる。
家督を相続した十七代政宗は景勝と講和して、会津の蘆名義広を滅ぼしたが、秀吉の惣無事令に反したとして奥州仕置で蘆名氏から奪った会津他八郡が召上げられ、更に葛西大崎一揆の責任を問われて、伊達氏本領の米沢と仙道六郡も召上げられ、蒲生氏郷に与えられた。
氏郷が急死すると、越後の景勝が移封され、会津・米沢・仙道を引き継いだ。政宗の所領のほぼ半分を奪った形となった景勝は、秀吉に江戸の家康と奥州の政宗を監視・牽制する使命を託されており、秀吉死後に家康と政宗に敵対することは避けられない運命だったのだろう。
慶長5年4月1日、秀吉の死後を専横する家康が景勝に領内諸城改修の弁明に上洛を命じるが、上洛を拒否する直江状に、秀頼公守護の役を果たさぬは故太閤の遺言に背くと景勝謀叛を治定、5月3日に会津征伐を決した。
6月2日に東国諸大名に会津陣触れを発して、家康は18日に伏見を出発、7月2日に江戸城に入る。7日に南部・秋田等奥羽諸侯に会津攻めを指示、21日に江戸を出陣した。会津攻めの陣立てである。
・白河口:家康・秀忠及び東海・畿内の諸大名
・仙道口:佐竹義宣
・信夫口:伊達政宗
・米沢口:最上義光及び仙北(最上川以北)の諸大名
・越後口:前田利家・堀秀治
家康が会津征伐で畿内を留守した隙に、石田三成と大谷吉継が、会津の上杉景勝と呼応するように、毛利輝元を盟主に西国大名を糾合して家康打倒の兵を挙げ、18日に家康の家臣鳥居元忠が籠城する伏見城を攻撃した。
三成が諸大名に挙兵の触状を廻しているという情報が江戸を出陣した家康の許に入り始めた23日、家康は会津攻めの中止を決意、下野小山に着陣した25日に軍議を開き、反転西上して上方の三成を討つ作戦を決定、26日に小山の陣を引き払い、8月5日に江戸に戻った。
大坂に居た政宗は、家康の会津征伐に先発して6月16日に伏見を出発、中山道を通り高崎から上杉領の会津・仙道を迂回して、長く敵対関係にある佐竹氏、岩城氏、相馬氏の常陸、磐城、相馬を経由、7月12日に本拠の岩出山城ではなく名取郡北目城に入った。
会津攻めについて家康の最上義光宛て7月7日付書状(市立米沢図書館所蔵「古文書集」)で、「急度申し入れ候、会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候」とあり、家康は、政宗にも7月21日出陣を伝えて信夫口から上杉領へ侵攻を指示してきていたのだろう。
政宗は、家康の出陣に合せたように7月21日、宮城県南部の白石城を攻略するため、北目城を出陣した。
24日に、亘理右近、屋代景頼、片倉景綱、山岡志摩が四方から白石城に攻め懸かり、首級七百余を討ち取って、翌25日に城代の登坂勝乃が降服してきた。
政宗が白石城を攻撃する前日の23日、家康は三成の上方挙兵の報を受けて、会津征伐の中止を発していた。
家康の最上義光宛て7月23日付書状(譜牒餘録)に「急度申し入れ候、治部少輔・刑部少輔、才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方より重ねて様子申し入るべく候、大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候」とあり、同じ書状が当然に政宗にも送られていたのだろう。
7月26日に小山の陣を払い、江戸に戻る途中の家康から、8月2日付の朱印覚書(伊達家文書695号)で「大坂奉行の謀反に付き駿河尾張の間を警戒すること、秀忠を宇都宮に押さえとして残すので万事相談すること」と政宗に正式な進攻中止命令が送られてきた。
既に白石城を攻略していた政宗は、家康の朱印覚書を受けて、会津征伐中止と反転西上の方針に反駁する書状を、徳川四天王の井伊直政と使者役の村越直吉宛てに8月3日付で出状している(山形県史巻一)。
「上邊之儀、如此之上者、尚白河表会津ヘ之御乱入、大急ニ被成候様に達而可被申上候、萬一手延ニ候而者、必々諸口之覚違、尚々御凶事出来可申由存事候、縦上者闇ニ成申候共、御遺恨之筋と申、長尾(景勝)被討果候得者、上之事も即可被属御存分事案の内に存候」
政宗は、三成が上方で反家康勢力を結集しているが、反転西上する前に、急ぎ白河表会津へ進攻して景勝を討ち果たしてしまえば、上方の形勢も変わり、家康の思うようにいくだろう、もし会津攻めを先送りすれば、事態はむしろ悪化する、と進言していた。
さらに「最上へも尚御使者被遣候て、長井筋へ被取懸候様ニ可然候、今の分ニ候て者、長井之人衆も、心安仙道筋ヘ打廻可申候、縦ふかき事成不申候共、手切被仕候様に御下知第一に候」と要請した。
文中の長井筋は、景勝の重臣直江兼継の所領米沢を含む置賜地方である。今のままでは兼継率いる長井衆が自由に仙道方面に進出できる状況にあり、家康から山形の最上義光に使者を送り、兼継所領の長井方面へ攻め入らせるよう働きかけて欲しいと申し入れたのである。
政宗の描いた戦略は、家康が反転西上する前に、家康本軍に南の白河口から会津へ、最上義光には北の米沢口から侵攻させ、米沢の直江兼続の白石城奪還と仙道進出を牽制させて、その隙に政宗が伊達郡桑折から福島城の仙道方面に侵攻するという、家康と義光を陽動作戦に利用した政宗自己利益中心の作戦であった。
江戸に戻った家康から、政宗からの白石城攻略報告と上杉領への進攻を進言した8月3日の政宗書状を受けての返信なのであろう、8月7日付け政宗宛て書状(同文書697号)が届いた。
「切々御飛脚、御懇意之段祝着之至候(中略)當表之儀、中納言宇都宮差置、佐竹令御談合、白川表ヘ可相働由申付候間、其陣御働之儀、無越度様、被仰付尤候」
嫡男秀忠の軍を前線の宇都宮に留め置き、対上杉討伐戦の主戦場を白河口と定めて、秀忠と佐竹義宣に白河口を固めさせ、政宗には秀忠の作戦を援護する範囲に留めて信夫口からの上杉攻めを自制するよう求めてきた。
三成挙兵に反転西上を決意した家康は、北の上杉景勝と南の石田三成を同時に相手にする二正面作戦を回避するため、北方戦線の静謐を保つべく、秀忠を宇都宮に在陣させて白河口を抑えながら、米沢口の最上義光と信夫口の政宗に自重を求めたのである。
政宗は、白石城攻略戦の報告と上方の情勢収集と今後の対応のため、家臣の山岡志摩を使者に立て、家康が政宗の許に戦目付として派遣して白石城攻略戦を見聞して帰府する今井宗薫に同行させた。
今井宗薫は、秀吉の薨去した翌年に、政宗の長女五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約の仲立ちを務めており、家康と政宗の間の周旋役を担っていた。
山岡志摩の抜擢理由について、伊達治家記録に「兼日、大神君囲碁ノ御相手仰付ラレ、別シテ御懇ニ成シ下サル故ニ」とあり、単なる報告だけでなく家康と昵懇でなければ務まらない困難な交渉を託されていたようである。
山岡志摩の報告を受けた家康の政宗宛て8月12日付け書状(同文書700号)に「御懇使札、祝着之至候、先度如申入候、上方打捨、会津表雖可申付覚書候、福島正則、田中吉政、池田輝政、細川忠興、各先々上方仕置申付候ハて不叶由、再三依被申、先江戸迄帰陣仕候、仙道之儀者何時成共、手間入間敷候間、差合可申付候條、有其御意得、御働御分別専一候」とあり、正則・輝政・忠興は、前年に石田三成襲撃事件を起こした秀吉子飼い武将である。三成憎しの彼らが三成挙兵に激昂している内に、家康は三成討伐を優先させたかったのだろう。江戸に帰陣した事情を言い訳がましく説明して、上杉征伐優先を主張する政宗に、仙道進攻自制を再度求めてきた。
その10日後の8月22日付けで家康から旧領7ケ所49万5822石を充行う判物が与えられた(下図)。
政宗の自領の58万石と合わせて100万石になる、後に「百万石の御墨付」といわれた覚書だが、家康の狙いはなんだったのだろうか。その背景を考えてみた。
覚
一苅田 一伊達 一信夫 一二本松
一塩松 一田村 一長井
右七ヶ所御本領之事候間
御家老衆中へ為可被宛行進之候、仍如件
慶長五年八月廿二日 家康(花押)
大崎少将殿
御墨付七郡の内、伊達は始祖朝宗が頼朝の奥州合戦の戦功で拝領した伊達氏発祥の地、信夫と苅田は大崎氏から、長井は長井氏から、八代宗遠が1380年代に奪った土地、二本松と塩松は父輝宗の犠牲で得た土地、田村は政宗正室愛姫の実家田村氏の領地、いずれも秀吉の奥州仕置で没収されて上杉領になっていた旧領である。
苅田は、政宗が緒戦で奪還した宮城県南部の白石地方、伊達・信夫・二本松・塩松・田村の五郡は、家康に進攻中止を求められた福島県中通りの仙道地方、長井は、政宗が岩出山に移されるまで伊達氏の本拠地だった米沢地方、まさに政宗の欲しがりそうな領地である。
秀吉の惣無事令に違反して蘆名氏を滅ぼし、更に葛西大崎一揆の責任も問われ、父祖伝来の仙道地方と米沢地方と蘆名氏から奪った会津地方を取り上げられた政宗にとって、家康の会津征伐は、奥州仕置で召上げられ今は上杉領となった失地を回復する絶好の機会であった。
政宗は、戦乱の世の再来で、秀吉の惣無事令で固定されていた領境を打ち破る好機と捉えたに違いない。政宗の上杉領侵攻は、もはや家康のための戦いではなく、旧領奪還という政宗宿願の戦いであり、眠っていた戦国武将の血潮躍らせる戦いでもあったろう。
日本歴史学者で日本の近世城郭を専攻する白峰旬氏が「関ヶ原の戦いに関する再検討」で主張されていたが、関ヶ原の戦いは、石田三成・毛利輝元連合軍と徳川家康主導軍の戦いで、家康の戦争は、天下の主導権を巡る権力闘争であり公戦だったが、政宗の戦争は、秀吉の死で惣無事令が瓦解しており、領土切り取り次第という戦国時代の論理で、自己の所領拡大を目的にした公然たる私戦の復活だったのである。
白石城攻略戦を直前にして、当時の政宗の昂揚感の伝わる記述が伊達治家記録の8月上旬の条にあった。
政宗が伊達上野介(政景)に宛てた書状に、近日中に白石筋と丸森口へ戦闘があり、相馬口でも戦闘が始まるだろうから、人数や鉄砲槍を準備するように、勿論、直ぐには間に合わないだろうが「其内世上モ必ス面白事アルヘシ」と心弾ませている政宗の様子が窺える。
9月15日の関ヶ原での家康の大勝は、現代の我々には、当然の帰結のように思うが、当時は両軍の戦力が拮抗して、勝敗の帰趨は全く分からない情勢だったろう。
三成方が家康の家臣鳥居元忠守る伏見城を陥落させて気勢を上げており、秀吉の遺児秀頼を頂く大坂方の情勢次第では、三成憎しで家康に付き従っている豊臣恩顧の諸大名も、いつ西軍側に寝返るか分からない。
今は上杉征伐に従軍しているが、秀吉の信任厚く、豊臣七将に襲撃された三成を助けた常陸の佐竹義宣が、景勝と反家康の密約を結んでいる恐れは十分にあった。北と南の二正面対戦を避け、速やかに三成討伐を優先させたい家康にとって、奥州の静謐は絶対必要条件だった。
家康の会津征伐令に、伏見から帰国早々に出陣して白石城を攻略、更に仙道の桑折から福島城を攻略せんとする血気盛んな政宗の行動は、反転西上して三成との決戦に専念したい家康にとって頭痛の種だったろう。いかにして政宗をフライングさせず、宥めすかして仙道進攻を自重させるか、今井宗薫に同行してきた山岡志摩と家康の間に、どんな駆け引きがあったのだろうか。
山岡志摩は、仙道の旧領奪還に懸ける政宗の宿願を訴え、今は家康に従って東征している豊臣恩顧の武将を西国に返すと、常陸の佐竹と会津の上杉が連携して彼らを取り込んで家康包囲網を形成する可能性があり、今の内に常陸と会津を繋ぐ仙道に進攻して実効支配することで佐竹上杉連携の芽を摘むべしと主張したに違いない。
そして、白石城を陥落させてそのうち世情も面白くなると心弾ませている主君政宗を説得して、仙道への自力進攻を自制させるには、まず政宗の熱望する旧領七郡を約束してやることが先決であるとして、家康に一筆書かせたのが、百万石の御墨付だったのではないだろうか。
百万石の御墨付は、政宗が上杉を攻略する見返りでも、旧領切取り次第と自力回復を認めたものでもなく、政宗を上杉領へ自力進攻させないために旧領回復を約束する証文だったのだろう。御墨付の文面に「御家老衆中へ為可被宛行進之候」とあり、地方知行制で主君に半独立の家老衆に家康が直接知行を約束して、血気に逸る政宗を家老衆に自制させる狙いがあったのかもしれない。
小山から江戸に戻った家康は、すぐには上方に進軍しなかった。小山から反転して尾張に戻った池田輝政と福島正則が、8月23日に織田秀信の守る岐阜城を攻め落とすと、豊臣恩顧の彼らの帰趨を確かめたかのように、9月1日に江戸を出陣、秀忠も上田方面に出陣した。
〈2〉東北の関ヶ原(慶長出羽合戦)
家康の反転西上に合わせて、上杉攻めのために山形に参陣していた南部信直と秋田実季が自領に引き揚げ、家康が9月1日に西へ向けて江戸を出陣すると、南の脅威が遠のいた上杉景勝は、北の最上義光を排除するため、9月8日に大軍を率いて、庄内と米沢の二方面から最上領に侵攻を開始した、東北の関ヶ原が始まった。
米沢の直江兼継軍が、13日に最上領の畑谷城を陥落させ、最上義光の山形本城から南西8キロの長谷堂城を包囲すると、15日、窮地の義光は、嫡男義康を北目城に送り、犬猿の仲だった政宗に援軍派遣を要請してきた。奇しくも上方で関ヶ原決戦のあった日である。
片倉景綱は「最上を棄て直江に勝たせて後、両軍が疲弊してから最上と上杉を討つべし」と進言したが、政宗は「家康のため、母保春院の最上を救うため」と伊達上野介政景を名代に援軍派遣を決定、17日に出陣した政景軍は、20日には笹谷峠を越えて山形領に入った。
伊達治家記録の9月24日の条に「政宗、上野介へ陣中の様子、合戦の心懸、会津よりの増勢如何、二九日に北目城を出陣、晦日白石に着き、来月朔日に伊達・信夫筋へ働き玉フベシと御書を賜う」とある。
家康の指示で仙道進攻を自制してきた政宗も、直江の最上攻撃という新しい局面に、会津の景勝本軍の動きを注視しながら、百万石の御墨付で家康に約束させた旧領から上杉勢力を自力で排除する作戦に動き始めていた。
9月晦日に関ヶ原の戦いの西軍敗北の報が奥州に届くと、長谷堂城を包囲攻城中だった上杉軍は、米沢に撤退を開始、最上軍と伊達政景軍が追撃戦を展開した。
上方の早期決着で、家康の二正面戦線回避の必要はなくなった。家康が再征してくる前に、孤立する上杉から旧領を自力奪還する最後の機会である。最上が庄内の自力奪還に侵攻を始めた。政宗も仙道南進に踏み切った。
10月5日、政宗は2万を率いて北目城を出陣、6日に伊達郡国見山に陣を備え、一番茂庭綱元、二番片倉景綱、三番屋代景頼の陣容で、福島へ向け進軍して宮代合戦に勝利したが、福島城に籠城する本庄繁長の激しい抵抗と梁川城の須田長義による輜重襲撃もあって、福島城の再攻撃を断念して、7日に北目城へ帰還した。
伊達家文書708号「最上陣覚書」に「最上へ直江山城働申候由、政宗承、景勝二本松へ出馬被成、先手福島ニ可罷在候間、伊達郡ニおゐて景勝と一合戦可仕由被存、被罷出候へ供、景勝無御出ニ付、右之合戦計ニて、引籠被申候」景勝が出馬せず政宗は決戦を断念したとある。
10月9日に桑折宗長・大条宗直に宛てた書状で「今度之勤、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ候条、能候ト存候」時勢の展開で景勝との決戦叶わず旧領奪還が果たせなかった無念さを吐露していた。
宮代合戦の報告を受けた家康の政宗宛て10月24日付け書状(同文書718号)に、「至福島表、被及行刻、敵出人数候處ニ、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄、被押詰之由、無比類仕合共候(中略)来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聯爾様肝要候」とあった。
政宗の戦勝を祝しながら、来春には早速に上杉景勝を征討するので、それまで政宗には軍を出さぬよう伝えてきた。政宗の自力旧領奪還の夢はここに断たれた。
その後の顛末は、山形縣史巻一の慶長5年10月26日に、「直江兼績ノ退軍スルヤ、親シク會津ニ詣リ、佐竹義宣ト共ニ、直ニ江戸ヲ襲撃センコトヲ謀ル、會々榊原康政本多正信等使ヲ遣ハシ講和ヲ勧告ス、上杉景勝即チ諸将ヲ會集シ、和戦ノ便否ヲ諮問ス、安田能元等多ク主戦ヲ固辞ス、景勝之ヲ解諭、遂ニ否戦ニ決シ、本庄繁長ニ命シテ上洛セシム」とあり、上杉の降伏で終焉した。
〈3〉政宗の十一箇條御書付
政宗が家康の側近今井宗薫宛て10月14日付け書状(同文書715号)で、関ヶ原で大勝した家康の大坂入城を祝し、生捕りされた敗将石田・安国寺・小西・長束は、無筋謀反で神罰を蒙り天道有り難く、早々に五條河原辺にて成敗して獄門に掛けるべしと進言、併せて最上に加勢した戦況と仙道筋の福島進攻を報告した。
その5日後の10月19日、政宗は、今井宗薫宛てに次の「十一箇條御書付」を送っている。
内覚
一、虎菊丸(忠宗)緣之事
一、兵五郎(秀宗)事
一、大坂伏見屋敷之事(口上)
一、佐スチ以来共御鹽味之事
一、岩城之事(口上)
一、八月廿八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付而、直山人
数催、フク嶋江参候事(口上)
一、会津ニ御手前之衆置申度事
一、南部之事
一、上方ニテ廿萬石カ十五萬石ホトノカンニン(堪忍)
分申請度事(口上)
一、爰元居城之事
一、貴老江千貫之知行可進候、乍去右之儀共調候ハゝ
如御望二千貫之所可進候事、(口上)條條、
以上
十月十九日 羽越前 政宗(御書判)
宗薫老 人々御中
政宗が宗薫に託した家康への申し出は、伊達治家記録に「皆大神君ヘ御内々仰上ラル義共ナリ」とあり、いずれも政宗が予ねて家康に申し出ていたことだという。
第一条の忠宗縁組の事とは、前年に長女五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約が宗薫の周旋で成立しており、第2弾として嫡男忠宗の縁組もこの時に申し出ていたのだろう。3年後に忠宗と家康の五女市姫が婚約している。
次の秀宗の事とは、秀吉の猶子となり秀吉の許で元服していた庶長子秀宗の善処を頼み込んだのだろうか。慶長14年に家康の家臣井伊直政の娘を正室に迎え、19年に伊予宇和島藩10万石藩主に任ぜられている。
大坂伏見屋敷の事とは、上杉討伐のために大坂に残して三成に人質に取られた妻子の保護のことであろうか。
佐スチ以来共御鹽味の事とは、佐竹義重・義宣親子の処置をよく吟味するようにと進言したのかもしれない。
岩城の事、相馬より手切り、直江が福島へ、会津に自分の手勢を、南部の事、とは、奥州の親三成派と親佐竹派への制裁と進攻を家康に申し出ていたのだろうか。
九条目の上方に20万石を申し請けたいとは、関ヶ原で敗れた西国大名の改易で大量に放出される領土を狙って、これまで最上支援と仙道攻略の実績と来春予定の会津再征への貢献を売り込む政宗の強かさが見えてくる。
最後の条の千貫とは1万石相当、宗薫に謝礼として1万石やろう、もし全条項を成就させてくれたら望み通り2万石やろうとは、いかにも政宗らしい口上である。
それにしても、驚くべき傲慢な申し出ではないか。家康が天下を取れたのは、俺のお蔭と言わんばかりの盛り沢山な要求の数々である。政宗が関ヶ原の戦いの直後に自分の果たしてきた役割と実績をどう自己評価して自分を売り込んでいたかが知れる貴重な史料である。
政宗が東北の関ヶ原の戦いをどう総括していたかを自ら語っていたもう一つの記録が、仙台市史:特別編八に収録されているアマーティの著書「伊達政宗遣欧使節記」の第三章「奥州国王伊達政宗」にあった。
「現在の皇帝(家康)は、信濃の国王景勝と、佐竹の国王カツ・ヤサタクエンドノというきわめて強力な二人の国王や、彼らと連合した他の領主たちと対峙した時に、もしも伊達政宗が後方で彼を援助し防衛してやらなかったならば、帝国を領有することもなかったであろうし、皇帝にもならなかったであろう。
彼らは政宗が行った三つの戦いで打破され、粉砕されて、敗北した。政宗は彼らの町や砦を占領し、そして彼らを拘束し、彼らが皇帝の他の敵を救援しに軍の後方に回ることのないようにしたのである。その結果、皇帝は自分に敵対していた西方の諸王のほとんどを捜し出して、屈服させることに成功した」
著者のアマーティは、政宗が関ヶ原の戦いから13年後の慶長18年に、メキシコとの直接交易を図るため、キリスト教の領内布教と宣教師の派遣を条件に、家臣支倉常長と宣教師ソテロを、スペイン国王とローマ教皇の許へ派遣した際、使節団の通訳兼折衝役としてマドリードからローマまで同行したイタリア人で、ローマ教皇に奉献する目的で著述された書物である。
アマーティが「遣欧使節記」に記述した日本の国情と仙台藩と政宗に関する内容は、アマーティ自身が来日して情報取集したわけがなく、遣欧使節団を引率してきたソテロから、ローマ教皇に報告されることを意識して、レクチャーされた内容をそのまま記したのだろう。
ソテロは、スペインのセビリア市の貴族に生まれ、大学で法・医・神を学び、洗足会修道院に入会、司祭に叙階され、慶長5年(1600年)にマニラに渡り日本人町で使徒活動に入った。慶長8年に日本宣教団の一員として来日、江戸城で家康と秀忠に謁見して、江戸と上方に教会と病院を建設しており、政宗との接点は、政宗の愛妾の病気治療が縁だったといわれる。
ソテロは仙台領内での布教を許され、慶長15年に仙台城で政宗に謁見して、使節船の派遣について話し合っており、ソテロがアマーティに語って「遣欧使節記」に記された奥州国や政宗に関する情報は、この時に政宗本人から教授されたものに違いない。
遣欧使節記の「上杉と佐竹が上方の三成らと連合して家康に反抗した際、政宗が家康を後方支援したお蔭で、家康は西国大名を倒して天下が取れた」という下りこそ政宗がソテロに語った東北の関ヶ原の総括だったのだろう。家康への十一箇條御書付の要求も、さもありなん。
現代の我々は、ソテロとアマーティのお蔭で、政宗自身が語った総括と自慢話を聞けているのかもしれない。
〈4〉仙台開府の背景
政宗が十一箇條御書付の10條目「爰元居城之事」で家康に申し出ていた仙台開府について、山岡志摩が家康の承認を得て帰国した記述が、伊達治家記録の慶長5年11月13日の条にある。
「最前山岡志摩ヲ上方ヘ差登サルノ節、宮城郡国分ノ内千代城ヲ再興セラレ、公御居城ニ成シ玉ヒタキ旨、本多佐渡守殿正信ヲ以テ、大神君ヘ仰上ヲル處ニ、普請セラルヘキ旨、今度志摩下向ノ時仰下サル」
政宗が最前山岡志摩を家康に遣わして仙台移転の申し入れたという「最前」とは、いつのことだろうか。政宗がいつ頃に仙台開府の構想を抱いていたかに繋がることだが、山岡志摩は、7月25日の白石城攻略戦を報告するため、帰府する今井宗薫に付いて江戸に赴いている。
政宗の仙台開府までの伊達氏の居城変遷を概観すると、文治5年(1189年)に頼朝が平泉の奥州藤原氏を征伐する奥州合戦に参陣した常陸入道念西が、敵将佐藤基治を石那坂で討ち取った軍功で、福島県北部の伊達郡を所領に賜わり、伊達氏初代朝宗を名乗って伊達郡保原に高子岡城を構えたのが始まりである。
伊達五山を建立した四代政依が梁川城に、十四代稙宗が桑折西山城に移し、祖父十五代晴宗が移した米沢城で生まれた政宗は、18歳で十七代家督を継ぐと、父輝宗の惨劇を乗越えて、宿敵の会津蘆名氏を倒し奥州の覇者となり会津黒川城に移るが、秀吉の惣無事令に反して蘆名氏を滅ぼし小田原陣に遅参したとして、蘆名氏から奪った会津が没収され、居城を米沢城に戻された。
天正19年(1591年)の葛西大崎一揆煽動疑惑で200年来の米沢領も召上げられ、代わりに奥州仕置で改易された葛西氏と大崎氏の旧領が与えられ、米沢城から北東に106キロの宮城県北西部の岩出山城に移った。
岩出山城のある大崎地方は、東北最大級の前方後円墳を造営する勢力が存在した古くからの穀倉地帯で、南北朝時代に大崎氏の始祖斯波家兼が奥州管領に任ぜられて奥羽を統括した重要な拠点であった。
なぜ政宗は、この岩出山城から南に45キロの仙台平野の中央の仙台に本城を移したのだろうか。
仙台開府の理由について、歴史学者小林清治氏が著書「伊達政宗」の中で「これまで政宗が居城とした岩出山城は、大崎・葛西地方の鎮定を主な目的として取立てられたものだったが、その地方の統制が軌道にのると、本街道からはずれしかも北偏するとの位置の不便さが痛感されるようになった。規模の点からいっても、大崎氏の麾下に属する氏家氏の居城であったこの城は、多数の家臣や町人の集住を必要とする60万石の近世大名の居城としては、あまりに小さかった」と述べられている。
家康の会津征伐令で伏見から帰国した政宗は、岩出山城から南に48キロの名取郡北目城に入り、対上杉戦の前哨戦となる白石攻城戦の基地として、その後も作戦基地として北目城を利用しており、岩出山城では会津と米沢を拠点にする上杉氏との戦には、遠すぎたのだろう。
仙台開府の理由は、戦略上の立地だけだったのだろうか。もう少し政宗の思いに想像を巡らせてみた。
奥州仕置で強制的に移された岩出山城からの上洛は、天正20年の朝鮮出兵と文禄四年の秀次謀反事件嫌疑で秀吉に呼び付けられた2度あるが、岩出山から旧奥州街道に沿って南下して白石から伊達・信夫そして二本松と旧領だった仙道を通りながら、秀吉の小田原陣に遅参した己の情勢判断の甘さを悔恨していたに違いない。
今回の家康の会津征伐令で帰国する際には、上杉領になっている仙道の中通りが通れず、大きく迂回して浜通りを行かなければならない屈辱を味わいながら、この機会に旧領を奪還する決意を新たにしたに違いない。
政宗は、三成の上方挙兵に反転西上する家康から二正面戦線を避けるべく、対上杉戦の行動自制を求められていたが、密かに岩手県の南部領で和賀一揆を煽動しており、更に関ヶ原の三成敗北で上杉勢が引き揚げて手薄になった福島県仙道に自ら大軍を率いて進軍しており、戦乱の世の再来を機に、岩手・宮城・福島3県を束ねた広大な陸奥制覇を狙っていたのであろう。
仙台の地は、平野中央にある遠見塚古墳が、東北第5位の規模を誇る前方後円墳で、畿内政権と結びついた広域な政治集団が存在した道の奥の中心地であった。奈良時代には、多賀城に陸奥国府と鎮守府が置かれ、東北の政治文化の中心で、蝦夷を支配する軍事拠点となった。
平安時代後期に青森の外ヶ浜から福島の白河までを支配した奥州藤原氏が、その中心に位置する平泉に、仏教文化の都市を建設して畿内の朝廷から独立した奥州王を宣言したが、500年の時空を超えて、政宗は、藤原清衡に倣って、伊達藩北端の水沢胆沢から旧領南端の白河まで260キロのほぼ中間に位置する仙台平野に本拠を置く壮大な奥州王国を夢見ていたに違いない。
政宗が仙台開府の構想を抱いた時期について、家康が政宗に与えた8月22日付け「百万石の御墨付」によって、南に広がる百万石の新領国の中心になる千代城跡への移転構想が生まれたのではないかといわれている。
しかし会津征伐のため帰国した政宗は、岩出山城には戻らず、南に48キロの北目城を実質的な本拠にしており、百万石の御墨付を与えられるより1ヶ月も前の7月25日に、上杉領の仙道に侵攻する手始めに白石城を攻略した報告の使者に山岡志摩を家康の所に派遣した段階で、白石城から南に広がる仙道の旧領を自力奪還した後の新版図の中心に当たる仙台平野への本拠移転の構想を抱いて、家康に「爰元(ここもと)居城之事」として仙台開府を申し出ていたのではないだろうか。
〈5〉仙台城の誕生と盛衰記
仙台城は、なぜ北目城ではなく、千代城跡だったのだろうか。北目城ではだめだったのだろうか。
北目城は、JR東北本線の仙台駅の南隣の長町駅から南東に約1.5キロ、国道四号線バイパスの鹿の又交差点付近に位置していた。
奥州山脈の面白山を源とする広瀬川と名取川と合流するデルタ地帯の自然堤防と後背湿地上に立地して、七世紀に多賀城に移転する前の陸奥国の国府があった郡山官衙遺跡に隣接しており、仙台平野の中心地にある。
南北朝時代に越前に本領を持ち名取郡に移住してきた粟野氏の居城で、伊達氏十二代成宗に敗れて伊達氏の支配下に入り、秀吉の奥州仕置で政宗が岩出山に移封されると、粟野重国も磐井郡大原(現一関市)に移され、北目城には政宗の側近屋代景頼が城代に入っていた。
北目城の規模は、既に市街化されて城郭の痕跡は殆ど残っていないが、史跡の発掘調査から、東西370m、南北280m、幅15mの堀を四方に廻らせ、総面積12万8千㎡、仙台城の本丸を上回る広さだったという。
北目城は、奥州街道に隣接する交通の要衝にあり、広大な敷地を持って大軍の集結基地にも適しており、政宗は対上杉の前哨戦になった白石攻城戦で前線基地に利用していたが、土塁と堀に囲まれた、ただ広いだけの中世城郭では、鉄砲など近代兵器に対応した攻城戦には不向きであり、家康の対上杉再征が予想される来春までに、北目城を高い城壁を備えた近世城郭に改修するには、時間が無かったのだろう。
当時の築城は、平城が主流で、山城は時流に反していたが、来春の上杉との本格決戦が、仙道から仙台平野に掛けた大規模な攻城戦になることを想定した政宗は、防衛面に弱い平城の北目城ではなく、外堀の役目を担う蛇行する広瀬川に囲まれ、急峻な断崖が固める天然の要塞でもある千代城跡を本城に選択したに違いない。
千代城は、平安時代後期の頼朝の奥州合戦で、東海道軍を率いた下総国国分莊の千葉胤通が、宮城県中南部を与えられて土着した国分氏の居城であった。
国分氏は、始め郷六城を築城、次いで千代城、小泉城、松森城を居城にしたが、国分盛氏に子なく、伊達輝宗の弟盛重が入嗣するが、家中の内紛もあり甥の政宗と対立して佐竹氏に出奔、国分氏は滅亡した。
千代城址について、伊達治家記録の慶長5年12月24日の条に「公、千代城へ御出(中略)晩、御普請初ノ御祝儀、御能五番アリ」、26日の条に「公、北目城ニ御帰」とあり、宴や能や宿泊のできる屋敷が残り、城郭の様相は未だ残していたようである。
家康の許可を受けた政宗は、12月24日に千代城跡に仙台城の縄張りを始めて、翌6年1月11日に普請を開始、翌7年5月に未完ながらほぼ竣工した。
仙台平野の西端に位置する青葉山の丘陵に築かれた標高115mの山城は、東側が広瀬川に臨む断崖、西側が深い御裏林、南側が竜ノ口溪谷、北側に急峻な石垣を築いて、まさに天然の要塞である。
関ヶ原で勝利した家康が、来春には上杉征伐に再征するという風雲急を告げる時期の、突貫工事の築城だったが、宿敵である上杉景勝、佐竹義宣、相馬義胤との攻防戦の舞台となることはなかった。
寛永5年(1628年)に城下の小泉に隠居用の若林城を造営、政宗の死後、忠宗は仙台城の北側山麓に若林城の建物を移築して二の丸を造営、藩政の中心とした。
正保3年(1646年)4月の大地震で本丸の三層櫓が悉く崩壊したが、政務は既に山麓の二の丸に移っており、崩壊した櫓が復興されることはなかった。
戊辰戦争で、仙台藩は東北の31藩が結成した奥羽越列藩同盟の盟主となり、明治新政府軍と対決したが、仙台城は幸いにもその戦場になることはなかった。
維新政府の廃城令により、明治7年に本丸が破却されて、37年に本丸跡地に招魂社が創建された。現在の宮城県護国神社である。残った国宝の大手門は、太平洋戦争の仙台空襲で焼失、一部に石垣だけが残る城塞は、仙台出身土井晩翠作詞の「荒城の月」の世界である。
明治4年に仙台城址に仙台鎮台が設置され、後に第二師団に改編、対外戦争の主力部隊として戦地に赴いた。
日清戦争の威海衛湾攻略、師団長乃木希典率いる台湾出兵、日露戦争では遼陽会戦で夜襲師団の異名を取り、満州事変、ノモンハン事件、そして太平洋戦争では南方戦線に投入され、ガダルカナル島奪還作戦で歩兵連隊長3人を含む7500余人が戦死、ガダルカナル撤退後はビルマ戦線に転戦、苛酷な戦いを強いられた。
〈6〉仙台城の天守閣
仙台城に天守閣はなかった。政宗が天守閣を建てなかった理由について、慶長6年4月18日付の今井宗薫へ宛てた書状に、仙台城の普請経過を報告する中で「内府様如此御繁昌之間者各城などの普請更に不入由存候間」と、家康様のかくの如きご威勢にては、天守閣のある城など建てる必要があろうか、と書き送っていた。
政宗が仙台築城の縄張りをした時期は、関ヶ原のわずか3ヶ月後、大坂城には豊臣秀頼が未だ健在で、豊臣恩顧の西国大名も意気軒昂である。来春には家康による上杉再征が予定されており、家康が豊臣氏を滅ぼす大坂夏の陣は、まだ14年も先のことである。
家康の御威光が天下にあまねく及んでいたとはとても言える状況でなく、政宗得意のリップサービスではないだろうか。天守閣を建てなかった政宗の真意はいかに。
東北に天守閣がないのは、高層建築と石垣構築の技術がなかったからといわれているが、唯一会津に七層の巨大天守があった。蒲生氏郷が文禄2年(1593年)に建てた若松城である。天正17年に政宗が会津蘆名氏を滅ぼし米沢城から会津城に移ったが、秀吉の惣無事令に反して蘆名氏を滅ぼしたとして、会津領が召し上げられその後に伊勢松坂から氏郷が移封されてきた。
氏郷は、信長の娘冬姫を妻に迎え、信長に小さな婿殿と可愛がられたため、本能寺の変後に明智光秀を倒して信長の後継者の位置を勝ち取った秀吉に煙たがられて、氏郷の会津移封は、奥州の政宗の監視と牽制役だったといわれているが、伊勢松坂から「道の奥」に遠ざけられたというのが真相だったかもしれない。
葛西大崎一揆が勃発すると、秀吉は政宗と氏郷に鎮圧を命じたが、氏郷は政宗が一揆勢に通じて自分を挟撃せんとしたと秀吉に讒言、京に呼び付けられた政宗は、一揆煽動疑惑の書状の花押に針の穴がなく偽物だと反論して窮地を脱したが、二人は犬猿の仲だったようである。
後に氏郷が急死すると、政宗による毒殺説が囁かれたという。ライバル氏郷の巨大天守閣を政宗が意識しないはずはないが、それでも政宗は天守閣を建てなかった。高層築城技術がなかったわけではなさそうである。
現存する天守閣十二の内、仙台城の築城と同じく関ヶ原の直後に建てられた天守閣をみると、姫路城(1601年)が池田輝政、伊予松山城(1602年)が加藤嘉明、宇和島城(1601年)が藤堂高虎、高知城(1603年)が山内一豊、いずれも秀吉恩顧の外様大名であり、政宗が家康に敵意のないことを示すため天守閣を建てなかったという話も、俄かには信じ難いが、考えてみればいずれも西国大名である。
それではなぜ東国大名は、高層天守閣を建てなかったのだろうか。東国の大名は、会津の上杉、常陸の佐竹、磐城の岩城、陸奥の伊達、出羽の最上、互いに敵対してはいたが、半世紀前まで、婚姻と養子縁組で繋がる洞(うつろ)と呼ばれる族縁共同体を形成していた。
政宗の曽祖父稙宗は、母が上杉氏、兄弟を留守氏と最上氏に、子女を岩城氏、相馬氏、蘆名氏、大崎氏、二階堂氏、田村氏、葛西氏、梁川氏、亘理氏に、孫を岩城氏、国分氏、佐竹氏、蘆名氏に縁組、奥州の戦国大名が悉く伊達氏を盟主にしたネットワークに組込まれていた。
互いに相手の領地に攻め込むことはあっても、西国大名のように領土簒奪を狙う弱肉強食の世界ではなく、盟主の伊達氏が、陸奥守護職、奥州探題職として、奥州王国の連帯と静謐を保っており、近世大名に脱皮できていない旧態依然とした国人大名の世界であった。
洞の時代から300年経った明治維新でも、薩長の新政府に対して、朝廷に恭順する会津・庄内両藩の放免を嘆願するため、仙台藩が盟主となり奥羽越31藩が列藩同盟を結成、軍事同盟に進んでいった世界である。
家康は東国大名に歴史的な血縁の連帯意識が潜在していることを承知していたに違いない。そして来春に会津再征を予定している家康は、東国大名が連帯して徳川に反旗を翻す危険を警戒していたのではないだろうか。
上杉景勝が謀反の嫌疑を掛けられたのは、越後から移封された会津に籠り、領内の城郭を補修して口実を与えたことにあった。政宗が仙台城の築城に当たり、東国大名の連帯感を警戒する家康の猜疑心を恐れて、高層天守閣の建築に及び腰になっていたのかもしれない。
政宗が北目城から仙台城に移ったのは慶長6年4月、まだ壁も付かなかったといわれ、家康の上杉再征予定に急ぎ間に合わせたのだろう。政宗にとって、上杉との決戦を想定した早急な防衛城郭の構築こそが喫緊の課題で美麗な高層天守の建築の余裕などなかったのだろう。
政宗が天守閣を建てなかった理由を思わせるヒントを青葉城資料展示館の主任学芸員大沢慶尋氏から頂いた。
昨年11月に大沢氏が某セミナーで講演された「政宗公の育んだ伊達文化とは~その継承と広がり~」のレジメの中で「政宗の仙台開府に伴う仙台城の築城や社寺の再興・造営に見る伊達な文化は、伊達家で育まれた奥州の伝統・文化・宗教を正統に継承し護る「奥州の王」であるという気概・意気込みを、桃山建築という新しい息吹を吹き込みつつ示すもの」と語られていた。
そして仙台城本丸の東側の広瀬川に面した断崖に張り出すように建てられた書院様式の「懸造」について、「懸造は、米沢城にも存在していたことが伊達天正日記にしばしばでてくる。伊達家が伊達郡を本拠としていた鎌倉期から室町期の居城・梁川城本丸跡の東(茶臼山北遺跡)の園池跡の発掘調査でも、池の上に建つ懸造とみられる遺構・木材が検出されている」という。
仙台城の懸造は、京で見た清水寺に影響を受けた政宗の発案と思っていたが、伊達家歴代の梁川城と米沢城にあったとは、伊達家独自の城郭形式だったようである。
梁川城は、鎌倉時代に伊達五山を建立した伊達氏四代政依から十四代稙宗が桑折西山城に移すまで280年の間、長く伊達家の本拠地だった城であり、米沢城は、天文の乱で父稙宗を倒した十五代晴宗が伊達郡から移した本拠地で、政宗が生まれた城である。
室町時代に伊達家中興の祖といわれた伊達氏九代政宗が、足利三代将軍義満の生母の妹を正室に迎えて義満と叔父甥の間柄にあり、上洛して義満の京都扶持衆となっている。奥州人として京都の清水寺本堂の懸造りに憧れて、梁川城に造営させていたのかもしれない。
大沢氏は「伊達家=懸造、といえる伊達家を象徴する伝統的建物で、破損などしてもその都度再建され幕末・明治維新を迎えた、伊達家にとって特別重要な意味を持っていた。仙台城の懸造は城のシンボルとしての「天守代用」の性格をもち、この性格の懸造は日本の城郭の中でもほぼ仙台城のみであり、懸造は政宗公による「伊達氏系城郭」の継承を意味するもの」と言っておられた。
伊達家の伝統と文化と宗教を正統に継承し護持していることを自負する政宗にとって、信長の安土城に始まる当時流行になっていた織豊系城郭の高層天守は、あまり意味がなかったのだろう。懸造の存在こそ、政宗が天守閣を必要としなかった理由だったかもしれない。
〈7〉天守台と幻の天守閣
子供の頃に仙台城を青葉城、本丸跡を天守台と呼んでいた記憶があったが、なぜ天守閣のない本丸跡を天守台と呼んでいたのだろうか。素朴な疑問を抱いて、仙台城絵図をネットで調べてみると、現存最古の正保2年(1645年)「奥州仙台城絵図」と、寛文4年(1664年)「仙台城下絵図」には、天守台らしきものはどこにもなかったが、四代藩主綱村が元禄10年(1697年)頃に作成させた「肯山公造制城郭木写之略図」に五重の天守が描かれていた(下図)。
なぜ建てられなかったはずの天守閣が描かれているのだろうか。しかも50年前の正保3年の地震で倒壊して当時存在しなかった筈の3棟の三重櫓まで描かれている。
この絵図を描かせた肯山公は、伊達騒動で毒殺されかけた幼君亀千代、後の四代当主綱村である。
祖父忠宗の死後に父綱宗を蟄居させて藩政を牛耳っていた親戚一門を抑えるため、曽祖父の藩祖政宗を神格化してその威光で政宗直系の復権を図るべく、「伊達正統世次考」と「伊達治家記録」を編纂させており、藩祖政宗の築いた城郭はかくあれかし、という綱村の願望が描かせたのかもしれない。
肯山公造制城郭木写之略図に描かれた五重の天守の位置を、現在の地図に重ね合わせると、宮城県護国神社の南側、本丸会館裏手の森がこれに当たるようである。
仙台城を訪れた折、本丸入口の仙台城鳥瞰図を見ると、本丸と西ノ丸の間に天守台という表示があった。
そこを訪ねると樹林に覆われた高台で、その前に別宮浦安宮が鎮座、左宮に伊勢神宮の四座の神々が、右宮に伊達政宗公と白水稲荷大神が祀られていた(下写真)。
別宮浦安宮の右宮に政宗と一緒に祀られている白水稲荷大神について、傍らに立つ鎮座由来の看板に「藩祖伊達政宗公築城以前は、此の地を青葉ケ崎と称し白水稲荷大社が屋敷神として古くより祀られていた」とあった。
隣接の宮城県護国神社は、明治37年に招魂社として戦没の英霊を祭神に創建されており、白水稲荷大神や伊勢神宮の神々を祀る別宮浦安宮とは、関係なさそうである。天守台と思しき場所に、古くから祀られていた白水稲荷大神とは、いかなる神様なのだろうか。単なる屋敷神が、政宗公と一緒に祀られるものだろうか。仙台城天守台のルーツに関わる何か特別な神様なのだろうか。
〈8〉仙台市青葉区台原の白水稲荷神社
白水という名前で思い当たるのは、福島県いわき市の白水阿弥陀堂である。東日本大震災直前の2011年2月に、いわきサンシャインマラソンを走った後、平泉の中尊寺金色堂と宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂と共に東北三大阿弥陀堂といわれる白水阿弥陀堂を探訪した。
いわき市の白水阿弥陀堂は、奥州藤原氏初代清衡の娘徳姫が夫岩城則道を供養して建立したと伝えられるが、岩城氏は常陸平氏の流れで海道平氏の嫡流、清衡の正室が北方平氏といわれ、奥州藤原氏の母方ルーツの豪族である。仙台城址に祀られる白水稲荷大神は、その白水阿弥陀堂と何か関連があるのだろうか。
仙台近郊に白水の名が付く場所を探してみると、仙台市街の北西に聳える泉ケ岳を源流とする七北田川中流の左岸に白水沢という地名が、北仙台駅の北側に広がる丘陵地帯の台原地区に白水稲荷神社という社があった。
昨年(2020年)10月、本丸跡の別宮浦安宮を参拝した帰りに、その台原の白水稲荷神社まで足を延ばした。
仙台駅から地下鉄南北線の北仙台駅に下車、支倉常長の墓がある光明寺とは反対側を、河岸段丘の崖が剥き出しの梅田川に沿って東に15分ほど、上杉山通りの延長になる交通量多い県道22号線を横断すると、住宅地の中の杉林の小高い丘の中腹に、整備中の台原公園が現れて、赤い鳥居と切妻の一間社殿が見えてきた(下写真)。
標高60Mの高台に立つと、緑地と住宅とビルが織り成す市街地が広がっていた。まさに仙台市のベッドタウンである。台原は、3キロ北を東に流れる七北田川の右岸から広がる七北田丘陵の南部が、広瀬川の侵食で河岸段丘を形成して、仙台平野に岬のように突き出す形状から玉手崎と呼ばれ、仙台七崎の一つである。
台原の西側には、荒巻や中山の地名が残って、政宗の仙台開府当時、荒涼たる放牧地だったのだろう。鎌倉時代から政宗に滅ばされるまでの400年、この地を領して馬を走らせる国分氏の息吹が感じられてきた。
神明造の社殿だが、地元神を祀る村の鎮守にしては立派である。扁額に仙台市長島野武の謹書で「白水稲荷神社」とあり、特別な由緒を予感させてくれた。賽銭箱には「白水神社」とあり、白水神社が後に農耕と商売の稲荷明神と複合して白水稲荷神社になったのだろうか。
台原公園を一回り、神社由緒の説明板を探してみたが見当たらなかった。諦めかけていると、町角の掲示板に貼られた台原町内会報告のチラシに町内会長の名前があった。藁をも掴む思いで、周辺の住宅の表札を探し回って、ようやく会長さん宅を尋ね当て、呼び鈴を押して、白水稲荷探訪の目的をお話すると、後日、神社部長さんから白水稲荷神社に関する資料を郵送いただいた。
送られてきた資料「白水稲荷神社縁起考」の作成者の名前に驚いた。
仙台探訪で参考にしていた昭和34年発行「目で見る仙台の歴史」の編集後記に「仙台市史の編纂出版を終えた完成慰労会の席上で編纂委員の一人である三原良吉氏から、市史に図録がないのは遺憾であると仰られてこの本が出来た」とあった三原良吉氏である。
神社部長さんの話では、台原町内会は、結構古い町内会で、神社部長という役職を設けて町内会で白水稲荷神社を守り、毎年9月に神事とお祭りをやっている、仙台市内では珍しい町内会かもしれないという。
3年前に取り壊された町内会の集会所の倉庫にあったという神社縁起考をパネルにした写真も送っていただいたが、三原良吉氏の「白水稲荷神社縁起考」の内容は、非常に興味深く貴重な考証資料だった。
縁起考の冒頭に「白水稲荷は、もと青葉ケ崎に在り、慶長五年藩祖伊達政宗公仙台築城に当り、之を杉山台ノ原に奉還せりといゝ伝うも、創建はそれよりも更に古きが如し」とあった。奉還とは、返し奉るの意、政宗が青葉ケ崎の千代城跡から台ノ原に戻したということは、白水稲荷は元々杉山台ノ原にあったようである。
続けて「社地は古の国府中山と称せる地にして、この地と国府の関係は不明なるも藤原相之助氏の説によれば武隈国府が貞観11年の大津波により潰敗せし時、この地に移されし事ありし為めなるべしと云えり」とあった。
869年の貞観津波で陸奥国府を武隈(多賀城の誤りか)から台原の中山に一時移されたことから国府中山と呼ばれ、鎌倉時代の「吾妻鏡」に、奥州合戦で頼朝軍を迎撃する藤原泰衡がその国府中山の上の物見岡に陣地を構えたとあり、当地は古代から要衝地だったのだろう。
更に「この地一帯は、平泉藤原氏時代には、信夫荘司佐藤基治の所領たりき。基治は有名なる嗣信、忠信の父にして夫人は藤原清衡の季子清綱の女なりしが、嫁するに当り清衡の護持仏たりし十一面観音を奉持し来りしかば、基治十一面観音を本地仏とする天神を現在の台ノ原一本松の地に祀り、麓に別当大松寺を建て、観音を安置せり。一本松を元天神と称するはこの為なり」とあった。
台原一帯を領したという佐藤基治は、奥州藤原氏初代清衡の孫娘を妻に迎えた平泉政権の武将で、福島県北部の信夫郡の大鳥城を居城に信夫庄司と呼ばれ、飯坂温泉の近くから湯の庄司とも呼ばれており、多賀城の国府に近い宮城郡国分の荘司も兼ねていたとすると、宮城県中部の国分から福島県南部の白河まで、広大な荘園を支配していたことになる。大鳥城はその真ん中に位置する。
江戸中期の田辺希文著「封内風土記」に「藤原基衡本州を守護する時、刈田郡白石城主刈田太郎淸光が謀反、佐藤左衛門尉治信、嫡子小太郎をして之を伐たしむ。治信父子、兵を柴田郡川内邑に整へ、天満宮神前に幣を奉じ之を祈り、日ならず白石城陥る。基衡之を賞し國分荘を與ふ。小太郎に基字を授け荘司基春を称す」とある。
「天神社別當記」に「基衡は、信夫荘司佐藤治信の子小太郎に基治と名乗らせた」とあり、「封内風土記」の佐藤基春と「吾妻鏡」に信夫佐藤庄司(又号湯庄司)とある佐藤基治は同一人物で、刈田淸光を伐った時に信夫荘司に加えて国分荘司を兼ねるようになったのだろう。
佐藤基治は、息子の継信・忠信兄弟を、頼朝の挙兵に平泉から馳せ参じる義経に随従させたが、兄継信が源平合戦の屋島の戦いで義経の矢楯となって討死、弟忠信が平家討伐後に頼朝と対立して追われる義経に同行して都落ちの途上で襲撃されて自害している。
古代学協会前理事長角田文衛氏が著書「王朝の残映」に「義経にもう一人の妻がいた。文治元年(1185年)に源頼政の孫有綱の妻となった女性の母である。義経が承安4年(1174年)に平泉に下向した時、秀衡やその岳父基成は、義経が快く平泉に定着するよう結婚を勧めたのであろう。私の憶測に過ぎないが、義経が平泉で迎えた妻は、佐藤継信・忠信兄弟の姉妹だったのではないか。兄弟の義経に対する熾烈な忠節は、弓矢とる身の臣節と言うだけでは理解しにくい」と書いている。
二人の息子を義経に捧げた佐藤基治は、秀衡が死に際に頼朝に追われ平泉に逃れてきた義経を主君と為して三人一味(義経・泰衡・国衡)となり頼朝を襲う軍謀を巡らせと命じた遺言の立会人だったろうから、源有綱の妻が義経の子だとすると、平泉へ下向した十六才の義経に基治の娘を最初の妻に娶らせていたかもしれない。
その佐藤基治を、頼朝の奥州合戦に参陣して討ち取った常陸入道念西が、その功で伊達郡を所領に賜った伊達朝宗で、政宗がその十七代とは、不思議な因縁である。
かかる平泉政権を支える佐藤基治の妻が奉持していた清衡の護持仏十一面観音を台原に祀ったというのである。
縁起考には更に「台ノ原の北方八乙女に白水阿弥陀堂ありて古瓦を出土す。同名の白水阿弥陀堂は石城郡内郷にも在りて、石城の地頭岩城則道の夫人徳尼の建つる処、今国宝に指定さる。徳尼は藤原基衡の女にして白水の名は故郷平泉の泉の字を二分して白水と号せりといゝ伝う。 されば八乙女の白水阿弥陀堂も平泉と関係ありしが如く、基治夫人などの建立にあらざるなきかを思わしむ。
これと同名の本社白水稲荷は、倉稲魂神を祭神とし、白水阿弥陀堂の鎮守たる地主神として祀れるものなる可く古は大社なりしと思わる。本社が平泉と関係ありと思料さるゝは、社地の背後に東鏡に記されし国府中山物見ケ岳の在る事之なり」そして「平泉時代藤原氏の一族たりし佐藤基治の祀る処に係るが如し」と結んでいた。
佐藤基治夫人乙和子姫と岩城則道夫人徳尼は、清衡の孫で従姉妹になる。夫岩城則道の菩提を弔うため従姉の徳尼が石城郡に建立した白水阿弥陀堂に倣って、従妹の乙和子姫も国分荘の八乙女に白水阿弥陀堂を建立し討死した夫基治の菩提を弔っていたとしたら、八乙女の白水阿弥陀堂の鎮守たる地主神として祀られる台原の白水稲荷は、奥州藤原氏と深く繋がっていたことになる。
改めて仙台市泉区の地図を広げてみると、地下鉄南北線の北の終点泉中央駅から北東1キロの国道四号線沿いに、白水沢という地名があり、一つ手前の八乙女駅から北に2キロの近さである。台原の北方の八乙女にあったという白水阿弥陀堂は、この辺りなのかもしれない。
八乙女地区の北側を流れる七北田川の左岸一帯に市名坂という地名があった。なんと奥州合戦で佐藤基治が伊達朝宗に討ち取られた石那坂と酷似した地名ではないか。
台ノ原の北方八乙女に基治夫人が夫の菩提を弔い白水阿弥陀堂が建立されたという史実を、八乙女、白水沢、市名坂の地名が、我々に教えているようである。
三原良吉氏が縁起考の中で紹介されていた藤原相之助氏について調べてみると、興味深い著作があった。
昭和8年発行の著書「郷土研究としての小萩ものがたり」で、仙台に伝わる小萩物語を考証されていた。
冒頭に「北六番丁の東端で、北六番丁川と梅田川(藤川)との合流点から西へ一丁ほど六番丁川の岸から南へ二三間の畑の中に、樹齢何百年かと思われる老杉が一本立て居ります。この杉につき「仙臺鹿ノ子」(元禄八年記述)に、吹上はこの邊なり、畑は和泉三郎忠衡が乳母小萩といひし女の尼となって居れる庵の跡なりといへり、死後白狼澤に葬る、塚の上にも杉数多あり。小萩ケ塚は御宮町西、満日堂の脇より杉山へ出る道二筋あり、梅田川の上の方を渡る道なり、麓に入りて白狼澤といふ、其の上右の方なり」とあり、なんと私が訪ね歩いてきた台原の白水稲荷神社周辺ではないか。
更に「吹上の老杉が植えられていた北六番丁の観音堂に納められていた小萩観音について「封内風土記」に、本尊十一面観音、行基作、天神の本地仏たり、伝にいふ、和泉三郎忠衡が女の護持仏にして、其侍女、小萩尼となり、堂を国分玉手崎に建て(今の福澤明神の社地)之を安置す、故に世人之を呼び小萩観音とす」とあった。
和泉忠衡とは、奥州藤原氏三代秀衡の三男、佐藤基治の娘を妻に迎え、頼朝に追われる義経を擁護して兄泰衡に誅殺されると、忠衡の遺女が十一面観音を護持して乳母の小萩に侍かれて逃亡、国分の福澤に移り住み、遺女の死後、小萩は尼となり十一面観音を護ったという。
別の説に、基治の寡婦(乙和子姫)が国分玉手崎の古安養寺に十一面観音を護持していたが、歿したので孫たる忠衡の遺女が国分にやって来たともいわれる。
十一面観音が本地仏となった玉手崎天神とは、封内風土記に「基春瑞夢を感じ、社(戦勝祈願した川内天満宮)を国分荘小田原邑の玉手崎に遷す」とあり、国分荘司となった基治が玉手崎に勧請した天満宮のことであろう。
小萩観音はその後、寺社の興亡に所在を転々として、明治維新後の神仏分離騒ぎの中で、市中の骨董品店にあったものを仙岳院の住職が買い取ったという。
そして仙台地方に伝承される「小萩物語」について、「小萩というお姫さまが零落して蜂屋長者に奉公したが強欲で人使いの荒い長者夫婦に虐待酷使された。姫は月明かりの晩に外で歌を詠み、仏様を拝んでいたが、耐えかねて屋敷を出て福澤という所で野宿し『雨もふれ風の吹くのも苦にならぬ、今宵一夜は露なしの里』と歌うとそこに露が下りなくなった。長者の方は田畑から何も獲れなくなり、小萩は唯人ではなかったと行方を探すが、露なしの里に観音さまが残っているだけだった」とあり、小萩姫が信心する観音様の加護で救われる歌物語で、下図の右下隅に、その福澤明神と露なしの里がある。
もう一つの小萩塚に伝わる「白水小萩物語」について、「平治の乱で父の泉の守が討死、二女萩姫は乳母の在所に隠れ住んでいたが、再度の国の乱れに清水観音を持って巡礼となり諸国を巡拝、勿来で山賊に捕らわれる。山賊の頭に自由になれと責められるが聞き入れず、憎き女よと、懲らしめに小舟に乗せ石城の荒海に流される。 萩姫は護持する観音菩薩の加護により名取郡の閖上の浜に流れ着き、難義の旅を重ねて小松二本ある野に寝て今宵一夜は露なしの里と念じると霜は下りず、白老山の白水の井に辿り着き、小萩と改め観音様を安置して信心し23才で大往生を遂げた。葬った塚の上の萩の花は白く咲き小萩の白衣の姿のようだった」とあり、下図中央の東照宮門前の仙岳院の左に、小萩塚と白水稲荷がある。
三原良吉氏の「白水稲荷神社縁起考」と藤原相之助氏の「小萩ものがたり」が、仙岳院に安置されている小萩観音を通じて、国分の地に伝わる様々な史実と民話と信仰が、千年の時の流れの中で融合して形を変えて伝承されてきていることを、我々に教えている。
奥州合戦で討死した佐藤基治の菩提を弔う阿弥陀信仰と藤原忠衡の遺児と侍女の観音信仰を源泉とした仏教的信仰が、基治が玉手崎に勧請した天神信仰や豊富な湧水を恵む泉ケ岳への山岳信仰、霊水信仰、雨乞い信仰、五穀豊穣を祈る稲荷信仰など土着信仰と融合して、仏ではなく神として崇められ白水稲荷明神となり、地域の鎮守の神として尊崇を受け、やがてこの地を支配する国分氏が屋敷神として千代城に祀っていったのであろう。
その国分氏を滅ぼして千代城跡に仙台城を築いた政宗は、千代城跡に祀られていた白水稲荷神社を杉山台ノ原に奉還したが、仙台城の守護神として城内にも祀り、国分の地の平安と滅亡した奥州藤原氏と佐藤氏と国分氏の鎮魂と伊達氏の安寧を祈念していたに違いない。
天守台に想定された別宮浦安宮裏の高台こそ、白水稲荷を護持する国分氏の館跡だったのではないだろうか。
奥州藤原氏と佐藤一族と伊達氏は、同じ藤原北家の流れである(下図)。
藤原鎌足の子不比等の次男房前の北家が藤原四兄弟で最も繁栄し、藤原氏の全盛を謳歌した。
房前の五男魚名の子鷲取が山蔭の祖となり伊達朝宗に、魚名の五男藤成が秀郷の祖となり秀衡と基治に繋がっている。政宗は、四百年の時空を超えて、崇敬する同じ藤原北家の秀衡と基治に繋がる神仏が祀られてきた国分の地を、新しい府中の地に選んだのかもしれない。
政宗の天守閣を訪ねる旅が、白水稲荷神社のルーツを辿る旅となり、政宗の始祖が関わった奥州平泉の歴史へ誘ってくれた、神社部長の伴氏に心から感謝したい。
〈1〉会津征伐と百万石の御墨付
秀吉薨去の2年後、慶長5年(1600年)9月15日の天下分け目の関ヶ原の戦いに前後して、東北の関ヶ原といわれる西軍の上杉景勝と東軍の伊達政宗・最上義光の慶長出羽合戦が起り、再び戦乱の世となった。
東北の関ヶ原で戦った伊達氏と上杉氏はかつて蜜月の関係にあった。政宗の時代から100年ほど遡る伊達氏十三代尚宗が、越後守護上杉定実の姉を正室に迎え、その子十四代稙宗が三男実元を定実の養嗣子に送ろうとして、反対する嫡男晴宗と南奥羽を二分する天文の乱が勃発、勝利した晴宗が家督を相続して稙宗は隠居、実元の上杉入りは沙汰止みとなった。定実の死で後継のない越後上杉家は断絶、定実の娘の夫長尾晴景の実弟景虎が、越後守護を代行した。長尾景虎は、後に関東管領上杉憲政の養子となり山内上杉家を継いで後の上杉謙信である。
謙信に子なく急死すると、謙信の実姉の子景勝と小田原北条氏から養子に入っていた景虎が後継を争い御館の乱が勃発、政宗の父輝宗は北条との同盟に基づき蘆名盛氏と景虎方に参戦するが、景勝が勝利して当主となる。
家督を相続した十七代政宗は景勝と講和して、会津の蘆名義広を滅ぼしたが、秀吉の惣無事令に反したとして奥州仕置で蘆名氏から奪った会津他八郡が召上げられ、更に葛西大崎一揆の責任を問われて、伊達氏本領の米沢と仙道六郡も召上げられ、蒲生氏郷に与えられた。
氏郷が急死すると、越後の景勝が移封され、会津・米沢・仙道を引き継いだ。政宗の所領のほぼ半分を奪った形となった景勝は、秀吉に江戸の家康と奥州の政宗を監視・牽制する使命を託されており、秀吉死後に家康と政宗に敵対することは避けられない運命だったのだろう。
慶長5年4月1日、秀吉の死後を専横する家康が景勝に領内諸城改修の弁明に上洛を命じるが、上洛を拒否する直江状に、秀頼公守護の役を果たさぬは故太閤の遺言に背くと景勝謀叛を治定、5月3日に会津征伐を決した。
6月2日に東国諸大名に会津陣触れを発して、家康は18日に伏見を出発、7月2日に江戸城に入る。7日に南部・秋田等奥羽諸侯に会津攻めを指示、21日に江戸を出陣した。会津攻めの陣立てである。
・白河口:家康・秀忠及び東海・畿内の諸大名
・仙道口:佐竹義宣
・信夫口:伊達政宗
・米沢口:最上義光及び仙北(最上川以北)の諸大名
・越後口:前田利家・堀秀治
家康が会津征伐で畿内を留守した隙に、石田三成と大谷吉継が、会津の上杉景勝と呼応するように、毛利輝元を盟主に西国大名を糾合して家康打倒の兵を挙げ、18日に家康の家臣鳥居元忠が籠城する伏見城を攻撃した。
三成が諸大名に挙兵の触状を廻しているという情報が江戸を出陣した家康の許に入り始めた23日、家康は会津攻めの中止を決意、下野小山に着陣した25日に軍議を開き、反転西上して上方の三成を討つ作戦を決定、26日に小山の陣を引き払い、8月5日に江戸に戻った。
大坂に居た政宗は、家康の会津征伐に先発して6月16日に伏見を出発、中山道を通り高崎から上杉領の会津・仙道を迂回して、長く敵対関係にある佐竹氏、岩城氏、相馬氏の常陸、磐城、相馬を経由、7月12日に本拠の岩出山城ではなく名取郡北目城に入った。
会津攻めについて家康の最上義光宛て7月7日付書状(市立米沢図書館所蔵「古文書集」)で、「急度申し入れ候、会津表出陣の儀、来る廿一日に相定まり候、北国表にて北国の人衆を相持ち、会津へ打ち入らるべく候」とあり、家康は、政宗にも7月21日出陣を伝えて信夫口から上杉領へ侵攻を指示してきていたのだろう。
政宗は、家康の出陣に合せたように7月21日、宮城県南部の白石城を攻略するため、北目城を出陣した。
24日に、亘理右近、屋代景頼、片倉景綱、山岡志摩が四方から白石城に攻め懸かり、首級七百余を討ち取って、翌25日に城代の登坂勝乃が降服してきた。
政宗が白石城を攻撃する前日の23日、家康は三成の上方挙兵の報を受けて、会津征伐の中止を発していた。
家康の最上義光宛て7月23日付書状(譜牒餘録)に「急度申し入れ候、治部少輔・刑部少輔、才覚を以って、方々に触状を廻らすに付て、雑説申し候条、御働の儀、先途御無用せしめ候。此方より重ねて様子申し入るべく候、大坂の儀は、仕置等手堅く申し付け、此方は一所に付、三奉行の書状披見の為これを進せ候」とあり、同じ書状が当然に政宗にも送られていたのだろう。
7月26日に小山の陣を払い、江戸に戻る途中の家康から、8月2日付の朱印覚書(伊達家文書695号)で「大坂奉行の謀反に付き駿河尾張の間を警戒すること、秀忠を宇都宮に押さえとして残すので万事相談すること」と政宗に正式な進攻中止命令が送られてきた。
既に白石城を攻略していた政宗は、家康の朱印覚書を受けて、会津征伐中止と反転西上の方針に反駁する書状を、徳川四天王の井伊直政と使者役の村越直吉宛てに8月3日付で出状している(山形県史巻一)。
「上邊之儀、如此之上者、尚白河表会津ヘ之御乱入、大急ニ被成候様に達而可被申上候、萬一手延ニ候而者、必々諸口之覚違、尚々御凶事出来可申由存事候、縦上者闇ニ成申候共、御遺恨之筋と申、長尾(景勝)被討果候得者、上之事も即可被属御存分事案の内に存候」
政宗は、三成が上方で反家康勢力を結集しているが、反転西上する前に、急ぎ白河表会津へ進攻して景勝を討ち果たしてしまえば、上方の形勢も変わり、家康の思うようにいくだろう、もし会津攻めを先送りすれば、事態はむしろ悪化する、と進言していた。
さらに「最上へも尚御使者被遣候て、長井筋へ被取懸候様ニ可然候、今の分ニ候て者、長井之人衆も、心安仙道筋ヘ打廻可申候、縦ふかき事成不申候共、手切被仕候様に御下知第一に候」と要請した。
文中の長井筋は、景勝の重臣直江兼継の所領米沢を含む置賜地方である。今のままでは兼継率いる長井衆が自由に仙道方面に進出できる状況にあり、家康から山形の最上義光に使者を送り、兼継所領の長井方面へ攻め入らせるよう働きかけて欲しいと申し入れたのである。
政宗の描いた戦略は、家康が反転西上する前に、家康本軍に南の白河口から会津へ、最上義光には北の米沢口から侵攻させ、米沢の直江兼続の白石城奪還と仙道進出を牽制させて、その隙に政宗が伊達郡桑折から福島城の仙道方面に侵攻するという、家康と義光を陽動作戦に利用した政宗自己利益中心の作戦であった。
江戸に戻った家康から、政宗からの白石城攻略報告と上杉領への進攻を進言した8月3日の政宗書状を受けての返信なのであろう、8月7日付け政宗宛て書状(同文書697号)が届いた。
「切々御飛脚、御懇意之段祝着之至候(中略)當表之儀、中納言宇都宮差置、佐竹令御談合、白川表ヘ可相働由申付候間、其陣御働之儀、無越度様、被仰付尤候」
嫡男秀忠の軍を前線の宇都宮に留め置き、対上杉討伐戦の主戦場を白河口と定めて、秀忠と佐竹義宣に白河口を固めさせ、政宗には秀忠の作戦を援護する範囲に留めて信夫口からの上杉攻めを自制するよう求めてきた。
三成挙兵に反転西上を決意した家康は、北の上杉景勝と南の石田三成を同時に相手にする二正面作戦を回避するため、北方戦線の静謐を保つべく、秀忠を宇都宮に在陣させて白河口を抑えながら、米沢口の最上義光と信夫口の政宗に自重を求めたのである。
政宗は、白石城攻略戦の報告と上方の情勢収集と今後の対応のため、家臣の山岡志摩を使者に立て、家康が政宗の許に戦目付として派遣して白石城攻略戦を見聞して帰府する今井宗薫に同行させた。
今井宗薫は、秀吉の薨去した翌年に、政宗の長女五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約の仲立ちを務めており、家康と政宗の間の周旋役を担っていた。
山岡志摩の抜擢理由について、伊達治家記録に「兼日、大神君囲碁ノ御相手仰付ラレ、別シテ御懇ニ成シ下サル故ニ」とあり、単なる報告だけでなく家康と昵懇でなければ務まらない困難な交渉を託されていたようである。
山岡志摩の報告を受けた家康の政宗宛て8月12日付け書状(同文書700号)に「御懇使札、祝着之至候、先度如申入候、上方打捨、会津表雖可申付覚書候、福島正則、田中吉政、池田輝政、細川忠興、各先々上方仕置申付候ハて不叶由、再三依被申、先江戸迄帰陣仕候、仙道之儀者何時成共、手間入間敷候間、差合可申付候條、有其御意得、御働御分別専一候」とあり、正則・輝政・忠興は、前年に石田三成襲撃事件を起こした秀吉子飼い武将である。三成憎しの彼らが三成挙兵に激昂している内に、家康は三成討伐を優先させたかったのだろう。江戸に帰陣した事情を言い訳がましく説明して、上杉征伐優先を主張する政宗に、仙道進攻自制を再度求めてきた。
その10日後の8月22日付けで家康から旧領7ケ所49万5822石を充行う判物が与えられた(下図)。
政宗の自領の58万石と合わせて100万石になる、後に「百万石の御墨付」といわれた覚書だが、家康の狙いはなんだったのだろうか。その背景を考えてみた。
覚
一苅田 一伊達 一信夫 一二本松
一塩松 一田村 一長井
右七ヶ所御本領之事候間
御家老衆中へ為可被宛行進之候、仍如件
慶長五年八月廿二日 家康(花押)
大崎少将殿
御墨付七郡の内、伊達は始祖朝宗が頼朝の奥州合戦の戦功で拝領した伊達氏発祥の地、信夫と苅田は大崎氏から、長井は長井氏から、八代宗遠が1380年代に奪った土地、二本松と塩松は父輝宗の犠牲で得た土地、田村は政宗正室愛姫の実家田村氏の領地、いずれも秀吉の奥州仕置で没収されて上杉領になっていた旧領である。
苅田は、政宗が緒戦で奪還した宮城県南部の白石地方、伊達・信夫・二本松・塩松・田村の五郡は、家康に進攻中止を求められた福島県中通りの仙道地方、長井は、政宗が岩出山に移されるまで伊達氏の本拠地だった米沢地方、まさに政宗の欲しがりそうな領地である。
秀吉の惣無事令に違反して蘆名氏を滅ぼし、更に葛西大崎一揆の責任も問われ、父祖伝来の仙道地方と米沢地方と蘆名氏から奪った会津地方を取り上げられた政宗にとって、家康の会津征伐は、奥州仕置で召上げられ今は上杉領となった失地を回復する絶好の機会であった。
政宗は、戦乱の世の再来で、秀吉の惣無事令で固定されていた領境を打ち破る好機と捉えたに違いない。政宗の上杉領侵攻は、もはや家康のための戦いではなく、旧領奪還という政宗宿願の戦いであり、眠っていた戦国武将の血潮躍らせる戦いでもあったろう。
日本歴史学者で日本の近世城郭を専攻する白峰旬氏が「関ヶ原の戦いに関する再検討」で主張されていたが、関ヶ原の戦いは、石田三成・毛利輝元連合軍と徳川家康主導軍の戦いで、家康の戦争は、天下の主導権を巡る権力闘争であり公戦だったが、政宗の戦争は、秀吉の死で惣無事令が瓦解しており、領土切り取り次第という戦国時代の論理で、自己の所領拡大を目的にした公然たる私戦の復活だったのである。
白石城攻略戦を直前にして、当時の政宗の昂揚感の伝わる記述が伊達治家記録の8月上旬の条にあった。
政宗が伊達上野介(政景)に宛てた書状に、近日中に白石筋と丸森口へ戦闘があり、相馬口でも戦闘が始まるだろうから、人数や鉄砲槍を準備するように、勿論、直ぐには間に合わないだろうが「其内世上モ必ス面白事アルヘシ」と心弾ませている政宗の様子が窺える。
9月15日の関ヶ原での家康の大勝は、現代の我々には、当然の帰結のように思うが、当時は両軍の戦力が拮抗して、勝敗の帰趨は全く分からない情勢だったろう。
三成方が家康の家臣鳥居元忠守る伏見城を陥落させて気勢を上げており、秀吉の遺児秀頼を頂く大坂方の情勢次第では、三成憎しで家康に付き従っている豊臣恩顧の諸大名も、いつ西軍側に寝返るか分からない。
今は上杉征伐に従軍しているが、秀吉の信任厚く、豊臣七将に襲撃された三成を助けた常陸の佐竹義宣が、景勝と反家康の密約を結んでいる恐れは十分にあった。北と南の二正面対戦を避け、速やかに三成討伐を優先させたい家康にとって、奥州の静謐は絶対必要条件だった。
家康の会津征伐令に、伏見から帰国早々に出陣して白石城を攻略、更に仙道の桑折から福島城を攻略せんとする血気盛んな政宗の行動は、反転西上して三成との決戦に専念したい家康にとって頭痛の種だったろう。いかにして政宗をフライングさせず、宥めすかして仙道進攻を自重させるか、今井宗薫に同行してきた山岡志摩と家康の間に、どんな駆け引きがあったのだろうか。
山岡志摩は、仙道の旧領奪還に懸ける政宗の宿願を訴え、今は家康に従って東征している豊臣恩顧の武将を西国に返すと、常陸の佐竹と会津の上杉が連携して彼らを取り込んで家康包囲網を形成する可能性があり、今の内に常陸と会津を繋ぐ仙道に進攻して実効支配することで佐竹上杉連携の芽を摘むべしと主張したに違いない。
そして、白石城を陥落させてそのうち世情も面白くなると心弾ませている主君政宗を説得して、仙道への自力進攻を自制させるには、まず政宗の熱望する旧領七郡を約束してやることが先決であるとして、家康に一筆書かせたのが、百万石の御墨付だったのではないだろうか。
百万石の御墨付は、政宗が上杉を攻略する見返りでも、旧領切取り次第と自力回復を認めたものでもなく、政宗を上杉領へ自力進攻させないために旧領回復を約束する証文だったのだろう。御墨付の文面に「御家老衆中へ為可被宛行進之候」とあり、地方知行制で主君に半独立の家老衆に家康が直接知行を約束して、血気に逸る政宗を家老衆に自制させる狙いがあったのかもしれない。
小山から江戸に戻った家康は、すぐには上方に進軍しなかった。小山から反転して尾張に戻った池田輝政と福島正則が、8月23日に織田秀信の守る岐阜城を攻め落とすと、豊臣恩顧の彼らの帰趨を確かめたかのように、9月1日に江戸を出陣、秀忠も上田方面に出陣した。
〈2〉東北の関ヶ原(慶長出羽合戦)
家康の反転西上に合わせて、上杉攻めのために山形に参陣していた南部信直と秋田実季が自領に引き揚げ、家康が9月1日に西へ向けて江戸を出陣すると、南の脅威が遠のいた上杉景勝は、北の最上義光を排除するため、9月8日に大軍を率いて、庄内と米沢の二方面から最上領に侵攻を開始した、東北の関ヶ原が始まった。
米沢の直江兼継軍が、13日に最上領の畑谷城を陥落させ、最上義光の山形本城から南西8キロの長谷堂城を包囲すると、15日、窮地の義光は、嫡男義康を北目城に送り、犬猿の仲だった政宗に援軍派遣を要請してきた。奇しくも上方で関ヶ原決戦のあった日である。
片倉景綱は「最上を棄て直江に勝たせて後、両軍が疲弊してから最上と上杉を討つべし」と進言したが、政宗は「家康のため、母保春院の最上を救うため」と伊達上野介政景を名代に援軍派遣を決定、17日に出陣した政景軍は、20日には笹谷峠を越えて山形領に入った。
伊達治家記録の9月24日の条に「政宗、上野介へ陣中の様子、合戦の心懸、会津よりの増勢如何、二九日に北目城を出陣、晦日白石に着き、来月朔日に伊達・信夫筋へ働き玉フベシと御書を賜う」とある。
家康の指示で仙道進攻を自制してきた政宗も、直江の最上攻撃という新しい局面に、会津の景勝本軍の動きを注視しながら、百万石の御墨付で家康に約束させた旧領から上杉勢力を自力で排除する作戦に動き始めていた。
9月晦日に関ヶ原の戦いの西軍敗北の報が奥州に届くと、長谷堂城を包囲攻城中だった上杉軍は、米沢に撤退を開始、最上軍と伊達政景軍が追撃戦を展開した。
上方の早期決着で、家康の二正面戦線回避の必要はなくなった。家康が再征してくる前に、孤立する上杉から旧領を自力奪還する最後の機会である。最上が庄内の自力奪還に侵攻を始めた。政宗も仙道南進に踏み切った。
10月5日、政宗は2万を率いて北目城を出陣、6日に伊達郡国見山に陣を備え、一番茂庭綱元、二番片倉景綱、三番屋代景頼の陣容で、福島へ向け進軍して宮代合戦に勝利したが、福島城に籠城する本庄繁長の激しい抵抗と梁川城の須田長義による輜重襲撃もあって、福島城の再攻撃を断念して、7日に北目城へ帰還した。
伊達家文書708号「最上陣覚書」に「最上へ直江山城働申候由、政宗承、景勝二本松へ出馬被成、先手福島ニ可罷在候間、伊達郡ニおゐて景勝と一合戦可仕由被存、被罷出候へ供、景勝無御出ニ付、右之合戦計ニて、引籠被申候」景勝が出馬せず政宗は決戦を断念したとある。
10月9日に桑折宗長・大条宗直に宛てた書状で「今度之勤、仕合能満足ニ候、今少残多様ニ候得共、時分柄之事ニ候条、能候ト存候」時勢の展開で景勝との決戦叶わず旧領奪還が果たせなかった無念さを吐露していた。
宮代合戦の報告を受けた家康の政宗宛て10月24日付け書状(同文書718号)に、「至福島表、被及行刻、敵出人数候處ニ、即追崩、数多被討捕、福島虎口迄、被押詰之由、無比類仕合共候(中略)来春者早速、景勝成敗可申付候、其内御行無聯爾様肝要候」とあった。
政宗の戦勝を祝しながら、来春には早速に上杉景勝を征討するので、それまで政宗には軍を出さぬよう伝えてきた。政宗の自力旧領奪還の夢はここに断たれた。
その後の顛末は、山形縣史巻一の慶長5年10月26日に、「直江兼績ノ退軍スルヤ、親シク會津ニ詣リ、佐竹義宣ト共ニ、直ニ江戸ヲ襲撃センコトヲ謀ル、會々榊原康政本多正信等使ヲ遣ハシ講和ヲ勧告ス、上杉景勝即チ諸将ヲ會集シ、和戦ノ便否ヲ諮問ス、安田能元等多ク主戦ヲ固辞ス、景勝之ヲ解諭、遂ニ否戦ニ決シ、本庄繁長ニ命シテ上洛セシム」とあり、上杉の降伏で終焉した。
〈3〉政宗の十一箇條御書付
政宗が家康の側近今井宗薫宛て10月14日付け書状(同文書715号)で、関ヶ原で大勝した家康の大坂入城を祝し、生捕りされた敗将石田・安国寺・小西・長束は、無筋謀反で神罰を蒙り天道有り難く、早々に五條河原辺にて成敗して獄門に掛けるべしと進言、併せて最上に加勢した戦況と仙道筋の福島進攻を報告した。
その5日後の10月19日、政宗は、今井宗薫宛てに次の「十一箇條御書付」を送っている。
内覚
一、虎菊丸(忠宗)緣之事
一、兵五郎(秀宗)事
一、大坂伏見屋敷之事(口上)
一、佐スチ以来共御鹽味之事
一、岩城之事(口上)
一、八月廿八日相馬ヨリ手切可仕由必定ニ付而、直山人
数催、フク嶋江参候事(口上)
一、会津ニ御手前之衆置申度事
一、南部之事
一、上方ニテ廿萬石カ十五萬石ホトノカンニン(堪忍)
分申請度事(口上)
一、爰元居城之事
一、貴老江千貫之知行可進候、乍去右之儀共調候ハゝ
如御望二千貫之所可進候事、(口上)條條、
以上
十月十九日 羽越前 政宗(御書判)
宗薫老 人々御中
政宗が宗薫に託した家康への申し出は、伊達治家記録に「皆大神君ヘ御内々仰上ラル義共ナリ」とあり、いずれも政宗が予ねて家康に申し出ていたことだという。
第一条の忠宗縁組の事とは、前年に長女五郎八姫と家康の六男忠輝の婚約が宗薫の周旋で成立しており、第2弾として嫡男忠宗の縁組もこの時に申し出ていたのだろう。3年後に忠宗と家康の五女市姫が婚約している。
次の秀宗の事とは、秀吉の猶子となり秀吉の許で元服していた庶長子秀宗の善処を頼み込んだのだろうか。慶長14年に家康の家臣井伊直政の娘を正室に迎え、19年に伊予宇和島藩10万石藩主に任ぜられている。
大坂伏見屋敷の事とは、上杉討伐のために大坂に残して三成に人質に取られた妻子の保護のことであろうか。
佐スチ以来共御鹽味の事とは、佐竹義重・義宣親子の処置をよく吟味するようにと進言したのかもしれない。
岩城の事、相馬より手切り、直江が福島へ、会津に自分の手勢を、南部の事、とは、奥州の親三成派と親佐竹派への制裁と進攻を家康に申し出ていたのだろうか。
九条目の上方に20万石を申し請けたいとは、関ヶ原で敗れた西国大名の改易で大量に放出される領土を狙って、これまで最上支援と仙道攻略の実績と来春予定の会津再征への貢献を売り込む政宗の強かさが見えてくる。
最後の条の千貫とは1万石相当、宗薫に謝礼として1万石やろう、もし全条項を成就させてくれたら望み通り2万石やろうとは、いかにも政宗らしい口上である。
それにしても、驚くべき傲慢な申し出ではないか。家康が天下を取れたのは、俺のお蔭と言わんばかりの盛り沢山な要求の数々である。政宗が関ヶ原の戦いの直後に自分の果たしてきた役割と実績をどう自己評価して自分を売り込んでいたかが知れる貴重な史料である。
政宗が東北の関ヶ原の戦いをどう総括していたかを自ら語っていたもう一つの記録が、仙台市史:特別編八に収録されているアマーティの著書「伊達政宗遣欧使節記」の第三章「奥州国王伊達政宗」にあった。
「現在の皇帝(家康)は、信濃の国王景勝と、佐竹の国王カツ・ヤサタクエンドノというきわめて強力な二人の国王や、彼らと連合した他の領主たちと対峙した時に、もしも伊達政宗が後方で彼を援助し防衛してやらなかったならば、帝国を領有することもなかったであろうし、皇帝にもならなかったであろう。
彼らは政宗が行った三つの戦いで打破され、粉砕されて、敗北した。政宗は彼らの町や砦を占領し、そして彼らを拘束し、彼らが皇帝の他の敵を救援しに軍の後方に回ることのないようにしたのである。その結果、皇帝は自分に敵対していた西方の諸王のほとんどを捜し出して、屈服させることに成功した」
著者のアマーティは、政宗が関ヶ原の戦いから13年後の慶長18年に、メキシコとの直接交易を図るため、キリスト教の領内布教と宣教師の派遣を条件に、家臣支倉常長と宣教師ソテロを、スペイン国王とローマ教皇の許へ派遣した際、使節団の通訳兼折衝役としてマドリードからローマまで同行したイタリア人で、ローマ教皇に奉献する目的で著述された書物である。
アマーティが「遣欧使節記」に記述した日本の国情と仙台藩と政宗に関する内容は、アマーティ自身が来日して情報取集したわけがなく、遣欧使節団を引率してきたソテロから、ローマ教皇に報告されることを意識して、レクチャーされた内容をそのまま記したのだろう。
ソテロは、スペインのセビリア市の貴族に生まれ、大学で法・医・神を学び、洗足会修道院に入会、司祭に叙階され、慶長5年(1600年)にマニラに渡り日本人町で使徒活動に入った。慶長8年に日本宣教団の一員として来日、江戸城で家康と秀忠に謁見して、江戸と上方に教会と病院を建設しており、政宗との接点は、政宗の愛妾の病気治療が縁だったといわれる。
ソテロは仙台領内での布教を許され、慶長15年に仙台城で政宗に謁見して、使節船の派遣について話し合っており、ソテロがアマーティに語って「遣欧使節記」に記された奥州国や政宗に関する情報は、この時に政宗本人から教授されたものに違いない。
遣欧使節記の「上杉と佐竹が上方の三成らと連合して家康に反抗した際、政宗が家康を後方支援したお蔭で、家康は西国大名を倒して天下が取れた」という下りこそ政宗がソテロに語った東北の関ヶ原の総括だったのだろう。家康への十一箇條御書付の要求も、さもありなん。
現代の我々は、ソテロとアマーティのお蔭で、政宗自身が語った総括と自慢話を聞けているのかもしれない。
〈4〉仙台開府の背景
政宗が十一箇條御書付の10條目「爰元居城之事」で家康に申し出ていた仙台開府について、山岡志摩が家康の承認を得て帰国した記述が、伊達治家記録の慶長5年11月13日の条にある。
「最前山岡志摩ヲ上方ヘ差登サルノ節、宮城郡国分ノ内千代城ヲ再興セラレ、公御居城ニ成シ玉ヒタキ旨、本多佐渡守殿正信ヲ以テ、大神君ヘ仰上ヲル處ニ、普請セラルヘキ旨、今度志摩下向ノ時仰下サル」
政宗が最前山岡志摩を家康に遣わして仙台移転の申し入れたという「最前」とは、いつのことだろうか。政宗がいつ頃に仙台開府の構想を抱いていたかに繋がることだが、山岡志摩は、7月25日の白石城攻略戦を報告するため、帰府する今井宗薫に付いて江戸に赴いている。
政宗の仙台開府までの伊達氏の居城変遷を概観すると、文治5年(1189年)に頼朝が平泉の奥州藤原氏を征伐する奥州合戦に参陣した常陸入道念西が、敵将佐藤基治を石那坂で討ち取った軍功で、福島県北部の伊達郡を所領に賜わり、伊達氏初代朝宗を名乗って伊達郡保原に高子岡城を構えたのが始まりである。
伊達五山を建立した四代政依が梁川城に、十四代稙宗が桑折西山城に移し、祖父十五代晴宗が移した米沢城で生まれた政宗は、18歳で十七代家督を継ぐと、父輝宗の惨劇を乗越えて、宿敵の会津蘆名氏を倒し奥州の覇者となり会津黒川城に移るが、秀吉の惣無事令に反して蘆名氏を滅ぼし小田原陣に遅参したとして、蘆名氏から奪った会津が没収され、居城を米沢城に戻された。
天正19年(1591年)の葛西大崎一揆煽動疑惑で200年来の米沢領も召上げられ、代わりに奥州仕置で改易された葛西氏と大崎氏の旧領が与えられ、米沢城から北東に106キロの宮城県北西部の岩出山城に移った。
岩出山城のある大崎地方は、東北最大級の前方後円墳を造営する勢力が存在した古くからの穀倉地帯で、南北朝時代に大崎氏の始祖斯波家兼が奥州管領に任ぜられて奥羽を統括した重要な拠点であった。
なぜ政宗は、この岩出山城から南に45キロの仙台平野の中央の仙台に本城を移したのだろうか。
仙台開府の理由について、歴史学者小林清治氏が著書「伊達政宗」の中で「これまで政宗が居城とした岩出山城は、大崎・葛西地方の鎮定を主な目的として取立てられたものだったが、その地方の統制が軌道にのると、本街道からはずれしかも北偏するとの位置の不便さが痛感されるようになった。規模の点からいっても、大崎氏の麾下に属する氏家氏の居城であったこの城は、多数の家臣や町人の集住を必要とする60万石の近世大名の居城としては、あまりに小さかった」と述べられている。
家康の会津征伐令で伏見から帰国した政宗は、岩出山城から南に48キロの名取郡北目城に入り、対上杉戦の前哨戦となる白石攻城戦の基地として、その後も作戦基地として北目城を利用しており、岩出山城では会津と米沢を拠点にする上杉氏との戦には、遠すぎたのだろう。
仙台開府の理由は、戦略上の立地だけだったのだろうか。もう少し政宗の思いに想像を巡らせてみた。
奥州仕置で強制的に移された岩出山城からの上洛は、天正20年の朝鮮出兵と文禄四年の秀次謀反事件嫌疑で秀吉に呼び付けられた2度あるが、岩出山から旧奥州街道に沿って南下して白石から伊達・信夫そして二本松と旧領だった仙道を通りながら、秀吉の小田原陣に遅参した己の情勢判断の甘さを悔恨していたに違いない。
今回の家康の会津征伐令で帰国する際には、上杉領になっている仙道の中通りが通れず、大きく迂回して浜通りを行かなければならない屈辱を味わいながら、この機会に旧領を奪還する決意を新たにしたに違いない。
政宗は、三成の上方挙兵に反転西上する家康から二正面戦線を避けるべく、対上杉戦の行動自制を求められていたが、密かに岩手県の南部領で和賀一揆を煽動しており、更に関ヶ原の三成敗北で上杉勢が引き揚げて手薄になった福島県仙道に自ら大軍を率いて進軍しており、戦乱の世の再来を機に、岩手・宮城・福島3県を束ねた広大な陸奥制覇を狙っていたのであろう。
仙台の地は、平野中央にある遠見塚古墳が、東北第5位の規模を誇る前方後円墳で、畿内政権と結びついた広域な政治集団が存在した道の奥の中心地であった。奈良時代には、多賀城に陸奥国府と鎮守府が置かれ、東北の政治文化の中心で、蝦夷を支配する軍事拠点となった。
平安時代後期に青森の外ヶ浜から福島の白河までを支配した奥州藤原氏が、その中心に位置する平泉に、仏教文化の都市を建設して畿内の朝廷から独立した奥州王を宣言したが、500年の時空を超えて、政宗は、藤原清衡に倣って、伊達藩北端の水沢胆沢から旧領南端の白河まで260キロのほぼ中間に位置する仙台平野に本拠を置く壮大な奥州王国を夢見ていたに違いない。
政宗が仙台開府の構想を抱いた時期について、家康が政宗に与えた8月22日付け「百万石の御墨付」によって、南に広がる百万石の新領国の中心になる千代城跡への移転構想が生まれたのではないかといわれている。
しかし会津征伐のため帰国した政宗は、岩出山城には戻らず、南に48キロの北目城を実質的な本拠にしており、百万石の御墨付を与えられるより1ヶ月も前の7月25日に、上杉領の仙道に侵攻する手始めに白石城を攻略した報告の使者に山岡志摩を家康の所に派遣した段階で、白石城から南に広がる仙道の旧領を自力奪還した後の新版図の中心に当たる仙台平野への本拠移転の構想を抱いて、家康に「爰元(ここもと)居城之事」として仙台開府を申し出ていたのではないだろうか。
〈5〉仙台城の誕生と盛衰記
仙台城は、なぜ北目城ではなく、千代城跡だったのだろうか。北目城ではだめだったのだろうか。
北目城は、JR東北本線の仙台駅の南隣の長町駅から南東に約1.5キロ、国道四号線バイパスの鹿の又交差点付近に位置していた。
奥州山脈の面白山を源とする広瀬川と名取川と合流するデルタ地帯の自然堤防と後背湿地上に立地して、七世紀に多賀城に移転する前の陸奥国の国府があった郡山官衙遺跡に隣接しており、仙台平野の中心地にある。
南北朝時代に越前に本領を持ち名取郡に移住してきた粟野氏の居城で、伊達氏十二代成宗に敗れて伊達氏の支配下に入り、秀吉の奥州仕置で政宗が岩出山に移封されると、粟野重国も磐井郡大原(現一関市)に移され、北目城には政宗の側近屋代景頼が城代に入っていた。
北目城の規模は、既に市街化されて城郭の痕跡は殆ど残っていないが、史跡の発掘調査から、東西370m、南北280m、幅15mの堀を四方に廻らせ、総面積12万8千㎡、仙台城の本丸を上回る広さだったという。
北目城は、奥州街道に隣接する交通の要衝にあり、広大な敷地を持って大軍の集結基地にも適しており、政宗は対上杉の前哨戦になった白石攻城戦で前線基地に利用していたが、土塁と堀に囲まれた、ただ広いだけの中世城郭では、鉄砲など近代兵器に対応した攻城戦には不向きであり、家康の対上杉再征が予想される来春までに、北目城を高い城壁を備えた近世城郭に改修するには、時間が無かったのだろう。
当時の築城は、平城が主流で、山城は時流に反していたが、来春の上杉との本格決戦が、仙道から仙台平野に掛けた大規模な攻城戦になることを想定した政宗は、防衛面に弱い平城の北目城ではなく、外堀の役目を担う蛇行する広瀬川に囲まれ、急峻な断崖が固める天然の要塞でもある千代城跡を本城に選択したに違いない。
千代城は、平安時代後期の頼朝の奥州合戦で、東海道軍を率いた下総国国分莊の千葉胤通が、宮城県中南部を与えられて土着した国分氏の居城であった。
国分氏は、始め郷六城を築城、次いで千代城、小泉城、松森城を居城にしたが、国分盛氏に子なく、伊達輝宗の弟盛重が入嗣するが、家中の内紛もあり甥の政宗と対立して佐竹氏に出奔、国分氏は滅亡した。
千代城址について、伊達治家記録の慶長5年12月24日の条に「公、千代城へ御出(中略)晩、御普請初ノ御祝儀、御能五番アリ」、26日の条に「公、北目城ニ御帰」とあり、宴や能や宿泊のできる屋敷が残り、城郭の様相は未だ残していたようである。
家康の許可を受けた政宗は、12月24日に千代城跡に仙台城の縄張りを始めて、翌6年1月11日に普請を開始、翌7年5月に未完ながらほぼ竣工した。
仙台平野の西端に位置する青葉山の丘陵に築かれた標高115mの山城は、東側が広瀬川に臨む断崖、西側が深い御裏林、南側が竜ノ口溪谷、北側に急峻な石垣を築いて、まさに天然の要塞である。
関ヶ原で勝利した家康が、来春には上杉征伐に再征するという風雲急を告げる時期の、突貫工事の築城だったが、宿敵である上杉景勝、佐竹義宣、相馬義胤との攻防戦の舞台となることはなかった。
寛永5年(1628年)に城下の小泉に隠居用の若林城を造営、政宗の死後、忠宗は仙台城の北側山麓に若林城の建物を移築して二の丸を造営、藩政の中心とした。
正保3年(1646年)4月の大地震で本丸の三層櫓が悉く崩壊したが、政務は既に山麓の二の丸に移っており、崩壊した櫓が復興されることはなかった。
戊辰戦争で、仙台藩は東北の31藩が結成した奥羽越列藩同盟の盟主となり、明治新政府軍と対決したが、仙台城は幸いにもその戦場になることはなかった。
維新政府の廃城令により、明治7年に本丸が破却されて、37年に本丸跡地に招魂社が創建された。現在の宮城県護国神社である。残った国宝の大手門は、太平洋戦争の仙台空襲で焼失、一部に石垣だけが残る城塞は、仙台出身土井晩翠作詞の「荒城の月」の世界である。
明治4年に仙台城址に仙台鎮台が設置され、後に第二師団に改編、対外戦争の主力部隊として戦地に赴いた。
日清戦争の威海衛湾攻略、師団長乃木希典率いる台湾出兵、日露戦争では遼陽会戦で夜襲師団の異名を取り、満州事変、ノモンハン事件、そして太平洋戦争では南方戦線に投入され、ガダルカナル島奪還作戦で歩兵連隊長3人を含む7500余人が戦死、ガダルカナル撤退後はビルマ戦線に転戦、苛酷な戦いを強いられた。
〈6〉仙台城の天守閣
仙台城に天守閣はなかった。政宗が天守閣を建てなかった理由について、慶長6年4月18日付の今井宗薫へ宛てた書状に、仙台城の普請経過を報告する中で「内府様如此御繁昌之間者各城などの普請更に不入由存候間」と、家康様のかくの如きご威勢にては、天守閣のある城など建てる必要があろうか、と書き送っていた。
政宗が仙台築城の縄張りをした時期は、関ヶ原のわずか3ヶ月後、大坂城には豊臣秀頼が未だ健在で、豊臣恩顧の西国大名も意気軒昂である。来春には家康による上杉再征が予定されており、家康が豊臣氏を滅ぼす大坂夏の陣は、まだ14年も先のことである。
家康の御威光が天下にあまねく及んでいたとはとても言える状況でなく、政宗得意のリップサービスではないだろうか。天守閣を建てなかった政宗の真意はいかに。
東北に天守閣がないのは、高層建築と石垣構築の技術がなかったからといわれているが、唯一会津に七層の巨大天守があった。蒲生氏郷が文禄2年(1593年)に建てた若松城である。天正17年に政宗が会津蘆名氏を滅ぼし米沢城から会津城に移ったが、秀吉の惣無事令に反して蘆名氏を滅ぼしたとして、会津領が召し上げられその後に伊勢松坂から氏郷が移封されてきた。
氏郷は、信長の娘冬姫を妻に迎え、信長に小さな婿殿と可愛がられたため、本能寺の変後に明智光秀を倒して信長の後継者の位置を勝ち取った秀吉に煙たがられて、氏郷の会津移封は、奥州の政宗の監視と牽制役だったといわれているが、伊勢松坂から「道の奥」に遠ざけられたというのが真相だったかもしれない。
葛西大崎一揆が勃発すると、秀吉は政宗と氏郷に鎮圧を命じたが、氏郷は政宗が一揆勢に通じて自分を挟撃せんとしたと秀吉に讒言、京に呼び付けられた政宗は、一揆煽動疑惑の書状の花押に針の穴がなく偽物だと反論して窮地を脱したが、二人は犬猿の仲だったようである。
後に氏郷が急死すると、政宗による毒殺説が囁かれたという。ライバル氏郷の巨大天守閣を政宗が意識しないはずはないが、それでも政宗は天守閣を建てなかった。高層築城技術がなかったわけではなさそうである。
現存する天守閣十二の内、仙台城の築城と同じく関ヶ原の直後に建てられた天守閣をみると、姫路城(1601年)が池田輝政、伊予松山城(1602年)が加藤嘉明、宇和島城(1601年)が藤堂高虎、高知城(1603年)が山内一豊、いずれも秀吉恩顧の外様大名であり、政宗が家康に敵意のないことを示すため天守閣を建てなかったという話も、俄かには信じ難いが、考えてみればいずれも西国大名である。
それではなぜ東国大名は、高層天守閣を建てなかったのだろうか。東国の大名は、会津の上杉、常陸の佐竹、磐城の岩城、陸奥の伊達、出羽の最上、互いに敵対してはいたが、半世紀前まで、婚姻と養子縁組で繋がる洞(うつろ)と呼ばれる族縁共同体を形成していた。
政宗の曽祖父稙宗は、母が上杉氏、兄弟を留守氏と最上氏に、子女を岩城氏、相馬氏、蘆名氏、大崎氏、二階堂氏、田村氏、葛西氏、梁川氏、亘理氏に、孫を岩城氏、国分氏、佐竹氏、蘆名氏に縁組、奥州の戦国大名が悉く伊達氏を盟主にしたネットワークに組込まれていた。
互いに相手の領地に攻め込むことはあっても、西国大名のように領土簒奪を狙う弱肉強食の世界ではなく、盟主の伊達氏が、陸奥守護職、奥州探題職として、奥州王国の連帯と静謐を保っており、近世大名に脱皮できていない旧態依然とした国人大名の世界であった。
洞の時代から300年経った明治維新でも、薩長の新政府に対して、朝廷に恭順する会津・庄内両藩の放免を嘆願するため、仙台藩が盟主となり奥羽越31藩が列藩同盟を結成、軍事同盟に進んでいった世界である。
家康は東国大名に歴史的な血縁の連帯意識が潜在していることを承知していたに違いない。そして来春に会津再征を予定している家康は、東国大名が連帯して徳川に反旗を翻す危険を警戒していたのではないだろうか。
上杉景勝が謀反の嫌疑を掛けられたのは、越後から移封された会津に籠り、領内の城郭を補修して口実を与えたことにあった。政宗が仙台城の築城に当たり、東国大名の連帯感を警戒する家康の猜疑心を恐れて、高層天守閣の建築に及び腰になっていたのかもしれない。
政宗が北目城から仙台城に移ったのは慶長6年4月、まだ壁も付かなかったといわれ、家康の上杉再征予定に急ぎ間に合わせたのだろう。政宗にとって、上杉との決戦を想定した早急な防衛城郭の構築こそが喫緊の課題で美麗な高層天守の建築の余裕などなかったのだろう。
政宗が天守閣を建てなかった理由を思わせるヒントを青葉城資料展示館の主任学芸員大沢慶尋氏から頂いた。
昨年11月に大沢氏が某セミナーで講演された「政宗公の育んだ伊達文化とは~その継承と広がり~」のレジメの中で「政宗の仙台開府に伴う仙台城の築城や社寺の再興・造営に見る伊達な文化は、伊達家で育まれた奥州の伝統・文化・宗教を正統に継承し護る「奥州の王」であるという気概・意気込みを、桃山建築という新しい息吹を吹き込みつつ示すもの」と語られていた。
そして仙台城本丸の東側の広瀬川に面した断崖に張り出すように建てられた書院様式の「懸造」について、「懸造は、米沢城にも存在していたことが伊達天正日記にしばしばでてくる。伊達家が伊達郡を本拠としていた鎌倉期から室町期の居城・梁川城本丸跡の東(茶臼山北遺跡)の園池跡の発掘調査でも、池の上に建つ懸造とみられる遺構・木材が検出されている」という。
仙台城の懸造は、京で見た清水寺に影響を受けた政宗の発案と思っていたが、伊達家歴代の梁川城と米沢城にあったとは、伊達家独自の城郭形式だったようである。
梁川城は、鎌倉時代に伊達五山を建立した伊達氏四代政依から十四代稙宗が桑折西山城に移すまで280年の間、長く伊達家の本拠地だった城であり、米沢城は、天文の乱で父稙宗を倒した十五代晴宗が伊達郡から移した本拠地で、政宗が生まれた城である。
室町時代に伊達家中興の祖といわれた伊達氏九代政宗が、足利三代将軍義満の生母の妹を正室に迎えて義満と叔父甥の間柄にあり、上洛して義満の京都扶持衆となっている。奥州人として京都の清水寺本堂の懸造りに憧れて、梁川城に造営させていたのかもしれない。
大沢氏は「伊達家=懸造、といえる伊達家を象徴する伝統的建物で、破損などしてもその都度再建され幕末・明治維新を迎えた、伊達家にとって特別重要な意味を持っていた。仙台城の懸造は城のシンボルとしての「天守代用」の性格をもち、この性格の懸造は日本の城郭の中でもほぼ仙台城のみであり、懸造は政宗公による「伊達氏系城郭」の継承を意味するもの」と言っておられた。
伊達家の伝統と文化と宗教を正統に継承し護持していることを自負する政宗にとって、信長の安土城に始まる当時流行になっていた織豊系城郭の高層天守は、あまり意味がなかったのだろう。懸造の存在こそ、政宗が天守閣を必要としなかった理由だったかもしれない。
〈7〉天守台と幻の天守閣
子供の頃に仙台城を青葉城、本丸跡を天守台と呼んでいた記憶があったが、なぜ天守閣のない本丸跡を天守台と呼んでいたのだろうか。素朴な疑問を抱いて、仙台城絵図をネットで調べてみると、現存最古の正保2年(1645年)「奥州仙台城絵図」と、寛文4年(1664年)「仙台城下絵図」には、天守台らしきものはどこにもなかったが、四代藩主綱村が元禄10年(1697年)頃に作成させた「肯山公造制城郭木写之略図」に五重の天守が描かれていた(下図)。
なぜ建てられなかったはずの天守閣が描かれているのだろうか。しかも50年前の正保3年の地震で倒壊して当時存在しなかった筈の3棟の三重櫓まで描かれている。
この絵図を描かせた肯山公は、伊達騒動で毒殺されかけた幼君亀千代、後の四代当主綱村である。
祖父忠宗の死後に父綱宗を蟄居させて藩政を牛耳っていた親戚一門を抑えるため、曽祖父の藩祖政宗を神格化してその威光で政宗直系の復権を図るべく、「伊達正統世次考」と「伊達治家記録」を編纂させており、藩祖政宗の築いた城郭はかくあれかし、という綱村の願望が描かせたのかもしれない。
肯山公造制城郭木写之略図に描かれた五重の天守の位置を、現在の地図に重ね合わせると、宮城県護国神社の南側、本丸会館裏手の森がこれに当たるようである。
仙台城を訪れた折、本丸入口の仙台城鳥瞰図を見ると、本丸と西ノ丸の間に天守台という表示があった。
そこを訪ねると樹林に覆われた高台で、その前に別宮浦安宮が鎮座、左宮に伊勢神宮の四座の神々が、右宮に伊達政宗公と白水稲荷大神が祀られていた(下写真)。
別宮浦安宮の右宮に政宗と一緒に祀られている白水稲荷大神について、傍らに立つ鎮座由来の看板に「藩祖伊達政宗公築城以前は、此の地を青葉ケ崎と称し白水稲荷大社が屋敷神として古くより祀られていた」とあった。
隣接の宮城県護国神社は、明治37年に招魂社として戦没の英霊を祭神に創建されており、白水稲荷大神や伊勢神宮の神々を祀る別宮浦安宮とは、関係なさそうである。天守台と思しき場所に、古くから祀られていた白水稲荷大神とは、いかなる神様なのだろうか。単なる屋敷神が、政宗公と一緒に祀られるものだろうか。仙台城天守台のルーツに関わる何か特別な神様なのだろうか。
〈8〉仙台市青葉区台原の白水稲荷神社
白水という名前で思い当たるのは、福島県いわき市の白水阿弥陀堂である。東日本大震災直前の2011年2月に、いわきサンシャインマラソンを走った後、平泉の中尊寺金色堂と宮城県角田市の高蔵寺阿弥陀堂と共に東北三大阿弥陀堂といわれる白水阿弥陀堂を探訪した。
いわき市の白水阿弥陀堂は、奥州藤原氏初代清衡の娘徳姫が夫岩城則道を供養して建立したと伝えられるが、岩城氏は常陸平氏の流れで海道平氏の嫡流、清衡の正室が北方平氏といわれ、奥州藤原氏の母方ルーツの豪族である。仙台城址に祀られる白水稲荷大神は、その白水阿弥陀堂と何か関連があるのだろうか。
仙台近郊に白水の名が付く場所を探してみると、仙台市街の北西に聳える泉ケ岳を源流とする七北田川中流の左岸に白水沢という地名が、北仙台駅の北側に広がる丘陵地帯の台原地区に白水稲荷神社という社があった。
昨年(2020年)10月、本丸跡の別宮浦安宮を参拝した帰りに、その台原の白水稲荷神社まで足を延ばした。
仙台駅から地下鉄南北線の北仙台駅に下車、支倉常長の墓がある光明寺とは反対側を、河岸段丘の崖が剥き出しの梅田川に沿って東に15分ほど、上杉山通りの延長になる交通量多い県道22号線を横断すると、住宅地の中の杉林の小高い丘の中腹に、整備中の台原公園が現れて、赤い鳥居と切妻の一間社殿が見えてきた(下写真)。
標高60Mの高台に立つと、緑地と住宅とビルが織り成す市街地が広がっていた。まさに仙台市のベッドタウンである。台原は、3キロ北を東に流れる七北田川の右岸から広がる七北田丘陵の南部が、広瀬川の侵食で河岸段丘を形成して、仙台平野に岬のように突き出す形状から玉手崎と呼ばれ、仙台七崎の一つである。
台原の西側には、荒巻や中山の地名が残って、政宗の仙台開府当時、荒涼たる放牧地だったのだろう。鎌倉時代から政宗に滅ばされるまでの400年、この地を領して馬を走らせる国分氏の息吹が感じられてきた。
神明造の社殿だが、地元神を祀る村の鎮守にしては立派である。扁額に仙台市長島野武の謹書で「白水稲荷神社」とあり、特別な由緒を予感させてくれた。賽銭箱には「白水神社」とあり、白水神社が後に農耕と商売の稲荷明神と複合して白水稲荷神社になったのだろうか。
台原公園を一回り、神社由緒の説明板を探してみたが見当たらなかった。諦めかけていると、町角の掲示板に貼られた台原町内会報告のチラシに町内会長の名前があった。藁をも掴む思いで、周辺の住宅の表札を探し回って、ようやく会長さん宅を尋ね当て、呼び鈴を押して、白水稲荷探訪の目的をお話すると、後日、神社部長さんから白水稲荷神社に関する資料を郵送いただいた。
送られてきた資料「白水稲荷神社縁起考」の作成者の名前に驚いた。
仙台探訪で参考にしていた昭和34年発行「目で見る仙台の歴史」の編集後記に「仙台市史の編纂出版を終えた完成慰労会の席上で編纂委員の一人である三原良吉氏から、市史に図録がないのは遺憾であると仰られてこの本が出来た」とあった三原良吉氏である。
神社部長さんの話では、台原町内会は、結構古い町内会で、神社部長という役職を設けて町内会で白水稲荷神社を守り、毎年9月に神事とお祭りをやっている、仙台市内では珍しい町内会かもしれないという。
3年前に取り壊された町内会の集会所の倉庫にあったという神社縁起考をパネルにした写真も送っていただいたが、三原良吉氏の「白水稲荷神社縁起考」の内容は、非常に興味深く貴重な考証資料だった。
縁起考の冒頭に「白水稲荷は、もと青葉ケ崎に在り、慶長五年藩祖伊達政宗公仙台築城に当り、之を杉山台ノ原に奉還せりといゝ伝うも、創建はそれよりも更に古きが如し」とあった。奉還とは、返し奉るの意、政宗が青葉ケ崎の千代城跡から台ノ原に戻したということは、白水稲荷は元々杉山台ノ原にあったようである。
続けて「社地は古の国府中山と称せる地にして、この地と国府の関係は不明なるも藤原相之助氏の説によれば武隈国府が貞観11年の大津波により潰敗せし時、この地に移されし事ありし為めなるべしと云えり」とあった。
869年の貞観津波で陸奥国府を武隈(多賀城の誤りか)から台原の中山に一時移されたことから国府中山と呼ばれ、鎌倉時代の「吾妻鏡」に、奥州合戦で頼朝軍を迎撃する藤原泰衡がその国府中山の上の物見岡に陣地を構えたとあり、当地は古代から要衝地だったのだろう。
更に「この地一帯は、平泉藤原氏時代には、信夫荘司佐藤基治の所領たりき。基治は有名なる嗣信、忠信の父にして夫人は藤原清衡の季子清綱の女なりしが、嫁するに当り清衡の護持仏たりし十一面観音を奉持し来りしかば、基治十一面観音を本地仏とする天神を現在の台ノ原一本松の地に祀り、麓に別当大松寺を建て、観音を安置せり。一本松を元天神と称するはこの為なり」とあった。
台原一帯を領したという佐藤基治は、奥州藤原氏初代清衡の孫娘を妻に迎えた平泉政権の武将で、福島県北部の信夫郡の大鳥城を居城に信夫庄司と呼ばれ、飯坂温泉の近くから湯の庄司とも呼ばれており、多賀城の国府に近い宮城郡国分の荘司も兼ねていたとすると、宮城県中部の国分から福島県南部の白河まで、広大な荘園を支配していたことになる。大鳥城はその真ん中に位置する。
江戸中期の田辺希文著「封内風土記」に「藤原基衡本州を守護する時、刈田郡白石城主刈田太郎淸光が謀反、佐藤左衛門尉治信、嫡子小太郎をして之を伐たしむ。治信父子、兵を柴田郡川内邑に整へ、天満宮神前に幣を奉じ之を祈り、日ならず白石城陥る。基衡之を賞し國分荘を與ふ。小太郎に基字を授け荘司基春を称す」とある。
「天神社別當記」に「基衡は、信夫荘司佐藤治信の子小太郎に基治と名乗らせた」とあり、「封内風土記」の佐藤基春と「吾妻鏡」に信夫佐藤庄司(又号湯庄司)とある佐藤基治は同一人物で、刈田淸光を伐った時に信夫荘司に加えて国分荘司を兼ねるようになったのだろう。
佐藤基治は、息子の継信・忠信兄弟を、頼朝の挙兵に平泉から馳せ参じる義経に随従させたが、兄継信が源平合戦の屋島の戦いで義経の矢楯となって討死、弟忠信が平家討伐後に頼朝と対立して追われる義経に同行して都落ちの途上で襲撃されて自害している。
古代学協会前理事長角田文衛氏が著書「王朝の残映」に「義経にもう一人の妻がいた。文治元年(1185年)に源頼政の孫有綱の妻となった女性の母である。義経が承安4年(1174年)に平泉に下向した時、秀衡やその岳父基成は、義経が快く平泉に定着するよう結婚を勧めたのであろう。私の憶測に過ぎないが、義経が平泉で迎えた妻は、佐藤継信・忠信兄弟の姉妹だったのではないか。兄弟の義経に対する熾烈な忠節は、弓矢とる身の臣節と言うだけでは理解しにくい」と書いている。
二人の息子を義経に捧げた佐藤基治は、秀衡が死に際に頼朝に追われ平泉に逃れてきた義経を主君と為して三人一味(義経・泰衡・国衡)となり頼朝を襲う軍謀を巡らせと命じた遺言の立会人だったろうから、源有綱の妻が義経の子だとすると、平泉へ下向した十六才の義経に基治の娘を最初の妻に娶らせていたかもしれない。
その佐藤基治を、頼朝の奥州合戦に参陣して討ち取った常陸入道念西が、その功で伊達郡を所領に賜った伊達朝宗で、政宗がその十七代とは、不思議な因縁である。
かかる平泉政権を支える佐藤基治の妻が奉持していた清衡の護持仏十一面観音を台原に祀ったというのである。
縁起考には更に「台ノ原の北方八乙女に白水阿弥陀堂ありて古瓦を出土す。同名の白水阿弥陀堂は石城郡内郷にも在りて、石城の地頭岩城則道の夫人徳尼の建つる処、今国宝に指定さる。徳尼は藤原基衡の女にして白水の名は故郷平泉の泉の字を二分して白水と号せりといゝ伝う。 されば八乙女の白水阿弥陀堂も平泉と関係ありしが如く、基治夫人などの建立にあらざるなきかを思わしむ。
これと同名の本社白水稲荷は、倉稲魂神を祭神とし、白水阿弥陀堂の鎮守たる地主神として祀れるものなる可く古は大社なりしと思わる。本社が平泉と関係ありと思料さるゝは、社地の背後に東鏡に記されし国府中山物見ケ岳の在る事之なり」そして「平泉時代藤原氏の一族たりし佐藤基治の祀る処に係るが如し」と結んでいた。
佐藤基治夫人乙和子姫と岩城則道夫人徳尼は、清衡の孫で従姉妹になる。夫岩城則道の菩提を弔うため従姉の徳尼が石城郡に建立した白水阿弥陀堂に倣って、従妹の乙和子姫も国分荘の八乙女に白水阿弥陀堂を建立し討死した夫基治の菩提を弔っていたとしたら、八乙女の白水阿弥陀堂の鎮守たる地主神として祀られる台原の白水稲荷は、奥州藤原氏と深く繋がっていたことになる。
改めて仙台市泉区の地図を広げてみると、地下鉄南北線の北の終点泉中央駅から北東1キロの国道四号線沿いに、白水沢という地名があり、一つ手前の八乙女駅から北に2キロの近さである。台原の北方の八乙女にあったという白水阿弥陀堂は、この辺りなのかもしれない。
八乙女地区の北側を流れる七北田川の左岸一帯に市名坂という地名があった。なんと奥州合戦で佐藤基治が伊達朝宗に討ち取られた石那坂と酷似した地名ではないか。
台ノ原の北方八乙女に基治夫人が夫の菩提を弔い白水阿弥陀堂が建立されたという史実を、八乙女、白水沢、市名坂の地名が、我々に教えているようである。
三原良吉氏が縁起考の中で紹介されていた藤原相之助氏について調べてみると、興味深い著作があった。
昭和8年発行の著書「郷土研究としての小萩ものがたり」で、仙台に伝わる小萩物語を考証されていた。
冒頭に「北六番丁の東端で、北六番丁川と梅田川(藤川)との合流点から西へ一丁ほど六番丁川の岸から南へ二三間の畑の中に、樹齢何百年かと思われる老杉が一本立て居ります。この杉につき「仙臺鹿ノ子」(元禄八年記述)に、吹上はこの邊なり、畑は和泉三郎忠衡が乳母小萩といひし女の尼となって居れる庵の跡なりといへり、死後白狼澤に葬る、塚の上にも杉数多あり。小萩ケ塚は御宮町西、満日堂の脇より杉山へ出る道二筋あり、梅田川の上の方を渡る道なり、麓に入りて白狼澤といふ、其の上右の方なり」とあり、なんと私が訪ね歩いてきた台原の白水稲荷神社周辺ではないか。
更に「吹上の老杉が植えられていた北六番丁の観音堂に納められていた小萩観音について「封内風土記」に、本尊十一面観音、行基作、天神の本地仏たり、伝にいふ、和泉三郎忠衡が女の護持仏にして、其侍女、小萩尼となり、堂を国分玉手崎に建て(今の福澤明神の社地)之を安置す、故に世人之を呼び小萩観音とす」とあった。
和泉忠衡とは、奥州藤原氏三代秀衡の三男、佐藤基治の娘を妻に迎え、頼朝に追われる義経を擁護して兄泰衡に誅殺されると、忠衡の遺女が十一面観音を護持して乳母の小萩に侍かれて逃亡、国分の福澤に移り住み、遺女の死後、小萩は尼となり十一面観音を護ったという。
別の説に、基治の寡婦(乙和子姫)が国分玉手崎の古安養寺に十一面観音を護持していたが、歿したので孫たる忠衡の遺女が国分にやって来たともいわれる。
十一面観音が本地仏となった玉手崎天神とは、封内風土記に「基春瑞夢を感じ、社(戦勝祈願した川内天満宮)を国分荘小田原邑の玉手崎に遷す」とあり、国分荘司となった基治が玉手崎に勧請した天満宮のことであろう。
小萩観音はその後、寺社の興亡に所在を転々として、明治維新後の神仏分離騒ぎの中で、市中の骨董品店にあったものを仙岳院の住職が買い取ったという。
そして仙台地方に伝承される「小萩物語」について、「小萩というお姫さまが零落して蜂屋長者に奉公したが強欲で人使いの荒い長者夫婦に虐待酷使された。姫は月明かりの晩に外で歌を詠み、仏様を拝んでいたが、耐えかねて屋敷を出て福澤という所で野宿し『雨もふれ風の吹くのも苦にならぬ、今宵一夜は露なしの里』と歌うとそこに露が下りなくなった。長者の方は田畑から何も獲れなくなり、小萩は唯人ではなかったと行方を探すが、露なしの里に観音さまが残っているだけだった」とあり、小萩姫が信心する観音様の加護で救われる歌物語で、下図の右下隅に、その福澤明神と露なしの里がある。
もう一つの小萩塚に伝わる「白水小萩物語」について、「平治の乱で父の泉の守が討死、二女萩姫は乳母の在所に隠れ住んでいたが、再度の国の乱れに清水観音を持って巡礼となり諸国を巡拝、勿来で山賊に捕らわれる。山賊の頭に自由になれと責められるが聞き入れず、憎き女よと、懲らしめに小舟に乗せ石城の荒海に流される。 萩姫は護持する観音菩薩の加護により名取郡の閖上の浜に流れ着き、難義の旅を重ねて小松二本ある野に寝て今宵一夜は露なしの里と念じると霜は下りず、白老山の白水の井に辿り着き、小萩と改め観音様を安置して信心し23才で大往生を遂げた。葬った塚の上の萩の花は白く咲き小萩の白衣の姿のようだった」とあり、下図中央の東照宮門前の仙岳院の左に、小萩塚と白水稲荷がある。
三原良吉氏の「白水稲荷神社縁起考」と藤原相之助氏の「小萩ものがたり」が、仙岳院に安置されている小萩観音を通じて、国分の地に伝わる様々な史実と民話と信仰が、千年の時の流れの中で融合して形を変えて伝承されてきていることを、我々に教えている。
奥州合戦で討死した佐藤基治の菩提を弔う阿弥陀信仰と藤原忠衡の遺児と侍女の観音信仰を源泉とした仏教的信仰が、基治が玉手崎に勧請した天神信仰や豊富な湧水を恵む泉ケ岳への山岳信仰、霊水信仰、雨乞い信仰、五穀豊穣を祈る稲荷信仰など土着信仰と融合して、仏ではなく神として崇められ白水稲荷明神となり、地域の鎮守の神として尊崇を受け、やがてこの地を支配する国分氏が屋敷神として千代城に祀っていったのであろう。
その国分氏を滅ぼして千代城跡に仙台城を築いた政宗は、千代城跡に祀られていた白水稲荷神社を杉山台ノ原に奉還したが、仙台城の守護神として城内にも祀り、国分の地の平安と滅亡した奥州藤原氏と佐藤氏と国分氏の鎮魂と伊達氏の安寧を祈念していたに違いない。
天守台に想定された別宮浦安宮裏の高台こそ、白水稲荷を護持する国分氏の館跡だったのではないだろうか。
奥州藤原氏と佐藤一族と伊達氏は、同じ藤原北家の流れである(下図)。
藤原鎌足の子不比等の次男房前の北家が藤原四兄弟で最も繁栄し、藤原氏の全盛を謳歌した。
房前の五男魚名の子鷲取が山蔭の祖となり伊達朝宗に、魚名の五男藤成が秀郷の祖となり秀衡と基治に繋がっている。政宗は、四百年の時空を超えて、崇敬する同じ藤原北家の秀衡と基治に繋がる神仏が祀られてきた国分の地を、新しい府中の地に選んだのかもしれない。
政宗の天守閣を訪ねる旅が、白水稲荷神社のルーツを辿る旅となり、政宗の始祖が関わった奥州平泉の歴史へ誘ってくれた、神社部長の伴氏に心から感謝したい。
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