歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編⑤《千葉県》ー1)

2024-02-09 09:32:09 | 私の本州マラソン歴史紀行
【千葉県①:外房の大原・御宿・勝浦を巡る】

宮城県南部の蔵王山麓で育った私にとって広い海は子供の頃からの憧れで、マラソンを始めて宮城県の松島、千葉県の館山、神奈川県の三浦半島と湘南、静岡県の東伊豆の大海原を眺めながら走れる大会に参加してきた。
その中でマラソンを始めて二年目に走った館山若潮フルマラソンは、南房総の太平洋を望みながら菜の花ラインを走るコースで、丘陵を越える終盤に足を痛めて制限時間をオーバー、地元高校生たちが「負けないで」を歌いながら伴走してくれたお陰でようやくゴール出来た思い出深い大会である。(まんじ144号に寄稿)
5年振りに再挑戦する房総マラソンには、これまで幾度かドライブした外房のリアス式海岸を走る「勝浦鳴海ロードレース大会」にエントリーした。

【若山牧水作歌・筑紫歌都子作曲の「白鳥」】

今回の房総マラソンにはもう一つ楽しみがあった。若山牧水の歌碑探訪である。牧水は旅好きで景観に恵まれた各地を巡りながら歌を詠んでおり、特に房総の景勝地には牧水の歌碑が多く建てられている。
牧水の代表作「白鳥はかなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ」を題材にした筝曲「白鳥」を先週の軽井沢尺八合宿で演奏しており、牧水の歌碑探訪を今回の房総マラソン観光の旅程に組み入れた。
筝曲「白鳥」を作曲された筝曲家の筑紫歌都子は、私が尺八を始めた時の師匠である磯野茶山先生と親交が深く、昭和四六年に東京文化会館で開催された磯野茶山独奏会で、ご自分が作曲された「菅公」を磯野先生の尺八と共演されたお姿はいまだに脳裏に残っている。
定年退職を機に40年振りに現在の師匠眞橋鳳山先生の下で尺八を再開したが、洋楽的で甘く切ない旋律の筑紫歌都子作品は、吹いて楽しい大好きな楽曲である。
先週末の軽井沢合宿で演奏した筝曲「白鳥(しらとり)」は、三拍子のワルツで始まり、女流作曲家らしいロマンティックな旋律が奏でられ、十三弦を弾きながら井上歌慧先生が前歌「白鳥は悲しからずや空の青 水の青にも染まずただよう(楽譜より)」を箏唄風に歌いあげ、お琴特有のトレモロの入る美しい独奏で前半が閉じられ、四拍子の情感たっぷりな間奏部に移り、漸次速いリズムから三拍子のワルツが再現され、牧水の「白鳥」が後歌でも歌われて終曲部に流れていく。

演奏後の夕食宴会の席上で、牧水の作歌が「海の青」なのに、なぜ筑紫歌都子は「水の青」と歌ったのでしょうねと、お琴の先生方に私の疑問をぶつけてみた。
海の青には、動の語感があり、水の青には、静の語感があって透明感ある清らかな美しさが感じられ、女流音楽家の筑紫歌都子は、牧水の煩悩を昇華して甘く美しい筝曲に作り変えようとしたのではないだろうか、そんな会話を交わしながら美酒を酌み交わした。
「白鳥」を発表した明治40年、早稲田大学生の若山牧水は、1つ年上で早くに2人の子持ちとなった園田小枝子を人妻と知らずに初めての恋に落ちていた。
「白鳥」は南房総の根本海岸で詠んだ歌で、青く広がる空と海に浮游する白鳥(かもめ)にひとりで哀しくないかと語りかけているが、後に小枝子と結婚する従弟の庸三も牧水の房総旅行に同行しており、奇妙な三角関係にある小枝子に恋する牧水の不安と孤独に苛まれて酒に溺れていく自分を白鳥に譬えていたのかもしれない。
やがて二人の離別が訪れ、その夏に出会った歌人太田喜志子に「私を救って欲しい」と求愛して結婚、良き妻を得た牧水は、心おきなく旅と酒を愉しみ、ありのままの生き様をつらぬいて歌を詠み続けるが、永年の大酒による胃腸炎と肝硬変の併発で43才の人生を閉じた。

【外房大原に牧水を訪ねて(11月17日)】

勝浦マラソン観光の旅程に牧水の歌碑「白鳥」探訪を組み入れたかったが、勝浦から歌碑のある房総最南端の根本海岸を往復できる交通機関を調べてみると、とても時間的に日帰りは不可能である。
牧水が白浜以外の房総の景勝地にも訪ねており、ほかに牧水の歌碑がないものか探すうち、勝浦の3つ手前の大原にいつぞや訪れた歌碑があったことを思い出した。
数年前に太平洋に向けて突き出た断崖絶壁からの眺望に憧れて大原海岸を訪ねた際に、八幡岬から満月を詠んだ牧水の歌碑を見かけたが、この機会に大原をもう一度訪ねて牧水の生き様に改めて対峙してみたい。
早朝六時、埼玉の自宅を出立、JR宇都宮沿線の緑地が朝霧に包まれて幻想的である。荒川の河口にオレンジ色の朝陽が眩しく輝き光の帯を川面に伸ばしていた。
東京駅で外房線特急わかしお1号に乗車、右手に朝日に煌めく東京湾を望みながら、蘇我駅から紅葉に彩られた房総半島の内陸部を横断、外房に出て更に南下、大原駅に着いたのはまだ8時半である。
駅前のタクシーに行き先の八幡岬を告げると、運転手さんが、あそこは自殺の名所で北陸の親不知・子不知に匹敵する断崖絶壁の名勝地だが、大原は銚子に並ぶ漁港で大型漁船相手の遊郭があり不幸な遊女の身投げが多かったと教えてくれた。地元ならではの土産話である。

大原八幡岬から大原漁港を望む


八幡神社の鳥居前で下車、狭く急な参道の石段を登って社に参拝、耳を劈く海鳴りに急かされるように裏手の山道を登り、高さ35mの断崖絶壁に出ると、眼下に大原漁港が見えてきた。漁港を囲む防波堤が蛇のようにくねり、外洋の白波の打ち寄せる突端に小さな灯台が坐り、その先に太平洋が広がる眺望は絵画のようである。
青い空と蒼い海を境する水平線をしばし凝視していると、遥か南に比島が見えてきたような錯覚に囚われた。
そして太平洋戦争末期に親友の父の乗った八千頓級の軍隊輸送船「扶桑丸」が台湾から比島に渡るバシー海峡で米潜水艦に撃沈されて戦死した話が思い出された。
昭和19年6月のマリアナ沖海戦の大敗と7月のサイパン陥落で絶対国防圏が崩壊、米軍の反攻を陸海軍総力挙げて比島で迎撃する捷一号作戦が策定されたが、中国大陸と日本本土から比島に増派される将兵と武器車輛を乗せた輸送船団が、比島沖で待構える米潜水艦に次々に撃沈され、その海域は輸送船の墓場と呼ばれたという。
その日(7月31一日)船団11隻中4隻が撃沈され4000人が犠牲になった。沈みゆく扶桑丸の船内に閉じ込められたか、漆黒の大海原に投げ出されたか、故郷の父母や妻子に想いを馳せて逝った友の父の無念はいかばかりだったろう。断崖に立ち海上から吹き上げる潮風を頬に海鳴り轟く南海に向かって鎮魂歌「海行かば」を献歌した。

八幡岬の断崖を後に小浜城址公園に立つ若山牧水の歌碑に向かった。戦国時代に本多忠勝に滅ぼされたという小浜城の跡に立つ歌碑に≪八幡岬にありて図らず満月を見る 「ありがたや 今日満つる月と 知らざりし この大き月 海にのぼれり」 牧水≫とあった。
八幡岬に上ると図らずも沖合いに満月が昇る情景に出合いよほど嬉しかったのだろう。霜月(11月)に詠ったとあり、月齢を見ると奇しくも明日が満月である。牧水と同じ11月の十四夜月の日に同じ場所に立っているとは奇遇である、神の思し召しであろうか。
牧水が大原を訪れた大正6年は、既に園田小枝子と別れて太田喜志子と結婚している。牧水は喜志子に「親をお捨てなさい、兄弟をお棄てなさい、たったひとりのあなたとおなりなさい」と激情の手紙を送り、喜志子は家出同然に牧水の許に上京して結婚したといわれ、牧水はひとり旅先の大原から愛する身重の喜志子に満月にまみえた嬉々とした心情を伝えたかったようである。
そんなラブラブな牧水も、喜志子と知り合う前に、小枝子との別れを決意しながら思い切れず苦悶する頃に寂寥感溢れる歌「白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり」を詠っていた。同じく月と酒と旅を愛した唐の詩人李白の「月下独酌」が浮かんでくる。
李白は「花咲く木の下に酒壺がある、独り酒を酌んで相手はいない、昇る月を迎えて自分の影に向き合うと飲み仲間は3人になる、月はもともと飲めない、影もただ一緒に動くだけ、月と影を伴って春の夜を楽しもう、歌えば月はよろめき舞えば影は乱れて交歓してくれるが、酔った後はそれぞれ別れてゆく、月や影のように感情のない、しがらみのない交遊を長く続けたい」と詠う。
恋人を失い友に裏切られ独りになる不安に慄きながらひとり酒に溺れる牧水の姿は、気の許せる友のいない、現世に希望の持てなくなった李白の姿と重なってくる。

小浜城址公園から大原漁港の波打ち際に降りると、波しぶきが足元に降り掛かってきた。浜辺で魚網を繕っていた漁師に尋ねると、いつもは穏やかだが、昨日から海が荒れているという。打ち寄せる大波が砕け散る防波堤に立ち、下山の途中で摘んだ野菊を輪ゴムで束ねて波間に投げ入れ、南の海に逝った友の父の安寧を祈った。

【伊達政宗の海外への夢の原点・御宿を訪ねて】

八幡岬から大原駅に戻ったのは9時半、勝浦マラソンの受付までまだ1時間半あり、強行軍になるが2つ先の御宿駅に途中下車した。御宿海岸の白い砂浜が童謡「月の沙漠」のモチーフになったといわれ、清水川に沿ってまもなくアラビアン風の月の沙漠記念館とラクダに乗った王子と姫の像が見えてきた。大原での鎮魂の世界とは別天地のメルヘンの世界に気持ちが明るくなっていた。
この先の岩和田海岸が、私の郷里の戦国武将伊達政宗に海外への夢を抱かせる切っ掛けとなったフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロの遭難漂着現場である。
慶長14年(1609年)9月3日、フィリピンでの任務を終えてメキシコへ帰還するロドリゴ臨時総督の乗船するサン・フランシスコ号が、台風に遭遇して上総国岩和田海岸に座礁漂着、岩和田村の人々が総出で救助に当たり、乗組員317人を救助したといわれる。
岩和田海岸の崖上に立つ案内板「ドン・ロドリゴ上陸地」に「救助されたロドリゴ一行は、37日間を過ごした岩和田村に別れを告げ、大多喜城経由で江戸へと出発することになり、駿府では将軍徳川家康に謁見している。その後、家康はロドリゴたちの帰国のため舟を作らせ、慶長15年6月13日に浦賀を出帆し、その年の10月27日に無事アカプリコに到着した」とあった。
当時の家康は、宗教と商業を分離する新教国オランダとの通商を始めていたが、この機に太平洋航路を利用したメキシコとの直接通商を熱望して、ロドリゴ臨時総督を送還するため建造した帆船に、京都商人田中勝介ら23人の日本人を乗船させてメキシコに送還した。
翌慶長16年にメキシコから帰国した田中勝介らに同伴して答礼使節ビスカイノが来日、家康と秀忠に謁見してロドリゴの遭難救助と乗組員への厚遇を答礼、教商一致のメキシコとの直接通商は、家康の禁教令によって不調に終わるが、フィリピンとメキシコ間を往復するスペイン船舶が暴風から避難する寄港を求め、日本沿岸の港湾を測量する許可を得ると、まず三陸沿岸測量のため仙台に向かい、青葉城で藩主伊達政宗に謁見した。

金銀島探検家で野心家のビスカイノは政宗にどんな話をしたのだろうか。同じ時期に仙台藩に滞在していた宣教師ルイス・ソテロが政宗にキリシタンの教理を教授して仙台藩内での布教を許可され多くの洗礼を授けていた。
慶長18年9月15日、政宗は大型帆船を建造してビスカイノの操船で家臣支倉常長とソテロを使節に、キリスト教の領内容認を条件にメキシコとの直接通商を求めてメキシコ、スペイン、ローマへ派遣した。もしロドリゴの御宿漂着がなければビスカイノの来日も政宗の海外への夢もなかった。歴史の不思議な巡り合わせである。

【勝浦鳴海ロードレース大会(2013年)】

勝浦駅に下車すると、シャトルバスが待っていたかのようにすぐ発車、会場の国際武道大学に急いでくれた。
山道を登るバスの中で交わされる「この下り坂をセーブして走らないと帰りの上りがキツイね」「でも前半の下りでタイムを稼ぐのも有りだね」そんな会話が耳に入り、今日の作戦はいかにと思いを巡らせたが、まわりの流れに任せるしかないかなと腹を括った。
受付の締め切り時間ぎりぎりに滑り込み、広い体育館内に着替え場所を確保した。今日の出で立ちは6年前の館山若潮フルマラソンの制限時間オーバーのリベンジを期して同じ黒のTシャツにした。快晴で気温18度は晩秋のマラソンには暑いかもしれないが、潮風を受けながら海岸の景勝地を走れるのは大いに楽しみである。
人工芝のサッカー場と陸上競技場を試走したが、足首の違和感がない、大丈夫そうだ。2週間前に自宅近くのロングランで右足くるぶし下を痛め、腓骨筋腱鞘炎と診断されてほとんど走ってこなかったが、隣を走るランナーとトラックを競いながら気持は高揚していた。
スタートは国際武道大学の青色のトラックである。少し後方に並んでまずは完走を目標にした。ピストルの合図でトラックを3/4周して陸上競技場の外に出るとハーフ21キロ総勢500人はすぐに長い列になった。
ロードは急な下り坂が延々と二キロも続く。復路のラストにこの上り坂があるのかと思うと、自分の走力を考えて少しセーブしたいところだが、全体の流れがそれを許してはくれなかった。2キロ地点で10分35秒は速過ぎる。まだ下り坂は終わらない。ようやく勝浦湾が左手に広がりほぼ平坦な海岸通りになったが、ペースは速いままで減速するランナーは誰ひとりいなかった。

串浜海水浴場の砂浜が広がり、左右に突き出た断崖の岬を眺めながら、ロードが山間に入ると、その隙間から海岸の奇岩が覗いて見えた。尾名浦のめがね岩は海触と風化で出来た洞で、まさに大自然の芸術的造形である。
絶え間なく海鳴りが聞こえてくる。本大会の冠名の鳴海は「なるか」と読むらしいが、まさに文字通り海鳴り轟く美しい海岸をひたすら走り続けた。
5キロで26分28秒、キロ5分18秒はこれまでにない速いタイムだ。下りのスピードが平坦ロードになっても変わらない。海岸に沿ってトンネルが多くなり、トンネルに向かって上り坂、暗がりを抜けると下り坂、その繰り返しが徐々に走る力を奪い始めた。
リアス式海岸の変化に富んだ自然景観の中に勝浦海中公園の白い展望塔が見えてきた。集まっていた観光客の声援を受けながらペースは幾分落ちてきたが、とにかく折り返しまではこのペースでいけそうだ。その後はケセラセラ、なるようになれだ。初めての給水を取った辺りから周囲のランナーの顔ぶれもほぼ固まっていた。
すぐ後ろにぴったりついてくるグレーの人影が気になってきた。沿道の声援に応える声を聞き分けようとするが、黙々と走っていて性別が分からない。追い抜こうと並びかけてきたが、ピッチをあげて突き放した。こんなデッドヒートをやっていては体力を消耗するだけだと思いながら、どうしても負けられない意地になっていた。

鵜原海水浴場から内陸に入るとアップダウンの繰り返しである。上り坂でキロ六分近くに落ちるラップを下り坂で取り戻す。8キロ地点で折り返してきた先頭2人のデッドヒートとすれ違った。中年ランナーと青年ランナーの凄まじい形相である。思わず拍手を送った。
守谷港のお年寄りの元気な声援に力をもらいながら、10キロで54分15秒、この5キロがキロ5分30秒は上出来だ。上総興津を折り返して11キロで59分54秒、残り10キロをキロ6分で2時間が切れそうだ。
そこでまたゴールのラスト2キロ半の上り坂が頭をよぎってきた。折り返して後続ランナーの数から3分の2の位置にいるようだ。キロのラップが5分50秒に落ちてきた。繰り返すアップダウンが足を重くしてきた。
15キロ付近でグレーのランナーが満を持したように前に出た。やはり女性だった。負けられない。追い掛けようとするがスピードが上らない。徐々に離されていく。洞門のような長く暗いトンネルの中で、冷気を全身で受けとめようと両手を広げた。まだキロ6分は切れていた。
16キロ附近から太腿と脹脛が硬直してきた。足首を痛めた走り込み不足と前半のハイペースが祟ったのか、ラップが6分10秒、28秒と、キロ毎に落ちてきた。

復路も往路と同じ海岸コースだが、往路に楽しんだはずの変化ある景観が目に映らなくなっていた。そしてついにラスト2キロ半の上り坂に来た。高低差50mの長い上り坂が果てしなく、走る気力を奪おうとしていた。
上り坂が短かければ歩かずに頑張れるが、2キロ以上続くことを知っている。気持との戦いになっていた。周りの誰もが同じ戦いをしていた。ついに周囲のランナーの半分が歩き始めた。あなたも歩けば、と悪魔が耳元で囁いていた。長い坂が気持を萎えさせる。頑張れるだけ頑張ろうと思うが、筋肉の硬直が尋常ではない。
ここで無理をして本当に走れなくなったらどうする、まだ先が長い、リタイアの文字が頭をよぎった。やはり歩く勇気も必要だ。ゴールしなければ意味がない。歩きながら、筋力の回復を図って、また走り出せばいい。 ついに妥協した。歩いては走るの繰り返しが始まった。キロ8分台に落ちていたがなんとかいけそうだ。ラスト1キロをキロ7分に回復、ついに陸上競技場に入った。
トラックを1周半、前方に見えているランナーを最後の力を振り絞り追った。ゴールまでの100m直線コースの両側に、大会関係者や走り終えたランナーたちが集まって迎えてくれる中をラストスパートした。電光掲示板が2時間4分台を表示していた。
並走する若者が万歳してゴールしていたが、そんな気持ちにはなれなかった。歩いてしまったことが悔しかった。ゴールすると隣の中年男性が「歩いちゃいました。歩いちゃだめですよね」と声をかけてきた。私の気持を代弁する彼に苦笑いで頷き返した。誰もが同じ思いであの長い上り坂に挑んでいたのだ。

勝浦八幡岬から勝浦灯台を望む


【勝浦八幡岬に徳川幕府の母を訪ねて】

体育館で着替えてシャトルバスで勝浦駅に戻り、駅のレンタサイクルで勝浦八幡岬公園に向かった。
勝浦港に沿って走らせること10分ほど、自転車を停めて小山のような岬に上ると、太平洋の大海原と勝浦湾が一望できる公園に出た。海中に立つ朱塗りの鳥居に打ち寄せる白波が美しい。眼下の磯浜に砕ける荒波、海に突き出た断崖に建つ勝浦灯台、絵になる絶景である。
この公園は、室町時代から正木氏3代の勝浦城址で三方を海に臨んだ天然の要塞だったが、秀吉の小田原北条攻めの際に家康配下の本多忠勝に攻められて落城した。
正木氏は桓武平氏良文の流れで鎌倉幕府の創設に貢献した三浦氏の末裔、勝浦城主正木頼忠の娘お万は生き延びて後に家康の側室になり徳川御三家の紀州頼宣と水戸頼房の生母となる。家康晩年の子で、他家の養子に出されず母子とも老いた家康にさぞ可愛がられたに違いない。
二代将軍秀忠の子孫は七代家継で途絶え、八代吉宗から十四代家茂までが紀州頼宣の子孫、十五代慶喜は水戸頼房の子孫である。お万の子孫が徳川幕府260年の150年を支配していた、まさに徳川幕府の母である。
大海原に向かってお万の銅像(養珠院像)が建っていた。14歳の姫君お万は、炎上する勝浦城から母と幼い弟を連れて八幡岬の東側40mの絶壁に白い布を垂らして海に下り小舟で館山方面へ逃れたと伝えられ、ここを「お万の布さらし」と呼ぶと案内板にあった。その勇気と美貌が家康に見初められ寵愛されたのかもしれない。
時計は16時を回り西に傾く夕陽が洋上に光の帯を延ばしていた。ここに立てば日の出と日の入りが眺められる。牧水もこの景勝地で多くの歌を詠んだに違いない。
 
勝浦駅から東京行き特急わかしお号に乗車、今日のマラソン日記を整理しながら、ふと車窓を見やると、すっかり日が落ちた漆黒の中に赤い月が浮かんでいた。
電車は大原辺りだろうか。今宵は十四夜月、月を愛でる若山牧水に倣って、歌らしきものを詠ってみたい衝動に駆られた。車窓に映る赤い月が太平洋に影を落とす情景を思い浮かべながら、南溟の海に散った友の父への鎮魂歌を作ってみた。
  霜月の 月影映す わだつみに
    野の花たむけ 顔知らぬ 父の名を呼ぶ   


【千葉県②:市川葛飾の手児奈伝説を訪ねて】

真夏のマラソンは、灼熱の太陽の下で体力の限界に挑戦するマラソンもいいが、涼しい夜風を受けて美しい夜景を眺めながら走るナイトランもいい。
3年前に港区お台場公園のナイトランを走ったが、今年(2012年)の夏は、お台場の対岸に当たる江戸川区葛西臨海公園を走るナイトランにエントリーした。
東京・千葉・埼玉にまたがって流れる江戸川一帯は、古代から葛飾と呼ばれ、つる性の葛(かずら)が美しく繁茂していた土地だったという。戦後の都市化と海浜埋め立てで葛飾の面影はすっかり変わってしまったが、人工的な海浜公園の建設で都会のオアシスが創造されており、大観覧車で有名な葛西臨海公園のナイトランを楽しみながら、葛飾に伝わる歴史や伝承を訪ねてみたい。

【葛西氏の栄枯盛衰記】

下総国(千葉県北部と茨城県西部)の葛飾を流れる江戸川の以西が葛西(かさい)以東が葛東(かっとう)と呼ばれ、この葛西を本拠にする豪族葛西氏は、桓武平氏良文の子忠頼と将門の娘春姫との子で忠常の弟将恒を祖とする秩父氏の一族豊島氏の流れを汲む名門である。
豊島清元の3男葛西清重は、石橋山合戦に敗れて安房に逃れた源頼朝が安房・上総・下総の兵を率いて江戸川と隅田川を渡り武蔵国に入ると真っ先に参陣して、その後の平家追討戦で武功を挙げ、頼朝の平泉攻めでは福島県伊達郡の阿津賀志山で、先陣として奥州藤原氏軍を撃ち破り、その戦功により陸奥国の5郡2保を受領した。
鎌倉幕府が陸奥国に守護の代わりに置いた奥州惣奉行に任ぜられた清重は、陸奥国の御家人の統率を託された奥州藤原氏に代わる事実上の奥州の国主として、奥州の警察権と裁判権の全権を掌握した。

葛西氏は、頼朝以来の有力御家人が北条氏に排除される中、北条氏と良好な関係を築いて御家人として生き抜き、室町時代から戦国時代には20万石の戦国大名となるが、十七代晴信の時に有力家臣の離反による混乱に手間取り、秀吉の小田原北条攻めに参陣しなかった理由で秀吉の奥州仕置により領地を没収、改易されてしまう。
秀吉配下の木村吉清が葛西・大崎氏旧領30万石の領主となるが、成り上がりで権力を楯に暴政を極める木村父子に反発した土民に、奥州仕置で浪人になった葛西・大崎氏の旧家臣が加担して葛西大崎一揆が勃発した。
背後に伊達政宗の扇動があったといわれ、秀吉に呼び付けられた政宗は、一揆側に送ったとされる檄文は花押の鶺鴒の目に穴がなく偽物だと開き直り、一揆の首謀者と葛西氏旧家臣を謀略で殺害、葛西・大崎氏旧領地は政宗の所領となり、400年続いた葛西氏は消滅した。

【万葉集の手児奈伝説】

万葉集に葛飾の地を詠う歌が10首あり、いずれも葛飾の真間(まま:千葉県市川市真間)に伝わる手児奈(てこな)伝説に纏わる歌である。
葛飾の真間に住む手児奈という女性が、その美しさの故に沢山の男性に言い寄られ、誰を選ぶことも出来ず、わが身の罪深さを嘆いて、海に身投げしてしまったという悲しい伝説で、万葉歌人の山部赤人と高橋虫麻呂が、手児奈の悲劇に感興して挽歌を詠っている。
 ≪古に ありけむ人の 倭文幡の 帯解き交へて 臥屋建て 妻問しけむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥津城を こことは聞けば・・・山部赤人の長歌431≫
 (昔に生きた男が帯を解き寝屋を作って求愛したという手児奈の墓がここだとは聞くが、真木の葉が茂って松の根が延び広がるほど遠い昔だからか、その墓が本当かどうか判らない、でも言い伝えだけでも名前だけでも私は忘れることはできないよ。)
 ≪今までに 絶えず言い来る 勝鹿の 真間の手児名が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には織り着て・・望月の 足れる面わに 花のごと 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るがごと 水門入りに 舟榜ぐごとく 行きかがひ 人の言ふ時 幾許も生けらじものを 何すとか身をたな知りて・・・高橋虫麻呂の長歌1807≫
 (麻の衣服で髪も梳かず靴も履かず貧しく粗末な身なりなのに、着飾った貴人の娘さえ遠く及ばない美しさで、満月のような美しい顔で花のように微笑んで立っていると、夏の虫が火に飛び込むように、舟が港に入っていくように、男たちは入れ替わり手児奈に言い寄ってくる。
このままでは私はいかほども生きておられないだろうと自分の身の浅ましさをはかなんで、波の音の騒ぐ真間の入江に入水して、そこを墓に永久に臥せってしまったという。古い時代にあったことだが、昨日見たことのように思えることだ。)
山部赤人の帯解きかへてを、解き交へてと解し、互いに帯を解き合って情を交わしたとするのが中西進や賀茂真淵ら万葉学者の通説だが、高橋虫麻呂が清らかに純潔を守り処女のまま身を投げたと歌う手児奈とは真逆で、これでは悲劇の美女伝説にも歌にもならないだろう。
帯を解きかへてを、帯を解き替えてと解して、帯を解いて結び替えて妻と離縁して手児奈に求婚したとする異説の方が真っ当で、妻と別れてまで求愛する男たちに言い寄られて思い悩んだ手児奈の投身自殺だったから伝説の主人公になりえたのではないだろうか。

万葉集にはこのほかに詠み人知らずの雑歌がある。
 ≪葛飾の真間の手児名がありしかば、真間のおすひに、波もとどろに(3385)≫
 (葛飾の真間の手児名という美しい娘がもしいたなら、求愛する男たちが真間の磯辺に打ち寄せる波の轟くように大騒ぎしていたことだろうよ。)
 ≪足の音せず行かむ駒もが、葛飾の真間の継橋、やまず通はむ(3387)≫
 (足音をたてないで歩く馬はいないだろうか。そんな馬がいれば、いつでもこっそり葛飾の真間の継橋をとおって、手児奈のもとに足繁く通えるだろうに。継橋は入り江の杭に継ぎ板を渡した橋で、馬の蹄の音がより一層大きくなってしまう。)
 ≪鳰鳥の葛飾早稲を饗すとも、その愛しきを、外に立てめやも(3386)≫
 (葛飾で収穫した新穀のお初穂を神に供える新嘗の夜は、心身を清めた未婚の処女だけが家に残って神を迎え、ほかの者は戸外で夜を明かすのだが、あのいとしい男を外に立たせたままにしておけようか、できはすまい。)
これら雑歌には、竹取物語のかぐや姫に求婚する5人の貴公子のような、無骨な東男たちが美女に思いを寄せ合う大らかなユーモアさえ感じられ、求愛に苦悩して自害を選んだ手児奈の悲壮感は感じられてこない。

手児奈とは、愛らしい乙女の意といわれ、夜這いする男と共寝する多情な女には似つかわしくない。万葉集で詠まれた手児名(奈)は一体何者なのだろうか。
虫麻呂の歌っている質素な衣服を着た身分の低い女なのか、虫麻呂の反歌にある水汲み女なのか、それとも雑歌に葛飾早稲を饗すと詠われた無辜な巫女なのか。
奈良の天平時代に全国を行脚して仏教を説き墾田開発や社会事業を進めていた行基菩薩が、下総国の国府がある葛飾真間で伝え聞いた手児奈の霊を慰めるため弘法寺を開創したことが都に伝えられ、全国各地に伝わる同じような美女悲恋の伝承と融合されて、万葉歌人の間で悲劇のヒロイン像に昇華されていったのかもしれない。

【埼玉の寅子伝説】

私の埼玉の自宅近くに手児奈伝説に似た伝承がある。
市川市真間から西に6キロの東京都葛飾区東四つ木で中川と合流する綾瀬川の35キロほど上流になる埼玉県蓮田市馬込の田んぼに囲まれた共同墓地の中に、南無阿弥陀仏の六文字が大きく刻まれた高さ4mの板石塔婆が建ち、地元では「寅子石(とらこいし)」と呼ばれ、傍の重要美術品認定記念碑に寅子伝説が記されている。
碑文に≪昔當地一帯ヲ領有セル長者ノ愛娘寅子ハ近在稀ニ見ル麗人ニシテ其ノ端麗ナル容姿嫣タル明眸ハ幾多若人ノ情熱ヲ燃エシメ為ニ寅子悶々ノ情抑ヘ難ク遂ニ意ヲ決シ身ヲ犠牲ニシテ衆望ニ應フ・・云々≫とある。
寅子は求婚する誰か一人を選べば他の者が傷つくと悩みあぐねた末に自害、寅子を追いつめてしまった事を悔いた求婚者達が供養のため寅子石を建て、求婚者の中には出家して生涯寅子の菩提を弔う者があり、自分の名を付けて慶福寺、満蔵寺、多門院、源悟寺、正蔵寺を建てたといわれ、寅子石を囲むように現存している。
寅子伝説には続きがあった。寅子石から綾瀬川を700mほど下った右岸に建つ丸ケ崎薬師堂の隣に小さな祠が建っている。伝承では、男たちからの求愛に身一つでは応えられないと悩み苦しんだ寅子は、自分の肉をみんなに分け与えるよう遺言して自害、両親は、求婚者達を酒宴に招いて、寅子の腿の肉を膾(なます)にして男達に振る舞ったというのである。
酒宴に招かれた求婚者達が今日こそ自分たちの願いが叶えられると期待していると「寅子は膾として皆様に等しく差し上げました」という言葉に、さっき食べた膾が寅子の肉だったことを知り、自分達が寅子を死に追いやったことを悔やんで彼女の霊を祀る社を建てたのが、この子膾神社(こなますじんじゃ)だといわれている。

埼玉の寅子伝説は、葛飾の手児奈伝説に酷似した伝承だが、自害した後の膾(なます)の話はあまりに衝撃的である。葛飾の手児奈は、私の心はいくらでも分けられるが、私の体は一つしかないと、海に身を投げたが、埼玉の寅子は、自害した自分の肉を膾にして男たちに分け与えていた。これぞ究極の愛なのかもしれない。

【葛西臨海公園ナイトマラソン(2012年)】

7月に入り連日の真夏日も昨夜遅くの雨で凌ぎやすく、夕方になった出立も霧雨模様の中、真夏のマラソンには慈愛の雨である。朝早く出掛けて手児奈伝説の手児奈神霊社参りを計画していたが、急に別件予定が入ったためやむなく夕刻のマラソン会場直行となった。市川葛飾の手児奈参拝は後日に予定することとした。
東京駅で京葉線に乗り換え、地上に出るとまもなく車窓に雨に煙る東京湾が広がり、大観覧車が現れて葛西臨海公園駅に着いたのは午後六時過ぎである。ホームにはナイトマラソンに参加する会社帰りの男女が溢れて、金曜日の晩のまさに「ハナ金」ラッシュである。
東京駅から14分の好立地の海浜公園を週末の仕事帰りに走れるこの大会は、春夏秋に開催される評判のナイトマラソンで、出走2000人の半数が40歳以下、女子が全体の3分の1も占める若さ溢れる大会である。
葛西臨海公園は、平成元年に江戸川区の東京湾に葛西沖開発事業で造営された都立公園で、上野公園や新宿御苑を上回る81万㎡の広大な公園に日本有数の水族館や大観覧車があるほか、鳥類や植物を楽しめる一大行楽地となっており、沖合に天然の干潟を保護する人工なぎさが東西3キロに造られ、東なぎさは野鳥保護のため立入禁止だが、西なぎさは潮干狩りなどに開放されている。
なぎさの野鳥といえば、伊勢物語の「東下り」にあった都鳥の歌≪名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと≫が浮かんでくる。
京の都からはるばる関東まで来て、武蔵国と下総国を流れる隅田河を前に、三途の川ではないがいよいよ異境に入るかと心細く人恋しさが募っていると、船頭に早く乗れ、日が暮れるぞと怒鳴られ、そんな時に見かけた白い鳥の名を都鳥と聞いて、都に残してきた愛する人は元気にしているだろうかと問うて、安否の知れない切なさに涙がこらえられなかったと昔男は詠っている。都鳥とはゆりかもめのことらしい。冬の渡り鳥だが、なぎさに居ついた都鳥にお目にかかれるかもしれない。

葛西臨海公園駅から霧雨に霞む薄暮のメインストリートを、右手に巨大な観覧車を眺めながら人の流れに乗っていると、民家の庭先に七夕の竹飾りが続いていた。すっかり忘れていたが、明日は七夕である。短冊に「みんなしあわせになりますように」とあったが、まもなく3.11から1年4ケ月、心温まるメッセージである。
今日のマラソンウエアは、濃緑に白字で『がんばろう●日本!』とプリントされた東日本大震災復興支援の日本テニス協会制作Tシャツである。展望広場に上ると、目の前に夕闇迫る美しい東京湾が広がり、葛西渚橋の先に人工なぎさが左右に伸びていた。
マラソン会場の「汐風の広場」に着くと、既に着替えを済ませて試走する人、雨を避けて休息する人で溢れていた。ゼッケンと計測用チップが事前に自宅に郵送されて、受付は参加賞のバスタオルをもらうだけである。
すし詰め状態の更衣用テントで着替えを済ませ、霧雨の中を試走してみると、涼しい汐の香りを乗せた海風が気持ちいい、今日は頑張れそうだ。暗くなった海上に浮かぶ人工なぎさを横目に、都鳥のゆりかもめの姿はついにお目にかかれなかった。本部前の横断幕の背後に大会シンボルの「ダイヤと花の大観覧車」の薄紫の姿が夜空に聳えていた。高さ一一七mは日本一だという。ランナー達がしきりにシャッターを切っていた。

葛西臨海公園ナイトマラソン会場と大観覧車


スタートは男子年齢別2組と女子の3ウエーブ方式で、19時30分にまず男子39歳以下がスタート、その5分後に我々40歳以上のスタートである。
男性スターターの楽しいおしゃべりが大会を盛り上げいた。昨年のサマーステージは大変な土砂降りだったとか、追い抜く際に「コース!コース!」と声掛けするように、公園内の照明が少ないので足元に気をつけて、雨が降っても熱中症は発生するので給水は必ず取って、そしてスタートの合図は、ピストルでなく間の抜けた笛ですよ、と皆を笑わせていた。まもなくその合図の笛が鳴った。牛の声のようなクラクションだった。
数秒の渋滞の後、解き放たれたように一斉にスパートしていった。僅かな下りのようで、こんなでいいのかと不安になるほど流れに乗った走りである。霧雨と海風がむしろ心地よく、今日は楽しいナイトランになりそうだ。
暗藍色の海沿いコースから公園内を周回する樹林コースに入ると照明が少なくなり、雨に濡れた路面や段差には要注意である。やがて目の前に現れた巨大な大観覧車に向けた直線コースに入った。
正面に迫ってくる大観覧車の薄紫のダイヤと花ビラの絵模様が夜空に美しく煌いている。沿道にホテルの従業員達だろうか、数少ない声援だが嬉しい。大観覧車の裏側を回り第一給水所の明かりに2キロ表示の幟が見えた。10分12秒、なんとキロ5分6秒とは、過去にないタイムだ。計測が間違っているのでは、霧雨とナイトランが快走の要因か、とにかくいけるまでいってみよう。

公園内コースから海沿いのサイクリングロードに入ると、既に先頭グループが折り返していた。右手に遠く離れた大観覧車を、左手に広がる暗い海を望みながら、狭くなった暗い海岸ロードをひた走りである。少し雨脚が強くなってきた。暗闇の水溜りが気になり始めた。3キロ地点でこの1キロが5分33秒と落ちてきた。
湾岸高速道路の真下を折り返すと後続の様子が良く分かるが、自分の位置が男子の中盤だろうか。海岸線から公園内に戻り再び暗い樹林の中を抜けて、大きな声援の待つ本部テント前のスタートに戻った5キロ地点のタイムは26分42秒。キロ5分30秒ペースに落ちていたが、なんとか53分は切りたい。
ここから同じ5キロコースの2周目である。先行スタートの三九歳以下の後方に追い付いて混雑してきたと同時に雨も本降りになってきた。湿度100%かと思うほど湿気が暑苦しく身体が熱って疲労感が出てきた。コースの水溜りも大きくなり靴の中に水が入り込んでくる。
営業時間が終了したのか、目の前の大観覧車の照明が切られて巨大な黒く丸い骨格が不気味である。
再びサイクリングロードに入ったが、強くなってきた雨の水滴で腕時計の数字が読み取れない。後続スタートの女子のトップが颯爽と追い抜いていった。続いて可愛いかぶり物の女子の集団が追い抜いていった。
キロ表示の幟を通過する度に時計のスイッチを押すが、時計の数字が水滴と暗さで読み取れない。自分のラップが分からねまま、あと残りなんキロと言い聞かせ、雨と汗でウエアはびしょ濡れ、ひたすら走るだけ、そしてラスト1キロの長いこと。ようやく見えた大会本部前の横断幕に向けたラストスパートでゴールした。

ゴールタイム55分10秒に唖然とした。え?1周目のタイムは良かったし、もしかしたらベストタイムかと頑張っただけに、どうして? いい感じで走れていたはずだが、なんでこんなタイム? 本降りの雨と水溜りに高湿度の疲労か、先行スタートの遅いランナーに追い付いてペースダウンしてしまったのか。時計が濡れて文字盤が見えずペースが落ちたのに気付かなかったのか。挙句には、時計がおかしいんじゃないの。言い訳になることばかりが浮かんできた。
完走証を貰う列に並んでいると、ラストを競い合った黒シャツの男性が、雨が降って気持ちよかったですね、と声掛けしてきた。私と同年輩のようである。彼の爽やかな笑顔が眩しかった。そうだ、楽しく走れたと思わなければ。あれこれ敗因を詮索する必要はない。精一杯走ったのだから、それで十分だ、気持ちを切り替えよう。
更衣テント内のサウナのような蒸し暑さの中、汗だらけの身体をぶつけ合いながら身体を拭いて着替えを済ませ、ようやく外に出ると、雨はすっかりあがっていた。
 
【市川市真間の手児奈霊神堂を訪ねて】

葛西臨海公園ナイトマラソンの三日後に手児奈霊神堂を訪ねた。総武線の市川駅に下車、北口から手児奈通りを10分程、真間川に架かる手児奈橋のたもとの案内板に≪葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ≫と美しい玉藻を手児奈が水に入り刈っている情景を偲んで詠った山部赤人の挽歌が画かれていた。
説明書きに、玉藻は食料にしたものか、神に捧げる神位であったのかよく分からないとあったが、単なる食用なら、わざわざ歌に詠むだろうか詠みはしないだろう。
赤人は、後に多くの男性に求愛されて入水する手児奈と真間の入江で神前に供える海藻を刈り取る白装束の巫女の手児奈を重ねていたのではないだろうか。

住宅街の中に延びる石畳みの参道の奥に手児奈霊神堂が建っていた。男たちの求愛に、私の心はいくつにも分けられるが、私の体は一つしかない、もし私が誰かの妻になれば、ほかの人を不幸にしてしまうと悩み苦しんだ末に自ら死を選んでしまったという悲劇の美しき手児奈の安寧を祈って合掌した。
地続きの真間稲荷神社の祭神が、なんと豊受姫命だった。豊受姫命は天照大神の食事を司る神であり、当地の豪族葛西清重が伊勢神宮に荘園を贈り食料を寄進していたというから、創建年代は不明だが、葛西氏の創建だったかもしれない。葛西真間の手児奈は、藻刈神事をする真間稲荷神社の巫女だったのではないだろうか。
手児奈が投身自殺したのは、求愛してくる男たちの中から一人を選ぶことは出来ないということではなく、男性を好きになることを許されない巫女だったがゆえに、求愛を受け入れられず、自ら死を選んだのが真相だったのかもしれない。

境内の史跡を散策していると、手児奈霊神堂の前に、もう1つ、山部赤人の挽歌が掲示されていた。
 ≪われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児名が奥津城処≫ 奥津城(おくつき)とは神道の墓所のこと。
赤人が下総国府を訪ねた折、真間の手児奈の奥津城処を訪ねたが、時が永く経ってその墓は見えず、手児奈の話だけでも名前だけでも私はいつまでも忘れない、と歌った前掲の長歌431の反歌432で、やっとのことで探し当てたのだから人にも語って聞かせようと謡ったこの歌が万葉集に収録されて、真間の手児奈が広く知られるようになり、後に赤人が訪ねたであろう奥津城処に手児奈の霊を祀る霊神堂が建てられたという。
手児奈の悲哀が巫女だったが故だったと確信を抱いて寄稿している私と同じ思いで、山部赤人も悲愛の手児奈の墓を探し回っていたのかと思うと、山部赤人に時空を超えて不思議な親近感を覚えていた。

市川駅に戻る大門通りは、万葉の道と呼ばれ、市川市内の書家による万葉集の和歌のパネルが通りに軒を並べる民家の塀に掲示されていた。揮毫者の名入りで様々な書体で書かれたパネルの1枚1枚の前に立ち止まり、しばし万葉ロマンの世界を浮游していた。
帰路の電車内で、悲劇の美女手児奈の姿を思い浮かべながら、ふっと意外な考えが去来してきた。もしかしたら結ばれることの許されない心に秘めた愛しき男性がいたのではないだろうか。その愛の引き裂かれる絶望の果ての入水自殺だったのではないだろうか。やはり手児奈は謎多き悲劇の女性である。

市川市真間の手児奈霊神堂



【千葉県③:千葉ロッテの幕張海浜を走る】

今年(2011年)のオープニングマラソンは、同郷のコーラス仲間の尾木さんからの勧めもあり東京湾越しに富士山を望みながら走る千葉マリンマラソンである。
ハーフ部門がすぐに定員に達してしまった評判の大会でやむなく10キロにエントリーしたが、正月気分で走り込み不足の自分にはちょうど良かったかもしれない。

【2010年スポーツ界の漢字は「和」】

大会会場の千葉マリンスタジアムは、プロ野球パリーグ千葉ロッテマリーンズのホームスタジアムである。
昨年(2010年)レギュラーシーズンの最終戦でオリックスを破りリーグ3位に滑り込んだ千葉ロッテは、クライマックスシリーズの第1ステージで、2位の西武を2戦とも最終回に追い付き延長11回で打ち破り、1位ソフトバンクとの第2ステージでは、1勝3敗の劣勢から3連勝、破竹の勢いで日本シリーズ進出を決めた。
セリーグの覇者中日との日本シリーズは、3勝2敗の第6戦を8回に追い付き、延長15回という6時間近い中日の猛攻を凌いで引き分け、翌日の第7戦で2対6の劣勢から挽回して延長12回に再逆転、ついにリーグ3位のチームが、史上初めて日本シリーズを制するという奇跡を起こしてしまった。
9回に追い付き延長で突き放す野球の醍醐味で日本中を熱狂させた千葉ロッテのミラクルドラマは、球界の下克上としていつまでも語り継がれることだろう。
日本シリーズを制した千葉ロッテの西村監督が「最初から選手を信じるだけでした。“和”で一つになれた」と語っていた。気持ちをひとつに仲間を信じ全員野球で最後まで試合を捨てず、勝ち進むにつれ結束力が高まっていく千葉ロッテの姿を通して、西村監督の“和”の力が我々に伝わってきた。そしてロッテ西村の「和」が中日落合の「オレ」を退けたのかもしれない。

そんな西村監督の姿が、マスコミやサポーターに「岡ちゃん、ごめんね」と言わせた昨年(2010年)のサッカー日本代表の岡田監督と重なってくる。
南アフリカ開催のサッカーWカップ出場権を獲得しながら、本番直前のゲームに思うような結果が出ず、岡田ジャパンの不甲斐ない戦いぶりに、日本代表への期待が急速に萎えて、岡田監督の解任騒動が日本中を席巻する逆風の中、重圧に耐え続け、Wカップ本番の大舞台で、戦術の変更と主力選手の入れ替えを決断して、グループステージを2勝1敗で突破、決勝トーナメントでパラグアイ相手に0対0のPK戦で惜敗という、前評判を覆す快進撃を見せて日本中を沸かしてくれた岡田監督に、千葉ロッテ西村監督と同じ「和」の字が見えてくる。
サッカーの岡田監督にこんな逸話があった。Wカップ予選で格下相手の香港にようやく快勝した夜に宿舎を無断外出してマカオに出かけた主力4選手に対する岡田監督の処置である。同じように6年前に合宿を無断外出して飲み歩いた選手を当時のジーコ監督は「私は裏切られた」と激怒して代表メンバーから外したが、岡田はあえてそれをしなかった。「おまえらで考えて決めろ」と彼らの自主性に任せ、「もう二度としません」と号涙して謝罪した選手もいたという。
事件を知らずに欧州に戻った海外組の選手に「許せないなら言ってくれ」と手紙を出したが、海外組からの返信はすべて監督に同調したものだったらしい。岡田監督にとって選手達のやることやったこと全てが指揮官の責任である。もしあの時彼らを処分していたら監督と選手間の信頼感もチームの結束力は生まれず、アグレッシブな全員サッカーによる南アフリカWカップの奇跡は起きていなかったかもしれない。
まさに2010年のスポーツ界を漢字一文字で表すなら「和」だったといえよう。

【千葉マリンマラソン(2011年1月)】

午前6時に埼玉の自宅を出ると、紺碧の夜空に満月に近い冬月が煌々と輝き、南の空に金星が瞬きもせず輝いていた。大寒を過ぎてまもない冷気にかじかむ指先をさすりながら駅に向かった。荒川の鉄橋を渡る頃にようやく赤紫色の朝焼けが広がり思わず立ち上がってカメラを向けた。東京駅で京葉線に乗り換え、明るくなってきた車窓に東京湾・大観覧車・ディズニーランドを眺めながら、40分程で海浜幕張駅に着いた。
ほぼ満員だった乗客のほとんどが下車、広大な敷地に聳える近代的な高層ビルの間をぬって千葉マリンスタジアムに向かった。やがて陸橋の上から青色のマリンスタジアムとその左手に富士山が見えてきた。ついに冨士山と一緒に走れるぞ。冨士山を求めて参加した山中湖・湘南国際・三浦国際は、いずれも雨だった。青空が広がり始めた今日こそ念願が叶いそうである。

受付を済ませマリンスタジアムに入ると、芝の張替え工事中で、三塁側の仮設スタンド上で開会式が始まっていた。ゲストの小出監督が「景色が日本一の大会です」と絶叫、高橋尚子さんが「戻ってきましたあ!」とハーフの自己ベストを出した本大会との縁を披露しながら上手に挨拶出来ている姿に、親心のようにほっとした。
膝関節半月板の怪我で北京五輪2008の夢が砕かれた名古屋国際女子マラソンの惨敗から立ち直った健気さも感じられ、拍手する手にも力が入っていた。まさかこのあと尚子さんと一緒に万歳ゴールするというサプライズが訪れるとはこの時は思いもしなかった。
本大会を紹介してくれたコーラス仲間の尾木さんと千葉ロッテ選手の手形像の前で待ち合わせて互いの健闘を誓い合った。2年前の東京マラソンで抽選に外れてボランティア役に回り、35キロ地点の給水所で苦しい走りの私をエンジョイ・エンジョイと励ましてくれたので、今日は、先発の10キロレースの私が後発のハーフ21キロを走る尾木さんをゴールで迎えるよと約束した。

千葉マリンスタジアム(千葉マリンマラソン2011)


スタジアムのスタンド席に戻りいつもの浦和レッズの赤スタイルに着替えて10キロレースのスタート地点に向かった。既に総勢5000人のランナーが海岸通りの片側を埋め尽くしていた。9時50分にスタートの合図が聞こえぬまま、前方が動き出した。1分のタイムラグでスタート地点を通過、2分ほどでようやくランナーの大行列がバラけてペースが上がってきた。
コースは湘南国際マラソンによく似た海岸線に広がる松林の中を伸びるハイウエーである。5分ほどで右手に東京湾が開けて美浜大橋の上りになった。レース前に見かけた富士山の姿を捜したが、どの辺りなのか方角も定かでなく、対岸の川崎工場群が微かに望むだけである。
やがて白い砂浜が見えてきた。キロ標識が見つけ出せず自分のペースが掴めないが、足にダメージもなく快調な走りである。周囲は走力伯仲で整然とした走りが続いていた。やがて右折して稲毛海浜公園に入った。
稲毛海岸に来るのは40年振りである。仙台から東京に転勤してまもない頃、宮城の山育ちの私が、堀留支店の青婦人部長として店内行事に稲毛海岸での潮干狩りを企画したが、砂浜でソフトボールに夢中になっている間に潮が満ちて、広げていた食事と衣類を水浸しにしてしまった失態が、今となっては懐かしい思い出である。
そんな稲毛の海岸も今はなく、目の前に開けてきた「いなげの浜」は、海の匂いのない人工海浜である。唯一の給水所で喉の渇きを癒してまもなく5キロの標識が見えてきた。時計は26分21分、キロ5分20秒弱のペースである。快調に走れているではないか。52分台のゴールも夢ではないかもしれない。

稲毛海浜公園を半周、大通りに戻りゴールに向けて折り返すと、反対車線を25分遅れでマリンスタジアムをスタートしたハーフマラソン組が埋め尽くしていた。
すれ違うハーフ一万を超える大集団の中に尾木さんの姿を捜し出すのは至難の技だなと、諦めかけていると突然「安藤さあーん」という声に振り向くと、逆走するハーフ組の中に手を振る尾木さんの姿が見えていた。走りながら大勢の中でよくぞ見付けてくれたものである。
私の赤づくめが目立ったのかもしれない。見つけてもらったからには、約束どおり先着して後からゴールしてくる彼女を迎えてやらねば、そのためにも頑張らねば。
ゴールへの帰路は向かい風になっていた。左手の海岸線にやはり冨士の姿を見つけ出せなかった。気持ちが散漫になったせいか、足が少し重くなりペースが幾分ダウン、キロ5分40秒台が3キロ続いてしまった。
ここが正念場だ、気持ちを集中しようと叱咤、美浜大橋の長い上りを走り切って8キロ地点で43分15秒。 マリンスタジアムの放送が風に乗って聞こえてきた。やがて巨大なスタジアムが姿を現わすと俄然元気が出てきた。ゴールは球場内の芝生張替のため屋外である。
フィニッシュゲートが見えてからが長かったが、ラスト2キロをキロ5分17秒のハイペースで走り抜き、ついにゴールに駆け込んだ。タイムは53分46秒。会津鶴ヶ城マラソンの記録を若干上回り、順位も4692中1615位とこれまでにない好成績にほっとした。

スタジアムのスタンド席に戻り着替えを済ませ、白い砂浜に出て太陽の陽射しにギラつく東京湾を前に昼食を取ってから、後発のハーフを走る尾木さんのゴール予想時間に合わせてゴール地点に向かうと、ゲストの高橋尚子さんがハイタッチでランナーを迎えていた。
まだ予定時刻になってはいないが、数日前にぎっくり腰をやって、痛み止めを服用しての強行出走だと言っており、東京やホノルルや那覇のフルマラソンを走っている女性アスリートだが、さすがに心配になってきた。
途中で腰痛が再発して動けなくなっているのではないか。もしかしたら収容バスに乗ってしまったのではないか。不安で待ち切れなくなり、ゴール地点から海浜大通りを一キロほど戻ったところで待っていると、集団から離れてひとり走ってくる姿が見えてきた。
さすがに憔悴し切った様子で「待っててくれる人がいることが支えに走って来れた」と笑顔を作っていた。
痛み止めの薬が効いたのか腰の方は大丈夫だが、左膝の裏が痛いという。私は既に着替えを済ませてスポーツバックを背負っていたが、コースの中に入り、ゴールまでの残り1キロを並走することにした。尾木さんは最後の力を振り絞りゴールに向けて走ってくれた。

ゴールの直前でサプライズがあった。控えのテントで休んでいたゲストランナーの高橋尚子さんが突然飛び出してきて、一緒にゴールしようと尾木さんの手を取ったのである。私は既にゼッケンを外して着替えておりコース内にいてはまずい、伴走役を尚子さんに任せてコースから外れようとすると、尚子さんが「3人でゴールよ」と強引に私の手をつかんできた。
尚子さんを真ん中に3人が手を繋ぎ合って万歳ゴールするシーンが映像となって脳裏に刻まれた。ゴールに勢揃いしたカメラマンのシャッター音が心地よく響いた。ゴールラインで3人が手を取り合い、健闘を讃え合い、映画のヒーローになった気分にしばし酔い痴れた。かくて尚子さんの機転の利いた温かい思いやりで2011年の走り初めの大会は素晴らしい思い出となった。もう67歳にもなったのだからそろそろマラソンは止めたらと言われるが、まだまだ走り続けられそうである。

【追録:大会運営のミスを救った高橋尚子さん】

7年後の千葉マリンマラソン2018で「制限時間内なのにゴールがなくなる」という前代未聞の事態が起きて、ゲストの高橋尚子さんが機転を利かしゴール出来なかったランナーの心を救ったという出来事があった。
制限時間の10分前に交通規制を解除して車道から歩道走行に切り替えた際に誘導ミスがあったのか、ゴールして参加賞をもらいチップ回収場所に向かう歩道に、ゴールを目指すランナーが誤って走り込んでしまい、ランナーが交錯して大混乱となり、収拾しようと係員がレース終了を意味する「ゴールには入れません」というプラカードを出したことで事態を更に悪化させてしまった。
まだ時間があるのにゴールまで走らせてもらえないランナーが続出する状況をなんとかしようと動いたのがゲストの高橋尚子さんだった。異変に気付いた尚子さんは、ゴールに向かって来るランナーを閉鎖場所に立って「ごめんなさい。ゴールがなくなってしまいました。わたしがゴールです」と言って走ってくるランナーにハイタッチして迎えたのである。そればかりか大会関係者にゴールテープを持って来させ、簡易のゴールを作ってランナーにゴールの気分を味合わせ、それを見た周りの人たちが集まって来て、そこは本当のゴールより温かい拍手と声援に満たされた空間になったという。


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