歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(関東編①《栃木県》)

2023-02-01 00:47:09 | 私の本州マラソン歴史紀行
【栃木県①:小山市の思川桜堤を走る】

【桜を愛でる短歌三首】

春が近づくと、いつ桜が咲くのか、各地の開花予想がテレビで報道され、胸がときめいてくる。桜は春を象徴する花として古くから多くの歌人に詠まれてきた。
その中で「古今和歌集」にある在原業平の歌が、私の大好きな短歌である。業平は桓武天皇の曽孫である。
≪世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし≫
世の中に全く桜というものがなかったなら、春の人の心はどんなにかのどかであろうに、咲くのを待ち、散るのを惜しみ、雨や風に気をもみ、心が落ち着くことがない、と逆説的に桜を愛する気持ちが表現されている。
伊勢物語の82段に、惟喬親王(文徳天皇第一皇子)と紀有常(親王の母の兄)と在原業平(有常の娘の夫)が、鷹狩を熱心にはせず、交野の渚の院に咲く桜の木の下で、酒を飲みながら、業平が先の歌≪世の中に≫を詠み、惟喬親王か紀有常が、次の返歌を詠んでいる。
≪散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき≫
散るからこそますます桜は素晴らしい。この憂き世に何か久しく留まるものがありましょうか。いや、すべてのものは、はかなく滅びてゆく、と自虐的である。
摂政太政大臣藤原良房の女腹の第四皇子が九歳で清和天皇となり、第一皇子の惟喬親王は皇位継承から外されて後に出家、権勢を振るう藤原氏に追いやられた不遇な者同士が俗世を離れた和歌の世界に誘い合い、世の無常を桜の儚さに譬えながら慰め合う情景が浮かんでくる。
もう一首、私の好きな短歌がある。その生き方に白洲正子が惹かれたという西行法師の歌である。
≪願わくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃≫
出来ることなら釈迦の命日に当たる旧暦2月15日頃に満開の桜の下で逝きたいものだと歌っており、事実その10数年後の2月16日に西行は入寂した。満天に広がる桜の花を仰ぎながら心安らかに眠る西行の姿が浮かんでくる。私もかくありたいものである。
東京の桜の開花を告げる標本木の花見に訪ねた靖国神社で、社頭に掲示されていた若い軍人の遺書の最後に「ただ私のひとつの願いは」とこの歌が書かれていた。軍歌「同期の桜」の五番に「離れ離れに散ろうとも花の都の靖国神社春の梢に咲いて会おう」と歌うが、南海の戦地に散った彼の願いはきっと叶えられたに違いない。 
故郷の町の中心部を流れる白石川の堤に隣町まで約四キロある桜並木は、一目千本桜の呼称で日本さくら名所100選になっている。2007年にマラソンを始めて、4月の大会には、故郷の桜堤を思い浮かべながら走れる大会を探して参加してきた。一昨年は行田市さきたま古墳公園の桜の下を、昨年は幸手市権現堂堤の桜の下を走り、今年(2010年)は、栃木県小山市の思川桜というロランの香り漂うネーミングに惹かれて「おやま思川ざくらマラソン大会」にエントリーした。

【関が原前夜の小山評定と福島正則】

開催地小山は上野(群馬)と下野(栃木)と常陸(茨城)を結ぶ結城街道と奥州街道が交差する要衝にあり、慶長5年(1600年)に家康が天下人になる分岐点となった「小山評定」と呼ばれる軍議があった所である。
家康の軍事力と声望を恐れた秀吉が、小田原攻めが終わると、家康を駿府から江戸に移封、背後の会津に蒲生氏郷を配し、氏郷が病死すると越後から上杉景勝を会津へ国替え、家康を関東に封じ込める体制を作ってきた。景勝の初会津入りは慶長3年3月、秀吉の薨去で9月に西上、翌年9月に「受封日浅くして国制未だ定まらず、請ふ領内を綏靖し来年を以て会同せん」と会津に帰国するが、在国僅か3か月で家康から翌年正月早々の上坂命令が下り、家老直江兼続の上洛を拒否する直江状に、家康は秀頼公守護の役を果たさぬは故太閤の遺言に背くと景勝謀叛を治定、5月3日に会津征伐を決した。
豊臣恩顧の諸大名を上杉討伐軍の主力に据えて大坂から江戸に東下、下野小山まで進軍していた家康の許に上方で石田三成が家康討伐の挙兵をした報せが届くと、徳川方諸将と参軍していた諸客将を小山に集めて「おのおの方の妻子は大阪に人質として残されており、三成と旧交ある者もあろうから、三成に味方する思う者は西帰するがよい、恨みには思わない」と申し渡したという。
このとき豊臣恩顧大名筆頭の福島正則が「我輩妻子を質として大坂の城に捨置き、御麾下に属し東国に発向す、あに今志を変じ三成に組せんや、景勝征伐の事はしばらく延引ありて石田が党を御退治あるべし」と進言した。
亡き秀吉に可愛がられた賤ケ岳七本槍の猛将正則の発言に、豊臣家に弓を引くことにならないか躊躇していた豊臣恩顧の諸客将の間に安堵感が広がり、上杉討伐軍に参軍していたほぼ全諸侯が家康に加勢して三成征伐のため反転することを決した小山評定は、まさに家康の天下制覇に繋がる歴史の分岐点であった。
豊臣恩顧の福島正則は、なぜ評定の場で率先して家康に付いたのだろうか。秀吉の全国統一を担ってきた正則ら武断派と全国統一後の中央集権的統治機構を担う三成ら文治派との対立が、伏線にあったと云われている。
文禄・慶長の役で朝鮮半島に出兵し死線を戦ってきた武断派の正則には、本国で兵站権を握り出征軍を不当に査定する文治派の三成が鼻持ちならず、二人は水と油で互いの溝は深まるばかり、朝鮮から帰国すると正則や加藤清正、黒田長政、細川忠興、池田輝政ら武断派七将が糾合して三成暗殺を謀るほどに三成は憎まれていた。
秀吉の叔母を母に、幼少より秀吉に仕え、数々の武勲を立ててきた秀吉子飼いの筆頭武将として、秀吉亡き後の豊臣家を支える屋台骨と自負していた正則にとって、大坂を離れて東上している間に幼い秀頼を抱き込んで家康討伐の旗揚げをした三成が許せなかったのだろう。
小山評定の場で家康に三成挙兵を伝えられたが、真相が三成の単独挙兵ではなく毛利輝元を総大将に秀頼を擁して西国大名を中心とした反家康の挙兵だったにもかかわらず、下野まで遠征していた正則らには家康を利する一方的な情報しか与えられなかったに違いない。
三成憎しで凝り固まっていた直情径行の正則が、評定前夜に家康に懐柔されて茶番の主役にさせられたとする説や、小山評定が講談調なのは後世の勝者の作り話だとする説もあるが、いずれにせよ上杉討伐軍に取り込まれた段階で既に家康の術中に嵌っていたのである。
会津上杉征伐から反転して戦われた関が原の合戦は、正則にとって家康と三成の私戦であり、憎き三成を倒すため家康に味方しただけで、正則は家康の時代の到来を予感しながらも、秀吉の遺児秀頼の後見役として、豊臣家存続を彼なりに描いていたに違いない。
関が原の勝利で勝ち取った征夷大将軍を嫡男秀忠に世襲した家康は、大軍を率いて大坂城を包囲攻撃、秀頼を自害させ豊臣家を滅ぼしてしまった。正則は、戦場での叛意を疑られたのか、家康に江戸留守居役を命じられ、四年後には城壁の無断修繕を口実に、安芸広島50万石を改易され、失意のまま信州高山でこの世を去った。

【野木宮合戦と小山(結城)朝光】

郷里宮城の戦国武将伊達政宗のルーツを訪ねる旅で、福島県伊達郡国見町の福聚寺に、伊達氏初代朝宗の夫人結城氏の墓所を訪ねたことがある。
結城氏は、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の末裔で下野国小山荘の豪族小山政光の三男朝光が、1181年の野木宮合戦の武功で、源頼朝に下総国結城郷を受領して結城氏を名乗ったといわれ、今回の小山思川マラソンは奇しくも伊達氏初代夫人の縁故地で開催されている。
下野国(栃木県)は、清和源氏ゆかりの地である。頼朝の父義朝は、東国で成人して相模国を中心に南関東の武士団を統率、都に出て下野守に任ぜられるが、平治の乱で平清盛に敗れて東国へ逃走途中で謀殺された。 
頼朝の平家追討の挙兵に、小山政光の妻で頼朝の乳母だった寒河局は、当主政光が大番役で在京中のため不在中は妻が差配するのが慣習だと、末子朝光を具して隅田宿の頼朝を訪ね朝光の奉公を願い出て、頼朝が烏帽子親となり元服、この寒河局の行動が、石橋山の敗戦で海路を安房に逃れて再挙兵を図ろうとする頼朝に対する北関東武士団の去就に決定的な影響を与えたといわれる。
頼朝は富士川合戦で水鳥の羽音に驚いて敗走した平家軍を追撃上洛すべしと命じたが、常胤・義澄・広常らが先ず東夷を平らげて後、関西に至るべしと諫言した。
鎌倉に戻った頼朝は、まず常陸の佐竹を攻めた。源義家の弟義光を祖とする河内源氏だが、頼朝に未だ帰伏せず、上総介広常に佐竹義政を謀殺させ、佐竹秀義の金砂城を攻略、次は、常陸信太荘の志田義広である。
義広は源為義の3男、義朝の異母兄で、下野国の足利俊綱・忠綱親子と連合、3万の大軍を擁して頼朝討滅を掲げて常陸から下野に進軍したが、頼朝の弟範頼を大将に寒河局の弟八田知家と小山朝政・宗政・朝光3兄弟が下野国野木宮(小山市の南隣)で義広を破って北関東に蔓延する反頼朝派連合の形成を阻んだ。
小山(結城)朝光は、元服後に頼朝寝所警護11人衆筆頭北条義時の三番手、吾妻鑑に勇士容貌、美好、口辨分明とあり、木曾義仲追討の宇治川の戦いと平氏追討の壇ノ浦の戦いに参加、後に東下した義経を酒匂宿に訪ねて頼朝の使節として「鎌倉へ参ず不可」を伝えた。
平泉征伐の奥州合戦では、阿津賀志山合戦で平泉方の武将金剛別当秀綱を討ち取り、その功で奥州白河三郡を与えられ、後に北条執権の評定衆の1人となった。
伊達朝宗の夫人とされる結城氏の初代朝光は阿賀志山合戦の時まだ22歳、朝宗は念西入道を名乗り隠居して合戦には参加せず、敵将佐藤基治を討ち取った功で伊達郡に移住してきた次男宗村が、結城朝光の娘が嫁いだ相手で、宗村こそ伊達氏初代当主なのかもしれない。

【ロマンの香りある地名:思川と乙女河岸】

今回参加するマラソン大会の冠名「思川」の由来について、隣接する寒川郡胸形神社の主祭神である田心姫(たごりひめ)が水に縁のある女神で、稲の豊作を祈る村人たちが近くを流れる川の恵みの大きさを讃えて、この田心姫の田と心の2字を1字に縮めてその川の名を思川(おもいがわ)と呼ぶようになったといわれる。
思川は、足尾山地の地蔵岳東麓を水源に、栃木県中西部を西から南に流れる利根川水系の渡良瀬川支流で、小山評定のあと会津征伐を中止して江戸に引き上げる家康の大軍を、この思川の「乙女河岸」という船場から船便で江戸へ運搬移動した。その後、乙女河岸は日光東照宮造営時の資材陸揚げに利用され、江戸時代の重要な輸送拠点として栄えたという。
下野市の思川にまつわる民話と伝説がある。
≪昔、花見が岡(下野市)の豪家のひとり娘お三輪が病床についた。婿の市太郎は、お三輪の回復を祈るために、毎晩、黙って家を抜け出し、川を渡って惣社の明神までお詣りしていた。ところが、市太郎が毎晩黙って家を抜け出すのは、他に好きな人ができたと思いこんだお三輪は、夫を愛するあまり大蛇に姿を変え、夫を呑み込んでしまった。二人の思いから、この川が思川と呼ばれるようになったという≫
≪下野の国の中央を流れる思川に、古くから人形(ひとがた)に願をかけて川に流す「流し雛」の風習があり、この川に人形を流すと思いが叶うので「思川」と呼ばれるようになったという伝説がある。人形は下野の工芸品である「下野しぼり」和紙で作られ、しぼり紙が身についた悪をしぼり出すと言われている≫
民話や伝説の舞台となった思川の堤に咲く「思川桜」は、昭和29年に発見された小山市原産の新種桜で、ソメイヨシノと八重桜の中間の時期に、10弁の半八重咲きで淡い紅色の可憐な花を咲かせるという。
思川と乙女というロマン溢れる地名の堤に、美しく咲き誇る思川桜を愛でながら、業平と西行の歌に夢を馳せて走る自分の姿を思い浮かべてみた。

【おやま思川ざくらマラソン大会(2010年)】

今年の春は、暖かくなったり寒さがぶり返したり、4月に入りようやく皇居千鳥ケ淵の満開の桜を二度も楽しめたが、今日初見えする小山の思川桜の開花はどうなのだろう。花冷えが続いていささか不安である。日曜早朝の下り電車は閑散として、ランニングシューズ姿が数人いたが、同じ小山の大会に行くのだろうか。栗橋駅を通過すると、隣の男性がやおら立ち上がり窓の外を眺め始めた。釣られて窓外を覗くと、川幅広い利根川の川面が朝靄に包まれた幻想的な景色が広がっていた。小山駅の1つ手前の間々田駅に下車、案内板を持つ普段着のおばさんたちが出迎えて市民総出の手作り大会のようである。
国道四号線に沿った乙女三丁目の表札に胸躍らせながら大会会場に向かう途中、朽ちかけた大木と「逢の榎」と刻された石碑が見えてきた。旧日光街道の間々田宿の入口にあった榎が江戸と日光の中間点にあり、間の榎(あいのえのき)と呼ばれて旅人の目印になっていたが、いつしか逢の榎(あいのえのき)と呼ばれるようになり、縁結びの木としてお参りする男女が多くなったという。小山市内には、ロマン溢れる話題が多そうである。
国道四号線の間々田交差点を左折、街並みが切れると大会会場の市民交流センターとカラフルなテント群が現れ、グランドに数千人の参加者が既に溢れていた。
遥か先に黄色の菜の花に彩られた思川の土手が左右に伸び、土手の上にまだ背丈の高くない木が等間隔に数キロに亘って植栽されていた。あれが思川桜なのだろう。開花はまだのようだが、大会の受付をする前にぜひ思川桜にお目見えしたいと思川の土手に直行した。
土手の上にあがると、思川の流れそのものは狭いが、対岸までの川幅はかなり広く、小山評定を終えて江戸へ戻る家康の大軍を運搬移動する光景が浮かんでくる。
土手に植えられた思川桜は、背丈が4メートルばかり、赤珊瑚のような珠玉の可愛い蕾がペンダントのようにぶら下がる中に数輪の開花した花びらを見つけ出した。 まだ形の定まらない五弁の薄紅色の花びらを二重にした可憐な思川桜にしばし見惚れてカメラを向けた。

細い幹を支える支柱に括り付けられた白いプレートに「私はこの桜の里親です」とあり、米寿や就職・誕生・周忌法要等の記念樹として小山市民の浄財で植栽され、我が子に注ぐような愛情で育てられているのだろう。
大会受付の市民交流センターに戻ると、入口に「開運のまち おやまへようこそ」の横断幕が張られていた。小山市が開運の町とあったが、ゼッケン番号と一緒に配られた小山市広報パンフレットにその謂れを知った。一つは「小山評定」で徳川家康が天下を取る運を得たこと、もう一つは「野木宮の合戦」で地元小山氏が関東の反頼朝勢力を撃破して関東武士団の源氏方参陣の大きな流れをつくり源頼朝が鎌倉幕府成立に繋がる運を得たこととあった。その小山の地を走ることで、歴史の流れを大きく変えた二大開運の御利益にぜひあやかりたいものである。
今日の出で立ちは、いつもの赤キャップに赤シャツと黒のハーフタイツの浦和レッズスタイルである。スタート30分前に練習グランドを一周したが、どうも足が地に付かず疲れが残っているのだろうか。ハーフのスタート地点に移動すると20分遅れのアナウンスがあった。今回が2回目の開催で、予想を上回る参加者のためらしいが、特に不満の声もなく混乱もないところが地方大会ののどかな良いところである。
ハーフ組のスタート1分前に、前方の坂下に集結していた10キロ組1000余人が先行スタートしたが、私の回りから一斉に大きな拍手が沸き起こった。これぞ仲間を称え合うスポーツマンシップだ。拍手していない自分が恥ずかしくなり、慌てて拍手を送った。
続いて我々ハーフ組600余人がスタート。右折していった10キロ組とは反対側に左折、10キロ周回コースに入る前の1キロ農道コースである。幅5メートル程の農道で細長い隊列の走りになったが、さほどスピード感もないのに最初の1キロ標識で5分28秒の好ペースには驚いた。2キロ地点の思川土手下に到達すると、土手の側壁を覆う菜の花の黄色い絨緞がそそり立ち、先行スタートした10キロ組が頭上の土手を走って来た。
3キロ付近で土手に上がると、出走前に下見した思川河川敷が右手に開けてきた。掘り起こされた田んぼを周回する後続ランナーの列を左手に見下ろしながら、菜の花に彩られた美しい土手に植栽された思川桜の可愛い並木道を、風もなく青空が覗いて爽快な走りである。
大会冊子の表紙を飾る満開の思川桜には一週間程早かったが、思川の織り成すロマンに思いを馳せて土手からの眺望を堪能、やがて先発10キロ組のしんがりに追い付いた。思川に架かる網戸大橋を渡り対岸で折り返しながら、先行後行の顔ぶれの中に、さっきまで競り合っていた仲間を見出してマラソン特有の一体感を味わった。
5キロ地点で27分32秒。昨年11月のさいたまシティより速いペースである。再び思川左岸に戻りやがて前方に乙女のイメージにはそぐわない近代的橋脚の乙女橋が見えてきた。あの辺りが民話発祥地であろうか。
橋のたもとを左折して乙女小・中学校を周回すると用水堀に沿った満開のソメイヨシノの並木道が現れた。一週間前の皇居の千鳥ケ淵を思い浮かべ、こうしてまた満開の桜を愛でる幸運に感謝である。スタート地点の市民交流センターが迫ってきた10キロ地点で55分58秒、キロ5分30秒をキープした快調な走りができていた。
久方振りにハーフ2時間切りも可能かなと、スタート地点の大会会場に戻り10キロをもう1周というところで、やはり身体は正直である。両膝と太腿裏に張りが感じられてきた。いつも以上の張りに給水所の紙コップの水を容赦なくぶっ掛けて、2周目に入った。
低地の田んぼの農道を周回しながら、菜の花の絨緞に包まれた思川の土手の上を先行するランナーが、蟻の行軍のように連なって見える光景に感動すら覚えた。
ペースはキロ6分台に落ちて、13キロ付近のトイレ駆け込みでロスタイム2分、再び土手に上がった14キロで1時間22分29秒。回転の鈍ってきた頭で割り算を繰り返し、残り七キロを三八分で走るにはキロ五分三〇秒を切らねばという過酷な計算結果に2時間切りは断念、とにかくベストをつくそうと気持ちを切り替えた。
足の異常はどうしようもないが、追い付いた10キロ組の遅いペースに合わせてしまったモチベーションの低下を反省、ペースを引っ張ってくれる目標を探した。 13キロ付近で追い抜かれた青いスカーフが20メートルほど先を走っており、軽快で安定した走りはターゲットに最適だ。青いスカーフを追いかけてスパートした。
約3キロの土手を走り切り、農道に戻ってくると、顔をゆがめて走る私に寄せられるコース案内係員の声援は大きな力になっていた。そして「頑張れ」と声を掛けてくれるどの係員の笑顔にも、2周目の私を覚えてくれているような親しみが感じられるから不思議である。
かくして20キロ地点を1時間59分31秒で通過、大会会場のトラックに入る直前でターゲットの青いスカーフに追い付き追い越してフィニッシュゲートに走りこんだ。手元の時計は2時間5分49秒を指していた。帰り道の「乙女屋」で和菓子「るかんた」を土産に買い求め、宇都宮から東北新幹線で郷里に向かった。白石川堤の一目千本桜のソメイヨシノはちょうど今頃が満開に違いない。


【栃木県②:下野市に天平ロマンを求めて】

【天平の町:下野市】

2007年1月にマラソンを始めて7年目、今年(2014年)の年初めマラソン大会は、なんと読むのかも分からない下野市という地名と、天平という古代ロマン溢れるネーミングに惹かれて栃木県下野市で開催される「下野市天平マラソン」にエントリーした。
なぜ栃木県に「天平の町」があるのだろう。下野市(しもつけし)のHPを覗くと、宇都宮市の南隣に位置し、旧石器時代の居住痕跡があり、古墳時代には有力な豪族が現われ、天武天皇の白鳳時代に下野薬師寺が、八世紀に聖武天皇の詔により下野国分寺が建立され、古代東国地方の仏教文化の中心地として栄えたとあった。
古代の北関東に毛野という文化圏があり、畿内や吉備に匹敵する巨大古墳を築造する勢力を誇っていた。5世紀末に毛野が二分され、都に近い方が上毛野(かみつけぬ)遠い方が下毛野(しもつけぬ)と呼ばれ、大宝律令(701年)の制定で上毛野国と下毛野国に、和銅6年(713年)に上野国(こうずけ)と下野国(しもつけ)に改められ、現在の群馬県と栃木県である。

【下野市の国分寺と薬師寺】

国分寺は、天平13年(741年)に聖武天皇が「国分寺建立の詔」を発して、全国六〇余カ国に造営させ仏教による国家鎮護を祈願したといわれ、下野国にも七重塔を含む壮大な国分寺と国分尼寺が建立された。薬師寺は、天武9年(680年)に天武天皇が皇后の菟野讃良皇女(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して飛鳥の藤原京に造営され、同じ頃に下野薬師寺が創建された。730年頃に国の機関「下野薬師寺造寺司」が置かれ、761年に僧侶の受戒ができる戒壇が置かれて奈良の東大寺と大宰府の観世音寺と並ぶ日本三大戒壇の一つとなり、東国仏教の中心的役割を担ったという。
なぜ北関東の下野国に奈良の薬師寺に匹敵する薬師寺が建立されたのだろうか。下野薬師寺は下毛野地域に巨大古墳群を築造して勢力を拡大する豪族の下毛野朝臣古麻呂の氏寺だったともいわれている。
下毛野朝臣古麻呂は、天武から持統の時代にかけて、藤原不比等らと大宝律令の選定に関わり、文武天皇の代に律令を完成させると参議に任ぜられて公卿に列し、兵部卿・式部卿・大将軍・正四位下まで異例の昇進を果たしており、その政治力で支配地の下野国に薬師寺、そして国府、そして国分寺を誘致、北関東の政治と文化の中心地としたに違いない。

【下野市の孝謙天皇神社】

下野市天平マラソンに参加した帰りにでも尋ねてみたいと、下野国の国分寺と薬師寺がどの辺にあるのか、下野市の地図を広げていると「孝謙天皇神社」という文字が目に飛び込んできた。
天皇の名の付く神社が都から遠く下野国にあるのに驚かされた。孝謙天皇は、後に重祚して称徳天皇になった天武天皇系最後の天皇で、奈良時代の末期に、男女関係にあったといわれる僧侶の弓削道鏡を天皇にしようとしたとされる女性天皇である。
孝謙天皇神社の由来に「女帝は配流された道鏡を憐れみ、この地にまえり病没されたと言い伝えられている」とあった。悪僧、怪僧、妖僧といわれ、平将門と足利尊氏と共に日本三大悪人とされる道鏡が、下野薬師寺の別當に左遷され、その道鏡を慕う女帝が奈良から遠く東国の下野まで追って来るとは、壮大なロマンではないか。【孝謙天皇を巡る天皇の系譜】
645年の乙巳の変で、中臣鎌子(藤原鎌足)と謀って蘇我蝦夷、入鹿を倒した「中大兄皇子」が、皇極天皇を廃して孝徳天皇を即位させ、難波京に遷都して改新の詔を発し、後に皇極を重祚させて斉明天皇が即位、百済再興救援の朝鮮出兵に敗れると、飛鳥京から近江大津京に遷都して668年に「天智天皇」に即位した。
672年に天智が崩御すると、天智の弟大海人皇子が壬申の乱で天智の後嗣大友皇子を破り、飛鳥京に都を戻して「天武天皇」に即位、天皇専制による律令国家体制を構築して以降、天武系の天皇が孝謙天皇(重祚して称徳天皇)まで九代100年続くことになる。
天武が崩御すると、天武の皇后菟野讃良は、早世した皇太子草壁皇子の子軽皇子が成人するまでの繋ぎとして女帝「持統天皇」に即位、飛鳥から藤原京に遷都する。
697年に持統が15歳になった孫軽皇子に譲位して「文武天皇」が即位、701年に大宝律令を制定する。文武が25歳で崩御、子の首皇子が幼年のため、文武の母阿部皇女が皇位を預かり「元明天皇」に即位する。710年に元明天皇が藤原京から平城京へ遷都、文武天皇の擁立と大宝律令の編纂に功のあった藤原鎌足の子不比等が、娘宮子を文武天皇夫人に、息子四兄弟を右大臣と参議に据えて、藤原氏の勢力を伸長させた。
715年、元明に次いで文武の姉が「元正天皇」に即位して首皇子即位までの皇位を繋ぎ、724年に24歳の首皇子が「聖武天皇」に即位する。不比等が聖武に嫁がせていた娘光明子の立后に反対する政敵長屋王を自害に追い込んだ不比等の息子四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が政権の実権を掌握する。
天平九年の天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死、宇合の長男藤原広嗣が、天平12年(740年)に左遷先の大宰府で反乱を起こし討伐されるなど、疫病と天災と内政の混乱に国家の安定を図るべく、仏教に帰依する聖武天皇は、仏像と寺院と経典により国家鎮護のための国分寺建立と東大寺大仏造営を進め、遷都を繰り返して国内は混乱、749年に聖武は譲位し出家する。
聖武天皇と光明皇后との唯一の男子基王が早世していたため、藤原四兄弟の長兄武智麻呂の次男仲麻呂が、従妹で基王の姉阿倍内親王を「孝謙天皇」に即位させる。
758年に孝謙が病気の母光明皇太后に仕える理由で譲位、未婚の孝謙に子なく、仲麻呂が天武天皇第六皇子舎人親王の七男大炊王を「淳仁天皇」に即位させる。母光明が崩御すると、親しかった仲麻呂が淳仁に密着して権勢を振るい孝謙を省みなくなり、心痛で病に伏せる孝謙上皇は、唯識と法相を修めて医術に長けた僧侶道鏡の看病を受け病を癒され、やがて道鏡を寵幸していく。
孝謙上皇の重用する道鏡に対立する淳仁天皇と藤原仲麻呂が、武力で実権の掌握を企て、天武天皇の孫塩焼王を擁して藤原仲麻呂の乱を引き起こすが、吉備真備の孝謙上皇軍に破れて仲麻呂と塩焼王は斬首、淳仁は廃位となり淡路国に流罪、孝謙上皇は重祚して「称徳天皇」となり、寵愛する道鏡を太政大臣禅師、翌年には法皇に任じ、仏教重視の政策で道鏡との独裁政治を確立させる。
称徳の異母妹不破内親王が塩焼王との子氷上川継を擁して称徳を呪詛して流罪となる事件が起きると、大宰府の中臣習宣阿曾麻呂が「道鏡を皇位に即かしめば天下太平ならむ」と宇佐八幡宮の託宣があったと伝えてくる。
称徳は和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣、使命を託された清麻呂が神託は偽りだったと報告して道鏡の即位は妨げられた(宇佐八幡宮神託事件)。翌770年に称徳が病死すると、後ろ盾を無くした道鏡は、下野薬師寺別當に左遷され、2年後に赴任地で没した。
称徳が崩御し道鏡が追放されて即位したのが、天智天皇の第七皇子施基親王の第六皇子で凡庸・暗愚を装い隠棲していた高齢の白壁王、後の「光仁天皇」で、その擁立に暗躍したのが藤原式家広嗣の弟藤原百川である。
98年前の壬申の乱で天智天皇の子大友皇子を倒した天武天皇の直系皇統は称徳天皇で途絶えて、光仁天皇の即位で天智天皇の皇統が復活した。
藤原百川は更に光仁の皇后で称徳の妹井上内親王と皇太子の他戸親王を廃し、他戸の異母兄山部親王を皇太子に、光仁の譲位で山部を「桓武天皇」に即位させる。天武系の残存皇族を粛正した桓武は、忌まわしい平城京から山城国に遷都、平安楽土を願い平安京と命名した。

【下野市天平マラソン大会(2014年)】

朝7時に自宅を出立、北風の冷たい朝である。JR宇都宮線下りに乗車、車内の奥まで朝日が差し込んできた。
埼玉県から茨城県を通過して栃木県へ、小山駅の1つ先の小金井駅に下車した。駅前に待つシャトルバスで田園風景の中を走ること10分ほどで会場の「天平の丘公園」に着いた。既に公園周辺の駐車場がマイカーで満杯、大会参加者2300人とその家族で活気に溢れていた。
会場の「天平の丘公園」は、下野国分寺・国分尼寺跡に広がる自然林と桜の美しい公園である。まだ花の蕾も見えない淡墨桜の大木が寒風に枝を広げているが、桜の時期にはさぞ大賑わいになるのだろう。
周りの畑は、霜柱で一面銀世界である。木陰の水溜りに薄氷が張り、頬を刺す冷たい北風に震え上がってしまうが、暖かく降り注ぐ日差しが唯一の救いである。
受付を済ませて、体育館の聖武館に荷物を仮置き、10時のスタートまで時間があり、ニット帽で耳を覆いウオームアップウエア姿で近くの史跡巡りに向かった。
「天平の丘公園」の東側に国分尼寺、西側に国分寺の発掘跡が芝生公園になっていた。奈良時代の天平13年に聖武天皇が仏教の力で政治の混乱と蔓延する疫病を鎮め国家の平安を守ろうと全国六〇余ヶ所に国分寺と国分尼寺の二寺が建立されたとあった。寺院建造物の復元がなく伽藍の基壇と礎石だけだが、1300年の悠久の眠りを経て壮大な聖武天皇の願いを今に伝えていた。
大会会場の受付テントの背後に広がる国分尼寺跡は、南門、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並んで、国分寺にある塔はなかったというが、土盛りされた基壇に上がると、金堂の礎石が等間隔に縦横並んで、絢爛とした金堂の姿が彷彿されてくる。傍らで女子高校陸上部員たちが史跡に目もくれず準備体操に余念がない。彼女らにとってここは史跡ではなくスポーツ公園なのだろう。
西側に600mほど離れた国分寺跡に向かった。畑の奥の林の一画に、尼寺に倍する金堂の基壇のスケールに驚かされた。基壇規模は東西33m、南北21mの凝灰岩製で1トンはあろう礎石36個が並び、桁行25・8mの寄棟造りの金堂に本尊の釈迦如来像が配置され、下野国分寺では最初に建造された建物らしい。
国分寺の伽藍規模は、東西413m、南北457m、伽藍配置が奈良東大寺と同じ形式で、南北一直線上に並び、塔は回廊の外側の東隣にあって、基壇規模18m四方と礎石の配置から、高さ60mを超える七重の塔と推定されるという。傍らの碑に「国分寺建造の詔に「造塔の寺は国の華なり」とされた塔は、国分寺を象徴する構造物であり、聖武天皇の願により「金光明最勝王経」が収められた」とあった。
発掘当時の写真と大伽藍の復元図が描かれた案内板を前に、往時の荘厳な七重塔の姿を頭に浮かべていると、男性ランナーが一人走ってきて、近くを少し散策して去って行った。後にも先にも人影はその一人だけ、天平マラソンと銘打ちながら、マラソン参加者のあまりの無関心さに拍子抜けしてしまった。
体育館の聖武館に戻り、ランニング姿に着替え、開会式の始まった芝生公園に出るとさすがに風が冷たい。今日のウエアは、東日本大震災復興支援の濃緑に白字で「がんばろう日本」と書かれたテニス連合のTシャツにアンダーシャツ、アームウォーマー、ロングパンツに東京マラソン2009の手袋、寒さ対策は万全のつもりだが、今日は厳しい走りになりそうである。
スタート地点には既に1000人のハーフマラソン組が集合しており後方に並んだ。周囲のランナーの会話から、昨年は雪と風で過酷なレースだったらしい。それに比べれば今日はマシなようだ。先月の宝塚ハーフ後半二キロの失速を考え、今日は天平の風を楽しんで走ろう。
ピストルの音が聞こえてゆったりしたスタートである。今日のコースは「天平の丘公園」から南へ3キロ、北に戻って東へ2キロ、小金井市街を北へ2キロ、西へ3キロで公園に戻る約10キロを2周するハーフマラソンである。公園の森を右手にようやくスピードが上ってきたがどうも体が重い。案の定、走り始めて早々に尿意を催してきた。スタート前に行ったばかりなのに。余りの寒さに下半身が冷えたようだ。一度尿意を催すと堪えられない。最初の仮設トイレは4キロ地点、とてもそれまで我慢できそうにない。公園の森を抜けると目の前に障害物のない田んぼが広がっていた。さっきの草むらに飛び込めばよかったと悔いるが後の祭りである。だれか勇敢な男性がいないものか、しかし回りは私の気も知らずに平然と走っている。田んぼ道の曲がり角に軽トラックが停まっていた。走路誘導員の車だろうか。もう恥も外聞もない。急ぎ車の陰で用を済ませたが、その爽快感と安堵感は筆舌に尽くせない。
周りは稲刈り後に掘り起こされた田んぼが果てしなく広がり、3キロ地点から冷たい横風になっていたがあまり苦にならない。4キロで24分はキロ6分、いつもよりかなり遅いペースだが、尿意事件のおかげで、今日は順位とタイムを気にせず楽しんで走ろうとすっかり開き直っていた。
田んぼの農道を東へひたすら走るだけ、体感的には無風状態、どうも追い風になっているようだ。やがて小金井駅前の市街地に入ると沿道の声援が多くなってきた。かなりバラけてきたが、足止めされている歩行者や運転手さんたちの表情は好意的である。視線が合うと「ありがとうございます」丁寧に応対できる余裕があった。
市街地を抜けると正面に白雪の男体山が遠望できた。強く冷たい向かい風は日光下ろしとでもいうのだろうか。2カ所目の給水所で前回の失速経験からドリンクをしっかり取った。右手の保健福祉センターゆうゆう館では、大会参加者がここのお風呂を優待利用できるらしい。
左手の運動公園の一角で、寒風の中をバスケットリングにシュートし合う若者がいた。高校時代に親友と受験勉強の合間に役場の広場でキャッチボールをしたシーンが思い出される。今日は成人の日、あと1週間で満70歳の古希、あんな青春時代が私にもあったな と一瞬感慨に耽った。7キロ地点で41分20秒、キロ6六分を切っていた。ここから今度は強い横風である。
牧草地帯のような臭いの田んぼ道から「姿川」の堤に沿っていよいよ前半のラスト2キロである。再び白雪の男体山を正面に気分は上々だが、強い風がまともに吹き付けてくる。数人の固まりを風除けにしながら10キロ地点で59分38秒、この強風条件ではまず順調だ。
5キロ辺りからターゲットにしてきたサンタ帽子の男性についに追いつき追い越した。スタート地点の天平の丘公園に戻ると大勢の声援が待っていた。これから2周目の10キロである。再び同じ風景が広がってきた。トイレでお世話になった軽トラックがまだ停まっていた。
新たなターゲットは、黄色シャツの男性である。約10mあまり先だが容易に近づかない。先ほどまでの横風が追い風に変わってくれた。タイムを稼ぐチャンスだ。少し欲も出てきた。インターバル走法で一人ずつ抜きさる余裕がでてきた。市街地に入ると沿道の声援に「ありがとう」と応える余裕もでてきた。
ゆうゆう館向かいのバスケットリングの若者が立ち話していた。もう1時間もあの寒風の中で二人きりでいる。ぜひ終生の友になって欲しいものである。
日光男体山を正面に、向かい風ながら走りはキロ6分ジャストがキープできていた。黄色シャツの男性をついに抜き去り、ペースダウンしているランナーを尻目に、ラスト二キロは五台で走りきり、ついにフィニッシュアーチをくぐった。そして、走ってきたコースを振り返り脱帽してお辞儀した。いつかプロランナーの真似をしたかったが、少しも照れを感じなかった。
タイムは2時間8分、順位は40歳以上男子574人中400番、こんなに楽しく走れたのは久方振りである。かくして60才台最後のマラソン大会は終わった。

【下野市の天平時代を訪ねて】

走り終えたあとの栃木名産のかんぴょう汁を楽しみにしていたが品切れになっていた。体育館で着替えて公園内の「しもつけ風土記の丘資料館」へ向かった。
国分寺跡と国分尼寺跡の間に建つ和風な平屋造りのモダンな会場に、古代下野国古墳の出現期、古墳形状の変遷、巨大古墳と石室、そして下野国分寺と下野薬師寺の出土品や資料が整然と展示されており、特に資料館の南側にある「摩利支天塚古墳」と「琵琶塚古墳」は、県内屈指の大規模な前方後円墳で、下毛野国造の基盤を作った王者の墓というところに興味を抱いた。
精巧な人物埴輪や円筒埴輪、武具の鏃や馬具の馬鐸などの出土品に古代人の息吹きを感じながら、今はなんの変哲もない田園地帯だが、往時は下毛野国の首長たちが活躍した舞台だったのだろう。傍らに「続日本紀」に残る下毛野朝臣古麻呂の事績が年表に纏められていたが、最終官位は参議式部卿大将軍正四位下、文武朝の中央政界で異例の立身出世したまさに地元の英雄である。
資料館の中央に20分の1に縮小した朱色の「国分寺の七重塔」が建っていた。聖武天皇は国家鎮護(外敵退散・国家安寧・五穀豊穣)を招来する経典の金光明最勝王教を安置する七重塔の建立を特に勅願しており、この七重塔こそが国分寺のシンボルだったのだろう。
美しい七重塔は、回廊の外に建てられていた。僧侶だけの世界である回廊の中に閉じ込めるのではなく、広く庶民にその壮麗な七重の塔を見せしめて、災害と疫病と内紛で失墜しかけた聖武天皇の権威を立て直す象徴にしようとしたのかもしれない。

発掘された瓦や金堂軒先模型等を見入るうち、最終シャトルバスの時間になっていた。大会会場から小金井駅までのシャトル最終バスに乗ったのは私一人だった。風土記の丘資料館をじっくり見学したのは2000人以上いたマラソン参加者の中で私だけのようである。
小金井駅の観光案内所レンタサイクルが祝日休館で閉鎖されており、この後の下野薬師寺跡には電車で向かうことにした。JR宇都宮線下りで次の自治医大駅で下車して寒風の中をひたすら歩くこと約30分、ようやく「下野薬師寺跡」に辿り着いた。
下野薬師寺跡の一角に「安国寺」というお寺が建っており、下野薬師寺は七世紀末に創建され、法隆寺などの中央の諸大寺と同格に列せられ、奈良の東大寺と筑紫の観世音寺と並ぶ日本三戒壇の一つに数えられ隆盛を誇っていたが、1092年には伽藍が破壊転倒甚だしと記されるほどに荒廃、鎌倉時代に中興され、室町時代に足利尊氏が国分寺に倣って各国に安国寺を建立した際、下野薬師寺が安国寺に改称され現在に至っているという。
安国寺の外庭に市指定有形文化財の伽藍礎石が置かれて、礎石面にある円形状のほぞ穴から、白鳳時代に流行したものと解説があった。寺の裏手に墓地が広がり周囲が林に覆われて伽藍の中心部は見付けられなかったが、敷地の西半分が発掘整備され跡地公園になっていた。
東西250m、南北260mに及ぶ塀と100m四方の回廊など、東国最大級の伽藍規模の寺院が確認されたという。伽藍跡の一角に朱色の回廊の一部が復元されており、天平文化のロマンが掻き立てられてきた。
回廊に繋がる講堂(金堂)は、基壇規模が正面38・4m、側面20m、建物桁行33・6mの大きさで、下野国分寺の金堂を上回り、奈良薬師寺の講堂に匹敵するという。回廊の中央に創建当初の塔の痕跡があり、九世紀頃に焼失、回廊の東外側に再建された塔跡の案内板に、基壇12・5m四方の大きさから高さ34mの五重塔だったとあったが、下野国分寺の七重塔が回廊の外に建っていたのも同じ焼失再建が理由だったかもしれない。
「しもつけ風土記の丘資料館」の資料「考古ウオーキング」に、下野薬師寺跡の発掘調査で、その下層に新旧2期の大型側柱建物群が判明し下毛野氏の旧宅との見解もあるとあったが、この地帯に古墳群を築いていた有力豪族の下毛野氏が、自分の敷地内にあった氏寺を下野薬師寺に改築、西方に下野国府を、その中間部に国分寺と国分尼寺を誘致建築して、一大仏教文化圏プロジェクトを進めていた壮大な歴史ロマンに思いを馳せてみた。
時計は三時半を回っていた。近くの「下野薬師寺歴史館」に急いだ。館内には、発掘調査で見つかった瓦や出土遺物、寺に関わる文献資料、薬師寺や戒壇の復元模型などが展示されて、その中に創建時の軒先瓦文様が、大和国川原寺と同系であることから寺の創建が七世紀末と考えられ、これほどの寺院がこの地に建立された背景には、下毛野朝臣古麻呂の存在が考えられるとあった。 
展示資料の中に興味深い発見があった。下野薬師寺が高僧の配流の寺でもあったというのである。754年に奈良薬師寺の僧行信が、厭魅を行った罪で下野薬師寺に配流されたと続日本紀にあり、後に道鏡も配流されるのも、このことと無関係ではないという。
厭魅とは、まじないで人を呪い殺すこと、僧行信は、法隆寺東院伽藍の復興に尽力した名僧で夢殿に座像があり国宝に指定されている。その高名な行信が呪い殺そうとしたのは、時の権力者藤原仲麻呂だといわれている。
道鏡の配流理由が、孝謙天皇との男女関係を利用して天皇とならんとした強欲ではなく、厭魅の罪だとすると、道鏡は誰を呪い殺そうとしたのだろうか。
もし道鏡が皇位を狙っていたとしたら、子のない孝謙天皇の後嗣に天智天皇の孫白壁王(後の光仁天皇)の擁立を画策していた藤原百川が、道鏡への皇位神託を確認するため宇佐八幡宮へ出立する和気清麻呂に懐柔を働きかけており、百川が道鏡の厭魅対象だったかもしれない。
館内の読書コーナーで「孝謙天皇と道鏡」と題した各種文献をコピーして纏めた手作りの小冊子を見つけた。私の探し求めていたものが網羅されており、貪るように読んではその一部をカメラに収めた。
怪僧・悪僧の異名を持つ道鏡に対して好意的な論文が多く、孝謙天皇の崩御で後ろ盾を無くした道鏡が配流された下野薬師寺の地元だから当然なのだろうが、なかなか説得力があり面白い。時計は四時になっていた。もう少し読んでいたかったが、暗くなってしまう。後ろ髪を引かれる思いで今日最後の訪問先の「孝謙天皇神社」に向かった。

【下野市に孝謙天皇を訪ねて】

下野薬師寺歴史館から30分程歩いて自治医大駅に戻り、JR宇都宮線下りで次の石橋駅に下車、「孝謙天皇神社」まで歩いても20分程だが、日が暮れそうなのでタクシーに乗ると、乗ってすぐ「着きましたよ」と畑のど真ん中の小さな鎮守の森の前で降ろされた。
孝謙天皇神社の石の鳥居の隣に立つ由緒の案内板に「孝謙女帝は、配流された道鏡をあわれみ、この地にまえり病没したと言い伝えられていますが、女帝の崩御後、道鏡と共に女帝に仕えていた高級女官の篠姫、笹姫も配流されてきた。二人は、奈良の都には永久に帰ることが出来ないことを悟り、女帝の御陵より分骨をして戴き、銅製の舎利塔に納め当地にあった西光寺に安置し、女帝の供養につとめた」とあった。
女帝の死後に配流されたのだから、女帝が道鏡の配流先に来ることはありえないが、女官が女帝の遺品を道鏡の許に届けること位はありそうだ。しかし分骨までして遺骨を持ってくるものだろうか。もしそうだとしたら、二人はかなり特別な関係だったことになる。
社殿は思いのほか小さかったが、榊と水と酒と柑橘類が綺麗にお供えされていた。神社の背後の石柵に孝謙天皇と彫られた石碑が建ち、傍らに朽ちた墓石と五輪塔が並んであり、孝謙天皇の墓であろうか。愛する男に翻弄された女帝の安寧を祈り合掌した。

境内に「御代拝之碑」という石碑が建ち、明治天皇が明治一四年に北海道巡幸の際に西田侍従に御代拝として派遣された記念碑だという。これでは孝謙天皇の御陵だと皇室が認知していたことになるではないか。孝謙天皇神社の由緒は、どうも単なる伝承ではなさそうである。 
時計は5時を回り、西の空の夕焼け雲が美しい。由緒案内の後段に「二人の女官の墓は、ここより南5百メートル位の所に、篠塚・笹塚として戦前まで保存されていたが、残念ながら現在はその跡しか残っておりません」とあり、夕焼けの明かりを頼りに辺りを散策してみた。
神社の西側を流れる「姿川」は、今日の下野市天平マラソンで堤沿いに走った河である。下野薬師寺歴史館の読書コーナーで立ち読みした文献に「孝謙天皇が美しいお姿で川の辺りを歩かれて映ったので姿川と付けられたと伝承されている。それは女帝ではなく女官たちだったかもしれない。村人たちには都の華麗な女官たちの川面に映る姿は天女に見えたかもしれない」とあった。
都から遠く離れた東国の田舎に、場違いな程に美しく雅やかに着飾った女官たちが、川面に姿を映し、姿川の水に身を清め、時には水を汲み、談笑し戯れ合う光景を思い浮かべながら、神社の南に向かって塚らしき跡を探し回るうち、日はすっかり落ちてしまった。
女官塚探しは諦め、天空に輝く満月に近い月明かりを頼りに、真っ暗な夜道を石橋駅に向かいながら、道鏡と孝謙女帝の男女関係の真偽に思いを巡らせていた。

【弓削道鏡への私的考察】

孝謙女帝が好色女で道鏡は巨根だったと流布される淫乱説の出所は、称徳崩御の50年後の平安時代初期に成立した私度僧景戒の著書「日本霊異記」である。
下巻第三十八縁に「光明皇后在世の頃に流行った歌に、法師等を裳着たりと侮るな、裳の下に陽根いきり立ち、黒皮の陽根を股に挟んで宿ねしな、一人前になるまで、とあったが、称徳天皇の御世に、弓削氏の僧道鏡法師が女帝と同じ枕に交通し天下の政治を摂る前兆だった」とあり、僧侶の道鏡を寵愛して政治を専横する女帝へのあらぬ噂が世上に流布した俗説なのだろう。
女帝に寵愛され皇位を狙った道鏡が、奈良薬師寺の行信同様に政争に敗れた下野国左遷だったとして、卑猥な汚名を着せられた裏に、何か特別な政治的策謀があったのではないだろうか。道鏡は一体何者だったのだろうか。
桓武天皇の命で編纂された勅撰史書「続日本記」の天平宝字8年(764年)に「此禅師ノ晝夜朝廷ヲ護リ仕奉ルヲ見ルニ先祖ノ大臣トシテ仕奉リシ位名ヲ継ガント念ヒテ在人ナリト云ヒテ退賜ヘト奏シカドモ」と、孝謙上皇が、道鏡の祖先は物部守屋だから退けるように諫言されたが高徳の道鏡を大臣禅師に任じた経緯がある。
物部氏は古代軍事氏族で「日本書紀」敏達14年3月に、世の疾病の原因が蕃神(仏教)を信奉したためだと仏法を止めるよう求める「物部弓削守屋大連」の名があり、物部守屋は母弓削阿佐姫の弓削氏を称していた。
私撰史書「扶桑略記」の称徳天皇紀に、道鏡法師について「河内国人、俗姓弓削氏也」と奥書があり、廃仏派の物部守屋が、587年の丁未の乱で崇仏派の蘇我馬子と聖徳太子の軍に討たれ、母方の河内国弓削郷に隠れ棲んだ物部氏の子孫とするのが通説である。
明治25年に田口鼎軒博士が道鏡皇胤説を発表した。平安時代後期に成立した「僧綱補任」に「小僧都道鏡:天智天皇孫志基親王第六子也」とあり、室町時代に後小松天皇が編纂した「本朝皇胤紹運録」の系譜に、天智天皇の子施基皇子の八人の末子に道鏡禅師(大禅師位、太政大臣法皇位、初少僧都、薬師寺別當、任太政大臣、授法皇之位、配下野国)の名があり、称徳天皇の崩御で即位した光仁天皇は道鏡禅師と兄弟になっている。
壬申の乱で下野した施基皇子と河内の弓削氏女との間に生まれ、若く葛城山に籠り仏呪を修行、義淵の弟子となり梵字の学究で学識豊かな僧侶に成長した道鏡が、皇位継承資格者だとしたら、孝謙天皇が道鏡を天皇に就けようとしたのは、単なる寵愛だけではなさそうである。
生涯独身で両親を亡くし子もいない、骨肉の政争に明け暮れる身内の藤原一族と天武系皇族の醜態を知る孝謙天皇にとって、宿曜秘法を修して病を癒し看病してくれる天智系皇胤の弓削道鏡は、最も為政者に相応しい高潔な人物であり、唯一自分を理解して心の支えになってくれる存在として全幅の信頼を寄せていたに違いない。
孝謙天皇に道鏡の祖先は物部守屋だから近づくなと諫言した藤原仲麻呂は、神武天皇の東征より先に大和入りしていた天津神の饒速日命を祖にする軍事氏族物部氏の復活を阻止する弓削道鏡の皇位妨害だったかもしれない。
天武天皇の第六皇子に梅原猛が高松塚古墳の被葬者と推定した悲劇の弓削皇子がいる。弓削皇子の母大江皇女は葛城の忍海が本拠で、弓削道鏡の本拠の河内と隣接しており、道鏡が弓削皇子の子孫だとしたら、藤原百人の推挙する天智系の白壁王と孝謙天皇が推挙する天武系の弓削道鏡との皇位継承争いが真相だったかもしれない。
その政争の陰で孝謙天皇が淫乱な女帝の汚名を着せられたのだとしたら、なんと哀れな女帝ではないだろうか。


【栃木県③:日光の杉並木街道を走る】

【日光の杉並木街道】

今年(2012年)の夏は、葛西臨海公園のナイトマラソンと日光杉並木街道の早朝マラソンにエントリーした。
これまで真夏のマラソンは、東北の涼しさを求めて、一昨年に秋田湯沢の七夕マラソン、昨年は郷里宮城の蔵王高原マラソンを走ったが、北国といえども、やはり夏の暑さからは逃れられないことを思い知らされ、今夏はナイトランと早朝ランに挑戦することにした。
マラソン大会の冠名となった「日光杉並木」は、日光に向かう街道が現在の栃木県今市市で合流して日光街道になる御成街道・会津西街道・例幣使街道三街道の全長37キロの両側に植えられた約1万3千本の杉並木で、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けて、世界一長い並木道としてギネスブックに登録されている。
日光杉並木は、徳川家康・秀忠・家光三代に仕えた松平正綱が、約20年の歳月をかけて20万本余の杉を植え、家康の33回忌にあたる慶安元年(1648年)日光東照宮に寄進したといわれる。
今回のマラソンコースになる日光杉並木街道は、三街道の内の例幣使街道である。創建当初に東照社と呼ばれていた日光東照宮が、正保2年(1645年)に朝廷から宮号を賜り、これを伝える勅使が京都から日光へやってきて、翌年から毎年、神前に金の御幣を奉るため京都から遣わされた日光例幣使が通ることから、例幣使街道と呼ばれるようになったという。
例幣使の行列は50~80人の規模で、大名も宿泊のための本陣をゆずるほどの絶大な権威をもち、徳川時代が終焉する慶応3年(1867年)まで続いた。

【家康の遺言と日光東照宮の造替】

日光東照宮の由緒について、HPに「元和3年(1617年)に徳川初代将軍家康公を御祭神におまつりした神社で、家康公は元和2年4月17日駿府城(静岡市)で七五歳の生涯を終えられ、直ちに久能山に神葬されました。その御遺言により1年後に久能山から現在の日光に移され、東照社として鎮座しました。正保2年に宮号を賜り東照宮と呼ばれるようになりました。現在のおもな社殿群は、三代将軍家光によって寛永13年(1636年)に造替されたものです」と紹介されている。
40年程前に富士支店に転勤、家族サービスで日本平動物園の帰りに久能山東照宮を参拝したこともあり、家康の墓が久能山から日光に移されたことは知っていたが、なぜ家康は遷墓を遺言したのか、その先がなぜ日光だったのか、当時は何の疑問も抱かなかったが、古希を迎える年になると様々な好奇心が芽生えてくるものである。
家康の遺言について「徳川實紀」の「台徳院殿御實紀巻四二」に「元和2年4月2日、金地院崇伝、南光坊大僧正天海幷に本多上野介正純を大御所御病床に召し、御大漸の後は久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て後、下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべしと命ぜられる」と記されている。しかし家康の遺体を駿河の久能山へ納めた後、周忌後に天海の日光山と崇伝の金地院に小さな堂を造らせて東西の武家に拝礼させよとは言っているが、墓を日光に遷せとまでは言っていないように私には読める。
家康死去1年後の遷墓前後の様子を「台徳院殿御實紀巻四五」に「元和3年3月9日、京より東照宮大権現に正一位の御追贈宣下ありしかば、11日、久能山の神柩を下野国日光山にうつしまいらせらるゝにより、土井大炊頭利勝は江戸より駿州に赴く」続く「15日、かねては3年が間、久能山に神霊を安置し、宰相頼宜卿の祭祀を受給ひ、その後日光山に御垂跡あるべしとの御あらましなりしかど、3年を待たせらるべきにあらずと思召旨有て、頼宜卿へ議せられ、日光山神廟経営をいそがせ給ひしかば、この程はや成功せしにより、けふ神柩の発行せらるべきに定まる」そして「すべて大織冠鎌足公和州多武峰に改葬の先蹤によることとて、大僧正天海みづから鋤と鍬とりて其事を行ふ」と記されている。
当初家康の墓を日光に遷すことまでは考えられていなかったが、東照大権現の神号と正一位が追贈されたことで状況は急変、平安時代に中臣鎌足が大織冠と藤原氏を授けられて多武峰に改葬した先例に倣い、家康を神として祀るべく、ご神体を日光山に移す改葬が急遽決定され、日光山大僧正天海の手で取り仕切られたようである。

【天海と崇伝、大権現と大明神】

本多上野介正純と家康の遺言に立ち会った大僧正天海と金地院崇伝はいかなる人物だったのだろうか。2人は、仏門にありながら徳川幕府創成期に黒衣の宰相、幕閣の黒幕と呼ばれて活躍した家康の側近である。
崇伝は、足利将軍義輝の家臣一色秀勝の子で、父が主家に殉じると、京都南禅寺に預けられ臨済宗を学び二七歳で南禅寺の住持となり、40歳で家康に招かれ駿府に赴き家康の大御所政治の外交文書を司ることになる。大坂の陣の発端となった方広寺大仏殿の鐘銘事件や後水尾天皇を退位に追い込んだ紫衣勅許事件の黒幕とされ、伴天連追放令や寺院、公家、武家諸法度の起草制定に参画、無欲恬淡ながら冷酷な能吏だったようである。
天海は、出自不明で謎の多い怪僧の噂が多く、武州川越の喜多院の住職となり、家康に仏教界最大の天台宗比叡山の探題執行を命ぜられ、日光山の貫主を拝命した。 崇伝が幕府の陰とすると、天海は陽の名僧として家康、秀忠に信頼され、朝廷との関係も良好で、崇伝との微妙なバランスで幕政を支えていたようである。
家康の葬儀は、遺言通りに、ご遺体が久能山に埋葬され、祭儀も崇伝の路線で唯一神道により執り行われたが、家康の神号について、崇伝は古来からの吉田神道により「大明神」として祭るべきだと主張、天海は生前の家康が天台宗の山王一実神道に帰依しておりご遺言にもとると反駁「大権現」を主張して対立した。
神号問題に勝利した天海は、神仏習合の神社として家康のご遺体を改葬し「東照大権現」として祀り、併せて天台宗の守護神である山王神・摩多羅神二神を祀った。
それではなぜ家康は日光に祭れと言ったのだろうか。日光山は、山岳信仰が天台宗と結んで、古くから関東の名山として人々の信仰を集めており、家康臨終の3年前に家康の命令で天海が日光山貫主になっている。日光は江戸の真北に位置し、その真上に輝く北極星は宇宙の中心である。大坂の陣で宿願の豊臣秀頼を滅ぼした家康は、徳川幕府の守護神となり、全国統一の抵抗勢力に睨みを利かす気概を以て、宇宙を主宰する北極星と神格化された己を一体化させた日光山に君臨する神として祀らせ、天下泰平を祈ったに違いない。

【三代将軍家光の日光東照宮造替】

家康一周忌の元和3年に二代将軍秀忠が造営した日光東照宮は、家康が遺言で小堂をと言ってはいたが、前年11月に普請を始めて、翌年3月の久能山からの家康の柩の移送による改葬に間に合わせるように急拵えで造営されたが、御廟社・本地堂・回廊・御供所・御厠そして陽明門をも含む相応な規模の伽藍になっていた。
祖父家康を崇敬する三代将軍家光は、家康21回忌に当たる寛永13年に、父秀忠の造営した元和の東照宮を「寛永の大造替」と銘打って現在の絢爛豪華絢な社殿「日光東照宮」に造り替えさせた。総工期間15ヶ月、平大工彫物大工等延べ78万人、総工費金56万8千両、銀100貫匁、まさに壮大な国家プロジェクトである。
なぜ家光は父秀忠の造営した、決して小堂ではない元和の東照宮を取り壊して、改めて造り替えさせたのだろうか。父秀忠と母お江に愛されずに育った家光にとって、両親が溺愛する弟忠長を退けて自分を将軍後嗣に指名してくれた祖父家康への厚い敬慕の念が、父の造営した東照宮では不服があったのかもしれない。
江戸城天守閣が、秀忠と家光によって二度再建されている。再建間隔が同じ15年、落雷や地震で損壊したわけでも老朽化したわけでもなく、この親子は父の建てた天守閣を解体して自分の天守閣を作り直している。関が原合戦と大坂の陣での不手際を父家康に叱責され武勇知略に乏しい実力を見透かされて父に頭が上がらなかった秀忠が、父家康の七回忌を機に、新将軍として父を超える権勢を誇示すべく、父の創建した江戸城の天守閣を解体して北側に巨大な天守閣に作り直させた。
父秀忠の再建した天守閣を取り壊した家光には、崇敬する祖父家康の天守閣を破却して自分の天守閣を再建した父秀忠への意趣返しでもあったのだろうか。生まれながらの将軍だと豪語して父を超えた専制的な権勢を誇示すべく、父秀忠の七回忌を機に、父の天守閣を解体した石垣の上に自分の天守閣を作り直させたのである。
父秀忠を否定し父を凌駕したい家光の思いが、東照宮再建築の背景にも投影されたに違いない。家光は父秀忠の築造した元和の東照宮では納得できず、祖父家康に相応しい豪華絢爛な社殿に建て替えさせるとともに、更に徳川幕府の創始者家康を神君として絶対化させて最高の礼を尽くすことで、幕府の支配を確固としたものにしていくと信じていたに違いない。
家光は自分の墓を両親の眠る江戸増上寺ではなく、祖父の眠る日光東照宮の境内に作らせたのである。死してなお家光は父から離れていたかったのであろうか。
おじいちゃん子、おばあちゃん子という言葉がある。親の心、子知らずという。いつの世も親子関係は難しい。

【日光杉並木マラソン大会(2012年)】

8月5日、早朝5時半に自宅を出立、朝日は既に高く眩い陽光を降り注いでいるが、昨夕の夏祭りの最中に降った夕立の名残りだろうか、朝の空気が爽やかで心地よい。JR宇都宮線の始発に乗車、車窓を流れる緑かがやく田園風景に夢うつつのまま、宇都宮駅で日光線に乗り換え、大会会場の今市駅に着いたのは七時半過ぎだった。
乗客のほとんどが下車、線路沿いをマラソン会場の中学校に急いでいた。本大会はスタートが八時半という早朝マラソンで、始発電車を利用して辛うじて間に合う慌ただしいスケジュールである。10分ほどで会場に着いたが、受付時間ギリギリに滑り込んだ。既に大勢のランナーが会場付近を試走していた。杉並木街道の両側に高さ30mはあろう樹齢350年の巨大老杉が連なり、まさに荘厳な景観である。鬱蒼と聳え立つ杉並木に挟まれた2車線の薄暗い街道に降り注ぐ木洩れ日の中を、涼しささえ感じられる木々の息吹を吸いながら、ひたひたと自分の靴音が響いている。


この深遠な文化遺産の杉並木道が、数分後には大勢のランナーが怒涛のように走ってくるマラソン大会の舞台となるのかと思うと不思議な気持ちになってくる。
今日の大会は、10キロレース一本だけ、高低差80mある坂道を折り返すコースで、前半5キロはひたすら下り一方、折り返した後半5キロはひたすら上り一方、息のつく暇もない過酷な坂道コースである。
前半の下り坂は飛ばしすぎずセーブ気味で、後半の上り坂をなんとか歩かずに走りきることを目標にしよう。高温多湿のこの時季にはタイムを意識せず60分完走で文化遺産の日光杉並木ランを大いに楽しんで走ろう。
スタート地点に向かうと、杉並木に囲まれた街道には既に総勢1500人のランナーが並び終えて、最後尾からのスタートになってしまった。むしろこの方がマイスペースで走れるのかもしれない、
先ず8時25分に39歳以下の男子が、10分後に我々40歳以上の男子と女子がスタートする、10分間時差式のスタートである。狭い坂道の旧街道では、スタート直後の混乱と事故を回避する賢明なルールである。
前方からスタートのピストル音が聞こえたが、周囲はしばらく微動だもしない。スタート地点を通過するのに数分かかったが、それでも流れはゆったりで、周りを飛び交う会話が聞いていて実に楽しい。
最初の1キロ標識でタイムは6分弱。かなりの渋滞だったが先ずは順調である。緩やかな下り坂で少しペースを上げてもよかったが、ここは無理せず自重しよう。延々と続く鬱蒼とした杉並木の木陰が、爽快な走りを後押ししてくれた。次の1キロが5分33秒は、下り坂を考えると抑えすぎかもしれない。
日光有料道路をくぐると、ここからさらに急な下り坂である。ブレーキ気味に走ったが、どんどん追い抜いていくランナーがいる。こんなに走って帰路の上りは大丈夫なのだろうか、他人事ながら心配になってしまう。
4キロ付近で若干の上りがあったがまだ歩く人は誰もいない。ようやく折り返して上りに転じた5キロ標識でタイムは28分44秒。下り坂にもう少し速く走れたかもしれないが、セーブした体力の貯金を後半5キロの上り坂で使えると信じよう。
折り返しての復路5キロの上り坂は、さすがに足が重くなってきた。午前9時を過ぎて気温が上り、湿度も高くなってきたようだ。斜めに差し込んでいた杉並木の木洩れ日が真上から降り注ぎ始めていた。
復路の最初の1キロは6分13秒、それほど落ちていない、このペースで頑張ろう。さっきの急坂の上りが待っていた。歩き始めるランナーも出てきた。絶対歩かないぞ、頑張れ、ここが正念場だ。
急坂の上り1キロが6分30秒、これで残り3キロをキロ6分ペースでなんとか60分は切れそうだ。500m毎に距離標識があり、3分を切るペースで通過できていた。上り坂が少し緩やかに感じられてきたのは、余力がある証拠かもしれない。 
鬱蒼とした杉並木街道とはいえさすがに暑くなってきた。8月5日の猛暑日を覚悟した。給水所のボランティアのおばさんたちがコースにまで飛び出して、懸命に熱中症の危険を訴えてコップ水を差し出していた。タイムロスを考えてここまで給水を取ってこなかったが、おばさんたちの温かい思い遣りを素直に受けよう。喉を通る冷たい水が新たな力になっていくのを感じた。
ゴールの中学校グランドから、開催中の2012ロンドンオリンピックのテーマソングが流れてきた。胸が熱くなりながら上り坂をスパート出来ている自分が嬉しかった。杉並木街道から左折して中学校グランドのフィニッシュゲートに向け数人を抜いてついにゴールした。タイムは59分40秒、この急坂コースをついに歩かず60分切りで完走できた喜びに思わずガッツが出た。
走り終えてみると、コースの殆どが鬱蒼とした杉並木街道で、盛夏の強い直射日光に当たることなく、むしろ樹林間の爽やかな風を感じながら、心配していた高湿度に体力を奪われることもなかった。もう少し頑張れたかなという余力さえ感じる爽快な達成感に酔い痴れた。
カキ氷入り麦茶と冷水に漬かったモロキュウ数本を両手にいただき、汗でびしょ濡れになった身体を休めて、更衣室用の体育館に戻ると、スタート前に健闘を誓い合った青年が着替えを始めていた。
「早かったですね」と声掛けすると「いま来たばかりですよ」と遅れてきた私に気遣う返事を返してきた彼と今日の過酷な急坂の感想を語り合った。

【日光東照宮を訪ねて】

今市駅からJR日光線で次の日光駅に向かい、駅前から世界遺産めぐりバスに乗車し東照宮表参道に下車した。鬱蒼とした杉林の中に広がる静かな境内を進むと、さすが世界遺産である、観光客の半数以上が外国人だった。
日光山は、古くから二荒山(ふたらさん、男体山の古称)を中心とする日光の山々を信仰の対象とした霊場で、766年に勝道上人が輪王寺の前身である四本竜寺を建立したことに始まり、関東武士の信仰を集めて隆盛を誇ったが、秀吉の小田原攻めに反抗したため衰微、家康の信任篤い天海大僧正が貫主に就任、家康の遺言で東照宮が造営され、家光により現在の建造物群が造営された。
今日は一人旅の気軽さもあり、マラソン疲れで足が止まるまで日光山内を隈なく探訪してやろう。修復工事中のテントで覆われた輪王寺三仏堂を右手に、黒地に金字で東照大権現と書かれた額を掲げる石鳥居を潜ると、左手の極彩色の五重塔が特別公開されていた。
傍らに東京スカイツリーの写真が掲示されて、なんと標高がスカイツリーの高さと同じ634mだという。しかも、五重塔を貫く心柱が事例の少ない懸架式で、四重から吊り下げられて、その免震機能がスカイツリーの制振システムに応用されているという。確かにライトアップされた床下を覗いてみると、太い心柱の最下部が礎石から浮いていた。地震の揺れを建物に伝えないようにする技術があったとは、恐るべき先人の知恵である。
阿吽の仁王様が立つ表門を入ると、左手の神厩舎に人だかりが出来ていた。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿である。やはり人気者である。
傍らの立看板に「幼いうちは、純真で周囲の影響を受けやすい、だから世の中の悪いことは見聞きせず、悪い言葉も使わせず、良いものだけを与えよ。この時期に良いものを身に付けておけば、悪いものに触れても正しい判断ができる」とあった。三猿がそういう意味だったとは知らなかった。善悪の現実から逃避する無関心を推奨しているように思っていたが。
いよいよ待望の陽明門である。江戸時代の工芸技術の粋と贅を尽くした日暮らし門といわれるが、カメラを向けながら愕然としてしまった。私の脳裏に残る煌びやかで精気溢れる極彩色の陽明門ではない、風雨に晒され基調の白粉は灰色化し色彩も色褪せた痛ましい姿に変わり果てていた。いずれ大金をかけて修復事業が行なわれるのだろうが、時の流れの無情を思い知らされた。
江戸の彫刻家たちが想像していたという霊獣や絵物語のような人物群像、夫々に意味ありげな花鳥、柱に彫られた文様など、素人の私でもしばし惹き付けられて、文字通り日暮らしの門を堪能した。
日本人のガイドさんが外国人観光客相手に、一本だけ渦巻き模様が逆さまになった魔除けの逆柱を、英語でしきりに説明していたが彼等は理解できたのだろうか。
拝殿の参拝を済ませて、奥宮へ向かう坂下門の「眠り猫」を見上げていると、修学旅行生が集まってきて、引率先生の解説が聞こえてきた。立看板には「左甚五郎の作 牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫が転た寝しているところで日光を現わす絶妙の奥義を極めている」とあるが、引率先生の「眠り猫の裏側に雀の彫刻があるのをよく見なさい。猫が眠り雀が遊ぶ究極の平和を表現しているんだ」という話の方が、今の子供たちの平和教育のためには適切なのかもしれない。
それにしても歴代将軍しか参拝できないという家康の霊廟のある奥宮まで行くには、この坂下門の「眠り猫」の下を必ずくぐらなければならないのだから、何かもっと別の意味がありそうである。
猫は寝るとき丸くなるが、東照宮の眠り猫はどう見ても寝ているようには見えない。頭をもたげ耳を前に向け前足を揃え爪を隠しているように私には見えてくる。
奥宮の家康公を守るため、薄目を開け、不審な侵入者にいつでも飛びかかれるような前傾姿勢を取っているのだと言う説もあるらしい。寝たふり猫なのかもしれない。
本殿の裏手の山上の家康の霊廟の奥宮に向かった。東照宮の裏手の細長い苔むした石段を登ると、途中に家康遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」の看板が立っていた。さらに石段を登ると銅板に黒漆の塗られた奥宮拝殿が現われ、家康の神柩を納めた高さ5mの金・銀・銅の合金製宝塔が建っていた。
当初は木造宝塔だったというが、奥宮は絢爛豪華な東照宮とは別世界の落ち着いた空間である。家康の眠る宝塔の裏側に立ち拝殿の方を向くと、その先に南向きの東照宮が建ち、その延長線の遥かかなたに江戸市街が位置している。頭上にある北極星を中心に満天の星が回るように、家康は死して神となり宇宙の中心となって江戸そして日本全体の安寧を見守ろうとしていたのだろう。
東照宮の参拝を終えて薬師堂の内陣天井に描かれた巨大な鳴龍の鈴のような鳴き声を体験した後、西に隣接する「二荒山神社」に向かった。東照宮が造営されるまで日光山信仰の中心を担っていた山岳信仰の古社で、主祭神は大国命で縁結びの神として敬愛されてきたという。
老杉の樹林に囲まれた朱塗りの入母屋造り社殿は、日光山内最古の建物で厳かな美しさは東照宮とは別世界である。両側に男体山登拝大祭の大きな幟が立っていた。
二荒山神社の西隣りに建つ「日光山輪王寺大猷院」は三代将軍家光の霊廟で、現在は輪王寺に属して法要が営まれている。家光は「死後も魂は日光山中に鎮まり、東照公(家康)のお側近くに侍り仕えまつらん」と遺言、師と仰ぐ天海大僧正の墓所「慈眼堂」隣の大黒山に埋葬されており、南向きに建つ家康の眠る東照宮を拝する形でやや東向きに建てられている。
大猷院は、四代将軍家綱により建立されたが、建ち並ぶ伽藍の種類と形態は、家康の東照宮によく似ているが、家光の「祖父家康公を祀る廟所を決して凌いではならぬ」という遺命で、規模は小さめに、彫刻や彩色は控えめに作られており、特に拝殿と相の間と本殿は、建物全体に黒漆と金箔を施す色彩と精巧な装飾で、東照宮の豪華絢爛とは違った、荘厳で幽玄な雰囲気を醸していた。
拝殿・相の間・本殿の柱や屏風全ての造作が純金に近い総金箔張りで、別名「金閣殿」と呼ばれ、日本三大金箔堂の一つだという。平泉の金色堂と京都の金閣寺は堂内に入れず概観するだけだから、堂内が拝観出来るとはありがたい貴重な体験である。
拝殿の正面左右の大羽目に狩野探幽と弟狩野安信の唐獅子が描かれ、シルクロードから伝わった権威と権力を象徴する聖獣ライオンである。達磨禅師のようなギョロ眼とごつい体躯に瑞雲文様の巻き毛が描かれ、捲き尾を靡かせる唐獅子の力強さに、しばし圧倒されてしまった。
拝殿の正面祭壇に据えられた家光の位牌の両側に、父秀忠と母江の位牌が並んでいた。昨年(2011年)のNHK大河ドラマ「江」にあやかり、芝の増上寺からこちらに特別公開されているのだという。昇殿した我々には焼香の誉をいただくのは有り難いことだが、弟の忠長を溺愛していた秀忠・江と家光の不仲を知るだけに、両親の位牌を並べられて家光はどう思っているのだろう。
父秀忠が家康の遺言に従って日光に建てた霊廟を豪華絢爛な大伽藍に造り替え、翌年には秀忠が建て替えた江戸城の天守閣を取り壊して新たな天守閣に建て直し、そのうえ父母の眠る増上寺ではなく祖父の眠る日光山に自分の墓所を作らせた家光の父母との確執を思うと、商魂とまでは言わないが、三人の位牌を並べて飾る無神経さには憤りさえ抱いてしまう。
 
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