歴史と文化の路を訪ねて

季刊同人誌「まんじ」に投稿した歴史探訪紀行文を掲載しています。

私の本州マラソン歴史紀行(東北編④ ー福島県・山形県ー)

2022-08-01 23:48:56 | 私の本州マラソン歴史紀行
【東北にもキリシタン殉教があったーその1ー】

慶長元年の秀吉による長崎の二十六聖人殉教と江戸幕府による京都・長崎・江戸の元和大殉教は有名だが、東北に殉教があったとは知らなかった。 
14年前に伊達政宗の長女五郎八姫が嫁いだ家康六男松平忠輝の居城である新潟県上越市の高田城下を走るマラソン大会に参加した際に、五郎八姫を描いたステンドグラスがあるというカトリック高田教会を訪ねて、外人神父さんに忠輝と五郎八姫のキリシタン説や支倉常長の遣欧目的など、興味深い持論をお聞かせいただいた。
その際に受付にあった小冊子「米沢の殉教者」に、私の出身高校がある白石城址の写真が載っており、米沢の殉教と白石城にどんな関わりがあるのだろうと持ち帰ったことが、東北の殉教に関心を抱く契機となった。
「米沢の殉教者」の著者は、スペイン人司祭で日本に帰化した日本二十六聖人記念館長結城了悟神父、巻頭言に、ローマ教皇が2007年にペトロ岐部と187人の殉教者の列福を宣言され、長崎で列福式が執り行われることを記念して188名に含まれる米沢の殉教者53名の信仰を守った勇気ある生き方をより理解する助けとするためカトリック新潟教区から再刊されたとあった。
当時会津若松に潜伏していたイエズス会のポーロ神父がローマに送った報告書や米沢藩上杉家御年譜を基に殉教の様子がリアルに綴られ、そこには殉教が天に召される美しく崇高なものに描かれており、それまで殉教に暗い死のイメージを抱いてきた私には衝撃的だった。
拷問と極刑の恐怖に囚われた苦痛の試練に耐えて初めて神に救われるのではなかったのか。懐疑の中で私の東北のキリシタン殉教地巡りの旅は始まった。

【日本キリシタン史の概略】

日本へのキリスト教伝来は、1549年のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの伝道によるとされる。
1579年にアレッサンドロ・ヴァリアーノが巡察使として来日、日本文化に適応した布教方針と日本各地の領主の宣教活動への保護もあり宣教の拡大期を迎える。
1587年に秀吉がバテレン追放令を発するが、宣教は拡大、1597年に長崎で二十六聖人が処刑される。
1600年頃には30万人のキリシタンがいたといわれ、1614年に幕府の禁教令が全国に布告され禁教期に入り、キリシタンは潜伏、大規模な殉教が行われる。
1637年に百姓を巻き込んだ島原の乱が勃発すると幕府は更にキリシタン弾圧を徹底、鎖国政策へと進む。

【東北のキリスト教と迫害】

東北にキリスト教が初めて入ったのは、秀吉の奥州仕置によりキリシタン大名レオ蒲生氏郷が会津若松に移封された天正18年(1590年)といわれる。
当時まだ宣教師が東北には来ておらず、フランシスコ会宣教師が江戸に入ったのが1602年、ルイス・ソテロが1611年に仙台藩主伊達政宗と親交を結び東北の布教の道が開かれ、多くの宣教師が東北で布教を始めた。
1613年に政宗がキリスト教の領内布教を条件にメキシコとの直接貿易を求めて遣欧使節を派遣したが、翌年に幕府のキリシタン禁令の全国布告による迫害が全国に広がり、1619年に京都大殉教(52名)1622年に長崎大殉教(55名)1623年に江戸大殉教(50名)、やがて殉教の嵐は、東北にも襲いかかってきた。
東北の殉教地は、福島県の会津若松、山形県の米沢、宮城県の仙台と東和地区、岩手県の水沢と大籠地区、秋田県の久保田と横手、青森県の弘前などである。
会津若松は蒲生氏郷、米沢は上杉景勝、仙台と水沢は伊達政宗、秋田は佐竹義宣、青森は津軽信枚いずれも有力大名、かかる領主の勧奨と寛容な理解で、家臣や領民のキリスト教の信教が許容され広められながら、やがて幕府の禁教令によって無辜なキリシタンが迫害と殉教を強いられていったのだとしたら悲劇である。

【福島県:会津若松の殉教地を訪ねて】

①鶴ケ城健康マラソン大会(2010年10月3日)

東北のキリシタン殉教地を巡る旅の第一弾として、福島県会津若松市の殉教地を訪ねながら参加できる鶴ヶ城健康マラソン大会にエントリーした。
東京発20時の東北新幹線に乗り込み、郡山乗換えで会津若松のホテルに着いたのは23時を回っていた。
朝食も早々に荷物をフロントに預け、駅前タクシーに行き先の鶴ケ城を告げると、運転手さんが「天守閣は戊辰戦争当時の赤瓦に葺き替え中で見られないですよ」と運転席から観光用の写真パネルを見せてくれた。
戊辰戦争で新政府軍の砲撃に白壁が穴だらけになった白黒写真の鶴ケ城の瓦が小豆色に彩られており「当時はカラー写真が無かったんじゃないの?」と、タクシー内は笑いに包まれて、今日一日の楽しい予感がした。鶴ヶ城に隣接する陸上競技場には、既に3000人余のランナーと家族が集っていた。広々とした体育館で軽井沢マラソンの黄緑色のTシャツに着替え、かねて楽しみにしていた鶴ケ城天守閣に向かって試走した。
今日のマラソンコースに城内は入っておらず、大会前に観光を兼ねてぜひ走っておきたかった。碧々した深いお濠を眼下に、苔生す石垣が壁のように立ちはだかる城郭の中に入ると、ランニング姿で江戸時代にタイムスリップしている自分が不思議である。すれ違う数人のランナーと軽く挨拶を交わしながら、天守閣の前に立つと、屋根瓦の葺き替え工事のため、巨大なテントですっぽり包まれ、テントの上に貼られた五層の天守閣完成予想絵図がその威容を伝えていた。

天守閣前の本丸公園で、大掛かりな茶会が開かれていた。白と紫の縦縞模様の幕が幾張りも張り巡らされ、緑の芝生を大勢の着物姿のご婦人方が楚々と歩いている。
その中を場違いなランニング姿で一人走り抜けるのだが、誰も見向きも関心も示してくれない。私はこの人達にとって透明人間なのかもしれない。
城郭内を試走して陸上競技場に戻ると、開会式を終えた白の胴着に黒の袴姿の女子高校生達が退場するところだった。アトラクションのなぎなた演武が終わったようだが、さすが文武両道の会津若松である。現代の中野竹子たちであろうか。緑のフィールド内で演ずる白と黒の和装で演ずる『なぎなた演武』は、さぞ壮観だったに違いない。惜しいことをしてしまった。
今日の大会は、10・5・3・2・1キロの5種目を市民参加型の健康マラソン大会である。最初のレースが私の走る10キロで、総勢450人がトラック第2コーナー付近に性別・年齢順に整列したが、どうも私の周りに年配者が少ない。ゴール後に調べてみると私より年長は5人しかいなかった。すぐ後ろに女子ランナーのカラフルなエリート集団がひしめいていた。

9時半にスタート、第3コーナーから陸上競技場の外に出ると、すぐ後ろに並んでいた女性アスリート集団が我々の中を掻き分けるように前に走り抜けて、やがて落ち着いた流れになった。
二の丸の外濠と土塁を右手に、樹林の城内を走りながら、しばし憧れの鶴ヶ城マラソン気分を堪能していた。城郭南を流れる湯川の天神橋を渡り市街地に出たが、キロ表示がないのか見落としたのか、自分のペースがはっきり掴めぬまま、流れに乗っての走りになっていた。
まもなく市街地を抜けると、左右に黄金色の稲田が広がり、僅かな上り勾配の美しい街路樹ロードに入った。
案内板にこぶし街道と標記されていた。まだ背が低く少し紅葉しかかった街路樹だが、春の開花時には、さぞ美しい白い花のロードに変貌することだろう。行き先案内道標に大内とあったが、この先の大内宿を通り日光経由で江戸に向かう下野街道のバイパスのようである。
南に走っているから背後に磐梯山が見えるかもしれない。何度か後ろを振り返っていると、周囲のランナーに怪訝な視線を向けられたが、遥か後方にあの特徴的なM形の山容が一瞬垣間見えて、会津若松を走っている実感を味わった。

だいぶ強い向かい風になってきたが、さほど苦にならないのは好調の証だろうか。それでもキロ表示が見つからず自分のペースが分からない不安は続いた。
スタートして18分が経過したところで折り返したランナーが歩道を走ってきた。すれ違いざま「もうすぐ折り返しだよ」とは、元気が出る有り難い励ましである。
左手にモダンなあいづドームが見えてきた。やがてあいづ球場を右折して、まもなく折り返しに入った。折り返しタイムが25分20秒、5キロにしては、速すぎるタイムだ。まだ中間点でないのだろう。復路のこぶし街道を今度はひたすらの下りである。
上りの途中で追い抜かれた黒と黄の2人をターゲットにピッチを上げた。再び市街地に戻ると沿道の声援にも熱がこもっていた。「ありがとうございます」と語尾までしっかり言える余裕があった。追いすがる足音が並びかけるとピッチを上げて振り切る余裕もあった。
黒と黄のターゲットに追い付き、次のターゲットをもう少し前方の白髪の男性に定めた。徐々に距離は縮まるがさすがに強敵のようで追いつけない。
7キロ表示板を持った係員の「あと3キロだ、頑張れ!」に「ありがとう!」歓喜の声で応えた。タイムは丁度38分、ここまでの7キロがキロ5分30秒弱と頭の中でソロバンを弾いた。残り3キロを16分30秒で55分は切れそうだ。自己ベストかもしれない。
さすがに呼吸も荒くなってきた。白髪の男性は大分近くなっていた。陸上競技場の真横に出て、ゴールが近いのかと錯覚してしまったが、あと3キロの地点からまだ8分しか走っていない、ゴールのはずはない。

白壁の体育館を緑の樹林が囲んだ三の丸公園の一画を大きく周回すると、大勢の応援者が待ち受ける競技場の入口が現われ、トラックに誘導する係員が見えてきた。
大歓声の渦巻くトラックに入ると白髪の男性がすぐ目の前に迫っている。よし抜けるぞとラストスパートをかけて並び掛けたとたん、どこにそんな力があったのかと思う程の爆発的スパートで引き離されてしまった。
追い縋るようにゴール、彼の肩に手を掛け「速かったですね。追い抜こうと思ったんですが」と声かけした。
お互いに笑顔を交わして健闘を讃え合っていると、先着していたその人の仲間が寄ってきて「この人は72歳で最年長なんですよ」と紹介してくれた。ほんのひとときだったが、戦いを終えた戦友3人の心温まる交歓が、今日の素晴らしいレースを締め括ってくれた。
完走証の記録は53分55秒。なんと55分どころか54分も切っていた。周回コースを除いたロードレースで自己ベストの記録である。しかも私より年長が5人しかいない40歳以上の男子225人中158位なのだからよく頑張ったと自分を褒めてやろう。独り御満悦気分で、野天の椅子に腰かけ、熱い豚汁をゆっくり味わった。

②会津若松の歴史探訪サイクリング

マラソンを楽しく走り終えて、いよいよ会津若松の歴史探訪である。体育館で着替えを済ませ、もう一度、会津若松のシンボル:鶴ケ城の天守閣に向かった。
秀吉の奥州仕置で伊達政宗に代わり会津に移封された蒲生氏郷の築いた七層天守閣は、慶長16年の大地震で傾く被害を受け、28年後に城主加藤明成が五層天守閣に建替えたが、明治維新の戊辰戦争で新政府軍の砲撃に損壊して明治7年に取り壊された。現在の天守閣は、昭和40年に再建され、現在赤瓦に葺替え工事中である。
小学6年の修学旅行以来、幾度も訪れているが、いつ来ても鶴ヶ城天守閣は壮観美麗である。一層で歴代藩主と城の変遷が解説され、会津松平藩祖保科正之の生誕400年特別展が開催されていた。二層では江戸時代の会津藩を、三層では会津戊辰戦争と白虎隊の悲劇を錦絵で、四層では会津城下の四季と風物詩を紹介していた。
最上階の五層は、屋根の葺き替え工事で、窓が全て閉扉され、城下の展望は叶わなかったが、窓の隙間から小豆色の瓦に書き込まれた浄財献金者の名前が覗いて、地元篤志家の会津魂と郷土への熱き思いが伝わってきた。
天守閣から外に出ると、本丸広場の大茶会は、今まさに佳境に入っていた。本丸の奥にある茶室「麟閣」は、秀吉の逆鱗に触れて切腹させられた千利休の子・千少庵を氏郷が密かに会津に匿った際に、氏郷のために少庵が造ったと伝えられる茶室である。
この少庵の孫三人が、後に武者小路千家、表千家、裏千家の三千家を起こしたというから、茶道が今日あるのも氏郷のお陰といって過言ではあるまい。会津の茶会が格式を持って盛大に行われるのも当然なのだろう。

城内のレンタサイクル店で自転車を借り市内観光に乗り出した。最初の目的地は、鶴ケ城北口すぐの「西郷頼母邸跡」である。頼母は会津藩筆頭家老で藩主松平容保の京都守護職受任を強硬に反対、鳥羽伏見の戦いを前に帰国を主張するが聞き入れられず、会津戦争では恭順を建言して藩内の主戦派に押し切られ登城差し止めとなるが、新政府軍が城下に侵入して来ると、蟄居の身ながら籠城を知らせる鐘に急遽登城、頼母を見送った妻子ら家族21人は、辞世の句を残して自刃したという。
説明板に書かれた頼母の妻千恵子の辞世『なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ』に拙い解釈を試みてみた。「いつもは世の流れにまかせる、か弱い我が身だけれど、いざという時には自ら命を絶つ気骨はあるのですよ、官軍さん!思い知って!」
けなげな会津女魂だが、分別もできない幼子まで道ずれに無理心中とは、戦争がもたらす悲劇である。
登城してなお恭順を説く頼母が主戦派に殺されそうになり、容保は頼母を米沢に逃れさせるが、頼母は米沢から仙台、函館に渡り五稜郭で戦い、戦後神官になったという。妻子家族が自刃したのに己は生き延びるとは。

次に向かったのは「蒲生氏郷の墓」である。市街地の中心にある興徳寺の裏手に、氏郷の遺髪を埋葬したという立派な五輪塔が立っていた。興徳寺は、秀吉が奥州仕置を行った寺で、氏郷が再興し蒲生氏の菩提寺とした。蒲生氏郷は、天正18年(1590年)に、伊達政宗が秀吉の小田原攻めに遅参した責めで米沢城に減封された後の会津黒川城に、伊勢松阪城から移封されて42万石の太守となり、黒川を若松に改名した。
氏郷の墓の傍らに立つ大きな歌碑に『限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風』と40歳で早世した氏郷の辞世が刻まれていた。
氏郷顕彰碑の案内に「花のあはれに人のあはれをかさねよんだ優婉な辞世の歌が後に残された」とあったが、優婉どころか怨念のようなものが私には感じられた。 
勝手な解釈を試みてみた。「桜の花は散る時期が来れば風が吹かなくとも散ってしまうが、私はまだ死ぬ時期でもないのに、心短き山風のためにこのまま死んでしまうのか」と無念な叫びが聞こえてくる。心短きとは、短気な、という意味としたら、氏郷を死に追いやった『短気な山風』とは如何なる山風なのか。意味深ではないか。
 
興徳寺から七日町通りを西に向かう辻に建つレトロで重厚な蔵造りの建物と「レオ氏郷南蛮館」の看板に惹かれて中に入ってみた。興徳寺で見た辞世の歌に暗号的な拘りを抱いたこと、氏郷は有名なキリシタン大名で、会津のキリシタンの殉教に関わる史料が展示されていることを期待したこともあった。
一階が民芸品のお土産屋、入館料代わりの100円玉を専用箱に投入、靴を脱ぎ狭い階段を二階に上がると、信長の安土城を彷彿される七層天主閣の想像模型(下の写真)と想像再現されたという「天主の間」に泰西王侯騎馬図屏風四曲一双の絢爛豪華なレプリカが展示されていた。



異教の王と戦うキリスト教の王の騎馬像を描いた屏風は、同じ王侯騎馬図が描かれた宮内庁所蔵「万国絵図屏風」のカエリウス世界地図が1609年制作であることから、氏郷の子秀行の1611年の会津地震で損壊した天主閣の改築時に大広間の襖絵に描かれたもので、戊辰戦争の戦火を免れて屏風に仕立てられたのであろうか。
秀行は、母が信長の次女相応院、正室が家康の三女振姫、まさに血統書付サラブレッドである。大御所家康の駿府城に南蛮世界図屏風があったといわれ、家康が娘婿秀行のために絵師を派遣して描かせたのかもしれない。
退出しようとして部屋の隅の「氏郷の死の謎」のパネルに足が止まった。40才で早死した氏郷の死因について、朝鮮出兵のため九州名護屋城の茶席に招かれて突然吐血発病しており毒殺されたのでは、とあった。氏郷の3回忌法要のために秀行が描かせた亡父氏郷の肖像画像の賛に、京都南禅寺の玄圃霊三和尚が「管領奥州五十四郡、可惜談笑中置鴆毒」と記しており、氏郷の毒殺は、どうも単なる噂ではなかったようである。

氏郷毒殺の犯人は誰だろうか。藤原秀郷系統の名門出で、信長の娘を正室に、小さな婿殿と信長に可愛がられ、進歩的な信長の薫陶を受けて将来を嘱望された氏郷を殺したい程に忌み嫌う者がいたとしたら、信長死後の後継争いを勝ち抜いた成り上がりの秀吉しかいないだろう。
秀吉の奥州仕置で伊勢松阪から会津に移封された氏郷は、旧主信長の安土城に酷似した七層の壮大な天主閣を建て、信長の楽市楽座制を導入して自由都市を建設、南蛮文化の花咲く新世界を創造せんとして潰えた信長の夢を実現する後継者として成長しており、奥州の再仕置により政宗の旧領が加増され検地もあって家康と毛利輝元に次ぐ91万石の大大名になった氏郷は、信長の死後を簒奪した秀吉にとって最大の脅威だったに違いない。
氏郷の会津移封は、家康と政宗を抑える配置といわれるが、京から遠く奥州への左遷が真相だったのだろう。
氏郷と秀吉の関係は良好だったといわれるが、日本在留43年の宣教師シュタイシェンの著「切支店大名記」に、氏郷が発病する前年の興味深い記述があった。
「文禄元年(1592年)フィリッピンの太守が派遣した二人の使者が、朝鮮出兵で肥前名護屋に来ていた太閤に謁見し、ポルトガル人がイスパニアと日本との通商関係を妨げ、太閤の禁令があるにも拘らずこの国に宣教師を止め置いた事を訴えたため、太閤は、直ちに切支丹の長崎奉行を罷免し、耶蘇会士の教舎や教会堂を破却し、ポルトガル人の挙動について厳重な調査を命じた。
蒲生氏郷は、長崎に駆けつけて耶蘇会士を慰めて、自分は彼らの味方であり、太閤であろうと誰であろうと、自分の宗教的信念を捨てさせる事は出来ないと声高く声明した。又その中傷が、太閤とその取巻きの人々の上に如何に悪い影響を與えたかを告白した。名護屋に帰るや、太閤の近頃の迫害に対して公然不満な態度をとった」
氏郷は、朝鮮出兵のため名護屋に滞陣している諸大名を前に、長崎教会の打ち壊しだけでなく、無謀な朝鮮出兵も糾弾していたかもしれない。秀吉は京へ向け発った後で名護屋にはいなかったが、氏郷の不遜な言動は、やがて秀吉の耳に伝わったに違いない。
氏郷辞世の「心みじかき春の山風」の『短気な山風』とは、やはり秀吉のことなのではないだろうか。

南蛮館を退出、氏郷が毎月七の日に市を開かせたという「七日町通り」に向かった。七日町通りの札辻は、会津五街道と呼ばれた白河・日光・米沢・越後・二本松街道の起点であり、人馬と物資の重要な交差点である。白や黒の漆喰の店蔵や連続格子戸の座敷蔵、石造りの洋館などが軒を並べ、大正ロマンの香り漂う素敵な町並みで、商人から税をとらず自由に商売させる楽市楽座制を伊勢松阪に続いて会津若松で更に発展させ、キリスト教をベースにした西洋文化の自由経済都市実現を目指した氏郷の壮大な夢を描く息遣いが伝わってくる。

七日町通りの西の出入口に立つ石柱「会津東軍墓地」の文字に惹かれ、「阿弥陀寺」に立ち寄ってみた。
案内板に、戊辰戦争後の会津藩戦死者の遺骸が、官軍の命で放置されたまま触れることすら許されず、幾度の嘆願で5ケ月後にようやく許可が下りて、阿弥陀寺には1300柱が埋葬され、春秋の彼岸に供養会が行われている、とあった。埋葬跡に2間1尺5寸四方で高さ7尺の土壇が築かれたが、墓標を建てることさえ認められず、許されたのは4年後だったという。
幕末の会津藩主松平容保が京都守護職となり、京都の治安維持を担う麾下の新撰組が、討幕攘夷の長州藩士への殺戮を重ねて、彼らの憎悪を買ったのだろうが、江戸市中取締役の庄内藩が江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたため戊辰戦争で庄内藩攻撃を薩摩藩が買って出たのだとしたら、長州藩が会津藩攻撃を担ったのは、京で迫害された会津藩への遺恨ゆえの報復戦だったかもしれない。
人はそこまで憎しみ合えるものだろうか。会津戦争が大義なき遺恨の戦いだったとしたら、会津人と長州人の和解は、永遠に有り得ないだろう。
境内の奥に建つ三階楼は、落城した鶴ヶ城の本丸から明治3年に移築されたもので、戊辰戦争の戦火で消失した本堂の代わりに埋葬者を弔うため使われたという。埋葬された会津藩士も少しは浮かばれたに違いない。

次はいよいよ殉教地「キリシタン塚」である。JR只見線の踏切を渡り、七日町通りを更に西へ1キロほど自転車を走らせると、町外れの旧湯川(黒川)に架かる柳橋の袂の案内板に「刑場にひかれる罪人が家族と水盃で別れをしたところから通称涙橋と呼ばれた」とあった。
戊辰戦争で娘子軍隊長中野竹子が城下に迫る新政府軍と柳橋付近で遭遇、辞世の「もののふの猛き心にくらぶれば数には入らぬ我が身ながらも」と詠んだ短冊を薙刀に結びつけ奮戦し敵弾に倒れた碑が近くにあるという。
数には入らね我が身ながらも、と詠う健気な竹子は、後の太平洋戦争で、一億総玉砕をスローガンに本土決戦に備えて婦女子に竹槍訓練をさせた軍部の精神至上主義に利用されたのだとしたら竹子は何を思うだろうか。
柳橋から旧湯川沿いに北へ200mほど、薬師川原橋の手前に、こんもりした叢が見えて十字架とキリシタン塚の文字が刻まれた黒っぽい石碑が立っていた。(下の写真)



案内板に「バテレンたちが捕えられ、この辺の薬師河原で処刑されたという、言い伝え通り犠牲者の埋骨と思われる人骨が見つかり、昭和37年に供養するため、このキリシタン塚が建てられた」とあった。
「新編会津風土記」巻之24に「切支丹塚」について「薬師堂河原の東にあり相伝ふ、寛永12年(1635年)耶蘇の徒横澤丹波と云者及び其族を捕へ此地に出し高く倒に懸るに皆2日を経すして死す、此時丹波か宅の壁中に隠れ居し伴天連をも索出し同く倒に懸るに17日を経て死しぬ、同頃穢多町の側に小屋を設て壁を作さす、多く癩人の耶蘇となれる者を置き風霜に曝して殺す、其後彼死人を同穴に埋て此塚を築けりと云」とあった。

叢の雑草が綺麗に刈られ、キリシタン塚の石碑の前にコンクリート板の祭壇が組まれて、足元に綺麗な花が供えられていたが、塚の前に立つと、処刑されたキリシタンの悲痛な呻きが聞こえてきそうである。若松城下の西の外れの旧湯川に沿った河原一帯が、罪人の公開処刑場に適していたのだろう。遥かに遠望する雄大な磐梯山は、400年前にこの河原で繰り広げられた凄惨な光景をどんな思いで見守っていたことだろう。
彼等は本当に救われたのだろうか。氏郷が会津にキリスト教を持ち込まなければ、氏郷が会津に移封されて来なければ、教化もされず殺されることもなかったろうに。 キリシタン塚に向かって十字を切り、祈りを捧げた。

キリシタン塚から会津若松駅に向けてペダルを踏みながら、ここまで来て「飯盛山の白虎隊」にお参りしないわけにはいかない。帰りの電車まで1時間ばかりある。
駅の東側に抜けて飯盛山まで2キロの直線道路を飛ばしに飛ばし、境内までの180余段の石段を一気に駆け上がり、久方ぶりの白虎隊19士の墓前に着いた。樹木に囲まれた薄暗い境内に線香の煙が広がり、19柱の苔生した墓石に自決した若き隊士の名前が刻まれていた。苦悩の果てに刺し違えた彼等の安寧を祈り合掌した。
帰りの磐越西線の車窓に磐梯山の山容が迫り来て、樹間に猪苗代湖を覗き見ながら、時流に逆らった2人の会津藩主に翻弄された無辜な民に思いを馳せていた。
蒲生氏郷は封建時代の流れに逆らい自由と平安を希求した故に時の権力者に抹殺され、氏郷を信じた多くのキリシタンが虐殺された。松平容保は没落する江戸幕府への親藩大名としての義を貫き、会津の老若男女の多くが戦火に巻き込まれ、そして自刃した。それでも会津の民は激動の時代に流されながら逞しく生き抜いている。

③会津のキリシタンと殉教

蒲生氏郷は熱心なキリシタン大名で、利休七哲の筆頭といわれ、天正13年(1585年)に茶人仲間の高山右近の勧めでイエズス会日本管区長オルガンティノ神父から洗礼を受ける。洗礼名はレオ、氏郷25才だった。
高山右近は、12才で洗礼を受け、1573年に高槻城主となり、信長横死後の秀吉の山崎合戦に先鋒として活躍、秀吉の信頼を得る。秀吉の大坂城築城に併せて大坂に壮麗な教会(南蛮寺)を完成させ、諸侯や貴人を招き宣教に努めて、氏郷や黒田孝高らを信仰に導いた。
氏郷は、小牧の役で秀吉に従い功あり、伊勢松阪12万石の領主となり、2年後の天正18年(1590年)に秀吉の奥州仕置で会津42万石に移封されてきた。
翌1591年に上洛した氏郷は、イエズス会上長ヴァリアーノ神父に会って「時勢が許すならば自領で改宗させ多くの神父をそこに呼びたい」と語り、亡くなる1695年の1月前にオルガンティノ神父に「病気が治れば1人の神父と一人の修道士を遣わし全領土をキリシタンにする」とまで言っていたという。
京から遠く会津の地にキリスト教を中心に据えた新世界実現のため、教会や修道士育成教育機関のセミナリヨを建てたが、存命中の宣教師招聘はついに叶わなかった。

蒲生家の重臣たちの多くも氏郷の勧めで洗礼を受けていた。後に大坂落城の際にポルロ神父やパウロ明石内記を匿ったペトロ佃又右衛門、秀行にも仕えて後に猪苗代城代一万石となる岡越後左内、氏郷の従弟で南山城代六千石となり後に大坂の陣で明石掃部に与して戦死するパウロ小倉作左衛門、柴田勝家旧家臣で白石城代四万石となるジョアン蒲生郷成、いずれも1594年の氏郷再上洛に供奉してフロイス神父らから洗礼を受けていた。
1595年に氏郷が40才で急死して後嗣の秀行が13才で家督を継ぐが、1598年に御家騒動があり宇都宮に減封されてしまう。蒲生に代わって会津に入った上杉景勝が、関ヶ原の敗戦で米沢に移封されると、宇都宮の秀行が会津に再封され、景勝に仕官替えしていたキリシタン岡越後左内ら家臣が蒲生家に再仕官してきた。
会津に初めて宣教師が入るのは、1611年に仙台へ向かうスペイン答礼使ビスカイノに随伴して立ち寄ったソテロ神父で、それまでの会津のキリスト教は、氏郷の家臣たちによって広められていた。同じ年に起きた慶長大地震について質問する秀行に、ソテロが天地創造とキリスト教の教義を説明すると、秀行は「機会がきたらキリシタンンになってよい」と語ったといわれる。
 
1612年に秀行が30才で急死して10才の忠郷が家督を相続する。忠郷の母は家康の三女振姫、幕府の禁教も家康の孫に当たる忠郷には遠慮があったのだろう。会津若松や猪苗代から南会津・郡山・三春・白岩・糖沢・二本松・福島へキリスト教が広まり、会津若松の人口3割がキリシタンだったといわれる。
蒲生治政下のキリシタンの中心人物が、1609年から1622年まで猪苗代城代だった岡越後左内である。
会津藩に初めて常駐した宣教師のアンデリス神父が、家康の禁教令が全国に布告された1614年の翌年に奥羽副地区長として猪苗代城下に修道院を設立して、仙台領に移ると代わってアダミ神父が1617年に猪苗代に常駐した。1620年からはジュアン山修道士も常駐して会津城下から仙道地方と米沢地方を巡回、宣教師の常駐する仙台と会津が奥州キリシタンの中心であった。
1620年は、遣欧使節の支倉常長が帰国した年で、政宗は常長の帰国直後に仙台領内に禁教令を布告しキリシタン迫害を始めた。同年にポーロ神父がローマ教皇パウロ五世の奥州の信徒あて激励の教書を会津にも届け、翌年に奥州の主だった17名の信徒がローマ教皇に宛てた奉答文に会津のキリシタン4人の署名が含まれている。
 
1627年に忠郷が26才で病死、忠郷に嫡子なく代わって伊予松山から加藤嘉明が会津に移封されると、嘉明のキリシタン捕縛回状にアダミ神父が長崎に逃れ、ジョアン山修道士が1629年に捕縛され江戸に送られた。
1631年に嘉明が逝去、嫡男明成が相続、嘉明に遠慮のあった幕府の威圧が強まり、明成は幕府への忠誠を示すため賞金を懸けたキリシタン捜索と捕縛を始めた。
1632年に会津藩15人、白河藩13人、二本松藩14人、若松藩42人が処刑された。若松藩の42人は、涙橋近くの黒川河原刑場で大人26人が火炙り、子供16人が斬首、1636年に薬師堂河原で横澤丹波ら5人が磔刑に、翌月パロマレス神父が火炙りとなった。
1643年に明成が家臣同士の喧嘩処罰を不服に出奔した筆頭家老堀主水の身柄引き換えに所領を返上、将軍家光の異母弟保科正之が会津藩に移封されてきた。
正之の会津入府時に会津藩牢にキリシタンが400~500人いたといわれるが、会津藩「家世実紀」に「吉利支宗門之者、寛永二十年会津入部之節ハ、御領中ニ壱人モ無之」とあり、キリシタン根絶に狂気的な家光の実弟正之には、自領のキリシタンを処罰するより、検挙して改宗させていける自信があったればこそ、吉利支丹は1人もいないと公言できたのだろう。
「家世実紀」の万治元年(1658年)に「改宗した切支丹124人、吟味の上、牢獄を赦免する」とあり、正之はキリシタンに迫害ではなく懐柔策で対応していた。 正之の墓がある土津神社は、氏郷のキリシタン家臣で猪苗代城代岡左内が建てた猪苗代修道院跡のすぐ西隣であり、正之の元キリシタン説も有り得た話かもしれない。

④補足:会津の歴代領主

福島県は、南北に走る阿武隈山系と奥羽山脈によって浜通り・中通り・会津地方の三つに分けられ、浜通りは開放的で、中通りは進歩的、会津地方は四方を山に囲まれて保守的で郷土愛の強い土地柄と言われる。地政学的に辺境の会津だが、歴代領主には名だたる戦国武将が名を連ねており、江戸幕府は会津に親藩を配置して、北の抑えとした要衝の地であった。

【蘆名義広】
会津の守護として長く君臨した「蘆名氏」は、桓武平氏良文流で、頼朝の平家追討の主力を担った三浦義澄(鎌倉殿13人の1人)の弟義連が奥州合戦の恩賞で会津を与えられ、三代光盛が蘆名氏を名乗る。
七代直盛が黒川城を築城、十六代盛氏の時に会津から仙道(中通り)まで勢力を拡げ最盛期を迎えるが、家督盛興の急死で後嗣を巡る内紛があり蘆名氏は衰退する。
清和源氏の源頼義の三男義光の孫昌義を祖とする常陸佐竹氏の十八代義重の次男義広が、会津蘆名氏に養子入りして二十代蘆名氏当主となるが、米沢の伊達政宗に敗れて常陸の実家に逃走、会津蘆名氏は滅亡、政宗が本拠を米沢城から会津黒川城に移した。

【伊達政宗】
伊達氏は、藤原北家山蔭流の朝宗が頼朝の奥州合戦の功で伊達郡を受領、伊達氏を名乗る。十四代稙宗が陸奥守護となり婚姻戦略で奥羽諸侯を統制下に治めていく。
十五代晴宗が伊達から米沢に本拠を移し、十七代政宗は23才で会津の蘆名義広を摺上原の戦いで破り、米沢から会津黒川城に本拠を移して、150万石近い大領国を有する奥羽の覇者となる。更に小田原北条氏に組みして関東への進出を目論むが、既に全国統一を目前にした秀吉の小田原北条攻めに遅参したため、奥州仕置で旧蘆名領を召上げられ、会津黒川城から米沢城に戻される。

【蒲生氏郷】
近江国日野6万石の小領主の子に生まれ織田家に人質になるが、才を見抜かれて信長の小姓として仕え、やがて信長が烏帽子親となり信長の娘を妻に迎えて信長に「小さな婿殿」と可愛がられたといわれる。信長に従って数々の戦さに武功を挙げ、その俊敏剛胆な器量は、信長に「我が後継者」と思わせていたが、本能寺の変で信長が殺されると、秀吉に服属した。
秀吉の奥州仕置で、政宗が米沢に戻された後の会津に伊勢松阪から移封され、黒川城を天下に誇る七層の天守閣を持つ壮大な若松城に大修築、上方から商人を呼び寄せて楽市楽座を取り入れた城下町作りに注力するが、5年足らずで急死、嫡子の若き秀行が後嗣となる。

【上杉景勝】
上杉氏は、藤原北家勧修寺流の重房が丹波国上杉莊を領して上杉を名乗る。重房の孫清子が足利尊氏の生母、足利氏姻戚として関東管領を世襲する。景勝は越後守護代長尾氏から関東管領となった上杉謙信の姉の子で、実子のない謙信死後の家督相続の争いで上杉氏当主となる。
景勝は秀吉の信頼厚く豊臣政権五大老に列して、御家騒動で宇都宮に減封された蒲生秀行の後を継いで越後から会津120万石に入るが、秀吉死後に家康の横暴に対抗する石田三成に組みし、関ケ原の敗戦で会津から米沢30万石に減封される。景勝の去った会津に、宇都宮に減封されていた蒲生秀行が再封されるが、その子忠郷に子なく、伊予松山の加藤嘉明が会津藩主となる。

【加藤嘉明】
父は家康の家臣だったが、三河一揆に加担して放浪の身となる。秀吉に取立てられ小姓となり、信長死後の賤ケ岳の戦いで七本槍の一人として名を馳せ、秀吉の全国統一の戦いに数々武功を挙げ、更に朝鮮の役で朝鮮水軍を壊滅させて大名に取立てられる。関が原の戦いで徳川方に与して石田三成本隊を撃破しその武功で伊予松山そして会津40万石に移封された。 嘉明の死後、後を継いだ明成が、後に御家騒動で所領を返上して改易され、保科正之が会津藩主となる。

【保科正之】
徳川二代将軍秀忠の四男に生まれたが、母が秀忠の乳母の侍女だったため、秀忠の継室江の嫉妬を恐れて秘かに出生、後に高遠藩主保科正光の養子となる。父秀忠に認知されることはなかったが、秀忠の死後、将軍家光は異母弟の正之を可愛がり、山形藩20万石を経て会津藩23万石大名に引き立て、幕政にも抜擢して登用した。
正之は、将軍の実弟でありながら臣下である己の身分をわきまえ、ひとえに将軍家に忠誠を尽くす役目を家訓に定めて、徳川宗家の松平姓を名乗ることを辞退していたが、会津藩三代藩主がようやく松平姓を使用した。兄家光の死後その遺命により四代将軍家綱の補佐役として幕閣に重きをなし、戦国の武断政治から徳川政権の安定期に移行する幾多の幕政改革を推し進め、末期養子の禁止を緩和、先君後追い殉死の禁止、大名証人制度の廃止は、後に家綱政権の三大美事といわれた。
江戸の人口増加の水不足対策として防衛上の反対を押し切って玉川上水を開削、明暦の大火では江戸庶民の救済に16万両の御金蔵を拠出、焼け落ちた江戸城天守閣の再建を取り止め、庶民生活を優先する善政を敷いた。 
藩政においても殖産振興に努め、飢饉の窮民救済の社倉制を創設、藩士の殉死と間引きを禁じ、朱子学を藩学として好学尚武の藩風を作り上げ、藩校日新館の前身ともいえる日本最古の教育施設「稽古堂」を創立、身分を問わず終生一人扶持を支給する日本最初の年金制度を定め、至誠無私の精神と仁の心で治世に臨んだ。

【松平容保】
美濃国高須藩主松平義建の子で高須四兄弟の1人、兄弟に尾張藩主徳川慶勝、一橋徳川家当主一橋茂栄、桑名藩主松平定敬がいる。父の弟で会津藩八代容敬に男子なく養嗣子となり会津藩最後の藩主となる。幕末の京都は、諸藩の尊皇攘夷派浪士たちが佐幕派や開国論者を次々に襲い殺戮する無政府状態にあった。
容保は、意に反しながら京都守護職を引き受け、新撰組を麾下に攘夷派の取締りと京都の治安維持を図り公武合体を建白、時の孝明天皇の厚い信任を得て、禁門の変で長州勢力を京から排除するが、第二次長州征討戦に幕府軍が敗北すると、大政奉還、王政復古と時流が流れるなか、孝明天皇が崩御、薩摩長州の倒幕派は、明治天皇を奉じて幕府軍を朝敵・賊軍と見做した戊辰戦争が勃発、鳥羽伏見で旧幕府軍を破り東上、容保は会津に謹慎して降伏歎願するが退けられ会津戦争に追い込まれていく。 
会津松平家は、初代藩主保科正之が定めた会津家訓の「大君ノ義、一心ニ大切ニ、忠勤ヲ存ズベシ」という徳川宗家への絶対忠誠を頑なに守り続け、他藩が没落していく幕府を見限る中、時流に逆らいながら、圧倒的な薩長新政府軍に対して劣勢な抵抗を試みたが、各戦線が次々に突破され、堅固な鶴ケ城に籠城するも凄惨な会津戦争の末に降伏、若き白虎隊や娘子隊の悲劇を生んだ。



【山形県:米沢市の殉教地を訪ねて】

①米沢のキリスト教と上杉景勝・定勝

前掲の小冊子「米沢の殉教者」に、ローマ教皇が列福した米沢の殉教者五三名のほとんどが藩主上杉定勝に直接仕えた家臣とその家族で、家老志駄修理が主君定勝に、全ての信者を殺すなら3000人以上の家来を殺さなければならないと言ったとあり、米沢のキリスト教社会は武家社会に限られた異次元の世界だったようである。
米沢は山形県南東部に位置し、鎌倉時代は長井氏の領地、室町初期に伊達氏の領地となり、政宗の祖父晴宗が福島桑折から米沢に本拠地を移し、政宗の生誕地である。
葛西大崎一揆後の奥州再仕置で、政宗が米沢から宮城県岩出山に移り、米沢は、伊勢松坂から会津に移封されていたキリシタン大名蒲生氏郷の支配地となり、米沢城代に家老の蒲生郷安が、白石城代に蒲生郷成が入った。
蒲生郷成は、氏郷の上洛に供奉して、翌文禄4年(1595年)に京でイエズス会ルイス・フロイス神父から洗礼を受けており、帰国した郷成は、主君氏郷に倣って自領の白石城下でキリスト教を広めていたに違いない。氏郷の死後、越後の上杉景勝が会津に入封すると、米沢と白石の城代は、郷安と郷成に代わって景勝の重臣直江兼続と甘糟景継が入り、この景継が後に米沢殉教者の指導者となるルイス甘糟右衛門信綱の父である。信綱のキリスト教は、会津の蒲生氏郷時代にキリシタン蒲生郷成の治政下にあった白石城下で育まれたのかもしれない。
1600年の関ヶ原の戦いで西軍に組みした上杉景勝と東軍に組みした政宗の慶長出羽合戦で、城代甘糟景継が会津に出向いていた留守を政宗軍に白石城が攻められて落城、甘糟親子は会津120万石から米沢30万石に減封された景勝に従って米沢に移るが、1611年5月に景継が故あって切腹となり、甘糟氏6600石は断絶、1624年の景勝一周忌に旧過赦免で再興された。
信綱は、景勝に供奉して江戸でルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたとされるが、ソテロが答礼使ビスカイノの通訳として1611年10月22日に江戸を発ち、11月10日に仙台城で政宗に謁見した折、途中の宇都宮で奥平家昌に、会津若松で蒲生秀行に会い、米沢で景勝に面会を申し出て、景勝が病気のため二日間米沢に滞在したというから、父の切腹に苦悩する信綱は、再会したソテロ神父を接遇しながら信仰を更に深めたに違いない。

1629年1月の米沢殉教について、前掲の「米沢の殉教者」を参照しながら以下に纏めてみたい。
米沢藩主上杉景勝は、キリシタンに寛容で、領内に1万人の信者がいたが、幕府の取り調べにいつも「当領に一人のキリシタンも御座無く候」と答えていたという。
景勝には、豊臣政権の五大老の一人だった誇りと、家康の横暴に石田三成と共謀して決起した謹厳実直さ、義の戦国武将上杉謙信の後継者たる自負、幕府の威圧に安易に屈服しないという強い気概があったに違いない。
元和九年にその景勝が死去すると、米沢藩内の勢力バランスが崩れていく。景勝と共にキリシタンの良き理解者だった総家老志駄修理に対立する家老広居出雲が、後嗣の若き当主定勝にキリシタン弾圧を働きかけていく。幕府のキリシタン弾圧が激化、島原雲仙地獄での残虐な拷問で26人が殉教した1627年の翌年、江戸に居る定勝から信者調査の指示が米沢に届くと、志駄修理は米沢に信者は残っていないと報告するが、広居出雲は信者たちの行動を詳細に江戸の定勝に訴え出たのである。
藩内の信教の実態を広居出雲に突き付けられた定勝は、信者である家来たちに棄教を働きかけたが、彼らは信仰のために生命を捧げる覚悟が出来ていると益々自由に振る舞い、志駄と広居が彼らの運命を議論している間、祈り合い励まし合い互いに訪問し合い、信仰を強めてその喜びに浸っていったという。
1629年1月11日、定勝はついに苦渋の決断を下した。会津若松に居るポルロ神父が米沢殉教前夜を「誰も牢屋に入れられなかった。死刑検者たちが殉教者たちの家に行き、彼らを殉教地に率いた」と伝えている。当時の米沢ではキリシタンに対する偏見がなかったといわれ、迫害は決して定勝の望むところではなく、将軍家光と老中たちが決定したことで、彼らの命を守ることができるのは背教だけだったが、彼らは信仰のためだけのために死刑に定められたのだった。

②ルイス甘糟右衛門の殉教

米沢教会の指導者であるルイス甘糟右衛門は、志駄修理の2人の家来が宣告を伝えると、喜びをもって彼らを迎え、2人の前で新たにその信仰を宣言、自分の助命に努力された家老に感謝の念を伝えることを頼んだ。知らせを聞いて息子たちがやってくると「お父さん、よかった、我らの望みが全うされた」と喜びを分かち合い、共に殉教するため妻と子を迎えに戻ったという。
翌12日早朝、準備していた白装束に着替え、小姓が聖母マリアの旗を先頭に、家来たち、子供を抱く婦人たち、寄寓していた浪人たちと2人の息子、最後にルイス甘糟右衛門が続いて雪道を殉教地の北山原に向かった。
処刑場を取り仕切る奉行は見物人に向かって「ここで死ぬのは信仰のために生命を捨てる身分の高い人であるからみんな土下座するように」頼んだという。この日、北山原刑場で43名、糠山と花沢で10名が斬首された。殉教者たちの首は纏められて新しい着物で覆い、米沢に入る道端に晒首にされたという。
フランス人外交官レオン・パジェスが明治初期に刊行した「日本切支丹宗門史」の第14章(1629年)に米沢の殉教についての記述を抜粋してみる。

「米沢では、右衛門(甘糟)とその家族が、殉教を待望していた。一人のキリシタンは、奉行出雲(広居)の下した死刑の宣告を聞くや、之を知らせるため太右衛門の許に駆けつけた。太右衛門は病気で床についていた。然るに、この吉報故に、彼は心が生々し、もう直ったと叫んだ。彼は直ちに飛起きて、之を父親に知らせに行った。右衛門は、自らと惣領の息子とその妻のと、即ち三人前の棺の外に、新しい二つの棺を準備させた」
「右衛門は、誰をも零落させず死を招かぬ為に、その召使達を解雇することを望んでいたが、皆、依然その領主に忠勤を拔んじ、天主を栄あらしめることを望んで、給興を得て去ることを拒んでいたので、彼の召使の切願により、右衛門は彼等をキリシタンと申立てるべきだと信じ、侍達に言った。『私の召使っている者は皆キリシタンで、彼女等はその主人と共にこの幸福な天国に行きたいと望んでいることを御承知下され、私は幾度か彼等の私から離れて行くことを許したが、誰一人承知してくれなかった』と。この言葉は、幸に身分は召使ではあるが心は自分自身の心の主であり、天国の自由の身分を憧れていた之等の良きキリシタンによって受入れられた」
「日本切支丹宗門史」と「米沢の殉教者」は、いずれも当時日本に潜伏していた宣教師からヨーロッパにもたらされた書状や報告書など一次史料をもとに記述されたもので、そこには、幕府による禁教下の日本でいかに自分たちの伝道が困難に打ち勝って成功しているかを誇大に認められているのは当然だとしても、米沢の殉教が、夢物語のように美しすぎるのはなぜなのだろうか。

米沢に長く宣教師が常駐していなかったことが幸いしたのだろうか、地政学的に世情から隔世した米沢武士社会の一部のインテリ層の間で広まった、土着の伝統文化とは異質な外来宗教への憧憬が、信望ある指導者によって米沢独自のキリスト教として純粋培養され、村社会的な運命共同体に組成されていったのではないだろうか。
1617年にイエズス会のアダミ神父が猪苗代修道院に定住、1620年にフランシスコ会のガルベス神父が最上に定住、南と北から米沢城下に巡回するようになり、1626年には、ディエゴ神父が四人の宣教師を引率して最上に入り各地で聖帯紐の組講を組織、その内のテレロ神父が米沢城下で200人の信者を担当したという。
布教のため身命を惜しまず迫害に堪えながら敬虔な祈りを捧げて、清貧、貞潔、従順な共同生活で戒律を重んじる姿が、義と愛を重んじる無骨な米沢武士の間で広まった独自の信仰文化にマッチしていたのかもしれない。

③北原白秋の詩集「邪宗門」

米沢の殉教の様子を知って思い浮かぶのが、北原白秋の詩集「邪宗門」である。邪宗門とは日本古来の正統な宗教に反する邪悪な宗教のこと、江戸時代にキリスト教が邪宗門として弾圧されてきたが、私が所属する団体のコーラス部を指導するソプラノ歌手吉川真澄先生が2014年8月のリサイタルで白秋の「邪宗門」を歌われた。

 №1 邪宗門扉銘
 ここ過ぎて曲節の悩みのむれに、ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
 №2 邪宗門秘曲
 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、色赤きびいどろを、匂鋭きあんじゃべいいる、南蛮の棧留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。(中略)いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、百年を刹那に縮め、血の磔背にし死すとも、惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。

現代音楽の作曲家平野一郎氏が、白秋の詩集「邪宗門」を女声と映像と15楽器によるモノオペラに作曲したもので、チラシに「白秋の邪宗門は、南蛮趣味と西方憧憬に彩られた処女詩集で、そこには童謡風・小唄風から浪漫派風・象徴派風に及ぶ多彩極まる詩が共存し舶来の文物への憧れが謳い上げられる一方で、失われゆく日本の風土への郷愁と哀惜が滲み出してもいます」とあった。
平野一郎氏は、京都府宮津市の出身で、公演チラシに「現実と幻想、現代と太古を融け合わせ、忘れられた伝説や異界の音風景を今に蘇らせつつ、多彩な音楽世界を拓いている」と紹介されていた。
宮津といえば宮津城主が細川忠興、妻が細川ガラシャである。父明智光秀が秀吉に敗れた際、反逆者の娘として京丹後の山奥に幽閉され、そこでキリスト教に触れたといわれる。邪教視された世界を故郷にする平野一郎氏の感性が、ガラシャに掻き立てられたのであろうか。

北原白秋は「からたちの花」や「この道」「ペチカ」など童謡の詩人として有名だが、独特な文体で綴られた「邪宗門」のような魅惑的で耽美的な象徴詩を、しかも24才の若さで書いていたとは知らなかった。白秋は、有明海に面する柳川沖端の海産物問屋に生まれ、交易する異国文化や掘割の日本的風土に多感な少年時代を過ごした。父親に無断で中学を中退して上京、早稲田大学に入学して新進詩人として活躍、白秋22才の時に、与謝野鉄幹・木下杢太郎・平野万里・吉井勇と5人で九州を旅して、その旅行記「五足の靴」を東京の新聞に投稿したが、その時の長崎・島原・天草のキリシタン遺跡を探訪して得た着想を発展させ、明治四二年に処女詩集「邪宗門」を上梓したという。
米沢の殉教には、私が殉教に抱いてきた悲惨な暗さが微塵もなく、白秋の「邪宗門」に描かれた南蛮への憧憬と官能的な陶酔さえ感じられる。彼らは白秋の世界の中で心安らかに自ら死を迎えていけたのかもしれない。
会津若松で残虐な殉教を目の当たりにしてきたが、米沢の殉教地を訪ねて、果たしてどんな世界が見えてくるのか、楽しみであり、不安でもある。彼等は本当に救われたのだろうか、私なりの解を求めていきたい。

④米沢の殉教地を訪ねて(2015年9月26日)

朝7時に埼玉の自宅を出立、雨上がりの道端に咲く彼岸花もまだ色鮮やかである。
これから始まる東北の殉教地を巡る旅は、初日に山形の米沢と宮城の仙台、2日目は一ノ関市のマラソンを走った後、岩手の水沢を、そして3日目に岩手と宮城の県境にある大籠地区を予定している。福島の会津は、2010年10月に訪ねており、今回は日程上割愛した。
大宮駅から乗車する東北新幹線内で、いつも楽しみにしている新幹線車内誌「トランヴェール9月号」を広げてみると、穂高出身の荻原碌山の彫刻「文覚」と「女」について「碌山が造形した人物たちは、絶望の底にあってなお希望を見据えて闘い続けているように見える」と山田五郎氏のエッセイが掲載されていた。
今まさに向かっている米沢の殉教地が、碌山が造形する世界に通じているように思えてきた。今日はどんな造形に出会えるだろう。そして明日の岩手県水沢で逢える彫刻家舟越保武の十字架像も大いに楽しみである。
車窓に黄金色の田圃が広がり、湧き上がる白雲から覗く青い山並みは、まさに東山魁夷の世界である。福島で切り離された山形新幹線が朝霧に包まれた奥羽山系に分け入り、板谷峠を越え30分程で米沢に着いたが、米沢盆地は想像以上に外界と途絶した別世界である。

米沢駅前のレンタサイクルで、小雨パラつく中を、まずは米沢城跡に向かった。モダンな米沢駅舎から駅前の市街地を西に走り、美しい松川(最上川)を渡ると、戦災に遭うことがなかった旧米沢城下町に入った。駅から西に2キロ、米沢城は、石垣のない土塁と水堀に囲まれた平城で、外堀が埋められて30万石大名の格式にしては威容が今ひとつである。松ケ岬城と呼ばれ、本丸を二の丸と三の丸が囲む輪郭式平城で、二の丸に重臣、三の丸の東側に侍組、南側に馬廻組、西側に五十騎組、北側に与板組の武家屋敷が配された城郭である。
丁度松岬神社の秋祭り初日で、城内外は大変な賑わいになっていた。城内に入ると、上杉家の龍と毘の旗が翻り、米沢ゆかりの伊達政宗・直江兼続・上杉景勝、上杉謙信そして上杉鷹山の堂々たる銅像が並んでいた。
関ヶ原の戦いで西軍に組みして敗れた上杉景勝は、会津120万石から米沢30万石に大幅減封されたが、家臣を減らすことなく米沢に移り、藩の財政が困窮するなか、質素倹約で我慢強く君臣主従と近隣親族の連帯と扶助心の厚い、武士の誇り高く保守的な米沢人の気風が育まれ、そのことが奥羽山地の米沢盆地に村社会的なキリスト教社会が醸成されていった由縁かもしれない。
米沢上杉藩は、明治新政府に会津藩と庄内藩の謝罪歎願を周旋するため、仙台藩と共に奥羽25藩による奥羽列藩同盟の結成を主導したが、歎願書が却下されたため軍事同盟と化し、奥州各地で薩長主体の新政府軍と招かざる戦争に突入していった。まさに上杉謙信公の義と愛に殉じた米沢藩といえる。
城内奥の上杉神社の境内から、上杉鉄砲隊の轟音が鳴り響いてきた。揃いの赤陣羽織で白煙を上げた迫力溢れる勇壮な発砲演武にしばし見入ってしまった。
 
ようやく小雨も上がり陽が差してきた。米沢の殉教地巡りの最初は「パウロ西堀式部屋敷跡」である。
米沢キリシタンの指導者ルイス甘糟右衛門の模範に動かされて信者となり、殉教した時、31歳、ポルロ神父は、彼を身分の高い侍で殉教の前日にも4人の大人に洗礼を授けたと書いていた。処刑前夜に西堀の首を切る侍が酒を持って許しを乞い、殉教の覚悟でいるので役目を立派に果たすようにと、別れの杯を交わしたという。
パウロ西堀は、刑場に着くと、挟箱を持つ小姓を呼び、箱から金子を取り出して役人に、近くに住むハンセン病患者へ与えるように頼んだ。死の瞬間まで慈愛の人であり、米沢のキリシタンの敬愛される所以なのだろう。
西堀は、定勝公年譜に御馬廻隊に召入らるとあり、屋敷は城の南側に位置する御馬廻組など中級家臣団の侍町にあったのだろう。旧町名:馬場の町の案内板が立つ周辺を、板塀を廻す屋敷などに面影を感じながら、地元の通行人に尋ねてみたがついに見つけ出せなかった。
 
西堀屋敷跡の探索を断念、次の「ルイス甘糟右衛門屋敷跡」に向かった。米沢城の西に350mほど、掘立川に架かる無足橋を渡ると、右袂に小さな赤い屋根の古ぼけた社が見えて、社の扁額に立身不動明王とあった。社の側面に取り付けられた板に「ここは甘糟右衛門のやしき跡であり、又彼がひそかに信仰の対象としていた十字架彫りの石があったところである」と墨書があった。
米沢には常駐の宣教師がおらず、会津若松や最上から米沢に巡回してくる宣教師を迎えて、甘糟右衛門が宿主の世話をしながら、米沢のキリシタンの精神的支柱となって纏め役を担っている姿が浮かんでくる。
無足橋の架かる堀立川は、米沢城の外堀として直江兼継が、城の東側を流れる松川を分流して、城の西側を廻して下流で合流させる人工的に掘削された川である。
掘立川の外側にある甘糟右衛門の屋敷は、本丸を囲う二の丸と三の丸の武家屋敷の外側になり、父の切腹により甘糟家が長く断絶されていたからであろうか。武家屋敷から掘立川を越えた立地こそ、禁制のキリシタンの侍たちが、城郭外にある甘糟屋敷に心置きなく集れて信仰に専念できた理由かもしれない。
 
1629年1月12日、処刑の日にルイス甘糟右衛門はパウロ西堀宅に立ち寄り、一足先に殉教地に向かいそこで待っていると伝言したと「米沢の殉教者」にあった。城郭外の西側にある自宅から、掘立川に沿って北東にある北山原刑場に直行するのではなく、無足橋を渡って城郭内に入り、城南のパウロ西堀宅に立ち寄ったということは、そのあと東側の大手門前を通り刑場に北上していたことになる。何故かくも遠回りしたのだろうか。
キリスト教は決して邪宗門ではない、キリシタンであることを誇りに、聖母マリアの旗を先頭に掲げて、死を恐れず処刑場に向けて堂々と行進する姿を定勝に示唆したかったのではないだろうか。父景勝が庇ってきたキリシタンを守り切れなかった己の弱さに苦悶する主君定勝に、別れを告げようとしていたのかもしれない。
次はいよいよ集団処刑が行われた「北山原殉教地」である。ルイス甘糟右衛門の屋敷跡から北東へ3キロ、落ち着いた古色の屋敷町を、20分程自転車を走らせた。
処刑の日は、雪降る日だった。凍てつく雪道を素足で3キロ余り先の北山原処刑場へ向かった彼らは、数時間も掛けて歩いたに違いない。今でこそ住宅街のど真ん中だが、当時は米沢城下町の北側に配された寺町の外側にあり、北山原の地名から、松川(最上川)の西岸に広がる河岸段丘だったのだろう。
住宅街の中の、静かな木立の公園の丘に、十字架のキリストを聖母マリアと使徒ヨハネが見上げるように立っていた。樹蔭に白く浮かび上がる余りの美しさにしばし見惚れてしまった。(下の写真)



北山原には、受刑者のうち城下町に住む身分ある武士とその家族、郊外に住む徒歩小姓たちが集められ、ここから遠くに住む老人や女子供たちは、自宅近くに集められて、それぞれの場所で処刑が行われた。老人女子供に雪降る道を無理に歩かせない思いやりかもしれない。
ここ米沢では、罪人を引き回すような見せしめではない、残忍な響きのある殉教でもない、心安らかに神に召される儀式を、送る方も送られる方も心得ていた。
公園入口にルイス甘糟屋敷跡の社から発見された十字架彫りの石と、殉教者53人の名前が彫られた碑が並んでいた。皆の首は見せしめに曝されたが、彼らは心安らかに天国に導かれたに違いない。合掌して十字を切った。
傍らに立つ顕彰碑「殉教の米沢キリシタンを讃える」に、彩色の掠れたパネルがはめ込まれて「聖母マリアの旗を掲げ、北山原の刑場へ向かう、キリストの部隊と彼らの天国への門出を見送る城下の人々(絵本『サムライたちの殉教』から)」の説明文があった。(下の写真)



時計は11時半を回っていた。北山原殉教地から南へ2キロほど、次の「カトリック米沢教会」に自転車を走らせた。教会の玄関扉が僅かに開いていたが、誰でも自由に礼拝できる気配りなのだろう。無人の聖堂の正面壁面に十字架のキリスト像が懸架され、両側のステンドグラスが神聖な空間を美しく創出していた。記帳して心ばかりの献金を納め、十字を切り退室した。
 
12時半の奥羽本線に乗車、山形駅で仙山線に乗換え仙台に向け奥羽山脈を横断したが、無人踏切が多いのか、やたら汽笛を鳴らして走る電車の振動が妙に懐かしい。
心安らかな米沢の殉教が、残忍な会津の殉教と何故こうも違うのだろう。藩主の違いなのだろうか。会津で残虐な火炙り刑が始まるのは、米沢殉教の3年後で、米沢の殉教当時は、まだキリシタンの処刑はさほど残酷なものではなかったのだろう。もし米沢の殉教者たちが会津のような苛酷な拷問と火炙りの刑を科せられていたら、果たして心安らかに受刑できただろうか。
白秋の「邪宗門:赤き僧正」の詩が浮かんでくる。
「邪宗の僧ぞ彷徨へる・・・瞳据ゑつつ、黄昏の薬草園の外光に浮きいでながら、赤々と毒のほめきの恐怖して、顫ひ戦く陰影のそこはかとなきおぼろめき」
江戸から遠く離れた奥州の山奥の、禁教の世上から隔離された閉鎖的な村社会のような米沢盆地で、純正培養された無辜で無骨な米沢武士が、南蛮趣味と西洋憧憬が高じて、何の疑うこともなく北原白秋の邪宗門の耽美的で官能の世界に心酔していったのだろう。そして殉教によって天国へ行けることを憧れていた、彼らにとって、処刑場への行進は、天国への旅路だったに違いない。
仙台に着くまでの2時間、静かな山村風景を車窓に様々な思いが去来していた。

⑤果樹王国東根さくらんぼマラソン大会

米沢に殉教者を訪ねた山形県のマラソン大会で思い出に残るのは、2010年6月7日に山形県東根市で開催された「果樹王国東根さくらんぼ大会」である。
東北で開催されるマラソン大会には、ご当地特産の果樹を冠名にする大会が多く、山形のさくらんぼの他に、弘前のアップル、福島の桃、秋田のメロンなどがある。
今回の出で立ちは、赤シャツに黒パンツの浦和レッズスタイルではなく、青緑色の地に黄色の世界地図が描かれたPARACUPマラソンのTシャツに変えた。
前年の大晦日前日のテレビで、カンボジア戦禍の地雷で片足を失った子供が、女子マラソンアスリート谷川真理さんの指導で五キロマラソンを走るまでのドラマが放映されて感動していたこともあり、世界の恵まれない子どもたちを支援するチャリティマラソン大会というコンセプトのPARACUP2010にエントリーした。
テニス仲間との北東北旅行の日程と重なり、やむなくPARACUP2010の出走は諦めたが、参加費が世界の恵まれない子供たちへの義援金になるのなら本望だと思っていたところ、大会事務局から素敵な色合いのTシャツとフィリピンの子供たちが木の実で手作りしたという素朴な首飾りが送られてきた。
今回参加する東根さくらんぼマラソン大会には、ぜひこの青緑色のTシャツと首飾りを身に付けて『世界の子どもたちに贈るラン』を届けたい、と楽しみである。

前泊の山形駅前ホテルを朝早く出ると、6月なのに少し肌寒く感じられ、さすがに北国である。人影少ない街並みを駅に向かいながら、天空の薄曇に微かに青味が帯びてきて、絶好のマラソン日和になりそうである。奥羽本線の二両編成の朝一番電車は、マラソンランナーでほぼ満員、途中駅では東京の通勤ラッシュ並みである。山形新幹線も停まる「さくらんぼ東根駅」に下車すると、駅前に山形交通の専用バスだけでなく、個人のワンボックスカーまでが動員されていた。まさに市民総出の運営に、こちらまで熱くなってきた。
会場へ向かうバスの車窓を流れる田園風景にさくらんぼの赤い実を捜し求めてみた。どうも今年は天候不順で桜の開花が遅れ、さくらんぼの色もまだ青っぽく、ルビー色のさくらんぼロードは、まだ先のようである。
さくらんぼ畑を抜けて、大会会場の自衛隊基地に着くと、バスの降車場から大会受付までの道路に会場案内の地元のおばさんたちが並んで応援小旗を振って迎えてくれた。さくらんぼの木の枝を使った手作り感ある可愛い小旗を1本、大会参加の記念におねだりした。
自衛隊の駐屯地だから出来るのだろうゆったりした敷地と施設をふんだんに使った会場に、全国から集まった1万人以上の選手とその家族で賑わっていた。展示されている軍用車両に子供達が群がり、親たちがカメラを向けていたが、平和な日本を象徴する光景である。受付で大会記念Tシャツとプログラムを受け取り、控室の体育館でPARACUPシャツの青緑色に合わせた蛍光色の黄緑キャップを被りグランドに飛び出した。身体がすこぶる軽く感じられて腰痛の心配もなさそうだ。
九時半の出走に備えてハーフマラソン4000人の目標タイム1時間50分グループに位置取りしていると、同じPARACUPのTシャツの青年を見掛けたが、相手の超アスリート風の雰囲気に圧倒され、同じタイムでゴールできたら挨拶しようと、声掛けは自重した。

スタート10分前に突然スピーカーから大音響で「おはようございます。瀬古です。今日は走りません。代わりに中山が走ります。中山は本気です。もし中山を負かしたら私がサービスします」とハイテンションなジョークを交えた挨拶が流れて大会を盛り上げていた。ゲストの千葉真子さんも甲高い声で「リラックスとリズムを大切に」と持ち前の明るさで大会に花を添えていた。スタートの合図と同時に拍手が沸き起こり、やぐらの上から真子ちゃんの「いってらっしゃあい」に送られてスタートした。
初めの1キロは、自衛隊基地内の直線道路をのろのろのジョッキングである。キロ6分33秒、次の1キロが5分34秒、ようやく大会らしいペースになった。
基地のゲートを出るとまもなく、広い校庭の小学校そして中学校の前に、大勢の生徒たちが鈴なりになって県名のプラカードを持って声援を送っていた。
その中に私に所縁のある宮城県・埼玉県・静岡県・神奈川県のカードを見付け出して、手を振って応援に応えた。心温まる洒落た企画に、すっかり昂揚していた。
やがて5キロを過ぎると、前方にウォーターカーテンが見えてきた。帽子を取って頭から爪先まで霧のようなシャワーを浴びてひたひたと走り抜けた。心身共に爽快な演出には、まさに感謝の脱帽である。
 
済生館病院というタスキを掛けた女子ランナーに追い付いた。私の元勤務先の応接室に懸けられていた東山魁夷の絵画「青い家」の病院の看護婦さんであろうか。
昨夕に訪ねた山形城内に建つ赤い色の済生館は、戦時中に米軍の空襲に備えて防空色の青い色に塗り替えられて、魁夷はその「青い家」を描いていたが、塗り替え前の「赤い家」の済生館も描いていた。建物をあまり描くことのない魁夷が、戦前と戦中に山形を二度も訪れ、同じ建物を描くとは何か特別の想いがあったのだろうか。
「青い家」の額縁を新調する際、絵に加筆してくれた魁夷が、この建物を病院と呼んでいたと画商が言っていたが、旅先で病気になりお世話になったこの病院で、看護婦さんとの秘められた思い出でもあったのだろうか。魁夷の秘められた青春の彷徨に思いを馳せてみた。

快調なペースでキロ5分30秒をキープ。7キロ付近で先頭グループとすれ違ったが、さすが中山選手、日本マラソンのエース、上背ある凛々しい姿勢でダイナミックな颯爽として走りはテレビで見ていたとおりだ。8キロ付近で林の中に鎮座する小さな祠が見え、その参道に停めた車の中からエレキギターが大音響でリズムを打ち、道路端には老人ホームのお年寄りが小旗を振っていた。中世・戦後・現在の異なる世代がタイムスリップして偶然この空間に居合わせたようである。
沿道の応援の中から時折歓声が上がるのは、並走する水戸黄門に仮装したランナーのサービスアクションだった。お年寄りや子供達に向かって印籠を取り出し「控えおろう」とジェスチャーを振りまいており、みんなを楽しませ自分も楽しむ青年の心意気には頭が下がる。緩やかな上り傾斜が続いてキロ6分台に落ちてきたが、折返しの10キロ地点で58分44秒は上々である。
折り返すとさくらんぼ畑の中をなだらかな下り坂が延々と続き、タイムを挽回するチャンスとばかりにピッチは上がってきた。左右に開けたさくらんぼ畑の各所で脚立に上がってさくらんぼを積む光景が見えてきた。枝先はまだ青色か黄色だが、赤みを帯びたさくらんぼを探し出しては胸をときめかせた。
 
正面に5合目まで残雪に覆われた月山が優美な姿を現わしてきた。10年ほど前にあの稜線の頂点で360度の展望にビデオカメラを回したことが思い出される。下り坂を飛ばし過ぎて日差しも強くなり、足に張りを感じ始めた頃を見計らっていたかのように、大勢の女子係員がコース内に入り込んで濡れタオルを配っていた。
手にした瞬間思わず「ひゃっこい!」と喜びの悲鳴を上げ、顔と首と頭を冷やして、タオルを縛って返しながら「有難う!」の声にも元気を取り戻していた。ランナー全員に4000本も用意したのだろうか。事前に濡らして冷やして保管、ベストなタイミングで、手渡しで配ってくれるなんて涙が出るほど心憎い演出ではないか。大変な労力と思いやりに感謝感激である。
お年寄りから子供たちまで、少しも怖じることなく声を張り上げて応援しているのにも驚かされた。誰もが応援に慣れているのだろう。それに応えようとハイタッチするランナーの多いこと。親が子に描かせたと思われる稚拙な文字で「がんばれ」と手書きされた半紙を両手に応援する子供さんを無視するわけにいかない、立ち止まりしゃがみこみ、両手を差し出してタッチした。                              
往路でシャワーを浴びた地点に戻り、復路の筋肉疲労を癒されたが、濡れた路面に小さな虹が浮かび上がって「虹だ!」と誰もが子供のように喜声を上げていた。
ペースダウンして歩きたい誘惑に襲われてきたが、ゴールすればいくらでも休めるのだから今が頑張り所だ。千葉真子ちゃんが言っていた、リラックス!リラックス!リズム!リズム! これまで参加したどの大会にも負けない、熱く温かい沿道の応援に後押しされていた。
沿道の応援の中にいる車椅子の青年と視線があった。若いのにどうしたのか、交通事故だろうか。谷川真理が地雷で片足首を失ったカンボジアの子供を励ますテレビ番組のシーンが浮かんできた。立ち止まり振り返り手を振り、頑張ってね、と大声で呼び掛け、首に下げたフィリピンの子供が作ってくれた首飾りを握りしめた。
 
中学校の所に戻ってくると、生徒達がプラカードを持ってまだ応援していた。すぐ前のランナーがプラカードを生徒から貰って飛び跳ねるように喜びながら走っていった。プラカードに何が書かれていたかは後で知った。
太鼓を叩いて応援するオジサンにタッチすると「元気をやったぞ!」と力強い掛け声を掛けてきた。負けじと「元気を貰ったよ、有難う!」と返してやった。
20キロ地点で1時間57分48秒、残る1キロは紫色のシャツをターゲットにひたすら追走、ついにゴールした。2時間3分41秒。気温も20度を超えて日差しも強い中、近来にない達成感に包まれた。趣向を凝らした心温まる応援で支えてくれた地元の全ての人達に感謝である。これだからマラソンはやめられない。
参加賞に名産のさくらんばパックとおにぎり2個を貰い、参加記念のrun yourself betterとプリントされたTシャツに着替え、初夏の陽射しを一杯に浴びながら芝生に両足を投げ出して昼食をとった。
お土産に持ち帰ろうと思っていたが、真っ赤な可愛いさくらんぼの誘惑に負けて頬張ってみると、蕩けるような甘さは、さすが、さくらんぼ佐藤錦の本場である。憔悴し切った体にはまさに天の恵みである。 
帰りのシャトルバスが走り抜けるさくらんぼ畑は、今日の好天で少し赤味が増したような気がする。月山の白く美しい稜線に別れを告げ、山形駅乗換えの仙山線経由で宮城県南部の実家に向かった。老人施設にいる父への土産に大会会場で佐藤錦を2箱買ったが、私の土産話はいつも以上に長話になりそうである。

東根市で果樹園をやっているママンさんのブログに、市民ぐるみの大会運営や生徒達の応援プラカードに込めた裏話が載っており、感謝の意を込めて転載させてもらう。
「東根では、皆、ボランティアにて、お手伝いです、パパもお手伝いを頼まれているし、地元中学3年の娘も応援!!しかも、代休付きで。市民が一体となり、大会のお手伝いを、しています。今年は、さくらんぼの最盛期がいつもより一週間ほど遅れているので、真っ赤に実る、さくらんぼの木の下を走るのには、無理があるかな。けど天気で、皆さんが、より東根を知って大好きになって帰ってくれたら、嬉しいな!!!」
「中学三年の娘が話していたが、見知らぬ60才以上ランナーの方々の名前を各自1人ずつ分担し、思い思いに画用紙に描いてそれを持っての応援だそうです。その方を必死に、捜しつつの応援で、見つけられた時の感動が、また応援の楽しさの醍醐味かもしれませんね。
うちの娘は、探せて相手の方の名前を大声で呼び、相手の方も気付いてくれて自分の名前が書かれた応援メッセージに感動してくれて「私が書いた名前メッセージ画用紙、プレゼントしたの♪」と喜んで帰って来ましたが、他の友達は、こっちが気付いて名前を呼んでも相手様は疲労困憊で気付かないのが多々あるらしく、大声で呼んでも走り去られると、マジ凹むわ…との事だそうです」

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