ユーカリスティア記念協会のブログ

できるところまで、できることから始めちゃうのだ。
歩みは遅いけど、自由です。

『ホワイトヘッドと実存論』

2013年08月01日 23時42分32秒 | 研究会
このご本は、2005年の第六回国際ホワイトヘッド学会開催を前にして、「実存論とプロセス」という主題で日本を中心とした若きホワイトヘッド研究者たちが寄稿した論文を、村田康常さんが編集なさっている本です。(Whitehead and Existentialism, ed. Murata, Yasuto: Kyoto, 2008.)

編者の村田さんからの頂き物で、少しずつ読んでいるこの本。この前の研究会の議論と合わせて読んでみると、あの時村田さんが言いたかったのはこういうことだったのかと、あの時より深く理解できるところもあったりします。その後考えたことなどを、さわりだけ書きとめておきます。

・宇宙に関して
ホワイトヘッドのいう「宇宙」ですが、宇宙は単なる無機的な物質の存在を指すわけではないようです。むしろ重要なのは関係性であり、それが有機的な「今、ここ」を形成するのだと。

野呂神学に与する私のような立場の者からすると、このような哲学者の表現の仕方は、「意志」や「人格」という言葉を使ったとたんに踏み込んでしまいかねない、神学の領域を避けているかのようにもみえます。そしてこの点は、まさに先の研究会で、20世紀以降の哲学(者)の問題点として村田さんが指摘なさっていたところだと思います。

この点、ホワイトヘディアンの宇宙の捉え方は野呂と対照的だといえます。この違いは、言葉遣いの違いのみならず、やはり両者の世界観が異なっているのではないかと思います。

『キリスト教と開け行く宇宙』の野呂の立場では、この先人類がどれほど遠くの宇宙まで到達できたとしても、宇宙それ自体は物質世界であり続けるのを認めることが前提です。ただ、それによって私たちのキリスト教の信仰は全く影響を受けない、という主張の方に重点が置かれているのではありますが。

・神に関して
「永遠の偏在と時の移行は、どちらも「世界の神聖な要素」という価値によって生じる。この要素は伝統的に神と呼ばれており、『神概念は、ありえないものであるにもかかわらずあるという、この驚くべき事実を私たちが理解する方法である』(『過程と現実』)がゆえに、ホワイトヘッドはこの伝統に従うのである。」(村田さんの論文の一部を拙訳。ホントニツタナクテすみません)

この論説は結論に差し掛かったあたりに出てくるもので、それまでにはホワイトヘッドと実存主義的哲学やポストモダニズムとの対話がちゃんとあることは、まず断っておかなければなりません。

そして上の箇所にきて、ちょっと脱力。え、ここ100年以上、神なんかいらねえ、と神を避けてツッパッてきた哲学の立場とはいったい……。そして次の瞬間、私の素直な反応をひとことでいうと、「みんなで野呂神学を、実存論的神学やろうよ、きっと楽しいことがあるよ。」

このご本の冒頭にも登場するジョン・カブ先生。カブ神学と実存論的神学との対話は、すでに野呂『神と希望』でとくに詳しく展開されています。村田さんが、先の研究会で指摘なさっていた野呂神学への批判は、おそらくカブ神学にもあてはまるのではないでしょうか。

これだけでは何を言いたいのかよく分からない、まるで電報文ですが、備忘録としてお許し下さい。これからの議論の発展が、益々楽しみになってきました!(林昌子)