『いわゆる宗教学者は宗教というものの最後は「聖」であると言う。
これは分別の世界には真理、倫理の世界には善、芸術の方は美、
宗教の方にはもうひとつ聖の世界というものがあると言う人がある。
ところが本当の仏教的体験からすると聖というものはない。
その実は聖も真も善も美もない。
そういうことを言うのはまだ相対の世界に滞っているのだ。
滞らないところに飛び出ると、事々無碍なるところ、
遊戯自在で、無限の創造が可能の世界にはいることができるのである。』
(「無心ということ」鈴木大拙著・角川ソフィア文庫より)
むかし、本を平行して読むことは考えられなかったけれど
最近いろんな本を、同時進行で読むところがある。
ちらり、と読みかけている本の一節。
なんだか、おもしろいなと思って
抜粋してみました。
こういう文章を目にすると、思う。
たぶん、いや絶対的な、自分の小ささを。
もっと達観した、大きな人になりたい。
いや、いっそのこと、人じゃなくてもいい。
何ものであっても、構わない。
わたしは、宮澤賢治について卒論を書いた。
(専攻は英米語学科だったけれど。笑。)
宮澤賢治は言う。
そういうひとに、わたしはなりたいと。
無限の創造者になれたら、どれほど素敵なことだろう。
これは分別の世界には真理、倫理の世界には善、芸術の方は美、
宗教の方にはもうひとつ聖の世界というものがあると言う人がある。
ところが本当の仏教的体験からすると聖というものはない。
その実は聖も真も善も美もない。
そういうことを言うのはまだ相対の世界に滞っているのだ。
滞らないところに飛び出ると、事々無碍なるところ、
遊戯自在で、無限の創造が可能の世界にはいることができるのである。』
(「無心ということ」鈴木大拙著・角川ソフィア文庫より)
むかし、本を平行して読むことは考えられなかったけれど
最近いろんな本を、同時進行で読むところがある。
ちらり、と読みかけている本の一節。
なんだか、おもしろいなと思って
抜粋してみました。
こういう文章を目にすると、思う。
たぶん、いや絶対的な、自分の小ささを。
もっと達観した、大きな人になりたい。
いや、いっそのこと、人じゃなくてもいい。
何ものであっても、構わない。
わたしは、宮澤賢治について卒論を書いた。
(専攻は英米語学科だったけれど。笑。)
宮澤賢治は言う。
そういうひとに、わたしはなりたいと。
無限の創造者になれたら、どれほど素敵なことだろう。