※フィクションです
真夜中に音楽を聴いていると、気づかぬうちに2時間とか3時間とか経っていることがよくある。何も珍しくない。自分が一番偉い部屋で、何もしないままに時間を溶かし続けることはそう難しくない。こちらが気をかけたときにだけ主張するエアコンの音とか、外でまるで疲れないで鳴き続けてる鈴虫の声とかそういうのをBGMに、座るでも寝るでもない格好でいる。お腹が空いた気がするが歯は磨いてしまったし、何よりそこまで空腹でない気もする。眠い気もするし眠くない気もする。部屋の中から想像する外の景色みたいに虚無な時間が流れている。部屋が散らかってると、考えまで散らかってくる。私はいま何を考えてるんだろう*1。
明日は早く起きてみよう。もう日付が変わって何時間も経っているんだから、8時ぐらいに起きられれば上出来だ。起きたら軽く身支度をして、この前買った本を忘れずに、自転車を出す。一日の支度を始める住宅街を滑って、まだ眠ってる商店や事務所の間を抜ける。喫茶店に入ろう。カモメ珈琲*2は朝やってないから、ダウンタウン*3あたりにしようか。朝一番の空いている店内。窓際の席に足を運ぶ。メニューを一応確認して、手短に注文する。まだ低い太陽の光と、自分の通い先に急ぐ人たちを眺める。カウンターの向こうで食材や調理器が音を立てる。待ちきれずに本を開く。携帯で音楽を聴きながらだと集中できないのに、店で流れるBGMが読書の邪魔になったことは一度もない。陽の光は、眩しすぎるといけないけど、大概は読書灯になる。数ページ分の文字に目を流したところで、食器を出すのがカタカタと聴こえて、それから湯気と香りを連れてコーヒーとトーストが到着する。
「お待たせしました。」
さらっとして、それでいて無愛想でない声。本を閉じる。けさ最初の一杯を一口、続いてトーストを一口。最も素敵な朝の五感の起こし方。しばらくはその香りを浴び、できたての熱を感じ、食感を愉しむ。本を読んでいる最中に朝食は摂れないし、朝食を食べながら読書はできない。人間は二つのことを同時にこなすようにはできていない。朝は丁寧な時間なので、余計に丁寧にやらないといけないし、そのほうが上手くいく。
ともかく、朝早く起きて、喫茶店に行く。丁寧に過ごす。食事が終わったら、もう少し本に目を通す。しばらくは本の世界に行ってみよう。数分や数十分読書をしていると、段々と自分の意識が本の中の世界に移っている。ページを数える番号が目に入らなくなり、時間が気にならなくなり、周りが気にならなくなる。紙にいろんな形で記されただけの、決まった形が文字と呼ばれるだけの記号の集まりから、途方もない想像ができる。昔から本が好きだった。小説が好きだった。映画とかドラマとは情報の量が大違いなのに、そういうのと同じくらい没入できた。
小説を読んだら毎度、決まったように自分で小説を書きたいと思うようにもなった。自分の思うところを言葉にするのはあまり得意ではなかった。すなわち、感想を書くのが得意でなかった。決して心に残ってなかったり、何も思ったりしてなくても、感じたことを正直に文章に起こすとなると手が止まってしまった。小説の感想を書けないのだから、代わりに小説を書いてみたくなった。簡単な話だった。中学生のときはそれこそ物書きになりたかった。社会の仕組みを少し知るようになると、つまり自分の好きなものを好きな時に書くだけではなかなか生活はしにくいのだということを知ると、せめて小説とか本とか、そういうところに関わる職業に就きたいと思った。執筆する人でなくても、編集とか企画とか、書籍・出版に関わる仕事に就けたらなあと思った。出版業は首都近郊に集まっている。南都*4にある私立大学の文学部を受けたかったが、どうにも親を説得できなかった。結局、県内の国立大の人文学部に入った。電車で3時間かければ通える距離だけど*5、さすがにそこは下宿させてもらった。親というのはそこまで子が心配な生き物なのか。あの時よりはわかってきた気もするけど、やっぱりまだわからないところもある。
ともかく、城のそばのキャンパス*6での大学生活は、世に言うキラキラした「キャンパスライフ」かはわからないけど、想像したよりかは幾分か楽しいものだった。同級生の何人かは同じ大学に進学したし、そうでなくても(南都の大学ほどじゃないにせよ)国内の色々なところから来た新入生は、だいたいが今後4年ちょっとの話し相手を欲しがっているので、同性にしろ異性にしろちょっと頑張れば新たな友人もできた。高校の部活と比べると非常に幅広いたくさんのサークルがあり、文化系のところに2つ所属してみた。生活の全てを自分で司らないといけないのは大変だし、家に帰って一人しかいないのにはときどき寂しさを覚えるけど、しかし一日の時間の使い方を全部自分で決められる。今まで経験したことのない自由を手にして、着実に人生のコマを一歩進めたような気分が心地よかった。
時間通り来るか来ないかわからないバスを待たなくても、自転車に乗るか歩きさえすればそれなりの買い物ができる場所に行ける環境はまた、新鮮だった。少し家賃は高くついてしまうが、街と住宅街の境目みたいなところ*7の物件にした。水曜日の朝になると、近くの集会場から何やら鐘をつく音が聞こえる*8のも面白いし、目覚ましにもなった。利便性と引き換えに払う生活コストはバイトで何とかすることにした。月沼*9と比べれば多奈崎には街中にたくさんお店があったし、街中じゃなくてもあった。バイトはコンビニ*10と書店にした。どちらも歩いて通えるし、自転車でも通える。コンビニバイトは、狭い店内でレジを打ったり品出しをしたり揚げ物を揚げたりコピー機を直したり慌ただしかったけど、暇になる時間も多くて、その移り変わりは街の呼吸と連動してるようで面白かった。授業でたまに見かける大人しそうな人が、ここでは快活で頼れる働き手として存在していて、その両者が同じ人物だと気付くのには少し時間が要った。書店は街中のファッションビルにあった「かのう書店」*11でのバイトだった。数年前に改装されたらしく、照明の控えめな落ち着いたブックカフェだった。物腰柔らかい店長が印象的だった。並び替えや品出し、POP作りは楽しかったが、レジで本にカバーをかけるの最後まで慣れなかった。私は何をするにも、人に見られながらだと焦ってしまうタチだった。そんな書店は、フロムの閉店*12で私が働いてるうちに潰れてしまった。近くの文新堂*13ではアルバイトは募集してないようだった。
(続)
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*1 私も何を考えているんでしょう。空想都市住人の一日、第二弾はガッツリ文章になってしまいました
*2 カモメ珈琲:水然院(多奈崎の中心市街地)商店街にある喫茶店。しれっとSNSアカウントもある。朝食といえば喫茶店ですけど、案外朝8時とかから空いてる店って少ないですよね。「多奈崎まちなかガイド」にも収録。
*3 ダウンタウン:電車通りと本通り商店街の交差点付近にある喫茶室。こちらは朝からやってます。古き良き店内とマスターにウェイター。
*4 南都:この国の首都。政治・行政・経済の中心。一極集中が問題になってます。
*5 電車で3時間かければ通える距離:注釈9参照
*6 城のそばのキャンパス:多奈崎大学(県内唯一の国立大)の城東キャンパス。教育学部を除けば基本的に4年間ここで過ごします。教育学部は、専門課程だけ少し北に離れた川の向こう側に飛ばされます。
*7 街と住宅街の境目みたいなところの物件:城南1丁目3番付近と思われます。集合住宅と低層の雑居ビルが混ざっています。市電の電停まで歩いて3分とかからなそうなのも◎。詳しくは地図も参照どうぞ。
*8 近くの集会場から何やら鐘をつく音が聞こえる:城南1丁目に所在し、地図にも表記のある宗教施設を指してると思われます。
*9 月沼(月沼市):人口およそ12万、大積県で2番目に大きい街。(ちなみに多奈崎は36万ほど)多奈崎から北に100kmと少し行ったところにある。特急を使えばもう少し短い時間で通えるけど、まあ毎日というわけにはねいきませんよね。
*10 コンビニ:城南3丁目にある「デイリーワン多奈崎城南店」が近いです。
*11 かのう書店:国内各地に展開する書店チェーン。大型商業施設にテナントとして入ることが多く、多奈崎でも中心市街地のファッションビル「フロム」やショッピングモールの「サティオモール」などに出店しました。
*12 フロムの閉店:2020年を以て多奈崎中心部にあった唯一のファッションビル「フロム」は閉店、それに先駆けてかのう書店も閉店していたようです。
↓往時の(2016年・2019年版)フロアガイドが購入できます。よしなに↓
*13 文新堂:多奈崎の中心部に独立店舗を構える地元の書店。