「トマト穫りにおいで~ぇ」という叔母からの誘いに、わが家の青い実を横目にホイホイと出かける。岩見沢近郊で農業一筋だった叔母も、80才を前に一線を退いた。とはいえ、田んぼは人に任せたが畑の方は未だ現役続行中だ。出荷こそしていないが一族の食い扶持を賄うには、充分すぎる野菜が広い畑で作られている。腰も曲がらずにチャキチャキと畑仕事をする叔母がナントも眩しい。マラリアに感染して満州で終戦をむかえた叔父の、揚子江での話しはいつ聞いても刺激的だ。さすが大正生まれの男子は肝が据わっている。ボーっと過ごしてる甥っ子には見習うことばかりだ。
南米アンデスの標高2500m前後の乾燥地帯をルーツに持つ野生種のトマトは、アステカ・マヤ文明のもとで品種改良がされて700年頃から栽培されていたという。英語のトマトはスペイン語のトマテが元になっているが、語源はメキシコの先住民が話すナワ語の " トマトゥル "(tomatl)で「ふくらむ果実」という意味である。スペインによるアステカ侵略征服によって欧州に持ち込まれたトマトは、特有の青臭さから果実の色を楽しむ観賞用として珍重された。その形状が欧州で自生し毒性を持つナス科のベラドンナに似ていたため、トマトも有害であると信じられ食用とはならなかったようだ。トマトが一般に食用となったのは、イタリアで16世紀後半から頻発した大飢饉がきっかけである。観賞用のトマトが食用となるほで、当時のイタリアは飢えに苦しんでいたようだ。その後の2世紀のあいだ、飢えはイタリアにとって日常茶飯事だったという。
今でこそイタリアの味覚を支えるトマトだが、それ以前のパスタといえば削ったチースを振りかけるだけであった。貴族たちでさえ黒コショウとニンニクで味つけしただけである。トマトの出現がイタリア料理に革命をもたらしたと言って良いだろう。特に南イタリアではトマトは欠かせない食材である。収穫期にはトラック一杯分を買い込んで、一年分のトマトソースを作る家庭もあるという。控えめに箱一杯分のトマトを収穫して、スパイス商人がチキンカチャトーラを作ってくれた。鶏肉以外の素材はすべて叔母の畑からの恵みで、バジルだけがわが家の畑から穫ったもの。ちなみに、カチャトーラ(cacciatora)とは " 猟師風 " という意味である。イタリアではウサギや羊の肉が使われることから、猟師たちが手軽に作った料理だったんだろう。こんな話しを聞くと肉も自前で調達したくなるが、今から鉄砲打ちになるのは無理な注文かしら。罠猟師なら間に合うなんてことないよねw
南米アンデスの標高2500m前後の乾燥地帯をルーツに持つ野生種のトマトは、アステカ・マヤ文明のもとで品種改良がされて700年頃から栽培されていたという。英語のトマトはスペイン語のトマテが元になっているが、語源はメキシコの先住民が話すナワ語の " トマトゥル "(tomatl)で「ふくらむ果実」という意味である。スペインによるアステカ侵略征服によって欧州に持ち込まれたトマトは、特有の青臭さから果実の色を楽しむ観賞用として珍重された。その形状が欧州で自生し毒性を持つナス科のベラドンナに似ていたため、トマトも有害であると信じられ食用とはならなかったようだ。トマトが一般に食用となったのは、イタリアで16世紀後半から頻発した大飢饉がきっかけである。観賞用のトマトが食用となるほで、当時のイタリアは飢えに苦しんでいたようだ。その後の2世紀のあいだ、飢えはイタリアにとって日常茶飯事だったという。
今でこそイタリアの味覚を支えるトマトだが、それ以前のパスタといえば削ったチースを振りかけるだけであった。貴族たちでさえ黒コショウとニンニクで味つけしただけである。トマトの出現がイタリア料理に革命をもたらしたと言って良いだろう。特に南イタリアではトマトは欠かせない食材である。収穫期にはトラック一杯分を買い込んで、一年分のトマトソースを作る家庭もあるという。控えめに箱一杯分のトマトを収穫して、スパイス商人がチキンカチャトーラを作ってくれた。鶏肉以外の素材はすべて叔母の畑からの恵みで、バジルだけがわが家の畑から穫ったもの。ちなみに、カチャトーラ(cacciatora)とは " 猟師風 " という意味である。イタリアではウサギや羊の肉が使われることから、猟師たちが手軽に作った料理だったんだろう。こんな話しを聞くと肉も自前で調達したくなるが、今から鉄砲打ちになるのは無理な注文かしら。罠猟師なら間に合うなんてことないよねw