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羅漢さんの托鉢日記

私の勤める、葬儀社羅漢では、お客様お一人お一人を訪問する、営業方法をとっています。これを托鉢と称します。  

戦国時代の糸島(十一)―原田家の暗雲―

2009-03-23 22:39:08 | 戦国時代の糸島
原田了栄(隆種)には四人の子がいた。
嫡男は種門、次男は種吉といい肥前の草野家に養子に出されていた。
三男は繁種、この三人は了栄の先妻とのあいだに出生された兄弟である。
四男の親種だけは後妻との子であり、幼くして安芸の毛利元就に預けられていた。
これも存続のための戦国の慣わしで、大内方の強い豪族と結んでおけばという原田家の戦略であった。

戦国時代の糸島(十)で述べた厳島の合戦の時、十四歳であった親種は毛利元就の軍に従軍した。
無論、高祖城原田家からも了栄の軍に従って、種門、繁種兄弟も出陣した。
この三人の若武者は久しぶりに顔を合わせた。
嫡男の種門は温厚で情に厚く、英知にたけた、誰もが認める、将来を約束された方であった。
三男の繁種は豪毅で弓術に優れており、頭脳も優秀で、兄弟仲もよかった。
四男の親種もまた、兄達に劣らぬ優れた若武者であった。

こうして、戦国時代の糸島史を、拙いながらもこのブログ上で紹介していますが、
「怡土・高祖城落城記」―岩森道子著と、「戦国糸島史」―中野正己著に依るところが大きい。
原田家の歴史に惹かれる者にとっては、とてもありがたい本である。
実はいずれの本も原田了栄が登場してから以降に多く紙面をさいている。
私もそうですが、たぶん多くの人が戦国時代といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に
代表されるような権力者側からの歴史をインプットされている。
また歴史とは権力者が編纂していくものでもあるようです。
この二冊の本に出会えて、日本の歴史に載らない一豪族の歴史も中央の(権力者の)歴史とひとつも
変わらないことを教えて頂いた。(その面白さにかけても、その残酷さにかけても)

原田了栄と、その四人の男子のことから書き出したのは、
この後の原田家がたどる運命に大きくかかわっていくからである。
天下の武将とうたわれた了栄と、若い後継者達。
怡土の領民達は将来に希望をたくしたはずであったが、
運命のいたづらか、了栄の跡を継ぐのは肥前の草野家に養子に出された次男の種吉の子「信種」である。
この信種こそ秀吉に高祖城をあけわたす事になる最後の高祖城主となる。
そして、「怡土・高祖城落城記」―岩森道子著―の語り手である輝姫はその娘である。
輝姫が高祖城落城前に志摩町の野北に落ちていくくだりは「もうひとつの悲話―原田の姫―」
詳しく述べた。岩森道子氏はこの輝姫に託して郷土愛と平和への願いを綴っている。

このくだりから、高祖城落城にいたるまでをなるべく的確になるべく簡潔に紹介したいが
次回までに考えておきます。


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戦国時代の糸島(十)原田了栄と陶晴堅

2009-02-15 19:58:34 | 戦国時代の糸島
金龍寺(前原市高祖)の「大蔵朝臣原田家累歴案内」に、
“隆種は波瀾万丈の戦国乱世によく対処してきて優将といわれながら、
内憂外患の生涯を終わった“という一文がある。
六十二歳で亡くなった原田興種の跡を継いだのがこの隆種であった。
のちに頭をまるめて、「了栄」と名乗る。
勇猛果敢な武将として、際立った存在であり、
了栄が登場するあたりから戦国糸島史も佳境に入ってくる。

戦国時代は、“下克上”という言葉で表される。
その代表のひとつにあげられるのが陶晴堅(すえはるかた)である。
天文二十年(1551年)大内義隆の家臣である陶晴堅は、
主君の大内義隆を殺し、大友と手を握る。
北九州から山口に覇をとなえてきた大内氏も義隆の死によって途絶えてしまう。
大内氏と友好関係にあった原田隆種は、大友の傘下にしようとする陶晴堅の指示に頑として服しない。
業を煮やした陶晴堅は高祖城攻略を思い立つ。
天文二十二年(1553年)大友と陶の大軍が高祖城を攻めた。
原田方は数百騎を率いて戦うが、腹臣の豪族の中に背く者が出たりして、
高祖城はついに陶の軍に乗っ取られてしまう。

高祖落城後、一時蟄居を余儀なくされていた隆種だったが、
二年後許されて、毛利元就とともに陶晴堅を討つため出陣した。
―大内氏の傘下にあった毛利元就も次第に勢力を広げ、ついには安芸(広島県)一国を手中に治めるに到っていた―
この「厳島の戦」で陶晴堅は討たれ、隆種は高祖に凱旋し、再び高祖城をおこす。
そしてこの頃から僧籍に入り、「了栄」と号した。

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戦国時代の糸島(九)―金龍寺の建立―

2009-02-11 20:38:09 | 戦国時代の糸島


「戦国糸島の主役,原田家のおこり」で紹介したが、
前原市高祖に原田氏の菩提寺、金龍寺はある。
この寺の「大蔵朝臣原田家累歴案内」に
“興種は父弘種菩提のため曹洞宗金龍寺を建立した”という一行がある。

怡土と志摩の抗争がくり返される中、
永正五年(1508年)高祖城主原田興種は、その父弘種の菩提を弔うため金龍寺を建立する。
原田氏は地方の一豪族ではあったが、
歴代の城主は、京からの要請を受けしばしば出陣している。
その度、戦抗をあげ時の権力者からの信頼も厚い。
原田興種も大内義興と京にのぼり、足利儀澄を敗走させた功績により、
義興の「興」の字をいただき興種と名乗った。

戦抗、戦略共に抜群として、将軍や天皇より感謝状を賜れた名将原田興種も、
享禄三年(1531年)出陣の帰途、病のため亡くなった。六十二歳であった。


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戦国時代の糸島(八)怡土と志摩の争い

2009-01-29 19:38:18 | 戦国時代の糸島
2010年1月1日、一市二町が合併し糸島市が誕生する。
一市二町とは前原市、志摩町、二丈町である。
三年半前、長崎県からこの地に移り住んだ頃、不思議な感覚があった。
(単に糸島郡の糸島と捉えていた私にとって)
前原市も西区の一部も含めて、糸島という呼び方をすることだ。
国道に「伊都国」とか「怡土邑」という名のつく看板もよく目についた。
先輩方は糸島の歴史を普通に会話し、
「原田」とか「大内」とか「龍造寺」とか今まで耳になじまなかった名前が出てくる。
歴史を中央の歴史からしか見ていなかった私が、
はじめて郷土史というものに触れることができたのは「イトシマ」のおかげである。
糸島という呼び方をするのは、とりもなおさず郷土史のいう「怡土」「志摩」なのであろうか。
さて、“へっぱく”(能書きと勝手に訳していた私だが元日の糸島新聞の特集、糸島弁百選には“無駄話”とでていた)
はさておき、

「二丈岳の戦い」の敗戦から二年(1433年)大内方は、高祖城の原田氏と共に二丈岳城の大友を攻めた。
今度は大友の二丈岳城は落ち、逃れて朝倉郡秋月の古処山城にたてこもった。
勢いにのった大内方に攻められ、大友は更に逃れて豊後の国から海上へ敗走した。

やがて中央では応仁の乱(1467年)がおこり、
―人の世むなしく応仁の乱と中学生の頃おぼえた年号は今もって忘れない―
高祖城主原田種親は上洛し、大内政弘、山名宋全について西軍方として大いに戦った。
このことにより、原田氏は大内方に厚い信頼をうけることになる。
こうして、大内方は原田氏と手を組んで、怡土に勢力を張っていった。
この後も志摩は大友方に、怡土は大内方に分かれ、
大友は北崎(福岡市西区)の草場城、大内は高祖城を居城に相対し、
双方の間で戦乱が絶えることなくくり返された。


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戦国時代の糸島(七)―二丈岳の戦い―

2009-01-14 18:59:28 | 戦国時代の糸島

正覚寺山門

正覚寺本堂

二丈町深江の地に正覚寺という浄土宗のお寺があるが、
山門の入口には次のように書いてある。

「本寺院はもと真言宗に属し、元享年間(西暦1321)二條城主深江氏の菩提所として宮小路古寺に
開基されたが永享三年(1431)大内、草野両氏の戦火に全焼、
幸に御本尊は無事であり、その後の厄災にも護持避難するを得て今に御尊影を仰ぐことができる。
後に摂津の人、定誉上人が天正七年(1579)現在地に再建して浄土宗に改め、
開山となり誓願寺大音院正覚寺と称す」

ここで言う大内、草野両氏の戦火とは、『戦国糸島史』にいう「二丈岳の戦い」の事である。
戦国時代の糸島(六)の一貴山の戦いから約一世紀を経ているが、
ここに至るまでの経緯は次のとうりです。

九州を制圧下においた足利尊氏は延元元年(1336)四月京都にもぼり室町幕府を開いたが、
九州は再び菊池、大友、少弐らが支配するようになり、幕府の令にしたがわない状況となっていく。
応永三年(1393)足利三代将軍足利義満は大内義弘を九州へ向かわせた。
―大内氏は周防(山口県)からおこり、中国地方から北九州にかけて勢力をふるった豪族―
怡土の高祖城主原田氏は足利尊氏との関係から大内氏に組した。
戦国末期、全九州に覇をとなえた大友宗麟を輩出した大友氏は豊後(大分県)からおこった豪族である。
弘安四年(1281)元寇のおり手柄を立て、筑前国志摩郡を新領土に得たのを機に、
北九州から糸島にかけてつよい地盤をもつようになった。

こうして大内氏と大友氏は、北九州から糸島を舞台に勢力争いをはじめることになったが、
その発端となったのが「二丈岳の戦い」でした。
永享三年(1431)大内は、大友の要城である糟屋郡立花城を急襲し攻め落とした。
敗れた大友は二丈城の草野治郎少輔を頼って、二丈岳山麓に陣を張った。
大友の盟友、筑前、肥後の領主少弐は、大友援護軍を波多(肥前松浦)に依頼し、大内攻撃に備えた。
一方、高祖城主原田氏は、大内軍の味方として二丈岳城下に対峙した。
相対峙する両軍は一万の大軍、戦死者も数千人といわれた。
死体は淀川をうめつくし、人血でまっかになり、炎天下血のりとなって水の流れを止めた。
清流が血で淀んでしまったことから「淀川」と名付けられた。(筑前藩地誌にそうある)
戦闘は深江の町にもおよび、当時宮小路にあった正覚寺も焼失した。
肥前より少弐、大友派の波多の援軍が駆けつけたことにより、戦局は大きくかわり大内勢は敗走する。
この戦いで原田方の重臣も多く戦死した。

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戦国時代の糸島(六)―二丈町一貴山にて―

2009-01-03 20:15:08 | 戦国時代の糸島
仁王門
  仁王像(あうん)

バイパスを福岡方面より西へ走り、「上深江」を左折、
ナフコを右に見て川沿いに登っていくと、一貴山の集落に到る。
現在は仁王門だけが姿をとどめているが、
(門内左右に身の丈三米の阿吽像が安置されている)
聖武天皇(奈良時代)の頃、唐から帰化した清賀上人が勅命を受けて開いた、
『夷キ寺』があったところである。
八つの末寺をもち、当時怡土七ヵ寺随一といわれたが、
南北朝のころ、この地は戦火にみまわれ『夷キ寺』も焼失してしまった。
前原市雷山の千如寺も七ヵ寺のひとつで、これもまた清賀上人が開山にあたった。

この一貴山の戦いで高祖城主原田種繁は、家臣の深江種長に討たれ戦死する。
この経緯を戦国時代の糸島(五)より順を追って記してみます。

二度の元寇を切り抜けた北条執権の鎌倉幕府ではあったが、
これに参戦した九州の豪族たちに与える没収地はなかった。
結果、やがて地方の豪族達との関係にヒビがはいってきた。
元弘三年(1333年)後醍醐天皇は討幕計画をすすめ、足利尊氏や新田義貞らの働きにより、
鎌倉幕府は倒れ、“建武の中興”と呼ばれる天皇の政権が復活する。
しかし、この新政権では貴族が権力をふるい、武士階級の支持を得ることはできなかった。
この状況の中、不満武士の支持を得た足利尊氏は朝廷軍と戦うが、
追討の命を受けた新田義貞に追われ、逆臣の汚名をきせられたまま、
弟の直義と共に九州へ敗走する。
このことを知った肥後の菊池氏(南朝方)はただちに尊氏追討軍を出した。
この時、高祖城主の原田種時は足利方に味方するが長男の種宗と次男は菊池方に走った。
こうして、父と子は多々良川(福岡県糟屋郡)の戦いで敵と味方に分かれ戦うのであった。
香椎宮に陣どった尊氏軍はわずか三百騎、対する菊池軍は四千騎。
一時は自決を覚悟した尊氏であったが、決死の奮戦によりついに菊池方を敗走させた。
菊池方についた種宗はいまさら高祖には帰れず、筑後に下り、
他家に養子にはいり同家を継いだそうである。
こうして、九州を制圧下においた足利尊氏は京都へ軍を起こした。
原田種時もこれに加わり、楠木正成との“湊川の戦い”に奮戦する。
京を追われた後醍醐天皇は吉野におち、尊氏は光明天皇を立て室町幕府を開いた。

この混乱の頃、深江(二丈町)に新田義貞の一族で新田禅師という武士が兵を挙げ、
当時、深江の地頭であった深江種長と計らい深江片山の民家を焼き払い、
一貴山の『夷キ寺』に立てこもった。
この知らせを受けた高祖城主原田種繁(種宗らの弟)は北朝方の応援を得て鎮圧に向かった。
前述のとうり、種繁は家臣の深江種長に討たれ戦死する。
暴動を起こした深江種長と新田禅師は、応援に駆けつけた荻浦(前原市)の豪族、重富兵衛四郎、
松浦党の中村弥五郎らに討ち取られる。
広大な境内を持つ『夷キ寺』もこの合戦で全焼してしまった。


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戦国時代の糸島(五)蒙古襲来と原田家

2008-12-11 21:37:45 | 戦国時代の糸島
当時の南宋(なんそう)(中国)を統一し高麗(こうらい)(朝鮮)も服属させたモンゴル帝国は国号を元と改め、
日本を服属すべく使者を送るが、時の執権、北条時宗はこれを拒んだ。
これにより文永十一年(1274年)ついに蒙古軍は、軍船九百隻、兵三万をもって
博多湾に攻め渡ってきた。
鎌倉幕府は国を挙げ防戦につとめた。
おりしも天の助けか台風がおこり、国難を切り抜けた。
時の高祖城主、原田種照も命懸けの防戦につとめたが、箱崎付近で戦ううちついに戦死をとげた。
四十二歳であった。
これを文永の役とよぶ。

その後、蒙古の再度の来襲に備え、日本国は博多湾一帯の沿岸に防塁を築いた(元寇防塁)
今も西区今津長浜に、その原型を保っている。
やがて、七年後の弘安三年(1281年)再び蒙古は、今度は高麗軍を合わせ、
軍船四千四百隻、兵力十四万という大軍で襲ってきた。
蒙古軍はまず対馬、壱岐をおかし、更に今津志賀島に上陸した。
原田種照の子種之、孫の種房は今津に防戦したが、
そのうち、蒙古軍に疫病が流行したため、蒙古軍は一応壱岐へ退去、体制をととのえ再来したが、
またもや台風が起こり(歴史はこれを神風と呼ぶ)敵船の多くは沈没した。

戦がすんだ今津海岸から糸島水道一帯は、敵味方もわからない死体の山であった。
この戦の功績により、太宰大監という役職を得た種房は、この死体を怡土へもちかえり
高祖成ちかくに埋め、一寺を建て敵味方の区別無くこの霊を弔った。
これを高麗寺と名付けた。
今もこの辺りの地名を『高来寺』というのはこの由来だろうか。

なお、この弘安の役で豊後の国(大分)大友氏は大きな手柄を立てた。
これを機に北九州で羽振りをきかせていく。
このことが後の糸島では原田と大友の争いと発展していくこととなる。


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戦国時代の糸島(四)―二丈町波呂の龍国寺―

2008-11-20 18:25:43 | 戦国時代の糸島

二丈町波呂の龍国寺


福岡方面より、福岡前原道路バイパスの「波呂北」を左折、県道の交差点「波呂」を直進し、
波呂の集落にはいると、ここ龍国寺である。
曹洞宗の禅寺で原田家とは深いかかわりがある。
こちらの檀家の方の葬儀を担当したこともあり、ご住職とは何度かお会いしている。
数日前訪れたとき撮った画像ですが、柿の実が熟していた。

さて、建仁三年(1203年)原田種直は、平重盛、奥方、その遺児、平家一門の霊をとむらうため、
波呂村に極楽寺を建て田畑五町を寄進した。これが現在の龍国寺である。
重盛の小袖、種直使用の硯箱などが、寺宝としてある。


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戦国時代の糸島(三)―原田種直と平家―

2008-11-19 21:16:24 | 戦国時代の糸島
京都では皇位継承に関して、皇室重臣の間で不和がつづき、
平氏、源氏も内乱に巻き込み、やがて平氏の世となっていくこの時代、
原田種直は、保元元年父種雄と共に上洛し六波羅に入った。
そして保元の乱(1156年)平治の乱(1159年)とつづいたが、父子は平氏に組して
功績があった。
種直はこうして次第に平氏と近づき、永歴元年(1160年)平清盛の嫡男、平重盛の養女を
妻に迎え、重盛の推挙により太宰少弐となった。
治承四年(1180年)平清盛が後白河法皇を福原(神戸)に幽閉したとき、
この警護にあたったのが種直の子、種国であった。
このように原田家は、平家から厚く信頼されていた。
しかし、その平家もやがて滅亡の道をたどることとなった。
種直は、九州の豪族が源氏に寝返る中、ひとり平氏に味方した。
この頃の様子は、「平家の悲話―唐原の里―」を読んで頂ければ幸いです。

悲劇は、種直の身にも及んだ。
原田は領地没収のうえ、鎌倉へ出頭を命じられた種直は土牢に十三年間もの間、幽閉された。
建久八年(1197年)十三年の刑を終えて筑紫に帰るが、かつての郎党の姿もなく、
唐原の里に行ってみると、家来たちが細々と田畑を耕して、露命をつないでいた。

ところで、種直は自分は平家に属したにもかかわらず、弟の種成を源氏に味方させていた。
原田家存続のためには、これも戦国の世のならわしであった。
筑前と肥前をおさめていたその種成の口添えのより、新しく怡土(いと)の地を源頼朝より
与えられたのであった。
こうして、筑紫から怡土へ移った原田種直から四代目の種継が高祖城を築くこととなった。

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戦国時代の糸島(二)―前原市東村の八幡宮―

2008-11-17 21:07:25 | 戦国時代の糸島


前原市大字東、西明寺の向かいに原田氏ゆかりの神社がある。
境内の「八幡宮由緒」と書かれた案内板に、原田春実公、原田種直公の記述がみえる。
応和三年(963年)征西大将軍原田春実公建立とある。

天慶三年、藤原純友の乱が起こった。
純友は伊予の豪族で、勢いにまかせて各地で暴れ回り、ついには太宰府にまでおよんだ。
その討伐にあたり、箱崎浜にこれを打ち破ったのが原田春実である。
その功により征西大将軍に任ぜられ、筑前、肥前、豊前、壱岐、対馬、を管領することとなり、
肥前の基山城に乗り込み、太宰少弐となって、太宰府の守りについた。
その後、基山城では不便なため、麓の原田(はるた)に新しい居城をかまえた。
これが原田姓のもとになった。

さて、春実は純友討伐に出発するに先立って山城(京都)の石清水八幡に戦勝を祈った。
そして、これが成功したのも神のおかげであるとして、その神霊を勧請し奉ったのがこの八幡宮である。
時代はくだり、平家哀史の中心人物となった、原田種直は、国政をその子泰種に譲ったのちは、
この地に館を構え、住んだ。
そしてその墓も八幡宮の近くにあるという。

春実公以前については、「戦国糸島の主役、原田氏のおこり」を見て頂ければ幸いです。

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