

この原田氏の戦国時代の糸島シリーズを投稿中、
思いもかけず原田氏の子孫という方からコメントを頂いた。
「我が一族の漂着地のひとつは津軽でございますが、現在かなりの数が東京に移動しております」
とあり、「武家の誇りは忘れたことはありません」と結んでありました。
中野正己著の『戦国糸島史』にはその後の原田氏についても書かれてある。
それによれば信種の子、嘉種は加藤清正のもとですごしていたが、
のちに、唐津の寺沢志摩守広高の食客となった。
寛永十四年(1637)、寺沢の所領であった天草島原にキリシタンの反乱がおこり、
五十歳をすでに過ぎていた嘉種も、この「天草の乱」に出陣している。
秀吉を向こうにまわしつぶされた原田氏ではあったが、
時代はすでに徳川の世となり、
「秀吉に反抗したは、いわばこの家康に味方したも同然、原田一族ならびにその部下達は
なるべく取り立ててやるがよい」
家康は新しく福岡藩主に任命した黒田長政に申し送ったのである。
これに応じて長政は、力を入れていた殖産興業にことさら原田の旧家臣たちを用いた。
唐津城主寺沢志摩守は名君のほまれ高かったが、財政難のため間もなく領地没収の憂き目にあい、
嘉種もふたたび安住の地を求めて放浪の旅に出た。
苦しい旅をかさねた末、やっと江戸に出た嘉種は、当時の江戸で傑僧といわれた天海僧正に巡り会い
知遇を得た。
そして、慶安四年(1651)天海僧正の世話により原田は会津若松の保科正之に仕えたのである。
嘉種この時六十七歳。
老後、僧籍に入り「覚翁」と号し七十七歳で大往生している。
月日は流れ、世は明治元年となった。
会津若松における原田家は第五十六代、血気の原田種英であった。
反骨精神の会津藩の中にあって、原田種英の存在はひときわ光っていた。
彼は「朱雀足軽中隊」の首頭となって若松名古屋町の入り口で、官軍を迎え撃った。
飯盛山では白虎隊の一隊が刀折れ矢つきはてたすえ、割腹して城と運命を共にした。
原田種英も狂乱の炎となって戦闘するも、身に数カ所の深傷をうけ、いさぎよく割腹して
果てようにも手足がいうことをきかなかった。
いくさは済んでしまった。
彼は涙をのんで生きながらえるほかなかった。
明史維新後、彼は一庶民として若松の町に住んでいたが、
明治二十八年、五十五歳をもって病に没した。
―原田種英の子孫は現在東京に在るということであるが、くわしくは判らない。
『戦国糸島史』はこう結んである。
二千十年一月一日。
前原市、志摩町、二丈町の一市二町が合併し『糸島市』が誕生した。
これにより、かつては長い歴史のなかで仇同士であった怡土と志摩はひとつになった。
この『戦国時代の糸島シリーズ』も糸島市誕生をもって、おそまきながら終了となります。
そのほとんどの情報は
『怡土・高祖城落城記』―岩森道子著―
『戦国糸島史』―中野正己著―
『二丈町誌・平成版』から得ている。
これらの本に出会えたことに感謝いたします。
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