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羅漢さんの托鉢日記

私の勤める、葬儀社羅漢では、お客様お一人お一人を訪問する、営業方法をとっています。これを托鉢と称します。  

戦国時代の糸島(最終章)ーその後の原田家ー

2010-03-15 20:32:26 | 戦国時代の糸島




この原田氏の戦国時代の糸島シリーズを投稿中、
思いもかけず原田氏の子孫という方からコメントを頂いた。
「我が一族の漂着地のひとつは津軽でございますが、現在かなりの数が東京に移動しております」
とあり、「武家の誇りは忘れたことはありません」と結んでありました。

中野正己著の『戦国糸島史』にはその後の原田氏についても書かれてある。
それによれば信種の子、嘉種は加藤清正のもとですごしていたが、
のちに、唐津の寺沢志摩守広高の食客となった。
寛永十四年(1637)、寺沢の所領であった天草島原にキリシタンの反乱がおこり、
五十歳をすでに過ぎていた嘉種も、この「天草の乱」に出陣している。

秀吉を向こうにまわしつぶされた原田氏ではあったが、
時代はすでに徳川の世となり、
「秀吉に反抗したは、いわばこの家康に味方したも同然、原田一族ならびにその部下達は
なるべく取り立ててやるがよい」
家康は新しく福岡藩主に任命した黒田長政に申し送ったのである。
これに応じて長政は、力を入れていた殖産興業にことさら原田の旧家臣たちを用いた。

唐津城主寺沢志摩守は名君のほまれ高かったが、財政難のため間もなく領地没収の憂き目にあい、
嘉種もふたたび安住の地を求めて放浪の旅に出た。

苦しい旅をかさねた末、やっと江戸に出た嘉種は、当時の江戸で傑僧といわれた天海僧正に巡り会い
知遇を得た。
そして、慶安四年(1651)天海僧正の世話により原田は会津若松の保科正之に仕えたのである。
嘉種この時六十七歳。
老後、僧籍に入り「覚翁」と号し七十七歳で大往生している。

月日は流れ、世は明治元年となった。
会津若松における原田家は第五十六代、血気の原田種英であった。
反骨精神の会津藩の中にあって、原田種英の存在はひときわ光っていた。
彼は「朱雀足軽中隊」の首頭となって若松名古屋町の入り口で、官軍を迎え撃った。
飯盛山では白虎隊の一隊が刀折れ矢つきはてたすえ、割腹して城と運命を共にした。
原田種英も狂乱の炎となって戦闘するも、身に数カ所の深傷をうけ、いさぎよく割腹して
果てようにも手足がいうことをきかなかった。
いくさは済んでしまった。
彼は涙をのんで生きながらえるほかなかった。
明史維新後、彼は一庶民として若松の町に住んでいたが、
明治二十八年、五十五歳をもって病に没した。

―原田種英の子孫は現在東京に在るということであるが、くわしくは判らない。
『戦国糸島史』はこう結んである。

二千十年一月一日。
前原市、志摩町、二丈町の一市二町が合併し『糸島市』が誕生した。
これにより、かつては長い歴史のなかで仇同士であった怡土と志摩はひとつになった。

この『戦国時代の糸島シリーズ』も糸島市誕生をもって、おそまきながら終了となります。
そのほとんどの情報は
『怡土・高祖城落城記』―岩森道子著―
『戦国糸島史』―中野正己著―
『二丈町誌・平成版』から得ている。
これらの本に出会えたことに感謝いたします。

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戦国時代の糸島(三十)ー豊臣秀吉の朝鮮出兵ー

2010-03-12 20:27:06 | 戦国時代の糸島
こうして、ついに高祖城が落城し怡土志摩の戦乱の時代も終焉をむかえ、
平和がおとずれたのもつかの間、あの秀吉の朝鮮出兵の嵐が巻き起こった。

高祖城が落ちた天正十五年から四年後の天正十九年(1591)
大陸侵略をもくろんだ秀吉が動いた。
(このあたりの経緯については「秀吉、まいる」をご覧下さい)

文禄元年(1592)東から西へ、怡土志摩を横断する徳川家康、小西行長、小早川隆景、
加藤清正らの軍勢がえんえんと続いた。
そして、加藤清正軍のなかに、原田信種が加わっているという知らせが怡土志摩全土に伝播した。

すると、落城後各地に散らばっていたかつての豪士たちが旧主を慕って、肥前名護屋をさして出かけ、
久々に信種と対面した。
加藤清正もこれを喜び、従軍をゆるした。
朝鮮出兵に従軍した怡土志摩人は、豪士(八十人)のみならず、兵站部つきとして、
大工、鍛冶屋、炊事係、船頭ら、六百名ちかくあった。

こうして、名護屋に集結した兵力は十五万八千七百人、軍船七百隻。
文禄元年三月十三日、秀吉から出陣の命が下った。
第一軍の小西行長の兵一万八千余に続き、第二軍の加藤清正、第三軍の黒田長政らの軍も
少し遅れて釜山に入港した。

加藤清正から原田信種に任せられた兵力は合わせて七百十六人、さながら怡土志摩軍といってよかった。

信種は原田了栄の孫として肥前草野家に生まれ、幼くして佐賀の龍造寺に人質となり、
やがて、成人すると十九歳で原田四十六代を継いだ。
少年時代は無能といわれ、青年時代は血気にはやり粗暴のふるまいも多かったが、
二十八歳で落城後加藤清正の部下となるやまったく人が違ったような名将となった。

秀吉の死直後の慶長三年九月二十四日、ウルサン城にたてこもる加藤、小西、原田らの軍と、
これを包囲する大明国の軍、さらにこれを攻めようとする鍋島、黒田の軍、
合わせて百万の兵によって、戦場は阿修羅地獄となった。
そして、名将原田信種は、この朝の激戦でついに戦死をとげた。齢三十九歳であった。
怡土志摩から従った兵士達のほとんども一度も郷土に帰ることなく、異国の地に散った。
九州の小豪族として、長い歴史を生き抜いてきた原田主従に思いをはせるとき、
その無念さと、その絆の強さを思わずにはいられない。

「文禄の役」「慶長の役」と前後七年にも及んだ無益なこの戦争も秀吉の死によって終結した。

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戦国時代の糸島(二十九)―高祖城落城―

2010-03-06 20:05:48 | 戦国時代の糸島
小早川隆景は、城主原田信種と家老笠大炊助を同道し、小倉の秀吉を訪れ、
「原田は、殿下に申出でましたとうり、素直に降伏してござりまする。
殿下よりお預かりしましたる将兵、一兵も損せず帰って参りました。
つきましては原田の処置、なにぶんのご寛容をお示し下さるよう拙者からもお願い申しあげます」
と請願した。

原田信種は、豊臣秀吉の前に平伏した。
「信種、そちは、いまどれほどの領地をもっているのか」
信種は咄嗟に、広すぎると没収されると考え、
「恥ずかしきことながら、怡土の一角を領有するのみでござります」
と言ってのけた。

これがいけなかった。
秀吉がこれを知らないわけはない。
いまや、怡土志摩だけでなく、東は那珂早良から、西は松浦の波多、草野の領地まで
独占していていた。
「そうか、それほどの小身にて一家を立つるなど、おこがましいぞ。
ならば、そちはこれより佐々成正(さっさなりまさ)の与力となってはたらけ」
領土はすべて没収され、肥後に国替えとなってしまった。

高祖城は、ただちに秀吉の工作隊によってさんざんに打ちこわされ、
城主信種は佐々成正の部下として肥後へ下った。
また、高祖城の将兵の大部分は「二君にまみえず」の道をふみ、
怡土、志摩、早良の野に下って農耕にしたがうもの、仏門に入るもの、神官となるものなどが多かった。

こうして建長五年(1249)原田種継が荒廃した怡土城の一部を復し、高祖城と改めて以来、
三百三十八年、怡土志摩平野を眼下に、えんえんとつづいた原田もついに信種を最後に、
天正十五年(1587)四月二十七日、ついに落城、その歴史を閉じたのである。

秀吉は、こうして原田の息の根を止めたうえ、五月八日には薩摩の島津義久を降伏させた。
(だが、島津は薩摩、大隅、日向の領有をゆるされている)
六月七日、箱崎に凱旋した秀吉はここで論功行賞をおこなった。

小早川隆景には筑前の全部と、筑後、肥前の一部を、黒田孝高(官兵衛)には豊前六郡を、
佐々成正と小西行長には肥後を、寺沢志摩守には唐津をそれぞれ与えた。

原田信種は佐々成正の部下として肥後におもむいたが、
その後、肥後一揆により佐々成正が失脚すると、これに代って加藤清正が着任した。
従って信種も清正の部下になった。
原田信種の長男、嘉種(よしたね)もこれに従っている。

信種の長女で、『怡土・高祖城落城記』―岩森道子著―
(戦国時代の糸島シリーズを投稿するきっかけとなった本であります)
の語り手であり、この年、十四歳であった輝姫は、その乳母の里、志摩の野北に落ちていくのであった。
そのくだりは、『もうひとつの悲話―原田の姫―』をどうぞご覧下さい。

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戦国時代の糸島(二十八)―小早川隆景―

2010-01-31 22:15:43 | 戦国時代の糸島
降伏を申し入れたはずの原田が、
突然掌を返したように“抗戦”と知った秀吉は激怒した。

この高祖城攻略軍の大将としてつかわされたのが小早川隆景である。
歴史上著名な武将であり、知る人も多いはずである。
毛利元就の三男で、小早川家に養子に入ってから小早川隆景を名乗っている。

壮絶な死をとげたあの原田親種とは、竹馬の友として、毛利元就のもとで
互いに研鑽してきた仲であった。

小早川隆景としては、原田を征伐することは不本意であったが、
秀吉はそのことを知った上で、わざとそれを命じたのであった。

隆景は秀吉軍一万をひきいて博多につくや、高祖へ使者を出して、
「無益な抵抗をやめて降参されたほうが原田のためである」と根気よく説得したが、
降伏を主張した老臣たちも、すでに各地に配備についており、
「ご厚意はかたじけないが、原田は武門の面目にかけて最後の一兵まで抵抗する」
との返事が隆景のもとへ返ってきた。

天正十五年四月十七日、隆景はやむなく高祖城攻略を開始した。
秀吉軍をあずかる小早川隆景は天下の水軍の名将である。
配備は万全である。
一万の兵のうち、三分の一は博多から海路をとり、今津湾から北原へ向かう。
あとの三分の二は姪浜から早良一帯の平野にかけて、おびただしい旗さしものをなびかせた。

高祖の山頂からこの光景を見た原田信種は、色をうしなった。
笠大炊助が言っていたのはこのことだったのか。
こうとなっては、いたしかたなし。
島津の援軍を待ち、籠城と決したが、
たよりの島津は秀吉の予期せぬ大軍に色をなし尻込みした。

小早川隆景は、原田を亡ぼすのはもとより本意ではない。
この戦で死傷者を出さぬよう心を配った。
再び、黒田官兵衛の家臣である久野四兵衛を使者として、降伏をすすめた。

一方、いったん上ノ原に籠城した大炊助は、まだ主家を救う道はあると、密かにここを脱出。
間道づたいに高祖城にかえり、信種に言葉を尽くして進言した。
「あの大軍にむかって何が出来ましょう。島津の援軍など来るはずがございません。
いさぎよく城門を開いてくださりませ。原田家のためでござります。」
「大炊、無念であるが、このさいは、そちに任せようぞ。」
こうとなっては、さすがの信種も降伏を決意するしかなかった。

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戦国時代の糸島(二十七)―高祖城抗戦―

2009-11-13 12:41:30 | 戦国時代の糸島
四月十日、笠大炊助と波多江種賢の両名が高祖へ帰ってきた。
その夜、城内の大広間では、抗戦か降伏か、運命を決する大評定が行われた。
論議は深夜におよんでも尽きない。

やがて雷山山脈の頂が白みはじめた頃、
秋月城に出していた使者が帰ってきた。

秋月氏は、原田とその祖先を同じとする関係から、
常に親しく行き来し、秀吉西下についても、
島津とともに抗戦する盟約をむすんでいたのだが・・・

秋月城の中にも、笠大炊助と波多江種賢らと同じ考えを持つ老臣がおり、
秀吉軍を向こうに回して抗戦することの不可能を説き、
自ら腹をかき切って城主を諫めたため、
秀吉軍に投じることとなり、島津攻めの先鋒に加えられたというのである。

しかし、この情報はあくまで抗戦を主張してきた城主原田信種にとっては、
かえって火に油を注ぐ結果となった。
「裏切ったか秋月!こうなれば高祖ひとり戦うまでだ。
生きて武門の恥をさらそうよりは華々しく武士の最後を飾ろうぞ
皆の者どうじゃ、老人どもは命が惜しくば戦わなくともよいぞ」

「殿、老いぼれの命など露ほどおしいとは思いませぬ。
ただこの場合、降参のみが原田家の今後の生きる道でござります。
もし、老いぼれの命にてお心が静まりますならば、このしわ首、いつでも差し上げまする」
血を吐くような老臣、笠大炊助の叫びであった。

「後に残った女房子供、出入りの商人、さらに民百姓の苦しみはどうなさるおつもりですか。
この高祖、怡土志摩の地が修羅の場となるばかりか、
未来永劫に逆賊の汚名をきせられまする」
両頬につたう涙もぬぐいをせず、必死の諌言をくりかえす老臣であったが・・・

「もう言うな大炊、これが武門の意地だ。拙者ひとりになってもこの意地はつらぬいてみせる。
戦いたくない者は去れ。これで評議は決した」

こうして高祖城は、ついに抗戦となった。


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戦国時代の糸島(二十六)―苦悩の忠臣、笠大炊助―

2009-11-04 20:04:32 | 戦国時代の糸島
天正十五年(1587年)三月一日。
ついに九州征伐の軍が大阪を発った。その数二万五千。
秀吉はまるで物見遊山の風情で、三月二十五日、下関に到着した。

下関の山といい、海岸、海上をうずめた秀吉の旗さしものは、
九州を睥睨(へいげい)するかのように林立していた。
時に豊臣秀吉、五十一歳の男盛りであった。

鹿家の合戦で波多を亡ぼした快感が、まださめやらぬ原田信種は、
鹿児島の島津、朝倉郡の秋月と盟約を結び、
「秀吉なにするものぞ」と気勢を上げていた。

そんな中、
時代の激流に、もはやのみ込まれんとする原田家を必死の覚悟で救わんとする一人の重臣がいた。
名を笠大炊助(りゅうおおいのすけ)という。
このシリーズで何度か登場した魅力的な人物である。
その墓石は前原市西の堂にあるという。
そういえば、西の堂には「笠」という姓がある。

老練の笠大炊助にすれば、時勢を読むに原田家の滅亡は目に見えている。
「殿、拙者と波多江種賢(たねたか)を敵情偵察にやってください。
その上で事を決せられても遅くはございますまい」
意を決して城主原田信種に言上した。

笠大炊助の必死の言上は、信種の心を動かした。
「ならば万一に備えて兵士二千をつれて行け」
二千といえば、原田家の兵士の大半であった。

偵察に兵二千はあまりに多すぎる。
笠と波多江の二将は、預かった二千の兵を途中のそこかしこに分散休養させ、
老いの身をいとわず、わずか数名の部下をつれ門司へと急いだ。

三月二十六日、一行は門司についた。
はるか海峡の彼方にひろがる光景に一行は息を呑んだ。
「これでは高祖に立ち返る余裕はない」
「原田方には敵意がないことを、一刻も早く秀吉公に伝えねば手遅れになるだろう」
笠大炊助は命を懸けて決断した。

二人は敵将浅野長政に頼み入り、
「筑前高祖城主原田信種が家老、笠と波多江、降参の申し入れのため、推参いたしました」
と取り次いでもらった。

戦わずして一城をなびかせた秀吉はおおいに喜び、
「案ずるな。原田は後世まで安泰に残るであろう」
とほめたたえ、九州の情勢などをつぶさに問いただした上で、
「島津攻めの先手として、原田をくわえるであろう」
と下えもおかずもてなしたうえ、愛用の刀一振りを笠大炊助に与えた。

「島津殿との盟約も、こうなってはしかたあるまい」
「しかし、島津殿とてこの大軍のまえでは、われらと同じ方法をとられるにちがいない」
二人は一抹の不安は抱きながらも高祖へ急いだ。


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戦国時代の糸島(二十五)―豊臣秀吉九州進出―

2009-11-01 20:17:22 | 戦国時代の糸島
鹿家の決戦は、原田の勝利で終わったが、
原田も波多も、ほとんどその全精力を使い果たしてしまった。

かの原田了栄も七十五歳になった今、
すでに老衰しきって、ものの役にたたず、
重臣の多くは合戦で死ぬか傷つくかして、
もはや、原田家から戦意は消え失せていった。

こうして、鹿家の合戦は、波多家がほろび、
原田家にとっても、衰退への第一歩となった。

はたせるかな、それから二年後の天正十四年(1586年)
豊臣秀吉の九州進出によって、ついに原田氏にも終焉の時が訪れることとなる。

鹿家の合戦の天正十二年当時、九州は鹿児島の島津と大分の大友の対立時代であったが、
島津の勢いに押され、大友はいちはやく秀吉に助けを求めていった。

やがてその年の秋、秀吉は、細川幽斎と千利休を鹿児島にやり、
天皇の名の下に、島津に無条件降伏を迫った。

ところが島津は、
「源頼朝いらいの名家である島津が、秀吉ごときを関白とは呼べぬ」
などと言いすて、使者突き返した。

血を流さずと心をくだいて使者を立てた秀吉であったが、
ならば征伐せんと、九州進出を早々に思い立った。

秀吉西下の噂にゆれる中、
あくまでも大友を敵とする原田は、この旋風の中で島津と手を組んだ。

そして原田は、天正十四年にいたり、秀吉と通じていた太宰府の岩家城を攻め、
城主高橋紹運を亡ぼした。
こうして、やがて押し寄せてくる空前の大軍を迎えようとしている原田の高祖城であった。


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戦国時代の糸島(二十四)―原田信種、鹿家の逆おとし―

2009-10-25 22:40:46 | 戦国時代の糸島
事が破れた波多氏は、目下の仇敵、草野氏を亡ぼす前に、
一日も早く原田氏を討つべく軍をおこした。その数三千。

まず浜崎(唐津市)まで出動し、ここで二手にわかれ一隊は七山村にむかい、
原田の重臣、笠大炊助の飛び領地を襲い民家に火を放って決戦ののろしを上げた。
もう一隊の大将波多信時は山裾を伝って鹿家村に打って出て、陣を張った。

(二丈町鹿家は町の最西端にあり、唐津市浜崎と隣接する百戸ほどの地区である。
その昔から肥前と筑後をつなぐ山あいの地で、地理的に大切なカナメであり、
両国間の紛争の中心地となっていた。)

この知らせを受けた原田信種は、天正十二年(1584)三月十二日、
(波多の使者が退散してから五日め)
兵三千を引き連れ大将として出陣した。
日ごろ部下や世間からうけている軟弱のそしりを払拭すべく、
この一戦にかける決意はなみなみならぬものがあった。

信種の原田軍は、井原から山北へ抜け、鶴ヶ坂(つるがさこ)へ出る。
噂を聞いた村人およそ五百人は、ここで傭兵として加わった。
この先、一貴山村を越え、片山から深江村へ出た。

ここから原田軍は二隊に分かれた。
本隊信種の軍千五百人は鹿家峠を越え、途中から山の中に分け入り、吉井岳の中腹で待機した。
もう一隊は鹿家峠を越え、鹿家村へ入り、敵の目前まで迫り待機した。

高祖城を出発してから二日、折しも豪雨であった。
雨の音に消され、波多軍は、目前に迫った高祖軍に気づかない。
(まるで、織田信長の桶狭間のような・・・)

突如、鬨の声があがり、原田軍千五百が波多の陣に襲いかかった。
これを合図に、信種の騎馬隊千五百は、吉井岳中腹から逆落としをかけ、
鹿家の麓を目指して雪崩れ込んだ。

不意をつかれた波多軍は、豪雨の中、泥まみれの戦闘となり、
この世とは思えぬ修羅場のなか、陣形は崩れはじめた。
浜崎付近(唐津市)まで逃れた波多軍であったが、ついに大将波多信時が首を討ち取られた。
これを合図に波多軍は総崩れとなり、肥前の岸岳に逃げ帰った。

原田信種の吉井岳中腹からの逆落としは、源義経の一ノ谷の逆落としの戦法であった。


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戦国時代の糸島(二十三)―肥前草野家と波多家―

2009-09-29 20:47:10 | 戦国時代の糸島
その後、九州は大友と島津の対立時代となったが、原田家はしばらく平穏な日々が続いた。
原田信種は十九歳で原田四十六代の当主となったが、実権はまだ了栄が握っていた。

戦もまつりごとも、まだ不慣れな信種は、百戦錬磨の了栄に伺いを立てるのに気が重かった。
そうするうちに、信種は了栄よりも実父草野宗久(了栄の二男、原田種吉)
に相談することが多くなっていった。
これでは家臣たちもおもしろくない。
やがて、「信種殿は無能なお方らしい」
そんな噂がいつどこからともなく伝わっていった。

この様子にひそかにほくそ笑んだ豪族があった。
肥前岸岳の城主、波多信時である。
波多家は同じ肥前を支配する草野家と、たえず境界のことで争いが絶えなかった。
原田と草野が不和になってくれれば、波多にとっては都合がいい。

天正十二年(1584年)三月、波多信時の弟時実が高祖城をおとずれた。
実は、原田の重臣、笠大炊助(りゅうおおいのすけ)と波多時実とは従兄弟の間柄であったが、
草野家との関係上、久しく交流が途絶えていた。
思いもよらぬ客の訪れに高祖では礼を厚くしてもてなした。
やがて酒宴もたけなわとなった頃、
波多時実は笠大炊助を別室にさし招き何ごとかささやいた。
「無礼者っ」
高祖城きっての忠臣笠大炊助の怒声がひびいた。
「我々は当主や草野家に対して意に添わぬ事はあるとはいえ、
波多と手を組むほど落ちぶれてはおらぬ。
主君や草野家を裏切るような恥知らずひとりももおらぬ」

波多時実がはるばる高祖を訪れた用向きは、どうやら原田家にさぐりをいれるためであった。

笠大炊助については「もうひとりの忠臣笠大炊助」をご覧下さい

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戦国時代の糸島(二十二)―最後の高祖城主、原田信種登場―

2009-09-24 20:26:04 | 戦国時代の糸島
親種の死によって後継者を失った了栄は、天正六年(1578)
肥前草野家に出した種吉の一子五郎が佐賀龍造寺家に人質として預けられていたのを
もらいうけることになり、五郎は佐賀で元服し、原田五郎信種と改め高祖にやって来た。
信種はのちに豊臣秀吉と交渉をもつこととなり、数奇な運命をたどる。
この信種の長女が『怡土・高祖城落城記』岩森道子著―の語り手輝姫である。
輝姫については「もうひとつの悲話―原田の姫―」をご覧下さい。

天正六年十一月、平穏な日々を送っていた高祖城へ薩摩の豪族島津義久の密書がとどいた。
「最近、九州を我が物顔に牛耳っている大友宗麟の倣慢は許し難いものがある。
よって、只今、島津家は大友打倒に乗り出している。
大友は原田家にとっても、かつては大内家とともに戦った積年の宿敵と聞く。
我々と共に大友打倒に立ち上がって頂きたい」

いったん静まっていた了栄の血が再び騒ぎ出した。
使者をねんごろにもてなした了栄は、
「大友打倒こそは了栄一生の念願である。志を同じうするわれら、この目的の完遂のため働こう」
という意味の返書をかえした。

天正六年十一月、日向の国、耳川の合戦で大友軍が島津軍に大敗したという情報がはいった。
了栄は、全怡土、志摩に号令して大友打倒の大軍をつのった。
池田川原の合戦以来、志摩の豪族たちも大部分が原田方になびいていたので、
勢い、高祖に駆けつけた。

天正七年七月、粕屋郡の立花城を出発した大友軍は、姪浜から船に乗り横浜に上陸。
陸の方からは日向峠白石坂に寄せてきた。
やがて、小金坂を中心に怡土全土は双方五千の兵士で激戦となった。
地の利を得た原田軍に大友軍は形勢悪く、ついに博多をさして敗走した。
これ以来、原田家は九州で勢力を伸ばしていった。

いきおいに乗じた了栄は、再び北崎の草場城を攻めた。
急を聞いた立花城から救援軍が差し向けられたが、生の松原で撃退された。
こうして、草場城も原田の勢力下となった。
原田了栄、この時七十歳であった。


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