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羅漢さんの托鉢日記

私の勤める、葬儀社羅漢では、お客様お一人お一人を訪問する、営業方法をとっています。これを托鉢と称します。  

戦国時代の糸島(二十一)―波呂龍国寺再興―

2009-09-21 20:04:43 | 戦国時代の糸島

二丈町波呂の龍国寺


それにしても、戦国時代とはいえ何という因果であろうか。
四人までなした男子のうち長男種門と三男繁種を、志摩、岐志の浦で自決に追いやり、
二男の種吉は肥前草野家に養子に出し、いまや怡土(いと)に残るのは我が後継者にと願っていた
四男親種であったのに、この最愛の親種までも非業の死に追いやってしまうとは。
孤影悄然の原田隆種(了栄)であった。

親種が自害して果てた天正二年(1574年)
原田了栄は、三百七十年前原田種直が、平重盛を弔うために建てた波呂の極楽寺を、
再興して、名も曹洞宗龍国寺と改め、親種の霊を手厚く弔った。
原田家第一の武将といわれた了栄、六十五歳になっていた。

ー折しも今日、波呂のお客様より満中陰のギフトの注文がはいり、
その帰り道、彼岸花に彩られた龍国寺に立ち寄った。
境内にある龍国寺沿革には次のように書かれてあった。ー

「曹洞宗萬歳山龍国禅寺は建仁三年(1203)小松内大臣平重盛公の菩提の為
重盛公を開基とし高祖城主原田種直公創建の寺なり
初め小松山極楽寺と号し徹慶智玄大和尚を請じて開山となし天台宗の寺なりしが
至徳元年(1384)足利将軍義満公伽藍仏像を造立し允祐大和尚を請じて曹洞宗となる
その後天正二年(1574)高祖城主原田隆種公は四男親種公菩提の為寺を再興
号を萬歳寺龍国禅寺と改め本室智源大和尚を請じて中興開山となし現在に至る」


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戦国時代の糸島(二十)―原田親種の最後―

2009-09-16 20:53:13 | 戦国時代の糸島
その時、親種は不在だった。
大友の使者を待たせたまま、高祖城は小田原評定さながらに時はむなしく過ぎていく。

以下、『怡土・高祖城落城記』―岩森道子著―より引用します。
このくだりは誰しも衝撃をうけざるを得ない。

待つこと五時間、ようやく付き人を連れて親種さまとその妻、珠さまが帰っていらっしゃいました。
「この危急なとき、どこに行っておった」
曾祖父了栄(語り手輝姫)は声を荒げました。
小次郎秀種さまが亡くなって今日で五年になります。
生きていれば十五歳なっていらっしゃいました。親種さまは妻の珠さまと話し合って、
小次郎さまが祭られている今宿叶ヶ嶽の地蔵尊にお参りに行かれていたのでした。
彼らは月に一度は足を運んでいらっしゃいます。今日がその日でした。

書状を手にした親種さまに苦渋の色が見えました。
(戦になれば勝ち目はない)
唇をかんで書状にしばらく目を落としていらっしゃいました。
(この戦、火を消し止める以外、方法はない。さもなければ、怡土は滅びるだろう)
親種さまは考えあぐね、
(相手は天下の武将だ。こちらの腹をみせれば、わからぬ男ではない)
毅然としてお顔をあげられると、
「父上、この下知状、拙者にお任せくだされ」
胸に手をおいておっしゃいました。
何を決断なさったのでしょうか。彼は付き人に、
「ここを動くではないぞ」
と言い残されて城の外に出て行かれました。

付き人は親種さまのご様子に殺気を感じて、急ぎその後を追いました。
城の一角に伊勢城戸口のやぐらが建っています。
親種さまはそこへ行き着くや、やぐらに梯子をかけられました。
心配して外に出てきた重臣たちは、何事かとあっけにとられて見守りました。
彼は素早く梯子を登っていかれました。
いち早く主君の危険を察した家臣がやぐらを見上げて、
「殿、何をなさいます」
と叫びました。親種さまはやぐらから見下ろして、
「登ってくるでない」
と申されると、かけていた梯子を引き上げてしまわれたのです。
「大友の使いの者たちを、丁重にこの下に案内されよ」
穏やかな口調でございました。
間もなく三人の使いの者たちが連れてこられました。
「そなたたち、大友宗麟の使いの者に相違ないな」
親種さまが確かめると、やぐらを見上げていた使いの者たちはひれ伏しました。
「では、大友宗麟の、使いの者に、もの申す」
親種さまは、ゆっくりと、大音声で申されました。
森閑とした高祖山の森の中から、やまびこが、ゆっくり返ってきました。
「拙者が今から申すことを、しかと聞き、大友宗麟に申し伝えよ。原田了栄の首が欲しいと聞いた。
だが無駄な戦をして、尊い血を流したくない。よって、ここに四十五代城主原田親種の首を献上する。
大友宗麟に、わしの首をしかと手渡せ」
左手で自分の髷をつかむと、右手で首を斬って投げ落とされたのでございます。
親種さまのお体は前のめりに倒れて、真っ逆さまに地上に落ちていきました。
驚いた家臣たちは立ちつくしました。殿っ、殿っ、と親種さまの周りに駆け寄って、
「なぜ、かようなことを」
「ほかに方法があったものを」
あとは声になりません。おろおろと、なすすべもなく、とりすがって号泣されました。

曾祖父了栄は、目の前の惨事の重大さを把握できずに、家臣の後ろの方で自失呆然として
立ちつくしていらっしゃいます。
重臣たちは輪になって急ぎ協議なさいました。
(若殿は大殿の身代わりになって命を絶たれ、怡土の危急をお救い下さったのだ。
若殿の意志を大切にせねばならぬ。それには、後々大友から難題を持ち込まれては
若殿の死が無駄になる。そのためにも、ご遺骸が四十五代原田種親殿と間違いないことの確認を、
使者たちに請うべきだ)
 意見はまとまりました。(中略)

「この首級(しるし)頂戴つかまつる。持ち帰り、ご返答は帰国したうえ親書にて申し上げたい」
と申し出たのでございます。
「無礼者っ。何を申す。」
さがれっ、さがれっ、祖父了栄は使いの者を一喝、握りしめていた拳を震わせて、烈火のごとく
お怒りになりました。
この恨みが尾を引いて、再び大友との戦に拍車をかけていくのでございます。

―その夜、十数人の重臣や家臣たちが親種を慕って、割腹して果てた。
知らせを受けた大友宗麟宗は、親種の豪胆な気迫を賞賛し、その死を惜しんだ。
原田に奇襲された恨みは骨髄に達していた宗麟であったが、親種の意志を尊んで、引き下がった。
親種三十一歳。惜しまれる若さであった。


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戦国時代の糸島(十九)―前原市潤の山茶花塚―

2009-07-19 19:09:19 | 戦国時代の糸島

前原市潤の山茶花塚


前原市潤の専徳寺


前原市潤に専徳寺という浄土真宗のお寺がある。
そのすぐ脇に、山茶花(さざんか)塚はひっそりとあった。

眞清水観音、平等寺址臼杵塚(さざんか塚)
  元亀三年(1573)正月
  部下とともに壮烈な最期を遂げた臼杵進士兵衛らを弔うため
  塚を建てさざんかを植えた

朽ちかけた立て札にはそうあった。

「そのご大友は、この平等寺境内に進士兵衛以下二十八人の塚を建てて供養したが、
里人たちはこの塚に一本のさざんかを植えて哀れな人々の冥福を祈った。
この平等寺境内の一部は、いま潤の益水観音(ましみずかんのん)になっている。
このときに植えられた山茶花はその後枯れはてたが、だいだい里人によって植えつがれ、
いまでも冬がくれば清らかな花を枝頭に咲かせ、三百八十八年前の悲劇を物語るかのようである。」
『戦国糸島史』―中野正己著―糸島新聞社、昭和三十五年五月初版

ところが、この大戦をひきおこしたのは、原田方の情報ミスのためであった。
臼杵方が池田河原に結集しているという情報は誤りで、
実は、潤の平等寺参詣の途中であったのを、原田方が奇襲をかけてしまったのであった。
原田は、大友に対し負い目をおうことになった。

この報が、立花城にとどくや、大友宗麟は激怒した。
原田を討つべく、すでに豊後に隠居していた前城代、臼杵新介を呼び寄せた。

天正二年(1574年)四月、大友宗麟の下知状を持って臼杵新介の名代が草場から高祖へやってきた。

仕掛けてきた戦、いつでもお返し致す
次回、原田了栄の首、確かに頂き申す
             大友宗麟

北九州に覇を唱となえる大友宗麟からの下知状である。
原田方は色を失った。

このことが原田親種に悲劇をもたらすのであった。

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戦国時代の糸島(十八)―池田河原の大決戦―

2009-07-16 21:06:23 | 戦国時代の糸島
それから程なくしたある日、
高祖の了栄のもとに、臼杵方約五十人程が池田河原に結集しているとの情報が入った。
すわこそと了栄、池田河原を奇襲せよとの命を下した。

不意をつかれた臼杵方は形勢悪く、草場城に急を伝える一方、救援を付近の郷士に求めた。
たちまち志摩の豪族達が援軍に駆けつけ、狭い池田河原は兵や馬で殺到した。
戦を避けたい親種ではあったが、有無を言わせぬ形勢に千三百余騎を追加して討って出た。

原田の総勢約二千騎。
草場城からも臼杵進士兵衛が駆けつけ、
池田河原に空前の戦乱絵巻を繰り広げた。

地の利を得た原田方に対し、臼杵方は形勢悪く、次第に敗色が濃厚となる。

おりから降り出した大雪を蹴散らしながら敗走にかかる臼杵方であったが、
折り悪く志登、泊間の干潟が満潮のうえ、
(現在では陸続きであるが、当時はまだ海であった―いわゆる「糸島水道」ということになるが、
最近の調査により、糸島水道はなかったという説がある)
猛烈な吹雪が加布里湾の方から吹き付け、とても渡ることができず、
やむなく潤(うるう)の大友支配下の平等寺に入り、
最後の拠点として防戦した。

しかし、勝ちに乗じた原田方の急追に、臼杵進士兵衛以下二十八名は、
もはやどうすることもできず、寺に火を放ち潔く自刃した。

"降りしきる雪の中に燃えあがる寺の大伽藍(がらん)が、
さながら悪魔の舌なめずりのように、
寒い糸島の夜空を、いつまでもえんえんとこがした。
元亀三年(1573年)旧正月二十八日の夕刻のことであった"
("から戦国糸島史―中野正己著―の美しい描写のままに記しました)

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戦国時代の糸島(十七)ー西区今津の毘沙門天ー

2009-06-26 20:58:57 | 戦国時代の糸島

今津誓願寺の不動明王像

西区今津毘沙門山の麓に、誓願寺というお寺がある。
西区小田のお客様を訪ねた帰り道、
「誓願寺毘沙門天」の看板に誘われて立ち寄った。

かねてより「戦国糸島史」―中野正己著―で読んでいたこともあり、
一度お参りしたいと思っていた。

そのくだりをそのまま記してみます。
やがて元亀三年(1572年)の正月となった。
怡土、志摩の春は、戦いを忘れて平和そのものである。
高祖の館では一族郎党の年賀も終わり、了栄、親種の父子は、
久しぶりに差し向いで迎えた新春のよろこびに浸っている。
父の了栄が六三歳,子の親種が二九歳。

「ときに親種、そちが無事に帰ってきてくれてわしもこんなうれしいことはない。
これというのも日頃信ずる毘沙門さまのおかげであろう。
わしはぜひお参りせねばならぬ」
「ならば拙者も一緒に」
「いや、そちは原田四十五代を継ぐ大切な身、館に残って心ゆくまで休養するがよい」
「はい。それにしても父上、もう戦いはコリゴリでございまするなア。
わずかな土地をとったの、とられたので、親や兄弟の命までかけて戦うなど、
もはや拙者は飽きました。戦いさえなければこんなにたのしい春が、
いつも訪れるにきまっていますものを・・・」

「ほんにのう。思えばわしの生涯は。いくさの連続であった。世間も悪いが、わしも悪かった。
たしかに血迷っていた。四人の子をもちながら、長男と三男は罪もないのに殺し、二男の種吉は
早くから草野家に養子に出してしまい、おまけに可愛い孫までもうしなってしまった。
いまから頼りとするのはそなただけじゃ。親種、きっと身を大切にして長生きしてくれよ」
「父上もどうぞお大切に・・・」
いつにない了栄のやさしさも、平和の春なればこそであった。―

坂を少しのぼりおえると、どなたか作業をしていた。
「ご住職ですか?」そう声をかけると、剃髪されたご住職が、柔和に応じてくれた。
「今津の毘沙門さまはこちらでよろしいのでしょうか?」
「あの~毘沙門天の像というか・・」
「お姿ですか」
「はい」
ご住職は上の方に手をかざされて、
本堂の正面に阿弥陀様、その左側に毘沙門天がおわすと言われた。
「お参りさせて頂いてもいでしょうか」
「どうぞ」
お言葉に甘えて本堂にあがらせていただいた。

「毘沙門天は山の方にもあるのでしょうか?」
そう尋ねると、
お山の方(毘沙門山)のお堂にあるが鍵がかかってありお姿を見ることはできないそうだ。
原田了栄はお山の毘沙門さまをお参りしたのだろう。

正月十六日の春はうららかに晴れていた。
原田了栄はかねての念願どおり、(中略)十数名をお供にして今津毘沙門もうでに出発した。
毘沙門山の南には大友の臼杵新介の出城があり、いわば敵地にいる覚悟がいりました。

お礼参りを無事終え帰路についた原田了栄一行を臼杵勢の伏兵がとりまいた。
「卑怯な、臼杵新介の指図か」
「新介だと、まだご城代の変わられたことも知らぬとみえるわ」
志摩と怡土間は、しばらく戦闘のない平和な時期が続いていたが、
臼杵新介が志摩郡政所職を辞し、臼杵進士兵衛鎮氏がその後任として来ていることも知らずにいた。

虎口をのがれて高祖に帰り着くことができた了栄であったが、心中おだやかでない。
もう争いはやめたと思っていた臼杵が、事もあろう城代をかえて、
やはり、この原田をねらっていると知った原田方は、ふたたび戦備をととのえはじめた。


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戦国時代の糸島(十六)―原田小次郎秀種の死―

2009-06-09 20:58:43 | 戦国時代の糸島
大友軍四千と原田軍三千は、あかつきの生の松原を舞台に、
互いにシノギを削る大激戦をくり広げたが、
地の利を得た原田軍におされ、大友軍は次第に海岸の方へ退きはじめた。

そのしんがりをうけもった大友の大将、後藤隼人佐(はやとのすけ)が、
原田方の波多江修理進(しゅりのしん)の槍に倒れたのを機に大友軍は敗走した。

親種は無事原田軍と合流したが、あわれ一子小次郎、
激戦のさなか、その幼い命を落としてしまう。わずか十歳であった。

原田了栄は凱旋した親種の成人ぶりに喜んだものの、
たったひとりの孫の死に、狂気せんばかりに泣き崩れた。

毛利の地を出陣した親種が、怡土高祖城に滞在して、
やがて一年の月日がたった。

すなわち永禄十二年(1569年)
主君毛利元就と大友宗麟の大軍が博多でぶつかり、
かつて大内義隆が築き上げた博多の町は戦火で焼き尽くされてしまった。

そして運命の子親種は、毛利に戻ることなく、
高祖城で、やがてその生涯を終えることとなるのだった。


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戦国時代の糸島(十五)―原田親種―

2009-05-25 20:22:25 | 戦国時代の糸島
原田種門、繁種兄弟が志摩町岐志の南林寺門前で自刃してから、
原田家は後継者がいないまま、十年の歳月が流れたが、
原田了栄の四男親種は依然毛利家にあった。

自分のあずかり知らぬところで起きた出来事とはいえ、
我が身の存在が引きおこした悲劇に、親種の胸中はいかばかりであったろうか。

了栄がゆくゆくは原田家の後継者にと決めていただけあって、
親種は、毛利家にあっても、ひとかどの武将になっていた。

原田家の後継者なる意志など微塵もなかった親種であったが、
しかし運命の歯車は、親種を怡土原田家へ引き戻さずにはおかなかった。

そして、事件は起きた。
永禄十一年(1568年)六月、粕屋郡立花城主、高橋鑑載(のりとし)が、
主家の大友に(大友宗麟の代)反旗をひるがえした。

毛利家(毛利元就の代)はかねてより九州進出の機をうかがっていた。
当時九州を支配していた大友にとって代わる、またとない機会である。
ただちに兵八千をもって、立花城救援にさしむけた。

原田親種も十歳になった長男小次郎秀種を伴い、この軍の一将として参加した。
大友は原田家にとっても、積年の仇敵である。

蒙古襲来の弘安の役(1281年)の折、豊後の国(大分県)大友氏は大いに手柄を立てた。
その功績により志摩郡を与えられ、北九州に勢力を広げた。
志摩草場の柑子岳(こうしだけ)にその居城を置き、高祖城の原田氏と攻防をくり返してきた。

毛利八千の軍は玄界灘を船でおしわたり香椎に上陸したが、
時すでに遅く、立花城は大友によって落とされていた。
上陸した毛利の援軍は、大友に迎え討たれ敗走した。
原田親種の一軍はほど近い名島城にひとまず立てこもった。
立花城主、高橋鑑載らも一時は名島城に立てこもったが、
さらにここを出て新宮浜にむかう途中、追手に追われて割腹して果てた。

この立花城攻略のおり、大友の一族、草場城の城代「臼杵新介」も参戦したが、
その留守に乗じて、原田了栄は草場城を奪った。
これを聞いた臼杵新介はとって返し原田勢を撃退、
草場城を奪回し、勢いに乗じて永禄十一年七月十九日、高祖へ攻めのぼった。
しかし、今度は原田に攻められ池田川ぞいに草場に逃れた。

さて、名島城に退いた原田親種らは、同八月二日またもや立花城攻略に奮い立ったが敗北した。
将兵の多くは戦死したり、中国(山口県)へ逃れたりした。
原田種親も高祖に帰ることを決意し、血路を開き博多へ向かった。

高祖の了栄のもとに親種から援軍を乞う早馬が届いた。
了栄はただちに兵三千をおくった。
東から親種軍を追う大友軍四千と、西からこれを救おうとする原田軍三千は、
生の松原でぶつかった。(この地は蒙古軍が襲来した場所である)
時、永禄十一年八月五日の明け方であった。


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戦国時代の糸島(十四)―もうひとりの忠臣,笠大炊介―

2009-05-20 21:19:37 | 戦国時代の糸島
原田家武将の第一人者、原田了栄ともあろう人物が、重臣のたくらみに乗せられ、
我が子を死に追いやった事は、終生償うことのできぬ失敗であった。

原田了栄に本木道哲の悪計を告げたのは、やはり、重臣のひとり、
笠大炊介(りゅうおおいのすけ)だった。
種門、繁種兄弟から、“爺”と呼ばれ親しみ頼りにされている人物である。

彼は、家中の者からも信頼厚く、高祖城落城まで原田家を支えていく。
秀吉の九州進出の折りも、原田家の危機を救おうと孤軍奮闘する。
「輝姫」高祖城脱出の折りもやはり、最後の高祖城主信種の側に控え、
輝姫様の無事を祈っていた。

そんな大炊介の諌言(かんげん)にさすがに了栄も目が覚め、道哲追討の軍を出した。
事が破れた道哲は早良方面に逃れていくが、従ってきた雑兵達もひとり抜けふたり抜けして、
早良の羽根戸村にたどり着いた頃には、わずか父子三人だけになっていた。

やがて追っ手の手により道哲父子の命も露と消えた。
陰謀が成功してわずか一日あまりのことであった。
このことがあってすぐ本木の家は断絶した。

みずからの不明から悲劇を招いた了栄の悔恨はいかばかりであったろうか。
了栄は、当時廃寺同様になっていた志摩町岐志の善福寺を再建し、
亡き種門、繁種兄弟の菩提寺として冥福を祈った。
(種門、繁種兄弟はこの善福寺の門前の井戸端で互いに刺しちがえて命を絶った)

後年、原田家が滅亡してから、ふたたび廃寺となっていたが、
福岡藩主黒田忠之がこの史実を知っていたく同情し、
朝倉郡にあった“南林寺”をここに移し、今に至っている。


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戦国時代の糸島(十三)―原田種門、繁種兄弟の悲劇

2009-04-23 21:11:12 | 戦国時代の糸島

志摩町岐志の南林寺

原田種門、繁種ら十数名の一行は、
高祖山を間道づたいに女原(みょうばる)―福岡市西区―のほうへ下り、
篠原から荻の浦へ、長野川を渡り神在、―前原市―
松末―二丈町―を過ぎ、西へ西へと急いだ。

地図を広げてみると、ちょうど国道202号を西へ走るルートに相当するが、
当時は大変な脱出行だったにちがいない。

片山まで来て暗い海が見えたとき、部下のひとりが、
これから先は一本道、道哲の軍はまちがいなくこの道を追ってくる。
このまま進むより海路をとったらどうかと言う。

大崎の鼻をまわり、外海にでてみると大時化であった。
舟を面舵(おもかじ)にとって岐志浦(志摩町)へと急いだ。

岐志にたどり着いた一行は疲れきった体を、やっと休めることができた。
その時、大原備後が口を開いた。
「我々の頼る先といえば、一番近い縁者の草野家と誰しも考えます。
種吉殿(了栄の次男、肥前草野家に養子に出されていた)を頼るのは危険ではありますまいか」
種門も同意し、親戚筋にあたる壱岐へ落ちのびることにきまったが、
壱岐に渡る舟を待つうち、日は五日、十日と過ぎ去った。

一方、種門兄弟をとりにがした本木道哲は八方追討の手をのばしたが、
その行方はまったくつかめない。
まさか、岐志浦の一隅に身を潜めているとはおよびもつかなかった。

ある夜半、岐志のかくれ里からひとりの郎党が消えた。
不憫な種門兄弟の身の上を思い、いま一度高祖城主原田了栄に訴え、
無実の罪をはらすべく、決死の脱出であった。

しかし、郎党のその悲願はアダとなった。
彼は高祖に着く前に、道哲の部下にとらわれ、種門主従のありかを知られた上、
その場で切りふせられてしまった。

1557年8月17日の朝、
道哲の手勢がこのかくれ里をとりかこんだ。
種門主従は必死に応戦するが、いかんせん多勢に無勢、たのむ大原備後も討ち死にした。
もはやこれまで、種門、繁種兄弟は血路を開いて南林寺の門前にある民家の井戸端まで
逃れてきた。

二人は武具を脱いで、井戸のかたわらの石へなげかけ、井戸水で体を清め、
互いに刺しちがえて命を絶った。原田種門二十二歳、繁種十八歳であった。

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戦国時代の糸島(十二)ー忠臣の死ー

2009-04-06 22:37:06 | 戦国時代の糸島
原田了栄には四人の子がいたことはすでに述べた。
天下の武将とうたわれた了栄も家庭人としては凡庸であった。
四男の親種だけが後妻との間に生まれた子であったが、不幸はそこから起こった。
了栄はこの親種を後妻ともども偏愛し、ゆくゆくは原田家を継がせたいと思っていた。

弘治三年(1557年)八月七日。
その日、種門、繁種兄弟は高祖山の山頂にあった。
二人は幼少の頃母を失い、義母にうとまれて育った。
特に種門が原田家に恩義のある大内義隆の娘を内室に迎えてからは、
義隆の妻には邪険にし、了栄も後妻の顔色をうかがうありさまで、
ことあるごとに種門、繁種兄弟を遠ざけたい素振りを見せる。
家中も了栄に追従する派と、兄弟を擁護する派に分かれていた。

聡明な種門がそのような状況をくみ取れないわけはない。
いずれは高祖城を出ねばなるまいと考えていた。

そんな中、陰謀をめぐらす大老がいた。
本木道哲という。
二人が山に登ったと知った道哲はこの時とばかりにその陰謀を実行にうつした。

種門、繁種兄弟が山を下りようとしたとき、
「若殿っ、若殿っ」
十数名の家臣と共に駆け込んできたのは大原備後であった。
「殿、父、大原長為からの火急の伝言でございます」
「本木道哲のはかりごとにご城主が乗せられて、ご兄弟を討ってこいとのご命令を下されました」

備後の話によれば、
種門、繁種兄弟が原田家の後継者になれぬ事を恨み、二人は密かに大友方に寝返り、父了栄を討ち取る計画を企てている。
近頃たびたびの外出もすべてそのためのはかりごとの相談ですぞ。
道哲のはかりごとに、了栄はさもあろうと乗せられた。

了栄を言葉巧みにだました道哲は、一抹の不安を払拭すべく、
妹婿、大原長為にも了栄に話したとうりのことを語り協力を求め、盤石のものにしようとはかった。
道哲と同じ大老の大原長為はしかし、忠節一筋の男であった。
常日頃、道哲にかいま見る不審から、これは道哲の陰謀にちがいないと洞察したが
「是非もない。ご同行しましょう。用意をしてきますのでしばらくお待ち下さい。
言い置いて、一子備後を呼び、事の次第を告げ、
「急ぎ山に登って、ご兄弟にこのことを告げ、肥前草野どの(二男種吉の養子先)を頼って、
すぐさま落ちのびられるよう申し伝えよ。お前も一緒について行け」

さあらぬ態で、道哲の前に戻った長為は、
「しかし兄上、山に登っているご兄弟を探すより、やがて夕刻にもなれば山を下りてこられましょう
それを待ちぶせて、討ち取ってはいかがです」と説いた。
・・・やがてあたりは夕闇につつまれ、道哲に不安の色がみえはじめた。
さては、長為にはかられたかと気づいた道哲、
「長為、この義兄を裏切りおったな」
「兄上、原田家からうけた恩義をお忘れか。ご城主をいつわり、若殿をあざむくとはなにごとぞ」
ひとり、命を張って種門、繁種ご兄弟の難を救った大原長種だったが、
多勢に無勢、道哲らに切りきざまれ、ついに絶命した。

戦国糸島史の文をかりれば・・・
夜露がしとしとと忠臣の死骸のうえにおりた。
長為の墓は香力(前原市)の西方、通称“はから山”にある。


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