
唐原ー落人の里の案内板
都見石より玄界灘を望む
都見石付近より千寿院を見る
千寿院の滝への道
石崎の交差点より満吉の集落を経て、車で十五分程登ると、
ここ唐原の里(福岡県二丈町)につく。
入社当時、托鉢の足をのばし、S先輩と一度訪れたことがある。
慣れない托鉢で私に疲れが見えると、この地糸島の旧跡に誘ってくれたものだった。
この地に伝わる平家の悲話はこの時知った。
久々に訪れると、この里は菜の花に彩られていた。
平安時代末、栄華をきわめた平家の勢いにもかげりがみえはじめ、
源氏によって都を追われた人々は、西国の各地の隠れ住んだ。
この唐原の地にも、平清盛の子である平重盛の内室と千姫、福姫という
二人の姫たちの落人伝説が残こされている。地元の有力者である原田種直を頼り、
数少ない家来たちと共に逃げ延びてきた姫たちは、安住の地を得たかに思えたのもつかのま、
源氏の追手によって殺害されてしまったという。
いつの日にか都に帰れることを待ち望んでいた幼い姫たちは、
下界を望む大石の上に立ち、遠い都での華麗な生活を懐かしんでいたと言われる。
都見石と呼ばれるこの大石は、今もこの地の残されており往時の悲話を今に伝えている。
案内板にはこのように書かれている。
昭和35年に発行された『戦国糸島史』(中野正巳著)という本がある。
当時、糸島新聞社に連載されていたもので、糸島の郷土史を伝える貴重な書である。
“神功皇后の足跡”で紹介した『糸島風土記』もこの方によるものであろう。
この『戦国糸島史』に原田氏と平家とのつながりが書かれてある。
糸島の歴史を語るとき、原田氏を抜きには語れない。
原田氏の歴史をさかのぼれば、遠く応神天皇のころにまでおよぶ。
「原田氏の先祖は漢民族(中国人)の出身で、内乱により王位を奪われた二十九代阿知王というのが
東方に聖主ありと聞き、その子都賀使主及び七姓氏、十七県人をひきいて日本にわたってきた」
とこの『戦国糸島史』には書かれてある。
さて、時代はくだり保元の乱・平治の乱の時、原田種雄、種直父子は平氏の勢に加わって戦った。
種直はしだいに平氏と縁故が深くなるにつれて永歴元年(1160年)平重盛の養女を妻にもらった。
こうして、種直はだんだん平家におもんぜられ、重盛の推挙により従五位下となり、太宰少弐となった。
寿永二年(1183年)源頼朝、木曽義仲の勢が京都へ攻めのぼるといううわさは、
平家一門をあわてさせた。そしてこの年七月、平家は幼い安徳天皇を奉じて福原(神戸)へ都を移した。
そしてそのまま西下していくのである。
こうして、平重盛の内室も亡き夫の霊を弔いながら、二人の姫と共に落ち延びていくのであった。
この時ふと思い出されたのは、夫が生前その養女を嫁がせた筑紫の太宰少弐、原田種直のことであった。
高貴の女性が、時の流れとはいえ、西国の果てまで、はるばる自分を頼ってきてくれたことに、
種直夫妻は喜びかつ悲しんだ。
平重盛の内室が筑紫郡岩戸村の原田の館に落ち着いたのもつかの間、この年の八月十七日、
平宗盛は、安徳天皇を奉じて突如太宰府にあらわれた。
原田種直は、九州各地の豪族に使者をたてて奮起をうながしたが、これまで平家に味方していた
豪族たちも、平家が落ち目になると、手のひらを返したような態度になり、なかには源氏に味方して、
太宰府に攻め寄せる者もあったというありさまだった。
こうして太宰府もあやうくなり、安徳幼帝一行は四国へと渡り悲劇への道をたどっていく。
一方、重盛の内室一行をより安全な場所へ移すことに心をくだいた種直は、
ついに目に付けたのが、糸島郡の山奥唐原の地であった。
やがて一年が過ぎた。
安全と思われたこの地も源氏の知るところとなり、ついに追手によって二人の姫は殺害されてしまう。
後に残された内室も自刃してはてるのだった。
筑紫で訃報を聞いた種直は、その後満吉に一寺を建立し、千福寺と号して勤行をおこたらなかった。
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