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羅漢さんの托鉢日記

私の勤める、葬儀社羅漢では、お客様お一人お一人を訪問する、営業方法をとっています。これを托鉢と称します。  

神功皇后の足跡―三坂にてパートⅡ―

2009-06-01 21:50:57 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
午後、二丈町から怡土(いと)方面へ車を走らせているとき、携帯が鳴った。
「今いいですか?」
「ちょっと待ってね。車寄せるから」
(そこは車寄せてから電話に出るとこだろうが!)

女子職員の言うには、托鉢日記のブログを見た人からの問い合わせだそうで、
「神功皇后雷山に上らせ給いし時、馬より下りて御鞍を掛け休み給いし所なり」
の“鞍掛石”の場所が知りたいとのこと。
「連絡先を聞いていますので、かけてあげてください」

ちょうど三坂を過ぎて井原あたりを走っていたところだった。
うるおぼえではまずいので、現地まで走って教えてあげることにした。

その方は何度か行ってみたが、
どうしても見つけることができなくてあきらめて帰ったと言われる。

「三坂の交差点から雷山方面に行ってすぐ、最初のビニールハウスを左折します。
すると、“止まれ”の標識がありますので、そこを右折し、
T字路にぶつかり右へ曲がると、すぐそこにあります」

「積年の思いがこれで叶います」

つれずれに書いたブログが役に立って、私もうれしくなった。

ちょうど一年前に投稿した神功皇后の足跡―三坂にてーはこちらです


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神功皇后の足跡―三坂にてー

2008-06-04 18:07:45 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡

数日前の事、
三坂のお客様を訪ねた。
二丈町(福岡県)から県道(大野城二丈線)を東へ走ると、
10分程で三坂の交差点である。
ここを右に登っていくと雷山に到る。

お客様宅を辞した後、いつもなら県道に出るのだが、
この日は農道を通ってみた。
すると、思いもかけずまた、神功皇后に出会った。

4月12日投稿の「神功皇后の足跡(六)」で、
三坂から雷山に向かう神功皇后のことを紹介したが、
実際こんな史跡に出会うと、うれしくなる。

「神功皇后雷山に上らせ給いし時、馬より下りて御鞍を掛け休み給いし所なり」
と書いてあった。

この日、契約となった。


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神功皇后の足跡(八)―最終章―

2008-04-28 20:00:20 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 神功皇后率いる三韓征伐の軍船は、姪浜(西区)の妙見崎をあとにして、
糸島水道を西に向かった。
更に西へと進み、加布里村(前原市)のイトデの軍、数百を加え、
加布里から船越(志摩町)を経て引津浦に錨をおろした。
ここで皇后は花掛山に登られて祈念をこらしたのち、
こんどは糸島水道の西の入口である子負ガ原(二丈町深江)へと向かわれた。

 皇后は、ちょうど産み月に入っておられたが、この機会を逸してはならぬと、
卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。
―『神功皇后の足跡(二)鎮懐石八幡宮』でふれていますー

 皇后の軍船は、ここから壱岐、対馬を経ていよいよ朝鮮海峡へと進まれた。
おりからの時化で船はくつがえんばかり、このとき志賀島(福岡市)の豪族、阿曇(あずみ)
が助け船をだしこの軍団に加わった。
このとき、海中の魚ことごとく浮かんで船を押したという伝説も残っている。

 まもなく皇后の軍は目的を果たして、その年の十二月十四日にふたたび子負ガ原に帰られた。
そして、肌身に抱いていた石を元に返されると、にわかに産気づかれた。
こうしてご出産なされた男子こそ、のちの応神天皇である。

 鎮懐石八幡宮の宮司さんにいただいた資料、『糸島風土記』をたよりに、
神功皇后の足跡を駆け足でたどってきたが、
点描の記述になり、つたないシリーズ物になった。

しかし、神話の世界にいた功皇后という方の人物像が、
私の中ですこし浮き彫りにされた気がする。
チャーミングで、統率力があり、たぶん通力のある巫女であったろうと思う。


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神功皇后の足跡(七)

2008-04-18 18:47:29 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 八反田(前原市川付)の交差点より前原富士線を南に車で七~八分登ると、
白糸の集落につく。ここに神功皇后ゆかりの熊野神社がある。
ここはかなりの高地であり、近くには有名な白糸の滝がある。
今日長野(八反田周辺)を托鉢したその足で、
白糸まで走り懇意にしているお客様を久々に訪ねた。

 神功皇后一行が飯原(前原市)の里で一夜を過ごされたことはすでに書いた。
香椎(福岡市東区)の陣中で亡くなられた仲哀天皇の遺骨をうずめた川付の森は
すぐ目の前にあるが、皇后は心の中で対面されただけで、(このことはまだ秘密にされていた)
すぐに長野川に沿って小蔵(白糸の集落)に向かわれた。
小蔵に登られた皇后一行は、熊野神社で祈りをこめたあと、
さらに峰から峰へと一貴山(二丈町)にくだり、
ついで西にそびえる福吉の浮岳へと駒をすすめられた。
その浮岳は、玄海をゆく船の目印である。
壱岐、対馬を眼下に見下ろしながら、こんどは山麓の道を、
いったん加布里(前原市)の東村まで引き返し、
ここの鷹峰(たかみね)から船で糸島水道(現在では陸地となっている)を東へ向かわれた。

 三韓(新羅)を征伐するはずの皇后一行がなぜ、
糸島水道を東へ向かわれたのだろうか。
いうまでもなく、朝倉郡秋月の羽白熊鷲(はしろくまわし)を討つためである。
(飯原の里で皇后の夢まくらにたたれた日本武尊の示唆に従われたのである)

 皇后はそれから秋月の羽白熊鷲をほろぼして亡夫の仇を討ち、
更に、筑後―佐賀―長崎県下をまわって軍勢をあつめ、
その年の九月に、姪浜(西区)の妙見崎からいよいよ三韓に向かわれることになるのである。


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神功皇后の足跡(六)染井から飯原まで

2008-04-12 12:59:30 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 前回の投稿では、染井の井戸まで書いた。
更に、『糸島風土記』をよりどころに足跡をたどってみます。

 染井にしばらく滞在された神功皇后は、やがてイトデ(伊都県主―いとのあがたぬし)
を先導に、ふたたび高祖山の中腹を南に向かわれた。
当時、大霜(おおしも)というところにあった高祖宮で祈念をこらし、
さらに井原から三雲へとむかわれた。
一行は、三雲の曽根原台地(現在の曽根の住宅あたりだろうか?―rakan-takの勝手な考え)
にあるイトデの居宅で一夜を過ごし、早朝西に進み、三坂(御坂)から、雷山に登ることになった。
雷山中腹の層々岐野(そそぎの)は、当時糸島きっての大集落であった。
イトデの命令によって、ここに集まっていた数百人の野武士たちが、
皇后の一行をよろこび迎えてその勢力に加わった。
勇気百倍した皇后は、さらに頂上にちかい上宮に詣で、ここで三韓遠征の成就と、
亡夫のかたき羽白熊鷲(はしろくまわし)の降伏を祈られたうえ、筒原から不動滝へとくだった。
サガリから鶴ケ坂(つるがさこ)日明(ひあけ)とすすみ、日明の「うぶけの森」というところで
小憩して、武内宿弥(たけうちのすくねー皇后の父であり亡天皇の重臣)らと軍議して、
その夜は飯原(いいばる)の里で一泊することになった。

 そしてその夜、神功皇后の夢まくらに日本武尊(やまとたけるのみこと)の姿があらわれるのである。
そのくだりは、“神功皇后の足跡(三)雉琴神社”に書いたとうりです。
(※日本武尊は神功皇后の亡夫である仲哀天皇の父)

ここまで書いてふと思ったが、そういえば昨日雷山のお客様を訪ねたのだった。


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神宮皇后の足跡(五)

2008-04-04 09:47:22 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡

染井の井戸

 西区周船寺から県道56号線を南下すると、県道左に「染井の井戸」の案内板がある。
(前原市大門)神宮皇后の次なる足跡を辿るには、ここからはじめたほうがいいようだ。
“染井神話”と題した案内板には次のように書かれてある。

 ここの井戸の名を染井の神水といい、糸島の古代が語られています。
「日本書紀」には、仲哀天皇の皇后を神功皇后(息長足姫尊―おきながたらしひめのみこと)といいます。
九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。
大和朝廷の威力を広げるため奈良を出発した天皇の軍隊は、クマソとの戦いで、
仲哀天皇が敵の矢にあたり陣中で亡くなります。
クマソの勢力が強いのは新羅(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、
玄界灘を渡り新羅へ軍を進めようとされました。(以下、略)
そして、この井戸に伝わる神話が簡潔に書かれてあります。
この神話のくだりは“糸島風土記”から引用してみます。

 さいわい三韓に近い糸島や唐津方面のことは、イトデがよく知っている。
神功皇后はこうして糸島へ向われることになったのである。
神功皇后は、折あしく妊娠しておられたが、それをかくして男装され、一行をしたがえて、
まず宝満山から背振山へと向かわれた。
雲をしのいで浮かぶ背振山をみると、あそこから三韓が見えるのではないかと思われたのである。
しかし目にいるのは果てしもない玄海の波ばかりである。
背振を下りた皇后の一行は、さらに早良郡の野方から広石峠ににかかり、高祖山の東方にそびゆる
今宿の鉢伏(はちぶせ)および叶ケ岳(かのうがたけ)にのぼり、ここで悲願成就を祈られた。
これが糸島に入られた第一歩である。かくて谷―徳永-飯氏―高来寺とすぎて染井に着かれた、
皇后の一行は、しばらく染井に本陣をおいて作戦を練ることになった。

 大和の都を出て、すでに二年あまりも過ぎていた。
仲哀天皇が香椎で亡くなられていらい、将兵たちも疲れ果てている。
都こいしさの思いが、いやましにつのるばかりである。しかし皇后は、三韓を征伐するまでは、
ここでヘコタれてはならぬと思った。
将兵たちを鼓舞激励するために一つの奇跡を示さねばならないと思われた。
 ある朝のこと,近くの泉にゆかれた。そこで亡くなった先帝のヨロイを差し上げながら、
「皆の者きくがよい。われわれは先帝のご遺志をついで、やがて遠く海をわたり、
三韓に向かおうとしているが、ゆうべふしぎの神霊があり、もしこの泉の水でヨロイが紅く
染まることがあったら、このいくさは必勝、もし染まらぬことがあれば望みなし、
早々に軍を引揚げた方がよい・・・とのお告げであった。みな心を静めて見られよ」と告げた。
ヨロイは静かに水に入れられた。一刻、二刻、結果やいかにと部将が見守るなかで、静かにヨロイが
引揚げられた。何という不思議!真清水の中から引揚げられたヨロイが色もあざやかに
真紅に染まっているではないか。
「勝ちいくさだ!」皇后も将卒もわれを忘れて叫んだ。
みんなの心には、すでに戦わずして敵を呑む勇気がうえつけられた。
ヨロイはバラバラにほぐされて近くの松の枝に干され、さらに、岩の上に干された。
(中略)
 ヨロイを染めた染井は、その後寛延四年(1751年)ときの郡長である永田清十郎(今宿の人)
によって玉垣がめぐらされ、石の鳥居が建てられ、今でも清浄の地域として地元のひとたちによって
常に清掃されている。

以上が、“糸島風土記“からの引用です。


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神功皇后の足跡(四)

2008-04-01 16:40:21 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡

宇美八幡宮


 前回の投稿までは、神功皇后の足跡を点描のカタチで紹介した。
今回からは、その足どりを順を追って辿ってみたいと思います。
鎮懐石八幡宮の宮司さんのご好意に応えるためにも。

 これよりは、宮司さんにいただいた、“糸島風土記”
(昭和35年10月~11月にかけて、糸島新聞に連載されたものです)
にをたよりに、紹介していこうと思います。

 大和朝廷の仲哀(ちゅうあい)天皇は、(西暦390年の頃)妻の神功皇后をつれて、
九州に向かわれた。それは九州一帯にはびこるクマソという豪族を討つためであった。
そのころ糸島には、伊都県主(いとのあがたぬし)という役目をもつイトデという者がいた。
彼は博多湾から糸島水道(現在では陸地となっているが)にかけて勢力を張っていた豪族で、
ただちに水軍を率いて、天皇夫妻を糟屋郡香椎の地に迎えた。
そのころの天皇は五十一歳、神功皇后のお齢は明らかではないが、まだ二十幾才の若さであった
ようである。
ところが、まだクマソをお討ちにならぬうちに、翌年の二月、クマソの一味である朝倉郡秋月の
羽白熊鷲(はしろくまわし)におそわれ陣中で亡くなられた。
さすがに皇后も一時は呆然となられたが、ここで力を落としてはならぬと、自分の父であり、
天皇の重臣である武内宿弥(たけうちのすくね)らと協議した結果、
当分の間、天皇の死を秘密にし、その遺骨を、どこか遠いところへ葬るようイトデに命ぜられた。
 仲哀天皇の遺骨を乗せた船は、イトデの先導により、勝手知った糸島水道を西へ進んで、
前原町(当時の記載のまま)東の湾岸(そのころまでの東は海岸であった)に上陸し、
やや奥まった長糸川付の小高い山にうずめた。
これが神功皇后と長糸の関係のはじまりである。
 仲哀天皇の墓所というのは、今の宇美八幡の裏手に「奥の院」として祀ってある。
(以上が「仲哀天皇の遺骨、長糸へ」という見出しで書かれた稿の大意です)

前原市川付にある、宇美八幡宮の長い石段脇の案内板に、その祭神の名が記されている。
上宮―仲哀天皇、 
本宮―気比大神、応神天皇、神宮皇后,清瀧権現、玉依姫、瓊々杵尊とある。


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神宮皇后の足跡(三)雉琴神社

2008-03-27 13:20:15 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 二丈町から県道大野城二丈線を東へ走ると、
県道沿いに『雉琴神社』(前原市飯原)がある。
ここも神宮皇后のゆかりの地である。
祭神は日本武尊である。
このいわれについては、『古事記』に記述されているらしい。
神社の石碑には次のように刻まれている。

 昔、神宮皇后高須より御坂(三坂)を経て雷山に登り給い
層々木岳にて天神地祇を祀り戦勝を祈り給う後山サガリ(嵯峨里)
給い此所に宿陣し給う夜夢枕に日本武尊がたたれ賊徒討伐の法を
教えられたという・・・

そのくだりについては鎮懐石八幡宮の宮司さんにいただいた資料、
“糸島風土記”から引用してみます。

飯原の奇夢
 その夜、皇后の夢枕にむかしの武人である日本武尊(やまとたけるのみこと)
の姿があらわれた。そして、
「そなたが三韓を早く討ちたいという気持ちはわからぬではないしかし秋月の羽白は
亡夫のカタキである。かつ先帝は、そなたの意見とちがい羽白をさきに討とうと主張
されていたではないか。ここはひと先ず三韓をあと廻しにして、秋月に向かった方がよい」
と告げるや、そのまま姿をかき消してしまった。
 その夜が明けた。皇后はまどろみの中で美妙な琴の音をきかれた。
そしてふと目をさましてみると、いま明けようとする東の窓に、
一羽のキジが美しい羽根をひろげてとびったていった。
「なんという美しい」
 武将とはいえさすがに女性、ゆうべの夢といい、けさの琴の音やキジの羽根といい、
この地こそこの世の極楽郷であろうと思われた。
 そのご、皇后は三韓から凱旋されたのち、この地に日本武尊の霊をまつり、
名も雉琴(きじこと)神社と命名された。


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神功皇后の足跡(二)鎮懐石八幡宮

2008-03-26 20:12:42 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 鎮懐石八幡宮御實記などによると、
神宮皇后は懐妊のお身体でこの地を通って
朝鮮半島に向かわれたときに、
卵形の美しい二個の石を求めて肌身に抱き、
鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。
願いは叶って帰国後宇美の里(現在の前原市川付)で、
応神天皇をご安産された。
そこで、神宮皇后がこの石を、
子負ケ原(二丈町深江)の丘上にお手ずから拝納されてより、
世人は鎮懐石としてその奇魂(くしみたま)を崇拝するようになった。

 今も鎮懐石は、ここにご神体として祀ってある。
鎮懐石八幡宮の宮司さんからいただいた資料によれば、
「和銅五年(712年)に編纂された古事記のなかに、その石(鎮懐石)は、
筑紫の国の伊斗(イト)の村にあり」とあります。


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神功皇后の足跡(そくせき)

2008-03-25 12:48:21 | 糸島の歴史ー神功皇后の足跡
 鎮懐石八幡宮ー登りつめて撮りましたー

 この糸島(前原市、志摩町、二丈町、福岡市西区の一部)を、
托鉢していると、いたるところで、神功皇后ゆかりの地に出あう。

私は、糸島に移り住むまでは、
神功皇后のことをよく知らなかった。
名前だけは知っていたような気がしているが。

神在神社しかり、雷神社しかり、雉琴神社しかり、染井の井戸しかり、
鎮懐石八幡宮も、またしかりである。(まだまだあるらしい)

神功皇后の三韓(朝鮮の南部)征伐の歴史(神話?)を知ったのも、
托鉢をするようになってからのことである。

西暦390年ヤマト朝廷仲哀天皇の頃、その妻神功皇后は、
当時、九州一帯にはびこるクマソという豪族を討つため
天皇と共に九州に向かわれた。
ここから、この糸島での神功皇后の足跡がはじまる。

 さて、数日前、雨の日だった。
会社から数分の処にある、鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)を訪れた。
いつかのブログで書いたが、志摩町馬場の六所神社でお会いした方に、
ここの事を教えていただいた時、(二年半位前か)一度訪れていたが、
神功皇后のことについては、つぶさに覚えていない。

神社の石段の登り口には、鎮懐石碑と萬葉歌碑などがあり、
石段のずっと上の鎮懐石八幡宮へいざなっている。
祭神は、神功皇后、応神天皇、武内宿袮(たけうちのすくねー神功皇后の父であり、
天皇の重臣)
鎮懐石碑には、この神社と神功皇后のいわれがしるされ、
萬葉歌碑には、山上憶良の作と伝えられる歌詞題詞が刻まれている。
山上憶良は聖武天皇神亀三年(726年)筑前の国守を命ぜられ、九州に赴任した。
時に筑前簑島の住人建部牛磨から鎮懐石伝説を聞き感激のあまり、
天平元年(729年)これを詠じた。

現代語に訳した資料がある。
「神功皇后が、新羅に出兵されるに当たり、御心を鎮めようとして,お取りになった玉のような
二つの石を、世間の人にお示しになり、永久に語り継ぐようにと、海に面している深江村の
子負の原に、お手ずからお置き遊ばれて、神であるがままに鎮まります、霊妙の神霊は、
現実に尊いことである。」
おわりに、
「あめつちの ともにひさしく いいつげと このくしみたま しかしけらしも」
と結んでいる。現代語に訳した資料によれば、
「天地のある限り、永久に言い継げと、この神霊をお置きになったらしい」とあります。

 古代史にうとい私がこんな事を知るはずがない。
実はこの日、少し教えていただこうと碑の横の社務所を訪ねた。
お話を伺ううちに、興味があるならと、
宮司さんが、たくさんの資料をくださった。

あとで、資料を読んでみると、
たいへん貴重なものをいただいたことに気がつきました。
このブログに書いたことはほんの一部です。
この稿でも鎮懐石にまつわる話を伝えていません。

この資料のおかげで、私の中で点在していた神功皇后の足跡がひとつにつながりました。
この資料の中のひとつに、昭和35年の糸島新聞のコピーがあります。
「糸島風土記」と題した連載です。
ここに神功皇后の足跡がつぶさにあります。

 少しはブログというものに慣れてきて、
最近カテゴリー分けをしてみました。
「糸島の歴史」という項目も設けました。
おりに触れ、ここで投稿できればと思います。


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