今日、仕事を終えたのち、師が問うた。
「今年はどんな年だったね」
「しろしかったね」
(しろしかとは、糸島弁で、つらい かな?)
「いいえ、今年はありがたい年でした」
「いつからね」
「そうですね、甑島(こしきじま)に行ってからでしょうか」
「なるほど」
今年のいつだったか、
鹿児島県甑島に、師のお供をして、
と言うより、連れて行っていただいた。
「とにかく、このつらさから抜け出したいと思ったろう」
「はい、身をもって教えていただきました」
「takには、あれが一番よかったやろうな」
「こっちは何の手もくださなくてもいいんだから」
海育ちのくせに、めっぽう船に弱い私は、
大時化の船旅でくたくたに酔ってしまったのだった。
ただひたすら、このつらさから早く抜け出したいという思いだけだった。
「抵抗するから酔うったい」
「波に身を任せとけばいいとたい」
やっとの思いで港に着いたとき、師は言われた。
気分が小康状態になった私は、
言わずもがなの言葉を吐いた。
「こんな状態の時は、ほかの心配事は忘れるんですね」
「ただ、この状況さえ抜け出せればといいと思うだけですね」
「それが、takの今の状態たい」
「ずっと人生に酔ってきたとたい」
思わぬ(期待せざる)言葉が師から返ってきた。
こざかしくも私は、
よく仏教書の解説文にあるような、
ましてや、その受け売りで言葉を吐いたのだった。
つまり、こういうことだ。
下世話なたとえで言えば、(このたとえはオリジナルですが)
悩みをかかえているとき、トイレがしたくてたまらないとする。
こんな時、とにかく、トイレの場所にありつきたいと思う。
そして、用をたしているとき、幸福感に満たされる。
その時、当面の悩みはどこかえとんでいっている。
だから、『悩みなどという実体は、実は無い』
というわけだ。
師はいつも、その上をいく。
(師の言葉を借りるならば“ぼて投げる”)
こざかしいことなど、いっさいいらない。
ただひたすら、素直であればいいのです。
「世間の人もみんなそうたい」
「これを人並み(ひと波)というとたい」
「ひとなみじゃいかんとたい」
「わたしが何も教えんでもよか」
「こげん手のいらんことはなか」
そう言って師は愉快そうに笑ったのでした。
以上が甑島での教えでした。
「感謝が解ってきようごたるね」
「はい、おかげさまで」
「簡単に感謝しますなどとは言えなくなりました」
「しろしかめにいっぱい逢うたからたい」
つらいめに押さえつけてでもあわせてくれる師の愛情が、
今はとてもありがたく思えるようになった。
『本当のことが解ったときが感謝たい』
何度も何度も聞いてきた師の言葉がよみがえった。
私に勤める まごころ葬儀羅漢はこちらです
「今年はどんな年だったね」
「しろしかったね」
(しろしかとは、糸島弁で、つらい かな?)
「いいえ、今年はありがたい年でした」
「いつからね」
「そうですね、甑島(こしきじま)に行ってからでしょうか」
「なるほど」
今年のいつだったか、
鹿児島県甑島に、師のお供をして、
と言うより、連れて行っていただいた。
「とにかく、このつらさから抜け出したいと思ったろう」
「はい、身をもって教えていただきました」
「takには、あれが一番よかったやろうな」
「こっちは何の手もくださなくてもいいんだから」
海育ちのくせに、めっぽう船に弱い私は、
大時化の船旅でくたくたに酔ってしまったのだった。
ただひたすら、このつらさから早く抜け出したいという思いだけだった。
「抵抗するから酔うったい」
「波に身を任せとけばいいとたい」
やっとの思いで港に着いたとき、師は言われた。
気分が小康状態になった私は、
言わずもがなの言葉を吐いた。
「こんな状態の時は、ほかの心配事は忘れるんですね」
「ただ、この状況さえ抜け出せればといいと思うだけですね」
「それが、takの今の状態たい」
「ずっと人生に酔ってきたとたい」
思わぬ(期待せざる)言葉が師から返ってきた。
こざかしくも私は、
よく仏教書の解説文にあるような、
ましてや、その受け売りで言葉を吐いたのだった。
つまり、こういうことだ。
下世話なたとえで言えば、(このたとえはオリジナルですが)
悩みをかかえているとき、トイレがしたくてたまらないとする。
こんな時、とにかく、トイレの場所にありつきたいと思う。
そして、用をたしているとき、幸福感に満たされる。
その時、当面の悩みはどこかえとんでいっている。
だから、『悩みなどという実体は、実は無い』
というわけだ。
師はいつも、その上をいく。
(師の言葉を借りるならば“ぼて投げる”)
こざかしいことなど、いっさいいらない。
ただひたすら、素直であればいいのです。
「世間の人もみんなそうたい」
「これを人並み(ひと波)というとたい」
「ひとなみじゃいかんとたい」
「わたしが何も教えんでもよか」
「こげん手のいらんことはなか」
そう言って師は愉快そうに笑ったのでした。
以上が甑島での教えでした。
「感謝が解ってきようごたるね」
「はい、おかげさまで」
「簡単に感謝しますなどとは言えなくなりました」
「しろしかめにいっぱい逢うたからたい」
つらいめに押さえつけてでもあわせてくれる師の愛情が、
今はとてもありがたく思えるようになった。
『本当のことが解ったときが感謝たい』
何度も何度も聞いてきた師の言葉がよみがえった。
私に勤める まごころ葬儀羅漢はこちらです