京都では皇位継承に関して、皇室重臣の間で不和がつづき、
平氏、源氏も内乱に巻き込み、やがて平氏の世となっていくこの時代、
原田種直は、保元元年父種雄と共に上洛し六波羅に入った。
そして保元の乱(1156年)平治の乱(1159年)とつづいたが、父子は平氏に組して
功績があった。
種直はこうして次第に平氏と近づき、永歴元年(1160年)平清盛の嫡男、平重盛の養女を
妻に迎え、重盛の推挙により太宰少弐となった。
治承四年(1180年)平清盛が後白河法皇を福原(神戸)に幽閉したとき、
この警護にあたったのが種直の子、種国であった。
このように原田家は、平家から厚く信頼されていた。
しかし、その平家もやがて滅亡の道をたどることとなった。
種直は、九州の豪族が源氏に寝返る中、ひとり平氏に味方した。
この頃の様子は、「平家の悲話―唐原の里―」を読んで頂ければ幸いです。
悲劇は、種直の身にも及んだ。
原田は領地没収のうえ、鎌倉へ出頭を命じられた種直は土牢に十三年間もの間、幽閉された。
建久八年(1197年)十三年の刑を終えて筑紫に帰るが、かつての郎党の姿もなく、
唐原の里に行ってみると、家来たちが細々と田畑を耕して、露命をつないでいた。
ところで、種直は自分は平家に属したにもかかわらず、弟の種成を源氏に味方させていた。
原田家存続のためには、これも戦国の世のならわしであった。
筑前と肥前をおさめていたその種成の口添えのより、新しく怡土(いと)の地を源頼朝より
与えられたのであった。
こうして、筑紫から怡土へ移った原田種直から四代目の種継が高祖城を築くこととなった。
戦国時代の糸島シリーズはこちらからご覧ください。
私の勤める まごころ葬儀羅漢はこちらです。
平氏、源氏も内乱に巻き込み、やがて平氏の世となっていくこの時代、
原田種直は、保元元年父種雄と共に上洛し六波羅に入った。
そして保元の乱(1156年)平治の乱(1159年)とつづいたが、父子は平氏に組して
功績があった。
種直はこうして次第に平氏と近づき、永歴元年(1160年)平清盛の嫡男、平重盛の養女を
妻に迎え、重盛の推挙により太宰少弐となった。
治承四年(1180年)平清盛が後白河法皇を福原(神戸)に幽閉したとき、
この警護にあたったのが種直の子、種国であった。
このように原田家は、平家から厚く信頼されていた。
しかし、その平家もやがて滅亡の道をたどることとなった。
種直は、九州の豪族が源氏に寝返る中、ひとり平氏に味方した。
この頃の様子は、「平家の悲話―唐原の里―」を読んで頂ければ幸いです。
悲劇は、種直の身にも及んだ。
原田は領地没収のうえ、鎌倉へ出頭を命じられた種直は土牢に十三年間もの間、幽閉された。
建久八年(1197年)十三年の刑を終えて筑紫に帰るが、かつての郎党の姿もなく、
唐原の里に行ってみると、家来たちが細々と田畑を耕して、露命をつないでいた。
ところで、種直は自分は平家に属したにもかかわらず、弟の種成を源氏に味方させていた。
原田家存続のためには、これも戦国の世のならわしであった。
筑前と肥前をおさめていたその種成の口添えのより、新しく怡土(いと)の地を源頼朝より
与えられたのであった。
こうして、筑紫から怡土へ移った原田種直から四代目の種継が高祖城を築くこととなった。
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