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羅漢さんの托鉢日記

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戦国時代の糸島(三十)ー豊臣秀吉の朝鮮出兵ー

2010-03-12 20:27:06 | 戦国時代の糸島
こうして、ついに高祖城が落城し怡土志摩の戦乱の時代も終焉をむかえ、
平和がおとずれたのもつかの間、あの秀吉の朝鮮出兵の嵐が巻き起こった。

高祖城が落ちた天正十五年から四年後の天正十九年(1591)
大陸侵略をもくろんだ秀吉が動いた。
(このあたりの経緯については「秀吉、まいる」をご覧下さい)

文禄元年(1592)東から西へ、怡土志摩を横断する徳川家康、小西行長、小早川隆景、
加藤清正らの軍勢がえんえんと続いた。
そして、加藤清正軍のなかに、原田信種が加わっているという知らせが怡土志摩全土に伝播した。

すると、落城後各地に散らばっていたかつての豪士たちが旧主を慕って、肥前名護屋をさして出かけ、
久々に信種と対面した。
加藤清正もこれを喜び、従軍をゆるした。
朝鮮出兵に従軍した怡土志摩人は、豪士(八十人)のみならず、兵站部つきとして、
大工、鍛冶屋、炊事係、船頭ら、六百名ちかくあった。

こうして、名護屋に集結した兵力は十五万八千七百人、軍船七百隻。
文禄元年三月十三日、秀吉から出陣の命が下った。
第一軍の小西行長の兵一万八千余に続き、第二軍の加藤清正、第三軍の黒田長政らの軍も
少し遅れて釜山に入港した。

加藤清正から原田信種に任せられた兵力は合わせて七百十六人、さながら怡土志摩軍といってよかった。

信種は原田了栄の孫として肥前草野家に生まれ、幼くして佐賀の龍造寺に人質となり、
やがて、成人すると十九歳で原田四十六代を継いだ。
少年時代は無能といわれ、青年時代は血気にはやり粗暴のふるまいも多かったが、
二十八歳で落城後加藤清正の部下となるやまったく人が違ったような名将となった。

秀吉の死直後の慶長三年九月二十四日、ウルサン城にたてこもる加藤、小西、原田らの軍と、
これを包囲する大明国の軍、さらにこれを攻めようとする鍋島、黒田の軍、
合わせて百万の兵によって、戦場は阿修羅地獄となった。
そして、名将原田信種は、この朝の激戦でついに戦死をとげた。齢三十九歳であった。
怡土志摩から従った兵士達のほとんども一度も郷土に帰ることなく、異国の地に散った。
九州の小豪族として、長い歴史を生き抜いてきた原田主従に思いをはせるとき、
その無念さと、その絆の強さを思わずにはいられない。

「文禄の役」「慶長の役」と前後七年にも及んだ無益なこの戦争も秀吉の死によって終結した。

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