鹿家の決戦は、原田の勝利で終わったが、
原田も波多も、ほとんどその全精力を使い果たしてしまった。
かの原田了栄も七十五歳になった今、
すでに老衰しきって、ものの役にたたず、
重臣の多くは合戦で死ぬか傷つくかして、
もはや、原田家から戦意は消え失せていった。
こうして、鹿家の合戦は、波多家がほろび、
原田家にとっても、衰退への第一歩となった。
はたせるかな、それから二年後の天正十四年(1586年)
豊臣秀吉の九州進出によって、ついに原田氏にも終焉の時が訪れることとなる。
鹿家の合戦の天正十二年当時、九州は鹿児島の島津と大分の大友の対立時代であったが、
島津の勢いに押され、大友はいちはやく秀吉に助けを求めていった。
やがてその年の秋、秀吉は、細川幽斎と千利休を鹿児島にやり、
天皇の名の下に、島津に無条件降伏を迫った。
ところが島津は、
「源頼朝いらいの名家である島津が、秀吉ごときを関白とは呼べぬ」
などと言いすて、使者突き返した。
血を流さずと心をくだいて使者を立てた秀吉であったが、
ならば征伐せんと、九州進出を早々に思い立った。
秀吉西下の噂にゆれる中、
あくまでも大友を敵とする原田は、この旋風の中で島津と手を組んだ。
そして原田は、天正十四年にいたり、秀吉と通じていた太宰府の岩家城を攻め、
城主高橋紹運を亡ぼした。
こうして、やがて押し寄せてくる空前の大軍を迎えようとしている原田の高祖城であった。
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原田も波多も、ほとんどその全精力を使い果たしてしまった。
かの原田了栄も七十五歳になった今、
すでに老衰しきって、ものの役にたたず、
重臣の多くは合戦で死ぬか傷つくかして、
もはや、原田家から戦意は消え失せていった。
こうして、鹿家の合戦は、波多家がほろび、
原田家にとっても、衰退への第一歩となった。
はたせるかな、それから二年後の天正十四年(1586年)
豊臣秀吉の九州進出によって、ついに原田氏にも終焉の時が訪れることとなる。
鹿家の合戦の天正十二年当時、九州は鹿児島の島津と大分の大友の対立時代であったが、
島津の勢いに押され、大友はいちはやく秀吉に助けを求めていった。
やがてその年の秋、秀吉は、細川幽斎と千利休を鹿児島にやり、
天皇の名の下に、島津に無条件降伏を迫った。
ところが島津は、
「源頼朝いらいの名家である島津が、秀吉ごときを関白とは呼べぬ」
などと言いすて、使者突き返した。
血を流さずと心をくだいて使者を立てた秀吉であったが、
ならば征伐せんと、九州進出を早々に思い立った。
秀吉西下の噂にゆれる中、
あくまでも大友を敵とする原田は、この旋風の中で島津と手を組んだ。
そして原田は、天正十四年にいたり、秀吉と通じていた太宰府の岩家城を攻め、
城主高橋紹運を亡ぼした。
こうして、やがて押し寄せてくる空前の大軍を迎えようとしている原田の高祖城であった。
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