目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-08-08 #2

2009-08-14 17:06:15 | Chapter 15
貴方は、{父と繋がったら}大切なものを発見する能力を自分が失うと思っていますか? 違います。 貴方は創造の真っ只中に立って、創造の意識的動きと関わり合って、しかし父から分離したマインドは持たず、創造と呼ばれる「存在(Be-ing)の動き」を体験します。 そこが貴方と父の家、貴方がたの存在するところです。

これがリアリティです。 これが聖なる瞬間に浸った時貴方が体験する事、 過激な理想(アイディア)が貴方のリアル(実用的現実主義)に変容される事なのです。

そして貴方は、束縛から解放されます。 無知を尊びそれを克服する事で、自分をリアルな子供にしようと努力し続ける中毒的行為から解放されます。

そして、これ(無知の尊重)以外にも貴方に色々な影響(束縛)を与えている事柄(アイディア)があります。 貴方が自覚的にあるいは無自覚のうちに行っている事柄です。  例えば「死は利益になる」です。

死はビッグビジネスです。 例えば生命保険。 奇妙な名前ですね。 本当は死亡保険でしょう。  これは貴方が死亡したときに受け取れる利益を保証するものです。  貴方は自分が死亡したときに利益を得るわけです。 正確には貴方以外の愛する人たちが利益を得るのです。

それ以外にも、貴方に保険を販売した保険会社の人の利益でもありますね。 保険会社が利益を上げた訳です。 保険会社は経済のエンジンの一つです。

貴方が家族の大黒柱だったとして、貴方の勤めていた会社の落ち度で、貴方が命に関わる被害を受けたとしましょう。 貴方は会社を訴えて、自分の死亡する可能性に対してお金を要求します。

裁判が長引けば、その間貴方は癒しを得るわけにはいきません。 何故なら治ってしまったら、訴訟の根拠が無くなってしまうからです。

逆さまな、あべこべな考えですね。  貴方は自分がとても重い病に罹ると、家族にとって自分は死んだほうが価値があると考えたりします。

「私を生命維持装置など繋げて虎の子を使ってしまってはいけない。 私は必要なお金を貴方に全て残したいのだから。」    「色んな管に繋ぐのは止めてくれ。 私は早く死んだほうが貴方にとって価値があるのだから。ここでぐずぐずしているより。 」

これは病んだ{考え方}ではないですか?

しかしこれを聞いて、私がこういう状況のシリアスさをしっかり判っていないと言う人もいるでしょう。  その気持も理解できます。

しかし私の示したいのは、貴方は自分が体験するべきではない事への準備を進めてきたという事です。 貴方は死(mortality – 自分が永遠の命を持っていないと言う考え)を期待して来たのです。

貴方は自動的に、無意識のうちに、疑問をはさまずに、死を受け入れ、死の準備を整える癖を止めなければいけません。


お母さん達は時々 ‘You’re going to be the death of Me yet!’ と子供や亭主に言ったりします。

(直訳‐「貴方のお蔭で私は死んでしまうわ。」 より日本的表現なら「貴方のおかげで私は死ぬような思いを味わっているわ。」 )


“Think to be heard of God, and speak to be heard of men. “

「神に聞えるように考え、人に聞えるように話す。」 という言葉を聞いたことがありますか。

罪は何時でも二つの理由で使用されます。 1.誰かに罪悪感を抱かせて彼を操作する事。 2.誰かの為に自分が犠牲になってると示して自分のポイント(価値)を上げる事です。 貴方が誰かに、彼らが値する(彼らに相応しい)以上の事をしてあげる事により神に貸しを作るのです。


「貴方のお蔭で死んでしまいます。」 これは呪詛です。 人に理解されるように口で「貴方のお蔭で死んでしまいます」と話して、と同時にマインドの中では「神様ありがとう。貴方のお蔭で死んでしまいます。」と(神様に対して)言っているのです。   貴方が殉教者として他者の為に死ねるなら「神様ありがとう」なのです。 何故なら、これで貴方は神の右側に座ることができるから。 そうして貴方は聖者になれるかもしれません。  解りますか? 病的な考えでしょう。


違うあり方があるのです。 我々は毎週それについて話して来ました。 違うあり方とは、違う「存在の仕方」です。 ただ単に違う考え方をするだけではないのです。 貴方は自分の習癖を破る必要があります。


貴方は自分のこの習癖ゆえに罪悪感を感じる必要があるでしょうか? いいえ。何故なら貴方はそれらの習癖を持つように教えられて来たからです。 今まで貴方に違う事を教えた人、貴方に違う見方を提供した人はいませんでした。


今、違う見方が述べられています。 その過程で貴方は自分が実用的ではない事をしてきた事に気付くのです。 助けにならない、気違いじみた、病的な事をしてきた事に気付く事が出来るのです。


上記の事と同時に貴方に知って欲しいのは、 貴方の中には誰にも奪う事の出来ない、聖なる正気が宿っていると言う事です。 それは今も貴方の中にあります。  意識の動きとしてある、存在を形作る意識存在として

過去を自動的に繰り返す性癖を破れば、貴方は違う視点を持つことが出来るのです。

聖なる瞬間とは過去への隷属から解放される瞬間の事です。 それは過去の習癖から解放される狭間のことです。 それは貴方が新しいところに注意を払えるようになる瞬間の事です。 「新しいところ」とは父、自分が持っていたとは気付かなかった貴方の源の事です。 源が貴方に(自分が持っていたとは今まで気付いていなかった)アイデェンティティを与えます。

先週、罪と恐れが続くとフラストレーションが起こることに付いて話しましたね。 そしてフラストレーションが溜まると、貴方は我慢できなくなって行動を起こさずにはおれなく成るのです  その時貴方が取る行動は怒りの表明になります。

貴方の生活がどれだけ豊かで楽しかったとしても、今この時点で貴方が目覚めていないなら、貴方は未だに怒りの領域に生きて、怒りの行動を(もしかしたらとても繊細に)行っています。

だから私は「自分に満足しきってしまうのは止めなさい」と言っているのです。 何故なら怒りの使用は止められなければいければならず、意思的に止めようとしなければ怒りの使用は止められないからです。


先週の続きを読みましょう。

“In these insane relationships, the attraction of what You do not want seems to be much stronger than the attraction of what You do.”

〔狂気の関係の中では、貴方の欲していないものの魅力が、貴方の欲しているもの魅力を上回っています。〕

狂気の関係とは、怒りをコントロールの為に使っている関係、生命に意味を与える為に無知と死が使われている関係です。

怒りを使って他者をコントロールすることは{貴方の世界では}極めて有効です。 だから貴方はそれを使うのです。 だから貴方はそれに魅力を感じるのです。

貴方を魅了するもの、貴方が「使える」と思うものが、それ(貴方を魅了しているもの)を引き起こすものを貴方の側に引き寄せます。

だから貴方は、今までとは別のものに魅了され始める必要があります。

それは「ここで行われている事の真実は何だろう?」と訊くことです。 「ここで本当に行われている事の意識的体験は、私がここで真に体験するべき事は何だろう?  父よそれを私に示して下さい。 私は貴方に意識を注いでいます。 私は真理に注意を注いでいます。」


“The attraction of what You do not want seems to be much stronger than the attraction of what You do. For each One thinks that He has sacrificed something to the Other, and hates Him for it. Yet this is what He thinks He wants. He is not in Love with the Other at all.”

〔貴方の欲していないものの魅力が、貴方の欲しているもの魅力を上回っています。 それは各人が相手の為に犠牲を払ったと考えて、それ故に相手を厭うからです。 しかし彼は自分がそれを欲していると考えます。 彼は相手に愛している訳ではありません。〕

これは特別な関係について述べています。特別な関係とは相手を利用しようとする関係です。

貴方は特別な関係を使って、自分の欲しいものを得ようとします。 その関係に関わっている他の人達もそれは同じです。 だから「癒しの」関係とは、各人が自分の尊厳を損なわずに、それぞれの求めるものを得ようとする事です。 これはゲームです。 お互いを操ろうとする訳です。 「私を助けてくれたら、貴方を助けましょう。 私が貴方を真に知る事なく、貴方が私を真に知る事なく。 お互いにリアルに向き合う事はしないで。」


“He is not in Love with the Other at all. He merely believes He is in Love with sacrifice.”

〔彼は相手を愛している訳ではありません。彼は自分が犠牲を愛していると考えてるだけです。〕

「私は家族の為に、死んでしまう位犠牲を払っているわ。」  なんと、彼は彼女は、自分の家族の為に死ななければ納得できないのです。 何故なら、苦しんだ代償として得られるはずの賞賛/栄誉を求めているから。 理解できますか?


“He is not in Love with the Other at all. He merely believes He is in Love with sacrifice. And for this sacrifice, which He demanded of Himself, He demands the Other accept the guilt, and sacrifice Himself as well.”

〔彼は相手を愛している訳ではありません。彼は自分が犠牲を愛していると考えてるだけです。 そして、自分を犠牲にした代償として、相手が罪を受け入れ、相手も犠牲を払う事を要求します。〕

先週も話したように、全ての人が自分には罰が下ると考えています。 全ての人が自分が有罪(罪を持っている)と考えており、遅かれ早かれ、自分の罪が暴かれる、あるいは罪が何らかの不足や災難として現れると考えています。 例えば「カルマを解消する為に何か辛い経験をしなければならない」とか。 これもまた、病的な考えを正当化しようとする試みでしかありません。

貴方が相手に犠牲を求めた時どうなるでしょうか。 その相手は犠牲を払います。 何故なら、相手も懲罰(罪)を期待しているからです。 彼はその懲罰に魅力を感じます。 ですから懲罰が起こると、それは受け入れられ、それは否定されず、放棄されません。 「もちろん懲罰は起こるでしょう。 いつかはそれが起こるはずです。 物事が長く安泰で在る訳が無いのです。」{と貴方は懲罰を正当化しています。}

上記の様に考えた事がある人はいますか。 本当のところは、全ての人がこう考えたのです。 物事が上手くいっている場合も、「そう旨い事ばかりは続かない」とか言いますね。{そういう風に思考を使う人が多いですね}