目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-08-08 #1 The Holy Instant and Communication

2009-08-14 16:43:12 | Chapter 15
原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx

2009年8月 08 日 ©NWFFACIM


ページ位置の確認。
Sparkly Book 365ページ 第二文節
Second Edition(Foundation for Inner Peace)  318ページ 第七文節
First Edition    296ページ 第二文節
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」   153ページ 第五文節
CIMS版      307ページ 第71文節



今晩は、ようこそ。  
少し瞑想しましょう。



我々の父。 我らが父よ。 そう言っただけで、孤立が解かれるでしょう。


“Our Father, Who art in Heaven, hallowed be Thy Name. Thy Kingdom come. Thy Wlll be done on earth as it is in Heaven. “

「天にまします我らが父よ、 貴方の名前が尊重されますよう祈ります。 貴方の王国が来ますように。 貴方の意思がなされますように。 」 ‐どこで神の意思がなされるのでしょう?-  「天国でなされているように、地球でも貴方の意思がなされますように。」 です。


上記の文が「過激な理想主義を実際的実用主義に変容させる」のもう一つの言い方です。 これはそれ程新しいアイディアではありません。 しかし「過激な理想主義を実際的実用主義に変容(シフト)させる」と表現すれば意味へのより深い理解が刺激されるのです。

こう言えば「貴方の意思が天国でなされているように、地球でもなされますように。」 と言うよりも、より高いより大きな期待が刺激されるのです。 過去よりも、より深く貴方を刺激する(触発する)言葉を使う事が必要なのです。


先週「過激な理想主義を実際的実用主義に変容させる」べき物事に注意を払えた人達もいますね。

そして、この事には全く注意を払わなかった人達がいるのも解っています。 それは貴方が怠慢だったと言うよりも、日常生活が貴方をすぐに圧倒してしまい貴方の注意を奪ってしまい、その中に貴方を取り込んでしまったからです。 一旦そうなれば、貴方は日々を今までの習慣に従って生きてしまいます。  生活の中にある程度取り入れた自分の権威と共に。

そして今、私の言う事を聞いている時、貴方は自分が先週体験できたかも知れない事に思い至っているでしょう。

私は貴方の叱っているのではありません。 私は完全に理解しています。

しかし、今週は先週と同じ課題を出す事にしましょう。  今週は、課題をどこか見える所に注意書きを書いておいて下さい。 冷蔵庫、手帳、財布、車、頻繁に見る所ならどこでも構いません。  

(訳-先週の課題は 『貴方が「過激な理想主義を実用的現実主義にシフトさせる事」を出来ないと感じている時、最低限その事実(自分はシフトを疑っている)を認識できるように成って下さい。』でした。  違う表現を使うなら『過激な理想主義でもって貴方の日常を現実的にシフトさせなさい。 日常生活の中で逐一その必要を認め。 もしシフトさせる事が不可能と考えているなら、最低限自分がそう考えている事を認めなさい。』です。)

自分に思い出させるためにメモを書いておいて下さい。  貴方が一日に何度も時間を取って、目の前で行われている事を見て、貴方が与えている意味以上の事がそこで行われていると認識すれば、絶対違いが現れるからです。


貴方の目の前では常に、ラジカルに理想的な事が行われているのです。 貴方の目の前で天国が動いているのです。 貴方の目の前に実際に存在し動いているのは何時でも天国(神の大国=リアリティ)だけです。


ですから、貴方の目の前では何時でも、過激に理想的な事が発生しているのです。 それは貴方によってクリアに歪み無く体験されるのを待っているのです。


罪/恐れ/フラストレーション/怒り。これら丹念に覚えこまれた性癖を貴方は全て打ち破らなければいけません。 今が目覚めるべき時なので、貴方はそれらを打ち破らなければいけません。 今は無知である事を止めるべき時です。 無知から来る苦しみを止めるときが来ています。

「私は無知故に苦しんでなんかいませんよ。 私は良くやって行けてます。 問題が起これば、賢明に対処しているし。 私は何時でもキチンとやれてます。 私は信念を持って行動しているから、周りの人達も何らかの恩恵を受けている筈だし。 私は愛と友愛と信念を尊重しており、それらの事が私と周りの人達の人生に反映されるよう期待していますから。」  

成る程。 しかし貴方は自分に対してあまり満足するべきでは無いのです。

何故私はこの様な事を言うのでしょうか?  それは、もし貴方が自分のあり様に満足しきってしまえば、今の自分のやり方でOKだと思ってしまうと、貴方は一瞬一瞬の意識の中で好奇心をあまり発揮しなくなってしまうからです。  そして、好奇心が高まっていないと「過激な理想主義を実用的現実主義に変容させる」体験が出来なくなってしまうからです。 奇跡が体験できなくなってしまうのです。

「過激な理想主義を実用的現実主義に変容させる」体験つまり奇跡が、貴方が「今まで見てきた物質的存在」ではなく天国を見ている「しるし」、神が貴方の目の前にいる表れ(Presence of God)なのです。


貴方達はまだ、自分達がどれだけ「最善ではないもの/一番尊いもの以外のもの」を尊んでいるか、それらに価値を置くことに喜びを見出しているか、気付いていません。

例えば、貴方は全知よりも無知を尊んでいます。 全知とは全てを知っていると言う事です。 無知とは全てを知らないという事です。  貴方は全てを知ってはいない事に対して、不愉快になるのではなく、自分の権利つまり全知に戻るのではなく、別の事をしました。  貴方は何をして来たでしょうか?

貴方は無知を見て「オー。つまり私は沢山の事を発見できるのだ。」と言うのです。 「私は色々な発見をして地球の生活を改良する事が出来る。 私はガリレオみたいに、ニュートンみたいに、アインシュタインみたいに成れる。」

貴方は無知が存在する事に大きな価値を見ています。 何故なら、それが発見の可能性を意味するからです。 貴方は発見を価値あるものと考えています。 何故でしょう? 発見するのはエキサイティングで楽しいからです。 何かを初めて発見するのはワクワクする体験です。 例えそれが、丘を越えて今まで見たことの無い風景を発見するだけであっても。

それはワクワクするだけでなく、もし発見者に成れれば、貴方は発見の名誉が得られます。 貴方を褒める人、賞賛する人もいるかもしれません。 つまり、発見すれば(孤児ではなく)リアルな子供になれると貴方は考えるのです。 {貴方の世界の中でよりリアルな重要な存在に成れると考えるのです。}

誰が全知を体験したいと思うでしょうか? もしそれが発見のスリルを, 発見者としての栄誉を得るエゴの満足を打ち消してしまうなら。

もし貴方が仲間の尊敬を失ってしまうなら、仲間の利益になる事をする機会を失ってしまうなら、全知を得てこれらの貴重なものを失いたいと考えている人がいるでしょうか?  全てを知って{貴方の仲間も全てを知っている事を貴方が知って}疑問を消滅させて。 解りますか?

{この様な考え方をしている限り}目覚めたいと考える人がいるでしょうか?

こうして貴方は、目覚めよりも無知を尊重してきました。 こうして、その場に相応しい好奇心を発揮せずに来たのです。 

貴方の考え方は正反対、あべこべなのです。 貴方は無知に価値を見た出してきました。 貴方は暗がりにいる事を選んできました。 貴方は孤児として存在する事に価値をおいてきました。 それが貴方に与える拡張の可能性故に。

貴方がもし「天にまします我らが父よ」と言ったなら、貴方が父に進み出て彼と繋がり、その視点で自分を満たしたなら(何故なら、それが貴方の本当の視点だから、貴方が父の創造だから)貴方は自分の為に何かを発見する必要はもはやありません。 何故なら、その時貴方は父と共に聖なる瞬間の中に立っているから。 創造の瞬間内に立っているから。

聖なる瞬間のその体験内では、存在する事そのものが発見なのです。 創造とは、今まで存在していなかったものを発見する事です。