目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-08-01 #2

2009-08-09 15:00:38 | Chapter 15
この犠牲に関する理解はとても大切なものです。 特に我々がいま話している「聖なる瞬間とコミュニケーション」と犠牲がどう関連しているか理解する事はとても大切です。

悪魔は嘘つきで、嘘の父親が悪魔だとよく言いますね。  エゴは嘘つきで、嘘の父親はエゴなのです。  

嘘と言うアイディア、嘘の思考、それら全ては破壊的なものです。 何故なら先週読んだように、嘘がコミュニケーションを分断してしまうから。 コミュニケーションとは貴方が父と一体になることです。 貴方が父と和解し、父と再統合することです。

別の言い方をすれば、貴方は自分を子供として示します、 貴方が不変なもの{神}の中にある事を、貴方が{神との}永遠の関係内にいることを認めるのです。

エゴとは、このコミュニケーションに対するブロックの事です。 貴方が自身の真理を体験する権利があると知る事に対する障害です。

貴方は注意していないと、上手くやれていないのに、自分は上手くやっていると自分を騙してしまいます。

犠牲がエゴの要求するものです。 神の子という境遇を得る事に躊躇している限り、貴方達が払う究極の犠牲は死です。

どれだけ長くコースを読んできたとしても、どれだけ長く私の話す事を聞いてきたとしても、貴方はこう言ってしまう癖があります。 「死ななかった人といえばイエスだけではないか。 イエス以外に死を克服できた人を私は知らない。 だから今回の生でそこまでの事は自分に求めまい。 私が聞いてきた真理(死は存在しない)にもかかわらず。私はやっぱり死ぬかもしれない。 」


こう言っている人達もいますね。「私は200歳になるまで生きたいとは思いません。 ここにそんなに長くは居たくないです。 他の生命、他の体験、他の冒険がしたいのです。 友達が皆居なくなってしまった後まで、どうしてここに残らなければいけないのですか?  私は85歳よりも年を取りたくはありません。」 

何故でしょう? 何故永遠に生きたくないのですか?  何故、もう一度生き返るために死と言う惨めな体験を必要とするのですか。  何故、死を繰り返してもう一度生き直す事を繰り返すのですか。 苦しみと病とトラウマとダメージを繰り返すのですか。  貴方が死/病/苦しみを超越している事を知らない故にそれらを繰り返し体験し続ける事を、何故望むのですか?

貴方は今回の「転生」では、そんなに過激な事は信じたくない、そんなに過激な事はしたくありませんか?  「今回の生涯の中で私は神が呉れた全ての祝福を受け入れます。 そして次の生涯では、より優雅により確実に私の真実を体現できるようになりましょう。」

これが犠牲の考えです これが貴方が尊んでいる犠牲なのです。  貴方がこれらの事を尊重し続けるのは、貴方のマインド内で緊急サインが鳴って「止めなさい! これは狂気です」と教えてくれているのを認めていないからです。

これが貴方が内に持っている怒り、人間的状況に対する怒りです。 そして貴方がこの怒りを使って兄弟姉妹を操っている本当の理由は、それは怒りのためではなく、それは貴方に対する緊急サイン(警告)なのです。 {自分の考え方、あり方は間違っているというサインなのです。} だからもし怪我をしたなら、病になったなら、それらはサインであって、貴方は「しょうがない。良くある事だから。」とそれをただ単に諦め受け入れてしまってはいけないのです。

過激な理想主義を実用的現実主義にすることに関して、ここ数週間話してきました。 貴方は今自分がいる状況を去るために死ぬ必要はありません。 それは「ハワイに行く為にはまず死ななければならない」と言うようなものです。 違うでしょう。 貴方は飛行機か船に乗ればよいのです。 あるいは、貴方の神聖をクリアに体験できればテレポートしても良いでしょう。

いいですか? 犠牲とはくだらないものです。 それに価値はありません。 これは{エゴの}遅延戦略です。犠牲とは知る事を妨げるもの、癒しを妨げるものです。

これを認識し、貴方に相応しくない堕落に対面したとき鳴る警告サインを認めなさい。 これが目覚めのしるしです。 これが貴方がもやは犠牲を尊んでいないしるしです。 これが貴方がメッセージを理解したしるしです。 貴方が私の言っている事を聞いて理解したしるしです。

殆どの場合ティーンエージャー達は犠牲の放棄には興味を示さないものです。 それは彼らが自分たちは何も犠牲にはしていないと考えているからです。

30代40代の人達もあまり犠牲については考えていないでしょう。 でも場合によっては時々は立ち止まって神について考えて見るかもしれません。 しかし基本的には最終的な犠牲について真剣に考えていません。

しかし60代70代80代になると、私が話している事に深い興味も出てくるでしょう。

しかし今度は「私は草臥れ切ってしまった。 私には十分理解するだけの、十分体験するだけの時間が残されていない。 きっとやり通せないだろう。 あれこれを修正する必要がある。でもやる意味があるだろうか? 私にはあまり時間が残されていない。」とか言い出すのです。  

もし自分に5千年の時間があると思えば、貴方は痛みや不快に耐え続けようとは思わないでしょう。 ぼやけた視界や口内炎をただ耐え忍ぼうとは思わないでしょう。 これらを緊急サインと考えるはずです。 

「永遠に口内炎に悩まされ続ける! そんなのは地獄だ!天国じゃない!」と言うでしょう。


貴方が小さい不快や大きい(けれども致命的でなき)痛みに耐えている時、貴方は犠牲を尊んでいます。 その時貴方は犠牲を使用しています。


貴方は表面上はそれを受け入れた様に見えますが、心の奥では怒っています。 「私に出来る事は何も無い。唯一の例外は他人の所為にする事だけだ。 彼らを罵って彼らを蔑んで少しは憂鬱を晴らせるだろう。」 「自分の問題を作り出しているものに直面するよりは、こうしていたい。」

こうやって貴方は犠牲を行い続けます。 これを続けて自分を物凄く欲求不満の状態に保ち、そして自分が責任を取らなくても良いように他者に責を負わせます。  そして彼らが貴方を元気付け、貴方の為になる事をし続けてくれて、そうして最後に貴方はやっと後悔無く死ねるのですか?

「皆そうして{死を受け入れて}来たし、それ以外の事を私は期待しない。」

お墓の石にはそう書いておくと良いでしょう。 「これ以外の事は期待しませんでした。」 

続く。