原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx
2009年8月 01日 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
Sparkly Book 365ページ 一番初めの新しい文節
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 318ページ 第五文節
First Edition 296ページ 第一文節
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 153ページ 第四文節
CIMS版 307ページ 第七文節
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
先週我々は次の事を提示しました。
“Let Us look more closely at the relationships which the ego contrives, and let the Holy Spirit judge them truly.”
〔エゴが仕組んだ関係をよりよく見て見ましょう。 そして精霊にそれらの関係を正しく裁かせなさい。 〕
ここで言う「関係」とは、人間関係だけに限った事ではありません。 貴方は宇宙の全てのものと関係を持っています。 貴方と月との関係は長距離関係と見えるかもしれませんが、それでも貴方は月とも関係を持っています。 我々の言う「関係」とは、兄弟姉妹間の関係、人間関係だけには限らない事を明言しておきます。
“Let Us look more closely at the relationship- relationships which the ego contrives, and let the Holy Spirit judge them truly; for it is certain that if You will look at them, You will offer them gladly to Him. What He can make of them, You do not know, but You will become willing to find out, if You are willing first to perceive what You have made of Them.”
〔エゴが仕組んだ関係をよりよく見て見ましょう。 そして精霊にそれらの関係を正しく裁かせなさい。 何故なら、貴方がそれら(特別な関係)を正しく見れば、それを喜んで彼(精霊、貴方の正気)に差し出す事は疑いようがないからです。 精霊がこれら(特別な関係を)どうするか貴方には解りません。しかし、貴方がこれらを使って何を作ったか理解できれば、貴方はこれらを精霊に差し出して、どうなるか見てみようという気持になるでしょう。〕
そして先週ハッキリさせた通り、貴方は自分が意識したもの全てに対して定義を与えました。 あるものに対して、貴方は兄弟と合意して一緒に定義を決めました。他のものに対しては貴方が自分一人で定義を決めました。
いずれにしろ、貴方は自分が意識している(知っている)全ての「もの」に対して意味づけを行ったのです。
その意味とは、「もの」と貴方の関係を肉付け{より硬く物質化}するものです。
だから精霊が貴方の関係を使って何を作るか、貴方には解りません。 その理由は精霊が関係を使って作るのが、その「もの」の真の体験だからです。 そこで貴方はもやは自分の定義には惑わされず、その「もの」の真の姿を見る事ができます。 その瞬間、神がその「もの」全てに成ることで、神がその「もの」というアイディアの全てに成る事によって、神がその「もの」に対して与えた意味が、貴方に見えるのです。 その時貴方に見えるのは、貴方が定義した物質的物体ではないのです。
“What He can make of Them, You do not know, but You will become willing to find out if You are willing first to perceive what You have made of Them.”
〔精霊がこれら(特別な関係を)どうするか貴方には解りません。しかし、貴方がこれらを使って何を作ったか理解できれば、貴方はこれらを精霊に差し出して、どうなるか見てみようという気持になるでしょう。〕
貴方が全ての「もの」に対して自分で独自に定義をした事を認められる事。 これが第一のステップです。 そして精霊に対して「私が考えている事が真実ではないなら、これの本当の姿を見せて下さい。 もし私の作った定義が真実では無く、他者が作って私に示した定義が真実では無いなら、本当の姿はどの様なものでしょう?」と聞くのです。
貴方が見ている「もの」が作り上げられたものだと理解できれば、好奇心を持って「父よ、精霊よ、これの意味はなんですか?」と聞くのは容易くなります。
次の文もとても重要です。
“In one way or another, every relationship which the ego makes is based on the idea that by sacrificing itself, it becomes bigger. The ‘sacrifice,’ which it regards as purification, is actually the root if its bitter resentment; for it would much prefer to attack directly, and avoid delaying what it really wants.”
「エゴが作った全ての関係は、「それ自体を犠牲にすることでエゴがより偉大に成れる」と言うアイディアに基づいています。 エゴは犠牲を浄化プロセスと考えていますが、実際には犠牲がエゴの憎しみのおおもとです。 なぜなら、エゴは直接攻撃して自分が欲するものをすぐ得たいと本当は考えてるからです。」
エゴが本当に欲しているものとは? それはコントロール=支配力です。 エゴは自分と関係している状況を/人々を/ものを操作し利益をすぐ得たいと考えています。
エゴの得たい利益とは何でしょうか? エゴは常にリアルでないという事から逃れたいのです。 孤児である事から救われたいのです。 苦しみから救われたいのです。 孤独から救われたいのです。 完全に一人ぼっちでいる事から救済されたいのです。
“Yet the ego acknowledges ‘reality’ (in quotes) as it sees it, and recognizes that no-one could interpret direct attack as love. Yet to make guilty is direct attack, but does not seem to be.”
〔しかしエゴは「リアリティ」を自分が見たとおりに認識し、直接的攻撃を愛と考える人はいないと解っています。 他者に罪悪感を抱かせる{他者を有罪にする}事は直接的攻撃ですが、その様には見えません。〕 何故でしょう?
もし罪悪感を抱かせる事が直接的攻撃なら、何故そうは見えないのでしょうか?
“For the guilty expect attack, and having asked for it,” – by Their expectation – “They are attracted to it.”
理由は〔罪悪感を感じている者は攻撃を期待し、攻撃を求め、 ‐彼らの期待によって‐ 彼らは攻撃に引き寄せられるからです。〕
さて、これが貴方にどう当てはまるのでしょうか? 貴方は自分を犠牲にしてきましたか? 貴方は自分を犠牲にすることで、自分がより偉大になれたと思っていますか。 貴方は自己犠牲を通して浄化して自分を清めようとしていますか? そう考えてはいませんか? では上の文は何を言いたいのでしょうか?
The ego “would much prefer to attack directly” – Is that about You?
“Yet to make guilty is direct attack, but does not seem to be.”
エゴは〔直接攻撃したいと思っています。〕 これは貴方の事ですか?
〔他者に罪悪感を感じさせるのは直接的攻撃ですが、その様には見えません。〕
一つ明確になっている事があります。 この箇所を読んでいる貴方は、自分が完璧に満足はしていないと言う事を知っています。 貴方は自分が常時至福を感じ続けてはいない事を知っています。 自分の状況が苦しいと知っています。 そして自分がまだ神と本当に{意識的に}コミュニケーションしてはいないと知っています。
貴方は忙しく動き回って自分の生活を支えてきました。 そして状況が抜き差しならないほど厳しくなると貴方は自分の権利、(自分の持って生まれた権利である)自由意志{皮肉}を使って切り抜けようとします。 それでも上手く行かないとき初めて、貴方は静まり神に向き合って神と話そうとします。
もし貴方が神の声を聞けたなら、父と一体化しその力とサポートが感じられたなら、癒しが得られ問題が解決したなら、貴方はもう大丈夫と思った時点で「神様ありがとう。貴方は私が自分の足で歩けるようになるまで助けてくれました。 これからは自分で頑張ります。何故なら貴方は私に自由意志と言うものを与えたくれたのだから。 貴方は、自由に動き回り育つように私を作ってくれたのだから。 だからこれからまた、自分の意思を貫く事にします。」と言うでしょう。
しかしそれが貴方のレッスンだったのではないのです。 貴方のチャレンジするべきレッスンは、それではありません。 貴方のレッスンは、「今まで独自に行動し自由意志を執行して来たとき貴方は正気ではなかった」と言う事です。 そして貴方は(独立存在でなく父の子としての)自分の正当な権利である「存在する、ある」という満たされる経験をしてきていないのです。
これを理解して、それに祝福されれば、貴方のレッスンとは「おお。私は自由意志の表現には戻らない。 私は「自分がこの世界で独自に行動するべきで、それが神の意思だ」と言う概念には戻らない。」と言う事です。
「私はこの{神との}パートナーシップを尊重し、そこに留まろう。どの様な誘惑に会おうとも。」と言う事です。
貴方が今ここで目覚めていないなら、貴方が幾度父と繋がって一時的に祝福されたとしても、貴方はやはり自分の独立を未だに求めているのです。 貴方は未だに孤児に成りたがっているのです。
私は何度でもこれを繰り返して言いましょう。 何故なら貴方はこれを聞かないで済ませるわけには行かないからです。 理由は、これが貴方の目覚めへの基点、目覚めへの踏み込み台として機能するからです。
貴方が独立を求めたとき、貴方は恐れと罪の二つの体験を求めた事になります。 これらは切り離すことができません。 独立を求めれば、恐れと罪が貴方の住む環境になります。 貴方は依然として天国の中にいますが、それには気付けません。 罪と恐れが、貴方が神の子供(貴方の兄弟姉妹達)と係わり合う環境になります。 そして貴方は天国を認識できなくなります。
天国が、その中で貴方が恐れと罪と戦わなければならない環境に変容します。
罪と恐れを体験し続ければ、フラストレーションが溜まります。 罪と恐れとフラストレーションが合わされば行動が起こります。 その行動とは何でしょう? それは何時でも怒りです。 恐れと罪と、それらが作るフラストレーションの体験からもたらされる行動は怒り以外には在り得ません。
こうして孤児院に住む孤児のように貴方の行動は怒りの表現になります。 しかし、ここで怒りについて理解しなければならない重要な事があります。 何故貴方は怒りを感じるのでしょう? 何故貴方は怒るのでしょうか? もし孤児に成るのが、独立した自立した存在として自由意志を表現するのが普通のことなら、何故貴方は怒ってしまうのでしょうか? 何故恐れが存在し、何故罪が存在し、何故それらがフラストレーションを引き起こし、怒りがもたらされるのでしょうか?
その怒りは、実際は貴方の正気なのです。 貴方が自分に与えた定義にも関わらず、皆が貴方に与えた定義にも関わらず、貴方は聖なるものとして存在することを止めてはいないのです。
とめどなく恐れ/罪/フラストレーションを体験し続ける事は自分には相応しくないと貴方は知っているのです。 しかし貴方は自分が誰か忘れてしまったので、この怒りが自分の正当な憤慨だと貴方は気付かないのです。 貴方という聖なる存在の真実の認識から沸き起こる憤慨が怒りなのです。
恐れ/罪/フラストレーションを絶え間なく体験し続けるのは貴方には相応しくありません。 貴方はその事を知っています。
この問題を解決するには、貴方が父から得た離縁を解消しなければいけません。 自分の独立状態を得るに至ったステップを解除して行く必要があります。
しかし貴方が自分が誰か忘れてしまうと、自分が神の聖なる子供である事を忘れてしまうと、貴方は自分の聖なる特性により孤児院{独立状態}を放棄する権利がある事を忘れてしまいます。 貴方は神ともう一度繋がる事によって、もう一度自分の源と意識的に繋がる事によって、恐れ/罪/フラストレーションを自分の経験から取り去る権利(能力)を自分が持っている事を忘れてしまします。
貴方はそれを忘れてしまい、自分が相応しくない体験をしていると知っている貴方の正気は、孤児院の中の孤児{物理的世界の中の個人}により{怒りとして}表現されます。 その孤児院で他の孤児と唯一可能な関係を持つことになります。 そこで唯一可能なのはコントロール=支配関係だけです。
貴方が兄弟姉妹に罪悪を擦り付けて、自分が罪悪から逃れようとする、自分が罪悪の責任を取らなくて済むよう試みる事に関しては、先週お話しました。
一旦このスタイルで全てのものと関係を結ぶ事に囚われ始めると、貴方は犠牲の状態にシフトした事に成ります。
一番初めに父から離縁した時、貴方は自分の持って生まれた権利の意識的体験を犠牲にしました。 貴方は自分が父親を持っている(源を持っている)と言う事実を体験する事を犠牲にしたのです。
そして、正気の体験(正当な憤慨)が起こった時に貴方がそれを理解できない場合、それは怒りとして感じられます。 そして貴方は兄弟姉妹が貴方のために犠牲を払うよう要求するのです。 恐ろしく大切なものを犠牲する体験を貴方が避けられるよう(とエゴは考えます)、兄弟姉妹が代わりに犠牲を払う事を要求するのです。
こうして貴方が罪と非難を逃れられる様、それらが兄弟姉妹に向けられます。 そして貴方の体験している犠牲が兄弟姉妹の責任に課せられます、貴方がそれ(犠牲)を体験しなくても{し続けなくても?}済むように。
貴方の兄弟姉妹も貴方同様孤児院にいるので、つまり彼らも貴方と同じ考え方をしており、同じように誤った認識を持っているので、彼らも罪悪感を感じています。
罪悪感を感じている彼らは、懲罰される事を期待(予測)しています。
これが下記の文の意味です。
“Yet to make guilty, is direct attack, but does not seem to be. For the guilty expect attack.” The guilty expect the axe to fall. “And having asked for it, They are attracted to it.”
〔他者に罪悪感を感じさせるのは直接的攻撃ですが、その様には見えません。 罪悪感を感じている者は攻撃を予感し ‐その期待によって‐ 彼らは攻撃に引き寄せられるからです。〕
貴方は攻撃に引き寄せられるだけではなく、それを期待するだけでなく、攻撃が現れた時それを受け入れてしまっています。
もちろん攻撃は現れます。 貴方が他の孤児達とつるんでいるからです。 貴方が彼らに罪を着せて自分の無罪を晴らす事を、彼らが期待し。 貴方も(無意識あるいは意識的に)彼らに罪を着せられる事を期待しています。 何故なら貴方は自分がそれに値すると、自分が有罪だと考えているからです。
これはとても病んだ共生関係です。 自分が孤児だと考えている人が結ぶ関係は全て病んだ関係です。
貴方の見るべき真実は、とても陰鬱ものに思えるでしょう。 私が貴方を、貴方が貴方自身を見る様に見たなら、私もとても憂鬱に成ってしまうでしょう。 貴方がどれだけ自分のものの見方に、自分の考え方に固執しているか見たら、私はとても憂鬱に成ってしまうでしょう。
私が貴方の{エゴの}考え方を受け入れたなら、貴方を手助けする方法はないと考えてしまうかもしれません。 しかしそうでは無いのです。 ですから、私がここでハッキリ示そうとしている事は、貴方を解き放つために示しているのです。 上記の陰鬱は考えに対する貴方の反応{罪悪感}を引き起こそうとして、この事を言っているのではありません
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First Edition 296ページ 第一文節
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 153ページ 第四文節
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今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
先週我々は次の事を提示しました。
“Let Us look more closely at the relationships which the ego contrives, and let the Holy Spirit judge them truly.”
〔エゴが仕組んだ関係をよりよく見て見ましょう。 そして精霊にそれらの関係を正しく裁かせなさい。 〕
ここで言う「関係」とは、人間関係だけに限った事ではありません。 貴方は宇宙の全てのものと関係を持っています。 貴方と月との関係は長距離関係と見えるかもしれませんが、それでも貴方は月とも関係を持っています。 我々の言う「関係」とは、兄弟姉妹間の関係、人間関係だけには限らない事を明言しておきます。
“Let Us look more closely at the relationship- relationships which the ego contrives, and let the Holy Spirit judge them truly; for it is certain that if You will look at them, You will offer them gladly to Him. What He can make of them, You do not know, but You will become willing to find out, if You are willing first to perceive what You have made of Them.”
〔エゴが仕組んだ関係をよりよく見て見ましょう。 そして精霊にそれらの関係を正しく裁かせなさい。 何故なら、貴方がそれら(特別な関係)を正しく見れば、それを喜んで彼(精霊、貴方の正気)に差し出す事は疑いようがないからです。 精霊がこれら(特別な関係を)どうするか貴方には解りません。しかし、貴方がこれらを使って何を作ったか理解できれば、貴方はこれらを精霊に差し出して、どうなるか見てみようという気持になるでしょう。〕
そして先週ハッキリさせた通り、貴方は自分が意識したもの全てに対して定義を与えました。 あるものに対して、貴方は兄弟と合意して一緒に定義を決めました。他のものに対しては貴方が自分一人で定義を決めました。
いずれにしろ、貴方は自分が意識している(知っている)全ての「もの」に対して意味づけを行ったのです。
その意味とは、「もの」と貴方の関係を肉付け{より硬く物質化}するものです。
だから精霊が貴方の関係を使って何を作るか、貴方には解りません。 その理由は精霊が関係を使って作るのが、その「もの」の真の体験だからです。 そこで貴方はもやは自分の定義には惑わされず、その「もの」の真の姿を見る事ができます。 その瞬間、神がその「もの」全てに成ることで、神がその「もの」というアイディアの全てに成る事によって、神がその「もの」に対して与えた意味が、貴方に見えるのです。 その時貴方に見えるのは、貴方が定義した物質的物体ではないのです。
“What He can make of Them, You do not know, but You will become willing to find out if You are willing first to perceive what You have made of Them.”
〔精霊がこれら(特別な関係を)どうするか貴方には解りません。しかし、貴方がこれらを使って何を作ったか理解できれば、貴方はこれらを精霊に差し出して、どうなるか見てみようという気持になるでしょう。〕
貴方が全ての「もの」に対して自分で独自に定義をした事を認められる事。 これが第一のステップです。 そして精霊に対して「私が考えている事が真実ではないなら、これの本当の姿を見せて下さい。 もし私の作った定義が真実では無く、他者が作って私に示した定義が真実では無いなら、本当の姿はどの様なものでしょう?」と聞くのです。
貴方が見ている「もの」が作り上げられたものだと理解できれば、好奇心を持って「父よ、精霊よ、これの意味はなんですか?」と聞くのは容易くなります。
次の文もとても重要です。
“In one way or another, every relationship which the ego makes is based on the idea that by sacrificing itself, it becomes bigger. The ‘sacrifice,’ which it regards as purification, is actually the root if its bitter resentment; for it would much prefer to attack directly, and avoid delaying what it really wants.”
「エゴが作った全ての関係は、「それ自体を犠牲にすることでエゴがより偉大に成れる」と言うアイディアに基づいています。 エゴは犠牲を浄化プロセスと考えていますが、実際には犠牲がエゴの憎しみのおおもとです。 なぜなら、エゴは直接攻撃して自分が欲するものをすぐ得たいと本当は考えてるからです。」
エゴが本当に欲しているものとは? それはコントロール=支配力です。 エゴは自分と関係している状況を/人々を/ものを操作し利益をすぐ得たいと考えています。
エゴの得たい利益とは何でしょうか? エゴは常にリアルでないという事から逃れたいのです。 孤児である事から救われたいのです。 苦しみから救われたいのです。 孤独から救われたいのです。 完全に一人ぼっちでいる事から救済されたいのです。
“Yet the ego acknowledges ‘reality’ (in quotes) as it sees it, and recognizes that no-one could interpret direct attack as love. Yet to make guilty is direct attack, but does not seem to be.”
〔しかしエゴは「リアリティ」を自分が見たとおりに認識し、直接的攻撃を愛と考える人はいないと解っています。 他者に罪悪感を抱かせる{他者を有罪にする}事は直接的攻撃ですが、その様には見えません。〕 何故でしょう?
もし罪悪感を抱かせる事が直接的攻撃なら、何故そうは見えないのでしょうか?
“For the guilty expect attack, and having asked for it,” – by Their expectation – “They are attracted to it.”
理由は〔罪悪感を感じている者は攻撃を期待し、攻撃を求め、 ‐彼らの期待によって‐ 彼らは攻撃に引き寄せられるからです。〕
さて、これが貴方にどう当てはまるのでしょうか? 貴方は自分を犠牲にしてきましたか? 貴方は自分を犠牲にすることで、自分がより偉大になれたと思っていますか。 貴方は自己犠牲を通して浄化して自分を清めようとしていますか? そう考えてはいませんか? では上の文は何を言いたいのでしょうか?
The ego “would much prefer to attack directly” – Is that about You?
“Yet to make guilty is direct attack, but does not seem to be.”
エゴは〔直接攻撃したいと思っています。〕 これは貴方の事ですか?
〔他者に罪悪感を感じさせるのは直接的攻撃ですが、その様には見えません。〕
一つ明確になっている事があります。 この箇所を読んでいる貴方は、自分が完璧に満足はしていないと言う事を知っています。 貴方は自分が常時至福を感じ続けてはいない事を知っています。 自分の状況が苦しいと知っています。 そして自分がまだ神と本当に{意識的に}コミュニケーションしてはいないと知っています。
貴方は忙しく動き回って自分の生活を支えてきました。 そして状況が抜き差しならないほど厳しくなると貴方は自分の権利、(自分の持って生まれた権利である)自由意志{皮肉}を使って切り抜けようとします。 それでも上手く行かないとき初めて、貴方は静まり神に向き合って神と話そうとします。
もし貴方が神の声を聞けたなら、父と一体化しその力とサポートが感じられたなら、癒しが得られ問題が解決したなら、貴方はもう大丈夫と思った時点で「神様ありがとう。貴方は私が自分の足で歩けるようになるまで助けてくれました。 これからは自分で頑張ります。何故なら貴方は私に自由意志と言うものを与えたくれたのだから。 貴方は、自由に動き回り育つように私を作ってくれたのだから。 だからこれからまた、自分の意思を貫く事にします。」と言うでしょう。
しかしそれが貴方のレッスンだったのではないのです。 貴方のチャレンジするべきレッスンは、それではありません。 貴方のレッスンは、「今まで独自に行動し自由意志を執行して来たとき貴方は正気ではなかった」と言う事です。 そして貴方は(独立存在でなく父の子としての)自分の正当な権利である「存在する、ある」という満たされる経験をしてきていないのです。
これを理解して、それに祝福されれば、貴方のレッスンとは「おお。私は自由意志の表現には戻らない。 私は「自分がこの世界で独自に行動するべきで、それが神の意思だ」と言う概念には戻らない。」と言う事です。
「私はこの{神との}パートナーシップを尊重し、そこに留まろう。どの様な誘惑に会おうとも。」と言う事です。
貴方が今ここで目覚めていないなら、貴方が幾度父と繋がって一時的に祝福されたとしても、貴方はやはり自分の独立を未だに求めているのです。 貴方は未だに孤児に成りたがっているのです。
私は何度でもこれを繰り返して言いましょう。 何故なら貴方はこれを聞かないで済ませるわけには行かないからです。 理由は、これが貴方の目覚めへの基点、目覚めへの踏み込み台として機能するからです。
貴方が独立を求めたとき、貴方は恐れと罪の二つの体験を求めた事になります。 これらは切り離すことができません。 独立を求めれば、恐れと罪が貴方の住む環境になります。 貴方は依然として天国の中にいますが、それには気付けません。 罪と恐れが、貴方が神の子供(貴方の兄弟姉妹達)と係わり合う環境になります。 そして貴方は天国を認識できなくなります。
天国が、その中で貴方が恐れと罪と戦わなければならない環境に変容します。
罪と恐れを体験し続ければ、フラストレーションが溜まります。 罪と恐れとフラストレーションが合わされば行動が起こります。 その行動とは何でしょう? それは何時でも怒りです。 恐れと罪と、それらが作るフラストレーションの体験からもたらされる行動は怒り以外には在り得ません。
こうして孤児院に住む孤児のように貴方の行動は怒りの表現になります。 しかし、ここで怒りについて理解しなければならない重要な事があります。 何故貴方は怒りを感じるのでしょう? 何故貴方は怒るのでしょうか? もし孤児に成るのが、独立した自立した存在として自由意志を表現するのが普通のことなら、何故貴方は怒ってしまうのでしょうか? 何故恐れが存在し、何故罪が存在し、何故それらがフラストレーションを引き起こし、怒りがもたらされるのでしょうか?
その怒りは、実際は貴方の正気なのです。 貴方が自分に与えた定義にも関わらず、皆が貴方に与えた定義にも関わらず、貴方は聖なるものとして存在することを止めてはいないのです。
とめどなく恐れ/罪/フラストレーションを体験し続ける事は自分には相応しくないと貴方は知っているのです。 しかし貴方は自分が誰か忘れてしまったので、この怒りが自分の正当な憤慨だと貴方は気付かないのです。 貴方という聖なる存在の真実の認識から沸き起こる憤慨が怒りなのです。
恐れ/罪/フラストレーションを絶え間なく体験し続けるのは貴方には相応しくありません。 貴方はその事を知っています。
この問題を解決するには、貴方が父から得た離縁を解消しなければいけません。 自分の独立状態を得るに至ったステップを解除して行く必要があります。
しかし貴方が自分が誰か忘れてしまうと、自分が神の聖なる子供である事を忘れてしまうと、貴方は自分の聖なる特性により孤児院{独立状態}を放棄する権利がある事を忘れてしまいます。 貴方は神ともう一度繋がる事によって、もう一度自分の源と意識的に繋がる事によって、恐れ/罪/フラストレーションを自分の経験から取り去る権利(能力)を自分が持っている事を忘れてしまします。
貴方はそれを忘れてしまい、自分が相応しくない体験をしていると知っている貴方の正気は、孤児院の中の孤児{物理的世界の中の個人}により{怒りとして}表現されます。 その孤児院で他の孤児と唯一可能な関係を持つことになります。 そこで唯一可能なのはコントロール=支配関係だけです。
貴方が兄弟姉妹に罪悪を擦り付けて、自分が罪悪から逃れようとする、自分が罪悪の責任を取らなくて済むよう試みる事に関しては、先週お話しました。
一旦このスタイルで全てのものと関係を結ぶ事に囚われ始めると、貴方は犠牲の状態にシフトした事に成ります。
一番初めに父から離縁した時、貴方は自分の持って生まれた権利の意識的体験を犠牲にしました。 貴方は自分が父親を持っている(源を持っている)と言う事実を体験する事を犠牲にしたのです。
そして、正気の体験(正当な憤慨)が起こった時に貴方がそれを理解できない場合、それは怒りとして感じられます。 そして貴方は兄弟姉妹が貴方のために犠牲を払うよう要求するのです。 恐ろしく大切なものを犠牲する体験を貴方が避けられるよう(とエゴは考えます)、兄弟姉妹が代わりに犠牲を払う事を要求するのです。
こうして貴方が罪と非難を逃れられる様、それらが兄弟姉妹に向けられます。 そして貴方の体験している犠牲が兄弟姉妹の責任に課せられます、貴方がそれ(犠牲)を体験しなくても{し続けなくても?}済むように。
貴方の兄弟姉妹も貴方同様孤児院にいるので、つまり彼らも貴方と同じ考え方をしており、同じように誤った認識を持っているので、彼らも罪悪感を感じています。
罪悪感を感じている彼らは、懲罰される事を期待(予測)しています。
これが下記の文の意味です。
“Yet to make guilty, is direct attack, but does not seem to be. For the guilty expect attack.” The guilty expect the axe to fall. “And having asked for it, They are attracted to it.”
〔他者に罪悪感を感じさせるのは直接的攻撃ですが、その様には見えません。 罪悪感を感じている者は攻撃を予感し ‐その期待によって‐ 彼らは攻撃に引き寄せられるからです。〕
貴方は攻撃に引き寄せられるだけではなく、それを期待するだけでなく、攻撃が現れた時それを受け入れてしまっています。
もちろん攻撃は現れます。 貴方が他の孤児達とつるんでいるからです。 貴方が彼らに罪を着せて自分の無罪を晴らす事を、彼らが期待し。 貴方も(無意識あるいは意識的に)彼らに罪を着せられる事を期待しています。 何故なら貴方は自分がそれに値すると、自分が有罪だと考えているからです。
これはとても病んだ共生関係です。 自分が孤児だと考えている人が結ぶ関係は全て病んだ関係です。
貴方の見るべき真実は、とても陰鬱ものに思えるでしょう。 私が貴方を、貴方が貴方自身を見る様に見たなら、私もとても憂鬱に成ってしまうでしょう。 貴方がどれだけ自分のものの見方に、自分の考え方に固執しているか見たら、私はとても憂鬱に成ってしまうでしょう。
私が貴方の{エゴの}考え方を受け入れたなら、貴方を手助けする方法はないと考えてしまうかもしれません。 しかしそうでは無いのです。 ですから、私がここでハッキリ示そうとしている事は、貴方を解き放つために示しているのです。 上記の陰鬱は考えに対する貴方の反応{罪悪感}を引き起こそうとして、この事を言っているのではありません
理由はこのまま続けても理解する上での障害にはならないと判断したからです。
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