目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

Carmel1990 Death, Suicide

2009-12-14 03:08:55 | その他
Carmel, California gathering 1990 (抜粋)


質問:自殺した人は、事故や癌やその他の原因で死んだ人と違う結果を受け取るのですか?


Raj:  個人的体験として全く違いはありません。 事故であろうとも、体の病であろうとも、死は全ていつでも自殺です。
死はいつでも、自身の存在の流れに対する(意識的な、あるいは無意識の)抵抗なのです。 それは「神の現れ(表現)としての」命を抱擁する事への抵抗です。
それは「根源的で自己発生的な意識知性」の現われを拒否する行動です。

自然死とは、長い時間かけてゆっくりと命から遠ざかっていくプロセスの事です。
人が生命から少しずつ遠ざかってしまう理由は、人々が自分達は物理的な生物だという感覚を持って生きているからです。 生物的な体の中に、魂やマインドが一時的に入っているのだと考え、感じているからです。

そして今まで死以外の方法でこの場所から去って行った人はごく僅かなので、死を通して移行する事が、ナチュラル(自然)で避けがたいものなのだと決め付けられているのです。

だから人が例えば、そうですね45歳とか50代とかに成ると、「新しい事を始める意味は無い。」「新しいキャリアを作るなんて無意味だ。」「長期のプロジェクトを始める意味はない。  今は健康だけど、私はそこまで長くは生きないだろうから。」とか言い出すわけです。

こうして、生命(人生)に対して能動的に関わって行く事に少しずつ(あるいは急激に)抵抗し出すのです。

この様にして人生に抵抗する事は、「自分の存在の動き」に対して抵抗する事なのです。

こうして、人は自分自身に対してより不調和に成ってしまうのです。 自分自身に対してリズムが合わなくなっていってしまうのです。
これが自殺への第一歩です。

もし誰かがピストルで自分の頭を打ち抜き、このプロセスを早めたとしても、結果は全く同じ事です。

老衰するにしろ自殺するにしろ、それらは、生命(人生)に能動的に関わって行く事へ抵抗しようとする(自己顕示的)行動なのです。

人が(肉体から)移行したとき、そのシフトの引き金になったものがどの様な事態であったとしても、彼は基本的に自分が今までと全く変わらない状態にある事を発見します。

人が死んだ結果として、その場で体験する唯一の変化は、今まで自分を死へ導いている様に見えたものが突然なくなっている事を見つけるだけです。

もし癌により死亡したと思っても、もし手術している間に自分が死んだと思っても、あるいはどの様な身体的な原因により死んだと思ったにしろ、それでも生命を体験し続けると言う事実に直面する事になり、病によって死ぬ事はないと(自分が死につつあると考えていた人に)証明されるのです。

こうして人は病に対する恐れから瞬時に解放されます。

そして(病への)恐れがないところで、「病が貴方を殺す可能性があるという」概念に付随した信念が全くないところで、病に対する癒しの体験が瞬間的に起こります。

だから貴方が病と関わっている時、次の事に気付いていながら、その場で起こっている事を抱擁する(体験する)必要があります。
それは「病に対して植えつけられた恐れと、病は進行する(より悪くなる)傾向があるという信念が、貴方に死(の体験と見えるもの)をもたらす」と言う事です。

これが(貴方に死の体験をもたらす)信念です、これが条件付けです。 
これは単に言葉だけによる条件付けではなく、他者に(死が)起こっている事を観察した結果としての条件付けです。 そして「誰かにとって真実である事は、自分にとっても真実に違いない」という「思い込み」が自動的に行なわれたのです。

しかし今言ったとおり、人が亡くなって、病が貴方の存在を消しはしなかった事を発見した時、病に対する恐れは瞬時に消え去ります。

そして病に付随していた「脅かされる感覚」も消え去ります。 そして癒しが体験されます。

この癒しは、人が死亡した結果として起こるのではありません。 癒しはいつでも認識の結果起こるのです。それは貴方が真理の明晰さにシフトした結果として起こるのです。 その様なシフトは今ここで起す事ができるのです。 病の進行に対する信念に屈服するのではなく。

これが意味する事は、自殺した人が地獄へ行く訳では無いと言う事です。 煉獄の中で朽ち果てる訳ではないのです。

彼ら(自殺した人)も、その他全ての人と同じく、「真理を発見する機会の狭間(瞬間)」に自分が今でも立ち続けている事を発見するのです。 その真理を主張し、その真理を自分のものとして、それを体現するべきなのです。 その機会が与えられ続けるのです。 貴方と同じように、彼らもその機会に面し続けます。

死亡を体験したとしても(目覚める事に対して)何も有利には成りません。 死んだ人達は(自分が死んだと思っている人達は、貴方が「彼らは死んだ」と思っている人達は)自分達が生きているときに懐いていた(信じていた)信念を(死んでも)信じ続けます。 そして死んでも、それらの信念をクリアにする機会が与えられ続けます。


全ての人が目覚めの一歩手前(目覚めのすぐそば)にいる事については、以前からお話しています。

これは2千年前には言えなかった事です。(我々は、2千年前はこの様な(全ての人がすぐにでも目覚められる)状態にはいませんでした。)

これは過去2千年の間に我々兄弟仲間がかなり成長(とここでは言いましょうか?)しかたらです。 我々の兄弟の内の、まだ寝ている人達がかなり成長して来たからです。

そして自分達の行動に対して責任を取る意志がより大きくなってきています。 そして自己尊重もより確かに成って来ています。

これらの理由により現在、より多くの人々が十分な信心を持って(聖書の言い方を借りれば)「父の意志に譲る事」が出来るように成っています。

より一般的な言い方をするなら「人々がそれぞれ自分の一番奥深くにあるKnowing(全てを知っているもの/知っているという感覚)に自分をゆだねられる様に成る。(何世紀ものあいだ生存の為に使われてきた卑小なエゴ感覚ではなく、より深くより広くより広がっていく)自分達の中のセルフ(自身)にゆだねなれる様になっている。」と言う事です。

その結果、無知な事を能動的に行なっている人達の数が段々減ってきています。

そしてより多くの人達が彼ら自身の内的気づき(Inner Knowing)に自分をゆだね依存した時、より多くの人達が精霊(あるいは父の意志に)に自分をゆだねた時、 知性の結果としての「知ること」よりも深い「知っていること(Knowing)」に譲った時、
「(3次元だけに限定されたものの見方/エゴの見方に特有の)無知を現しそれ(無知)をより強めていく人達」が減少します。

こうしてエゴと(人類に受け入れれている、そして人類を弱者にしている)エゴの信念体系が弱められていきます。

そしてこれはここに肉体として生きている人達だけではなく、宇宙の他の場所に肉体を得ている者達だけではなく、向こう側に渡った(死んで行った)人達についても同じ事が起こっています。 彼らも自分たちの目覚めの一歩手前で、目覚めとの境界線を目の当たりにし続けているのです。

(私が目覚めと呼んでいる)この意識のシフトは宇宙全体の中で起こっている事です。 そうなっている理由は、エゴのレベルで無知を使い、無知を永続させている者達の数が減りすぎて、無知を保つ事が困難に成っているからです。

自分の手で(つまり公然と自殺をして)あの世へ言った人は、その他の方法でこの世を去った人と比べて、何か特別な罰を受ける状況にいる訳ではありません。

死とは幻想です。 そして幻想を起した方法(死という幻想をもたらす為に使われた方法)はどれでも結局は同じです。 ある一つの方法(自然死)がその他の方法(自殺)より価値があるわけではありません。  自分の神聖に対する総体的な無知こそが、無知というペナルティ(懲罰)を作っているのです。 無知の結果として行なわれた個人の{特定の}行動が、無知というペナルティ(の状況)を作っている訳ではありません。

貴方がどの様な状況でどの様な行動を取ったにしろ、貴方は(自分の行動故には)裁かれない事を理解している必要があります。 貴方に対してもたらされる裁き(Judgement)は常に、貴方が無知を選択した事によって貴方にもたらされるのです。 それは決して父の裁きではありません。 それは決して完全に目覚めている者の裁きではありません。

貴方が無知を使い続ける限り、貴方は自分の無知によって苦しめられ続けます(これが無知のペナルティです)。

無知がKnowing(知っている事/知っている状態)で置き換えられた時、あるいは無知が理解で置き換えられた時、苦しみは終わります。 貴方に対する裁きは、この様に働いているのです。

無知はただ単に、「貴方の真理の体験」を貴方に見えない様にしているだけです。
(その時)無知によってもたらされる苦しみだけが、ペナルティとして存在しています。

だから、真理が「貴方の現在の限界」を破って(貴方の中に)入ってきて、真理を「貴方のエッセンス(本質)」として示し称える事を許可出来るよう無防備に成る事により、貴方は無知から解放されるのです。

こうして「貴方が本当は誰か」という事に対する貴方の意識がクリアに成るのです。

そして無知と共に苦しみが消えて無くなります。 そして「貴方に対する裁き」として見えていたものも、どこにも見えなくなるのです。

これで答えを言い終わりました。