目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-11-28#1 the end of sacrifice

2009-12-02 12:54:15 | Chapter 15
原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx

November 28, 2009 ©NWFFACIM

ページ位置の確認。


Sparkly Book, page 375, the second full paragraph.
Second Edition, page 328, paragraph 5.
First Edition, page 305, the first full paragraph.
JCIM, page 157, the fifth paragraph.
CIMS edition, page 316, paragraph 105.


少し瞑想しましょう。


今晩は、ようこそ。  

ほぼ13ヶ月の時間を経て我々は「時間の目的」と題されたセクションを読み終えようとしています。 この13ヶ月間、基本的には聖なる瞬間について話してきました。 その意味については話してきました。 この偉大な意味とは、それが目覚めの境目だという事です。

これは何らかの理由によって、「自分が独立した認証者(確定者)である、自分が独立した存在である」という概念を貴方があえて放棄しようとする瞬間のことです。

そして貴方が、全てのものの原因と、貴方の原因と繋がろうと意図する事です。

これは「天国にいる我らの父よ、貴方の名前が称えられますように。 貴方の王国が来ます(ように)。 貴方の意志が天国でなされている様に、地上でもなされます。」と貴方が言う地点の事です。

つまりこれは、天と地(天国と現世)という、分離しており繋がっていない様に信じられているものが繋がる(一つに成る)事のなのです。

(貴方を含めた)全てのものの中に神を探す意志(を持つことです)。 存在する全てのものの原因に対して自分を譲り、それに従い、自分をそれの子供とする事です。

ポールはこのセクションが終わってしまうのが惜しいとさえ考えています。  貴方もそう考えているかも知れません。 このセクションが貴方に示した事を覚えている必要があります。

これは自分の良きものへの道しるべを得るようなものです。  貴方がその他の事を考えている間も、それを聖なる瞬間と関連して行なうようにしなさい。

それを(神との)繋がりの観点から行ないなさい。 それをただ考えるのではなく、貴方が実際にする事という観点から行ないなさい。

それを貴方のガイドと共に考慮しなさい。 それを精霊(貴方の正気でしかないもの)と共に考慮しなさい。 自分ひとりだけで何かをすることは金輪際止めなさい。

そして自分が注意深くしている事に疲れてしまい/怠惰に成ってしまい、「自分一人でだけで考えてしまっているなら」それに気付きなさい。 そして(一人だけの思考を)止めなさい。 そして適度な自制心を持ちなさい。

私の言っている事は「貴方の答えがある所を見なさい。」これだけです。
「貴方の答えがない所を見続けるのは止めなさい。」

「真理が見られるところ」に貴方の注意を注ぎなさい。 貴方にとって、真理は貴方の幻想よりも重要なものなのだから。


本を読み進めましょう。

“As long as You perceive the body as Your reality, so long will You perceive Yourself as lonely and deprived. And so long will You also perceive Yourself as a victim of sacrifice, justified in sacrificing others.”

〔貴方が体を自分のリアリティと認知している限り、貴方は自身を孤独で貧しい者と認識します。 そして貴方は自身を犠牲の被害者として認識してしまい、(その認識によって)貴方が他者を犠牲にあげる事を正当化してしまいます。〕


「貴方が体を自分のリアリティと認知している限り、」
上記の文は単純に聞こえますが、これはある事を暗示しています。

体を自分のリアリティとして認識している人達は(ポールの体を叩いて、「これが私です。 私がこの物です。この形、この身体です。これによって自分が男だとか女だとか決まるのです。 この体が示すとおり、私には二つの手と二つの足があるのです。云々。」)

殆どの人達は自分たちをこのように見ています。 そして、自分自身を体験するその他の方法があるとは考えても見ません。 貴方達の多くは、自分を、様々な形によって作られている世界の中の、一つの形として見ています。

私がこう言っているのは、それ以外の体験がありえるからです。 それを私が貴方に知らせているのです。 貴方が好奇心を持ってその体験に望めるように、誰かがこれを貴方に知らせる必要があるのです。

その一方で、スピリチュアルな学習をして来た人達もいます。 その様な人達は自分のマインドを重視するようになります。 そしてマインドの中で「形の体験が起こっている」と理解しています。 だから貴方の存在の基準が体に置かれるのではなく、マインドに置かれるのです(と理解しています)。

もし貴方が生まれた時から、スピリチュアルな環境で育ったなら、その様な環境しか知らず、自分自身を体と重ねて見る事を(体を自分自身のアイデェンティティと)したことがなければ、「進化の過程にある一つの形(魚や牛や虫などの形の一つ)としてだけ自分自身を見ている人」が自分と同じ世界に居るとは想像も出来ないかもしれません。

貴方がどちらかの視点から世界を見ていたにしろ、貴方と違う体験をしている人が居ると気付かなければ、貴方は(違う風に世界を見ている人に対して)とても不親切で、心ない対応をしてしまうかもしれません。 「貴方が認識していない様な体験」をしている人をからかったり、軽く見たりしてしまうかもしれません。

瞑想したり、しなかったりする事により、この両方の体験を効果的にする事が可能です。

自分達の体と自分自身を同一視している人達は(自分達が体で、体が自分達だと考えている人達は)瞑想する事で、思考を持たずに意識を保つ事を体験する事が出来ます。

(体などの)物に対してアイデェンティティ(自己同一化)を与える事なく、自分が全てを体験している視点を持つ事が可能です。

この体験の場所が、完全な平和の場所です。 そして「体と自分を同一視している」場所が(その程度に差はあれ)常に恐れと罪を体験している場所です。

全ての人がこれを体験する事(体にアイデェンティティ(自己同一化)を与える事なく、自分が全てを体験している視点を持つ事)が出来ます。 これは内的な体験です。

貴方はこれが出来るので、我々が話してきた事(貴方が幻想から真理に注意をシフトする事、先回話した距離の無い旅の事)は容易に理解する事が可能です。

あるいは問題から回答(解決)へと注意をシフトする事が出来ます。 病を生むものから病を癒すものへ注意をシフトする事が出来ます。 

この注意(意識)のシフトは一つの場所で行なわれます。 このシフトはマインドの中で行なわれます。

目覚め(覚醒)は複雑な事ではありません。 自分の注意を常に精霊へ与え続ける事を躊躇することで、貴方は目覚めを複雑にしているのです。
貴方は自分の注意を継続的に精霊に(貴方が思考を止めて静かに成っているところへ)与え続けて、自分が真理を体験できるよう精霊に/父に/私に助けを求めるのです。

貴方が(知識的な体験ではなく、それがどんなものか直接体験して)真理を知ることが出来るよう援助を(求めるのです)。

今夜我々が読んでいる事の理解を助ける一つのイメージは:
「父よ、貴方と離縁したいです。 父よ、私は自分だけの足で独立して立ってみたいです。」と貴方が言っている場面です。

この時、その様な布告(判定)が下され、それが貴方に与えられたと貴方は想像したのです。 そして貴方は実質的に{貴方のマインドの中では}孤児(自分の源を持たない存在)に成ったのです。 孤児院の中で他の孤児達(自分も孤児に成ったと思っている人達)と共に自分の人生を過ごす孤児に成ったと貴方は想像したのです。

これは「自分自身を体と同一視する事」と同一の事(きわめて似かよった事)です。 これを理解する事が重要です。


“As long as You perceive the body, as Your reality, so long will You perceive Yourself as lonely and deprived.”

〔貴方が体を自分のリアリティだと考えている限り、貴方は自身を孤独で貧しい者にしてしまいます。〕

貴方が自分自身を孤児と認めて、自分が孤児である事に固執している限り「貴方は自身を孤独で貧しい者にしてしまいます。」

そうしている限り、貴方の持って生まれた権利はなくなっています。 「独立することは孤立する事だと」理解せずに独立を選んだ貴方は、孤独に成ってしまったのです。 独立とは孤立と孤独を意味するのです。 それが貴方が直面している事です。

貴方が自分自身を孤児として認識している限り、貴方は自分自身を孤独で貧しい者として理解します。


“And so long will You also perceive Yourself as a victim of sacrifice, justified in sacrificing others.”

〔そうしている限り貴方は、自分を犠牲の被害者として認識し、「自分には他者を犠牲にする権利がある」と考えます。〕

貴方が抱擁を放棄した途端、貴方が父を放棄した途端、貴方は貴方にアイディンティティ(「自分が誰か」という認識)を与えていたもの(神)を放棄したのです。

その時貴方は、貴方に真理を与えているもの/貴方の存在に真理を与えていたものを放棄したのです。 『これが犠牲なのです。』 解りましたか?

貴方は、「孤児院の中の隣人に親切な事をする為に」自分が犠牲を払っていると考えたりします。 あるいは、自分がしたい事ではなく、何か良い事(孤児院のスタッフを助けたり)をしているので、貴方は自分が犠牲を払っていると考えているかもしれません。

貴方は、孤児院に居る自分と他者の間で犠牲が行なわれていると考えています。
しかし本当は、「父よ、私の見方で理解したいのです。」と貴方が言っているから、「全てのものを自分で定義する」貴方の想像上の権利を放棄していないから、犠牲が行なわれ続けているのです。  それを貴方は理解していません。

そこで犠牲が行なわれているのです。 これを正確に理解しなさい。 でなければ、貴方は他の人の為に自分が犠牲を払っていると考え続けてしまいます。

そして貴方は(自分が払っていると考えている)犠牲故に怒ってしまいます。 自分が犠牲にしたものを他の誰かが持っているといって、貴方は嫉妬してしまったりするでしょう。

貴方が絶対しなければならない事は、自分のマインドの中に貴方が作った「貴方と他者全員の間の葛藤」を放棄できるように成る事です。 貴方と(貴方が自分を犠牲としている)貴方以外の人達全員の間にあるストレス(緊張)を放棄しなさい。

あるいは、「貴方と(貴方に対して未だ十分な犠牲を払っていない)他の人達」の間にある葛藤を(マインドの中で)放棄しなさい。  それ(貴方が作った葛藤)は貴方を縛り付けてしまいます。 そして孤児院の中で貴方は何度も繰り返し転生し続けてしまいます。

しかし犠牲が起こっているのは、そこ(孤児院)ではないのです。

犠牲が起こっているのは、貴方が続けている行為の中でです。  「貴方の行為」とはお芝居の演技のようなものです。 貴方が続けている独立の演技の中で犠牲が行なわれています。

聖なる瞬間とは、(一瞬でも)貴方が自分の独立の演技(行為)を放棄した時のことです。

独立の演技(行為)が存在していないところで、貴方の正しいマインドが正気の体験を持てるのです。 だから聖なる瞬間がこれほどに重要なのです。 聖なる瞬間が、夢からの出口です。 それが苦しみからの出口です。