原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx
November 28, 2009 ©NWFFACIM
“For Who could thrust Heaven, and Its Creator, aside without a sense of sacrifice and loss?”
〔天国とその創造者を打ち捨てて、犠牲と喪失の感覚を持たない人がいるでしょうか?〕
貴方は、天国と呼ばれているものを投げ出して、自分の創造者(造物主)を投げ出して、それらを束の間追放して、他のものと戯れている間に、自分の正気を失ってしまいました。
貴方は決意を持って混乱してしまいました。 貴方は混乱しており、貴方は自分の混乱に対して(関与の)決意を与えているのです。
だから,
“-Who could thrust Heaven and Its Creator aside without a sense of sacrifice and loss?”
〔天国とその創造者を打ち捨てて、犠牲と喪失の感覚を持たない人がいるでしょうか?〕
そのような人はいません。 天国とその創造者を打ち捨てたとき、貴方は狂気に陥ってしまいました。 それは不自然な体験、それは犠牲と損失の体験です。 非常な損害、気の滅入る消失、痛みを伴う損失です。
「私はもう耐えられないから孤児院を出ましょう。 頭をピストルで打ち抜いて、孤児院から出て行きましょう。」 ? いいえ。 貴方は孤児(神から分離した存在)である事を放棄する事により孤児院(自分の作った世界)を出るのです。
色々な意味で貴方達全員は、世界の様相(見かけ)に囚われています。 孤児院内で行なわれている事に囚われすぎています。 孤児としての体験にしがみ付いています。
そしてスピリット(霊)や真理や神に関して学んで、孤児としての体験を向上させようとしています。 しかし真理の目的はその様なものではありません。 精霊には別の目的があります。
それは正気を貴方に取り戻させる事です。 そこには孤児院はありません。 だからその中で成功する事も、一番に成る事も出来ません。
“Who could thrust Heaven and Its Creator aside, without a sense of sacrifice and loss? And Who can suffer sacrifice and loss without attempting to restore Himself?”
〔犠牲と喪失の感覚を持つ事無く、天国とその創造者を打ち捨てられる人が居るでしょうか? そして誰が犠牲と損失の被害者になって、自身を修復しようと思わないでいられるでしょう?〕
“Yet how could You accomplish this Yourselves when the basis of Your attempts is the belief in the reality of the deprivation.”
〔しかし、貴方の努力の基礎が「欠如(損失)がリアルなものだ」という信念に基づいているとき、どうして(自分を孤児だと考えている)貴方がこれを自分自身でやり遂げられるでしょうか。〕
孤児としての視点から自分を修復しようとする試みは、「貴方が本当に孤児であるという」信念の延長でしかありません。
貴方が自分の持って生まれた権利を忘れている限り、貴方が自分の神聖を忘れている限り、貴方の神聖でない惨めな人間的なセルフ(自己)がそれ自身を向上させ自身を修復しようと努力し続けます。 しかしその努力がもたらすのは、惨めな人間的存在が努力しているという状況でしかありません。
唯一可能は方法は、貴方が独立した孤児であるという信念を放棄して、神の子供としての貴方の持って生まれた権利を呼び入れて、それ(貴方の持って生まれた権利)を貴方の中で修復させる事です。
“Who can suffer sacrifice and loss without attempting to restore Himself.”
〔誰が犠牲と損失の被害者になって、自身を修復しようと思わないでいられるでしょう?〕
貴方のバランスを取り戻しなさい。 (自分が体験しているべきだと貴方が知っている)貴方の喜びを取り戻しなさい。
“Yet, how could You accomplish this Yourselves when the basis of Your attempts is the belief of the reality of the deprivation.”
〔しかし、貴方の努力の基礎が「欠如(損失)がリアルなものだ」という信念に基づいているとき、どうして(自分を孤児だと考えている)貴方がこれを自分自身でやり遂げられるでしょうか。〕
孤児院がリアルだと考えている時。 貴方の孤児としての体験がリアルだと考えている時。
“For deprivation breeds attack.”
〔何故なら、欠如(惨めな境遇)は攻撃を生むからです。〕
欠如(惨めな境遇)は、妬みを、怒りを、独善的考えを産みます。
そうして貴方は、自分自身をより良くしようとしたり、(意地悪な行動によって)自分を誰かより高めようとします。 誰かが自分より劣ったステータス(境遇)にいるとデモンストレートしようとします。
“For deprivation breeds attack, being the belief that attack is justified.”
〔何故なら、欠如(惨めな境遇)とは、攻撃が正当化されているという信念そのものなので、攻撃を生むのです。〕
貴方は「父よ、私は自分(だけ)の方法で見てみたいです。 私は自分のやりかたで物事を見ることにします。」と言って、するとたちまち貴方は自分の方法で物事を見るように成りました。
そしてそれは居心地の悪い経験です。 居心地悪い体験は、貴方の気分を悪くさせ、貴方は憤慨し始めます。
こうして貴方の人生/世界/同胞との係わり合いは、怒り/恐れ/罪を基に行なわれます。
自分が苦しんでいるので、貴方は誰か他者にその責任を負わせる必要があります。 その責任はもちろん貴方にはないのだから。 {自分には選択肢がないのだから。 これが欠如、つまり惨めな境遇です。}
貴方は自分自身を見ています。その独立した状況を見て、自分はなかなか上手くやっていると考えています。
しかし貴方は自分を(良く)見てはいません。 貴方は十分広い視野から自分を見てはいません。孤児としての自分を見ているので、貴方が神の子だと気付いていません。 貴方はまだ「自分の持って生まれた権利」を「自分のアイデェンティティ(自分が誰かという事)」を無視しています。
だから貴方は苦しみ(困難)を放棄する事が出来ません。 まだ犠牲を放棄する事が出来ていません。 犠牲から切り離す事が出来ない人生の状況に対して働きかけることをまだ尊んでいます。 人間的状況を上手く切り抜けるのが自分の仕事なのだと、そうして自分の価値を証明しなければ成らないと、貴方はまだ考えています。
違いますか?
“-deprivation breeds attack, being the belief that attack is justified. And as long as You would retain the deprivation attack becomes salvation, and sacrifice becomes love.”
〔欠如(惨めな境遇)とは、攻撃が正当化されているという信念そのものなので、攻撃を生むのです。 貴方が欠如(惨めな境遇)を保持する限り、攻撃が救済になり、犠牲が愛になるのです。〕
貴方が「父よ、私は自分一人で見てみます。」と言っている限り、攻撃が救済と見間違われ、犠牲が愛と取り違えられ続けるのです。
これ以上明確には言えないでしょう。
貴方はとても巧妙に犠牲と攻撃を使う事が出来ます。他の人が気付かないぐらい巧妙にそれらを使用することが出来ます。 そうして貴方は自分をより有利な位置に置く事が出来ます。 そうして貴方は自分を分離の体験に、孤独の体験に嵌め込んでしまう事が出来ます。
目覚めるとは、これらの事から開放される事です。 聖なる瞬間とは、これらの事から解放される事です。
“So it is that, in all Your seeking for Love, You seek for sacrifice and find it. Yet You find not Love. It is impossible to deny what Love is, and still recognize It.”
〔こうして愛を探している貴方は(孤児として)犠牲を探し、それを見つけます。 しかし貴方は愛を見つけません。 「愛が何であるか」を否定しながら、愛を認識することは不可能です。〕
愛する能力は貴方の創造者からもたらされています。 それは独立した存在としての貴方に与えられたものではありません。 愛する能力は「神から独立(分離)している貴方」が手に持って、死ぬまで(妄想的に)保持する事が出来る様なものではありません。
愛する能力は、それが貴方に対して創造者から差し伸べられる事によって、貴方にもたらされています。 造物主が自身を表現する事により、愛する能力が貴方に流れ込んでいます。
貴方は自分が愛する能力を既に持っていると気付くのです。 より正確には、父をもう一度受け入れた時、貴方は自分が愛する能力であると気付くのです。
だからそれ(父を受け入れること)が成就(満たされる事)なのです。 だからそれが喜びなのです。
“The meaning of Love lies in what You have cast outside Yourself, and it has no meaning at all apart from You.”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。 しかし貴方から離れている限りそれは意味を持ちません。〕
「自分のやり方で見てみます。独立した存在になってみます。」、これは「私はエゴとして存在する事を望みます。」という意味です。
そして貴方の無視している(貴方の)部分が精霊に成り、それは貴方がエゴと戯れている間預けられているのです。
私は上記の事を何度も繰り返し言って来ました。 上記の事が我々の今読んでいる事をクリアにします。
“The meaning of Love lies in What You have cast outside Yourself”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。〕
つまり愛の意味は、精霊(貴方の正気でしかないもの)の中にあります。 全てのものの意味を「自分一人で自分の為に定義する事」に固辞して、貴方は精霊(自分の正気)を離縁したのです。
“The meaning of Love lies in what You have cast outside Yourself, and It has no meaning at all apart from You. It is what You prefer to keep that has no meaning.”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。 しかし貴方から離れている限りそれは意味を持ちません。 そして貴方が「これを取って置こう!」と自分で決めたものには意味がありません。〕
貴方が取って置こうとしたものは、貴方が作り上げた定義群と、それらを作る権利です。 そうして貴方は本当の意味に対しては無意識に成ってしまったのです。
貴方がこれをした理由は、他の事をする事が出来ると誰も貴方に言わなかったからです。
しかし、ACIMと私はそれを貴方に言っています。
“While All that You would keep away holds all the meaning of the Universe, and holds the Universe together in Its meaning.”
〔貴方が持ち続ける(保持する)ものが、宇宙にその全ての意味を与えています。 それが宇宙をその意味の中に成り立たせています。〕
もう一度読みましょう。
“It is what You preferred to keep that has no meaning. While all that You would keep away holds all the meaning of the Universe, and holds the Universe together in Its Meaning.”
〔貴方が「これを取って置こう」と自分で決めたものには意味がありません。 貴方が持ち続けるものが、宇宙にその全ての意味を与えています。 それが宇宙をその意味の中に成り立たせています。〕
それは何故でしょう? それは貴方の外にあるもの、貴方が無視しているものが神/創造者/創造の動きの存在だからです。 それが意味を世界に与えています。 貴方がプライベートな卑小なマインドであろうとする限り、それ(神/意味)は貴方の注意(意識)から外れてしまいます。 これだけシンプルな事なのです。
“For unless the Universe were joined in You, it would be apart from God. And to be without Him, is to be without meaning.”
〔何故なら、貴方の中で宇宙が繋がっていない限り、宇宙は神からも分離しているからです。 そして神を持たないと言う事は、意味を持たないと言う事です。〕
聞きなさい。
“In the Holy Instant the condition of Love is met, where minds are Joined, without the body’s interference. And where there is communication, there is Peace.”
〔聖なる瞬間の中で愛の条件が満たされます。 そこで、体に邪魔される事なくマインド達が繋がります。 そしてコミュニケーション(繋がり)がある所に平和があります。〕
聖なる瞬間の中とは、静寂の中、貴方が自分のマインドを静かにしたところ、貴方が思考を放棄したところです。
それは、貴方の思考のプロセスが意味を作っているのではなく、貴方が静かになって(「存在する全て」を作っている者により)意味が貴方に示されるのを望んでいるところです。
だから、
“In the Holy Instant is the condition of Love is met for minds are Joined, without the body’s interference.”
〔聖なる瞬間の中で愛の条件が満たされます。 そこで体に邪魔される事なく、マインド達が繋がります。〕
孤児の境遇を主張する事無く、マインド達が繋がります。 そこには体と自己の同一視(Body Identification)がなく、マインドと自己の同一があるだけなので、愛の条件が満たされたのです。 マインドが視点になったのです。 マインドが「創造の全てが体験されるよう存在する」全てになったのです。
“The Prince of Peace was born to re-establish the condition of Love, by teaching that communication remains unbroken, even if the body is destroyed, provided that you see not the body as the necessary means of communication. “
〔平和の王子は、貴方が体をコミュニケーションに必要なものとして考えない限り、もし体が破壊されたとしても「コミュニケーションが損なわれる事はない」と教える事によって、愛の条件をもう一度確立する為に生まれました。〕
“And if you understand this lesson, you will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing, and communication,”
〔貴方がこのレッスンを理解したなら、体を犠牲にすることは、何も犠牲にはしなかった(コミュニケーションを犠牲にはしなかった)事だと解るでしょう。〕
“and communication, which must be of the mind, cannot be sacrificed. Where, then, is sacrifice?”
〔コミュニケーションはマインドに属するもので、それを犠牲にすることは出来ません。 それなら、どこに犠牲が存在するのでしょう?〕
ここで言うコミュニケーションとはコミュニオン(霊的交霊)と同じ意味です。
この文をより明確にする必要があります。
“The Prince of Peace was born to re-establish the condition of Love, by teaching that communication remains unbroken, even if the body is destroyed”.
〔平和の王子は、体がもし破壊されたとしても「コミュニケーションが損なわれる事はない」と教える事によって、愛の条件をもう一度確立する為に生まれました。〕
この文は体がリアルではないと言っているのではありません。 体が永遠でないと言っているのではありません。 この文は、聖なるアイディアを見て触れる事に意味がないと言っているのではないのです。
この文は「体が意識の焦点ではない」と言っているのです。 だから、もし体が破壊されたとしても、それは聖なる事実の存在になんら影響を与えるものではありません。 これが上記の文の意味する事です。
私が示して見せた通り、もし体が破壊されたように見えたとしても、それを修復する事が可能です。
それを「もう一度見つける事が出来る」と言っても良いでしょう。 何故なら、体は焦点ではありませんが、体をそれを形作ったアイディアから切り離す事は出来ないからです。 これを理解する事が重要です。
“If You understand this lesson, You will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing!”
〔もし貴方がこのレッスンを理解したなら、「体を犠牲にする事は、何も犠牲にしなかった事だ」と解るでしょう。〕
その通りです。
「体を使って貴方自身を定義しようとする事(体を自分の源と考える事)」を犠牲に(放棄)するのは、何も犠牲にしなかったと言う事です。 体は貴方のアイデエンティティの「見て触れる様相」なのです。 {体は「貴方が誰か?を示す」実体性なのです。}
シンプルに言えば、体は不滅です。 それは永遠です。 体は貴方の個性を永遠に示すものです。 しかし体は貴方のアイデンティティではありません。 体は貴方のアイデンティティを見える形で(体験できる形で)示しているものです。
貴方の体を(意識の)焦点として使う事を犠牲にする(放棄する)事は、犠牲にはあたりません。
これは、孤児院を放棄する事が、何かリアルなものの消失にはならず、それが神の子供としての貴方の真理を示し(貴方の)全目的の成就になる事と同じです。
“If You understand this lesson, You will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing.”
〔もし貴方がこのレッスンを理解したなら、「体を犠牲にする事は、何も犠牲にしなかったと同じ事だ」と解るでしょう。〕
この概念やその討議には全く意味がありません。
“And communication which must be of the mind, cannot be sacrificed. Where then is sacrifice?”
〔(必然的に)マインドによって行なわれているコミュニケーション(コミュニオン)は犠牲に成り得ません。 ならば犠牲が何処に在るのでしょうか?〕
犠牲は何処にも行なわれていないのです。 それは孤児院の中で行なわれている様に見えるだけです。 何故なら、貴方は「自分が誰か?という意識的気付き」を犠牲にしようと(無視しようと)し続けているから。 これが貴方が気付くべき事です。
“The lesson I was born to teach, and still would teach to all My Brothers, is that sacrifice is nowhere, and Love is everywhere.”
〔私が教える為に生まれてきたレッスンは、そして私が今でも全ての兄弟に教えるべきレッスンは、「犠牲が何処にもなく、愛が全てのところにある。」です〕
これはどういう意味でしょう。
“-sacrifice is nowhere, and Love is everywhere.”
〔犠牲が何処にもなく、愛が全てのところにある。〕
犠牲が行なわれている様に見える時は何時でも、(例えば、誰かが自由の為に自分の人生を放棄したり)それは全ての人を縛り付けてしまう誤解なのです。 死者を蘇らせる能力(度量)の意識が現実化するまで、その誤解は続きます。 その能力が実現し実行された途端、犠牲の全概念が消滅し、犠牲を尊ぶことがなくなり、犠牲に対する尊敬や賞賛が消えます。
どれだけ長い間、犠牲が意味深いものと考えられていたにしろ、それら(犠牲への敬意)は全て消えてしまいます。
それは消滅してしまいます。 何故なら死者が蘇る時、犠牲には意義がなくなるからです。 復活の前では、犠牲の価値はゼロなのです。
これに関しては、貴方の頭は新しい「考え」を受け入れなければならず、貴方は新しい意識を持たなければいけません。
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November 28, 2009 ©NWFFACIM
“For Who could thrust Heaven, and Its Creator, aside without a sense of sacrifice and loss?”
〔天国とその創造者を打ち捨てて、犠牲と喪失の感覚を持たない人がいるでしょうか?〕
貴方は、天国と呼ばれているものを投げ出して、自分の創造者(造物主)を投げ出して、それらを束の間追放して、他のものと戯れている間に、自分の正気を失ってしまいました。
貴方は決意を持って混乱してしまいました。 貴方は混乱しており、貴方は自分の混乱に対して(関与の)決意を与えているのです。
だから,
“-Who could thrust Heaven and Its Creator aside without a sense of sacrifice and loss?”
〔天国とその創造者を打ち捨てて、犠牲と喪失の感覚を持たない人がいるでしょうか?〕
そのような人はいません。 天国とその創造者を打ち捨てたとき、貴方は狂気に陥ってしまいました。 それは不自然な体験、それは犠牲と損失の体験です。 非常な損害、気の滅入る消失、痛みを伴う損失です。
「私はもう耐えられないから孤児院を出ましょう。 頭をピストルで打ち抜いて、孤児院から出て行きましょう。」 ? いいえ。 貴方は孤児(神から分離した存在)である事を放棄する事により孤児院(自分の作った世界)を出るのです。
色々な意味で貴方達全員は、世界の様相(見かけ)に囚われています。 孤児院内で行なわれている事に囚われすぎています。 孤児としての体験にしがみ付いています。
そしてスピリット(霊)や真理や神に関して学んで、孤児としての体験を向上させようとしています。 しかし真理の目的はその様なものではありません。 精霊には別の目的があります。
それは正気を貴方に取り戻させる事です。 そこには孤児院はありません。 だからその中で成功する事も、一番に成る事も出来ません。
“Who could thrust Heaven and Its Creator aside, without a sense of sacrifice and loss? And Who can suffer sacrifice and loss without attempting to restore Himself?”
〔犠牲と喪失の感覚を持つ事無く、天国とその創造者を打ち捨てられる人が居るでしょうか? そして誰が犠牲と損失の被害者になって、自身を修復しようと思わないでいられるでしょう?〕
“Yet how could You accomplish this Yourselves when the basis of Your attempts is the belief in the reality of the deprivation.”
〔しかし、貴方の努力の基礎が「欠如(損失)がリアルなものだ」という信念に基づいているとき、どうして(自分を孤児だと考えている)貴方がこれを自分自身でやり遂げられるでしょうか。〕
孤児としての視点から自分を修復しようとする試みは、「貴方が本当に孤児であるという」信念の延長でしかありません。
貴方が自分の持って生まれた権利を忘れている限り、貴方が自分の神聖を忘れている限り、貴方の神聖でない惨めな人間的なセルフ(自己)がそれ自身を向上させ自身を修復しようと努力し続けます。 しかしその努力がもたらすのは、惨めな人間的存在が努力しているという状況でしかありません。
唯一可能は方法は、貴方が独立した孤児であるという信念を放棄して、神の子供としての貴方の持って生まれた権利を呼び入れて、それ(貴方の持って生まれた権利)を貴方の中で修復させる事です。
“Who can suffer sacrifice and loss without attempting to restore Himself.”
〔誰が犠牲と損失の被害者になって、自身を修復しようと思わないでいられるでしょう?〕
貴方のバランスを取り戻しなさい。 (自分が体験しているべきだと貴方が知っている)貴方の喜びを取り戻しなさい。
“Yet, how could You accomplish this Yourselves when the basis of Your attempts is the belief of the reality of the deprivation.”
〔しかし、貴方の努力の基礎が「欠如(損失)がリアルなものだ」という信念に基づいているとき、どうして(自分を孤児だと考えている)貴方がこれを自分自身でやり遂げられるでしょうか。〕
孤児院がリアルだと考えている時。 貴方の孤児としての体験がリアルだと考えている時。
“For deprivation breeds attack.”
〔何故なら、欠如(惨めな境遇)は攻撃を生むからです。〕
欠如(惨めな境遇)は、妬みを、怒りを、独善的考えを産みます。
そうして貴方は、自分自身をより良くしようとしたり、(意地悪な行動によって)自分を誰かより高めようとします。 誰かが自分より劣ったステータス(境遇)にいるとデモンストレートしようとします。
“For deprivation breeds attack, being the belief that attack is justified.”
〔何故なら、欠如(惨めな境遇)とは、攻撃が正当化されているという信念そのものなので、攻撃を生むのです。〕
貴方は「父よ、私は自分(だけ)の方法で見てみたいです。 私は自分のやりかたで物事を見ることにします。」と言って、するとたちまち貴方は自分の方法で物事を見るように成りました。
そしてそれは居心地の悪い経験です。 居心地悪い体験は、貴方の気分を悪くさせ、貴方は憤慨し始めます。
こうして貴方の人生/世界/同胞との係わり合いは、怒り/恐れ/罪を基に行なわれます。
自分が苦しんでいるので、貴方は誰か他者にその責任を負わせる必要があります。 その責任はもちろん貴方にはないのだから。 {自分には選択肢がないのだから。 これが欠如、つまり惨めな境遇です。}
貴方は自分自身を見ています。その独立した状況を見て、自分はなかなか上手くやっていると考えています。
しかし貴方は自分を(良く)見てはいません。 貴方は十分広い視野から自分を見てはいません。孤児としての自分を見ているので、貴方が神の子だと気付いていません。 貴方はまだ「自分の持って生まれた権利」を「自分のアイデェンティティ(自分が誰かという事)」を無視しています。
だから貴方は苦しみ(困難)を放棄する事が出来ません。 まだ犠牲を放棄する事が出来ていません。 犠牲から切り離す事が出来ない人生の状況に対して働きかけることをまだ尊んでいます。 人間的状況を上手く切り抜けるのが自分の仕事なのだと、そうして自分の価値を証明しなければ成らないと、貴方はまだ考えています。
違いますか?
“-deprivation breeds attack, being the belief that attack is justified. And as long as You would retain the deprivation attack becomes salvation, and sacrifice becomes love.”
〔欠如(惨めな境遇)とは、攻撃が正当化されているという信念そのものなので、攻撃を生むのです。 貴方が欠如(惨めな境遇)を保持する限り、攻撃が救済になり、犠牲が愛になるのです。〕
貴方が「父よ、私は自分一人で見てみます。」と言っている限り、攻撃が救済と見間違われ、犠牲が愛と取り違えられ続けるのです。
これ以上明確には言えないでしょう。
貴方はとても巧妙に犠牲と攻撃を使う事が出来ます。他の人が気付かないぐらい巧妙にそれらを使用することが出来ます。 そうして貴方は自分をより有利な位置に置く事が出来ます。 そうして貴方は自分を分離の体験に、孤独の体験に嵌め込んでしまう事が出来ます。
目覚めるとは、これらの事から開放される事です。 聖なる瞬間とは、これらの事から解放される事です。
“So it is that, in all Your seeking for Love, You seek for sacrifice and find it. Yet You find not Love. It is impossible to deny what Love is, and still recognize It.”
〔こうして愛を探している貴方は(孤児として)犠牲を探し、それを見つけます。 しかし貴方は愛を見つけません。 「愛が何であるか」を否定しながら、愛を認識することは不可能です。〕
愛する能力は貴方の創造者からもたらされています。 それは独立した存在としての貴方に与えられたものではありません。 愛する能力は「神から独立(分離)している貴方」が手に持って、死ぬまで(妄想的に)保持する事が出来る様なものではありません。
愛する能力は、それが貴方に対して創造者から差し伸べられる事によって、貴方にもたらされています。 造物主が自身を表現する事により、愛する能力が貴方に流れ込んでいます。
貴方は自分が愛する能力を既に持っていると気付くのです。 より正確には、父をもう一度受け入れた時、貴方は自分が愛する能力であると気付くのです。
だからそれ(父を受け入れること)が成就(満たされる事)なのです。 だからそれが喜びなのです。
“The meaning of Love lies in what You have cast outside Yourself, and it has no meaning at all apart from You.”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。 しかし貴方から離れている限りそれは意味を持ちません。〕
「自分のやり方で見てみます。独立した存在になってみます。」、これは「私はエゴとして存在する事を望みます。」という意味です。
そして貴方の無視している(貴方の)部分が精霊に成り、それは貴方がエゴと戯れている間預けられているのです。
私は上記の事を何度も繰り返し言って来ました。 上記の事が我々の今読んでいる事をクリアにします。
“The meaning of Love lies in What You have cast outside Yourself”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。〕
つまり愛の意味は、精霊(貴方の正気でしかないもの)の中にあります。 全てのものの意味を「自分一人で自分の為に定義する事」に固辞して、貴方は精霊(自分の正気)を離縁したのです。
“The meaning of Love lies in what You have cast outside Yourself, and It has no meaning at all apart from You. It is what You prefer to keep that has no meaning.”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。 しかし貴方から離れている限りそれは意味を持ちません。 そして貴方が「これを取って置こう!」と自分で決めたものには意味がありません。〕
貴方が取って置こうとしたものは、貴方が作り上げた定義群と、それらを作る権利です。 そうして貴方は本当の意味に対しては無意識に成ってしまったのです。
貴方がこれをした理由は、他の事をする事が出来ると誰も貴方に言わなかったからです。
しかし、ACIMと私はそれを貴方に言っています。
“While All that You would keep away holds all the meaning of the Universe, and holds the Universe together in Its meaning.”
〔貴方が持ち続ける(保持する)ものが、宇宙にその全ての意味を与えています。 それが宇宙をその意味の中に成り立たせています。〕
もう一度読みましょう。
“It is what You preferred to keep that has no meaning. While all that You would keep away holds all the meaning of the Universe, and holds the Universe together in Its Meaning.”
〔貴方が「これを取って置こう」と自分で決めたものには意味がありません。 貴方が持ち続けるものが、宇宙にその全ての意味を与えています。 それが宇宙をその意味の中に成り立たせています。〕
それは何故でしょう? それは貴方の外にあるもの、貴方が無視しているものが神/創造者/創造の動きの存在だからです。 それが意味を世界に与えています。 貴方がプライベートな卑小なマインドであろうとする限り、それ(神/意味)は貴方の注意(意識)から外れてしまいます。 これだけシンプルな事なのです。
“For unless the Universe were joined in You, it would be apart from God. And to be without Him, is to be without meaning.”
〔何故なら、貴方の中で宇宙が繋がっていない限り、宇宙は神からも分離しているからです。 そして神を持たないと言う事は、意味を持たないと言う事です。〕
聞きなさい。
“In the Holy Instant the condition of Love is met, where minds are Joined, without the body’s interference. And where there is communication, there is Peace.”
〔聖なる瞬間の中で愛の条件が満たされます。 そこで、体に邪魔される事なくマインド達が繋がります。 そしてコミュニケーション(繋がり)がある所に平和があります。〕
聖なる瞬間の中とは、静寂の中、貴方が自分のマインドを静かにしたところ、貴方が思考を放棄したところです。
それは、貴方の思考のプロセスが意味を作っているのではなく、貴方が静かになって(「存在する全て」を作っている者により)意味が貴方に示されるのを望んでいるところです。
だから、
“In the Holy Instant is the condition of Love is met for minds are Joined, without the body’s interference.”
〔聖なる瞬間の中で愛の条件が満たされます。 そこで体に邪魔される事なく、マインド達が繋がります。〕
孤児の境遇を主張する事無く、マインド達が繋がります。 そこには体と自己の同一視(Body Identification)がなく、マインドと自己の同一があるだけなので、愛の条件が満たされたのです。 マインドが視点になったのです。 マインドが「創造の全てが体験されるよう存在する」全てになったのです。
“The Prince of Peace was born to re-establish the condition of Love, by teaching that communication remains unbroken, even if the body is destroyed, provided that you see not the body as the necessary means of communication. “
〔平和の王子は、貴方が体をコミュニケーションに必要なものとして考えない限り、もし体が破壊されたとしても「コミュニケーションが損なわれる事はない」と教える事によって、愛の条件をもう一度確立する為に生まれました。〕
“And if you understand this lesson, you will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing, and communication,”
〔貴方がこのレッスンを理解したなら、体を犠牲にすることは、何も犠牲にはしなかった(コミュニケーションを犠牲にはしなかった)事だと解るでしょう。〕
“and communication, which must be of the mind, cannot be sacrificed. Where, then, is sacrifice?”
〔コミュニケーションはマインドに属するもので、それを犠牲にすることは出来ません。 それなら、どこに犠牲が存在するのでしょう?〕
ここで言うコミュニケーションとはコミュニオン(霊的交霊)と同じ意味です。
この文をより明確にする必要があります。
“The Prince of Peace was born to re-establish the condition of Love, by teaching that communication remains unbroken, even if the body is destroyed”.
〔平和の王子は、体がもし破壊されたとしても「コミュニケーションが損なわれる事はない」と教える事によって、愛の条件をもう一度確立する為に生まれました。〕
この文は体がリアルではないと言っているのではありません。 体が永遠でないと言っているのではありません。 この文は、聖なるアイディアを見て触れる事に意味がないと言っているのではないのです。
この文は「体が意識の焦点ではない」と言っているのです。 だから、もし体が破壊されたとしても、それは聖なる事実の存在になんら影響を与えるものではありません。 これが上記の文の意味する事です。
私が示して見せた通り、もし体が破壊されたように見えたとしても、それを修復する事が可能です。
それを「もう一度見つける事が出来る」と言っても良いでしょう。 何故なら、体は焦点ではありませんが、体をそれを形作ったアイディアから切り離す事は出来ないからです。 これを理解する事が重要です。
“If You understand this lesson, You will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing!”
〔もし貴方がこのレッスンを理解したなら、「体を犠牲にする事は、何も犠牲にしなかった事だ」と解るでしょう。〕
その通りです。
「体を使って貴方自身を定義しようとする事(体を自分の源と考える事)」を犠牲に(放棄)するのは、何も犠牲にしなかったと言う事です。 体は貴方のアイデエンティティの「見て触れる様相」なのです。 {体は「貴方が誰か?を示す」実体性なのです。}
シンプルに言えば、体は不滅です。 それは永遠です。 体は貴方の個性を永遠に示すものです。 しかし体は貴方のアイデンティティではありません。 体は貴方のアイデンティティを見える形で(体験できる形で)示しているものです。
貴方の体を(意識の)焦点として使う事を犠牲にする(放棄する)事は、犠牲にはあたりません。
これは、孤児院を放棄する事が、何かリアルなものの消失にはならず、それが神の子供としての貴方の真理を示し(貴方の)全目的の成就になる事と同じです。
“If You understand this lesson, You will realize that to sacrifice the body is to sacrifice nothing.”
〔もし貴方がこのレッスンを理解したなら、「体を犠牲にする事は、何も犠牲にしなかったと同じ事だ」と解るでしょう。〕
この概念やその討議には全く意味がありません。
“And communication which must be of the mind, cannot be sacrificed. Where then is sacrifice?”
〔(必然的に)マインドによって行なわれているコミュニケーション(コミュニオン)は犠牲に成り得ません。 ならば犠牲が何処に在るのでしょうか?〕
犠牲は何処にも行なわれていないのです。 それは孤児院の中で行なわれている様に見えるだけです。 何故なら、貴方は「自分が誰か?という意識的気付き」を犠牲にしようと(無視しようと)し続けているから。 これが貴方が気付くべき事です。
“The lesson I was born to teach, and still would teach to all My Brothers, is that sacrifice is nowhere, and Love is everywhere.”
〔私が教える為に生まれてきたレッスンは、そして私が今でも全ての兄弟に教えるべきレッスンは、「犠牲が何処にもなく、愛が全てのところにある。」です〕
これはどういう意味でしょう。
“-sacrifice is nowhere, and Love is everywhere.”
〔犠牲が何処にもなく、愛が全てのところにある。〕
犠牲が行なわれている様に見える時は何時でも、(例えば、誰かが自由の為に自分の人生を放棄したり)それは全ての人を縛り付けてしまう誤解なのです。 死者を蘇らせる能力(度量)の意識が現実化するまで、その誤解は続きます。 その能力が実現し実行された途端、犠牲の全概念が消滅し、犠牲を尊ぶことがなくなり、犠牲に対する尊敬や賞賛が消えます。
どれだけ長い間、犠牲が意味深いものと考えられていたにしろ、それら(犠牲への敬意)は全て消えてしまいます。
それは消滅してしまいます。 何故なら死者が蘇る時、犠牲には意義がなくなるからです。 復活の前では、犠牲の価値はゼロなのです。
これに関しては、貴方の頭は新しい「考え」を受け入れなければならず、貴方は新しい意識を持たなければいけません。
“The meaning of Love lies in what You have cast outside Yourself, and It has no meaning at all apart from You. It is what You prefer to keep that has no meaning.”
〔愛の意味は、貴方が自分自身から外に捨てたものの中にこそあります。 しかし貴方から離れている限りそれは意味を持ちません。 そして貴方が「これを取って置こう!」と自分で決めたものには意味がありません。〕