目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-01-24#2 Littleness versus Magnitude

2009-01-24 15:00:44 | Chapter 15
貴方は次のような体験をしているのです。

貴方は、卑小さを選んでいます。 それを選び、それを現実として体現することで満足できる体験が出来ると考えて、卑小さを選んでいます。

それは、リンゴの実を植えて、梨の実を得ようとする位、無益なことです。 現実はその様には働きません。貴方は卑小さを選び、自分の力と能力の限りそれを使いますが、卑小さで満足することはあり得ないのです。 なぜなら、貴方は神ではなく、どれだけ勤勉にがんばっても貴方がルールを設定できるわけではない無いのです。

“Believe the little can content You, and by limiting Yourself You will not be satisfied! For Your Function is not little; and it is only by finding Your Function and fulfilling It, that You can escape from littleness.”

〔卑小さで満足できると信じた場合、自分を限定してしまうので貴方は満足はできません。なぜなら、貴方の役割は卑小さではないからです。そして貴方が、卑小さから逃れるには、自分の役割を見つけそれを果たすことが必要です。〕 
つまり、貴方は、自分を満たさない経験から逃れることが出来ます。


ここには記載されていませんが、次のことを言いましょう。

貴方が自分をどれだけ卑小なものと捉えていても、どれだけ取るに足らないもと考えていても、自分の卑小さを乗り越えるためにどれだけ非常識なことをしなければいけないと考えていたとしても、貴方の卑小さは、貴方自身のキリストの力によってもたらされ、体現され、引き起こされています。20:24:8

つまり、キリストとしての貴方が、キリストとしての貴方にはそぐわないことをしようとした場合、その体験は必然的に不自然なものになります。それは必然的に痛い体験になります。

そして、この不可能な事を成そうと、自分で努力すればするほど、痛い思いをします。

これを覚えておいて下さい。至高の存在であるキリストが、自分がキリストではないと証明しようとする事がどれだけ馬鹿げた事か、覚えておいて下さい。 貴方が、卑小なもので、取るに足らないもの、貴方が全体を現していない、キリストではないと考えることが、どれだけ馬鹿げているか。

とても馬鹿げたことです。 これをすることは、痛い思いをすることですが、その痛みはダメージ(破壊)をもたらしません。 これも重要なポイントです。
痛みはダメージをもたらしません。なぜなら、この試みを止めた途端に痛みは減るからです。

この(卑小さの)試みを貴方が完全に止めた途端に、痛みは、苦しみは、全て消えます。

なぜなら、全ての痛みは「気づき」だからです。聖なる存在としての貴方が、自分が馬鹿げた事を試みていると自分に知らせている行為だからです。 貴方が無益な事をしていると、理屈に合わないことを試していると知らせているのです。 その行為(卑小さ)によって、何かを成し遂げることができると考えている間は、訂正が必要との声にさらされ続ける事になります。

それだけの事なのです。 修正が必要と知らせている声(call for correction)が聞き入れられた途端に苦しみは終わります。 なぜなら、その途端にキリストとしての貴方が、本当にキリストとして行動し始めるからです。

ここで、前の主題に戻ってきました。 どうすれば貴方は、キリストとしてふるまい始められるのでしょう? それは、勤勉(Diligence、継続的な努力)によってなされます。 達成できないことを、もはや続けないという意思を貫くことにより、キリストとして振舞い始められます。 その、達成できない事とは, 貴方が独立した権限者(孤児)として立ちふるまう事です。

“Your Function is not little, ... and it is only by finding Your Function and fulfilling It that You can escape from littleness.” Now: “There is no doubt about what Your Function is, for the Holy Spirit knows what It is.”

〔貴方の役割は、卑小なものになることでありません。そして貴方の役割を見つけて、それを果たすことによってのみ卑小さを逃れることが出来ます。 何が貴方の役割なのか疑う必要はありません。 精霊がそれを知っているからです。〕 

精霊が、貴方の役割を知っており、その精霊がただ貴方の正気であるので、貴方は自分の役割を意識的に気づいているのです。

自分の役割に気づくことが貴方の権利です。 そして、その貴方の役目と、今貴方が日々体験し続けている意識そのものが一つに成るのです。


“There is no doubt about what Your Function is, for the Holy Spirit Knows What It is. There is no doubt about Its”“There is no doubt about Its magnitude, for It reaches You through Him”“from Magnitude.”

〔何が貴方の役割なのか疑う必要はありません。 精霊がそれを知っているからです。〕 〔貴方の役割の巨大さは疑いようがありません。 その巨大さは彼(精霊、つまり貴方の正気)を通して(神から)貴方まで繋がっています。〕

“You do not have to strive for It, because You have It. All Your striving must be directed against littleness.”

〔あなたは、その役割の為に努力する必要はありません。 貴方は既にそれを有しています。貴方がするべき努力は、卑小さを拒むことだけです。〕

解りますか。 これが貴方のするべき事です。 貴方の卑小さを生きるのではなく、その卑小さを否定する必要があるのです。 日々の生活の中で自分が卑小に行動し始めているとき、それに気が付くよう意識する必要があります。  どうすれば、卑小に行動している事に気づけるでしょう?

卑小に行動する度に、貴方は居心地の悪さを経験します。

貴方は、自分が兄弟に対して怒っているとき、何らかの自己満足を感じているかも知れません。 でも、貴方の血圧はどうでしょう? その時、貴方の体はどう反応しているでしょうか? お医者さんはそれが体にいいことだとは仰らないでしょう。 それは、ストレスと言う物ですね。

「そんな事は気にならないよ。アイツにはとても頭にきてるから、罵ってやったほうが清々する。」
でも本当は清々しないでしょう。 なぜなら、その時貴方は卑小さを選んでいるからです。

巨大さとは、貴方の存在の基礎であり、基本構造です。 貴方の存在そのものが巨大さです。もし、巨大さが貴方の在り方なら、兄弟に腹を立てる根拠が何処かにありますか?  貴方が兄弟を嫌う理由が何処かに存在しうるでしょうか?   貴方の兄弟は貴方から奪えないものを、なにか巨大さから奪えたでしょうか? 彼は、貴方から何かを奪って、貴方の巨大さを減らすことが出来たでしょうか? それは不可能です。

もし、貴方が自分を博愛主義者と考えたなら(自分を博愛主義者として定義したなら)、貴方には敵はいない事になります。 何故なら、幾らでも与えることの出来る者が、与えるように要請された時、与えるものに不足することはないからです。 その様にして、貴方は恐れを持たない存在になります。

“Another’s lack cannot be dangerous to You.”
〔他者の不足が貴方の危険と成ることは無いでしょう。〕  

そして貴方は巨大さを兄弟に手渡さずにはおれないでしょう。 兄弟は貴方の精神の巨大さ、寛容さを受け入れずにはいられないでしょう。 なぜなら、彼は、誰かが巨大さを受け入れ、それにより祝福された事を見て、それが自分にもできると気づくからです。

“There is no doubt about what Your Function is, for the Holy Spirit Knows What It is. There is no doubt about its magnitude, for it reaches You through Him from” “Magnitude. You do not have to strive for It because You have It. All Your striving”
“All Your striving must be directed against littleness, for it does require vigilance to protect Your Magnitude in this world.”

少し後まで戻って読み直しましょう。
〔何が貴方の役割なのか疑う必要はありません。 精霊がそれを知っているからです。貴方の役割の巨大さは疑いようがありません。 その巨大さは彼(精霊)を通して(神から)貴方まで繋がっています。あなたは、その役割の為に努力する必要はありません。 貴方は既にそれを有しています。〕 
次が重要です。〔貴方がするべき努力は、卑小さを拒むことだけです。なぜなら、この世界では貴方の巨大さを守る為に努力する必要があるからです。〕

“-it does require vigilance to protect Your Magnitude in this world.”

〔この世界では貴方の巨大さを守る為に努力する必要があるからです。〕 
努力を必要とする訳は、貴方は自分の巨大さに常時気づいていないからです。 だから、自分の巨大さを見ようとする度、貴方の卑小さが習慣として現れるのです。

それだけではなく。 巨大さを感じていない貴方の兄弟姉妹も、彼らと同じ様に卑小なものとして貴方を扱い、貴方から怒りや憤りを引き出すのです。 卑小さを表す、全ての事柄を貴方の中から引き出すのです。


また多くの場合、貴方が始めにこれらのネガティブな反応を引き出したので、彼らはそれに反発して、貴方から同等な反応を引き出し、貴方にお返しをしているのです。

つまり、貴方が、卑小さから巨大さへとシフトしようとする間も、貴方の行動は、自身へ跳ね返ってくる反応を生み続けます。 何が適切か考えずに反射神経的に反応する事から、二つのステップを踏む習慣へと移行する間も。ここの真理は何ですと聞き、その真理が貴方を通って兄弟と貴方を祝福できるよう努力している時も、貴方の行動は兄弟から反応を生み続けます。

“All Your striving must be directed against littleness, for it does require vigilance to protect Your Magnitude in this world.”

〔貴方がするべき努力は、卑小さを拒むことだけです。なぜなら、この世界では貴方の巨大さを守る為に努力する必要があるからです。〕 
貴方が努力して、自分の存在の巨大さ(創造の時より確立されている貴方の真実)で自分の意識をより多く満たすたびに、それはますます簡単に出来るようになります。 努力はより容易になります。何故なら、その努力の価値が貴方にも解るようになるから。

貴方はいつでも、価値があると考えた事に努力は惜しみません。 しかし、始めのうちは意識的に努力する必要があります。 貴方が、真実を自分の真実として感じられるようになるまで、真実が貴方にとって価値のあるものになるまで、意識的に努力を続ける必要があります。

“To hold Your Magnitude in Perfect Awareness, in a world of littleness, is a task the little cannot undertake.”

〔卑小な世界の中で、貴方の巨大さを完全に意識し続けるのは、卑小な者に出来る事ではありません。〕 
この文の意味することは何でしょう。 卑小さを放棄する決意をした途端、貴方はシフトしたのです。 貴方の中のなにかが、以前ほど頑固に卑小さを感じなくなっているのです。なぜなら、卑小な者が卑小さを放棄することは出来ないから。

“To hold Your Magnitude in Perfect Awareness in a world of littleness is a task the little cannot undertake. Yet, it is asked of You.”

〔卑小な世界の中で、貴方の巨大さを完全に意識し続けるのは、卑小な者に出来る事ではありません。しかし、これが貴方がするべく求められている事です。〕 
不可能な事をする必要があると嘆かないでください。

貴方が、これをする様に求められていると言う事は、貴方にはそれが出来ると言う事です、貴方が卑小なものではないという事です。

“-it is asked of You in tribute to Your Magnitude, and not Your littleness. Nor is it asked of You alone.”

〔貴方が、これをするよう求められているのは、貴方の巨大さ故にです、貴方の卑小さ故にではありません。そして、貴方が一人でこれをするよう求められている訳でもありません。〕 

これは覚えておくべき、とても大切な点です。 卑小さを捨てて、自分の家に帰る決意をするまで、貴方は一人です。 それは、貴方が、全てを自分ひとりで理解しようと試みているからです。 貴方は全てを自分一人でしようとしています。 貴方は自分自身を自分で高く持ち上げて、実績を誇ろうとしてきたのです。

貴方は、それが物事のありようだと、信じてきました。 神が貴方をその為に創り、貴方にはそれが出来るに違いないと、自分ひとりだけで出来ると信じてきました。 故に貴方は一人孤独なのです。しかし、貴方は孤独ではいない権利を有しています。