目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-02-07 #3

2009-02-07 11:11:19 | Chapter 15
“It is beyond all of Your littleness to give the Gift of God, but not beyond You for God would give Himself through You. He reaches from You to Every One and beyond Every One to His Son’s Creations. But, without leaving You.”

〔神のギフトを与えるのは、貴方の卑小さには出来ないことです。 しかし貴方には可能です、何故なら神が貴方を通して自身を与えているからです。 神は貴方を通って全ての人へ広がって行きます、そして貴方を通って全ての人から神の子の創造へ広がって行きます。 神は貴方から去ることはなく、これを行います。〕

ですから、この神の行為は分離を生みません。 これは、ものごとの間に違いを生みません。 これは貴方を通してもたらされます。 と同時に、これは貴方にももたらされます。


“Far beyond Your little world – but still in You –” – the Christ That You Are – “He extends forever. Yet He brings All His Extensions to You as Host to Him.” You see?

〔貴方の卑小な世界を遠く超えて、しかし(キリストとしての)貴方の中で、神は永遠に広がっていきます。 神は、神のホストである貴方に、神の全ての分身(属性)を与えます。〕

貴方がもし神のホストなら、貴方は神がそこに「いる」場所なのです。 そして神が「成っている」全てが貴方の中にも存在します。 解りますか? 貴方は意識の中心ではありません。 貴方は何者かです。 しかし貴方は意識の中心ではありません。

この気づきと共にありなさい。 そして、これの意味する事を貴方の中で増やしていきなさい。


“Is it a sacrifice to leave littleness behind, and wander not in vain?”

〔卑小さを捨てて、虚しく歩き回る事を止めるのが犠牲と言えるでしょうか?〕

今の貴方にはそう見えるでしょう。 何故ならこれのゴールとすることが、今までの貴方のゴールとは余りに違うからです。 このゴールは自己保全ではないのです。 つまりゴールは、自分を保つことから来る成功のスリルでは無いのです。 本当のゴールは、貴方が今まで考えてもいなかった事です。 ですから、貴方にはこれが犠牲の様に思えるのです。 貴方は、自分が何かを犠牲にしてなければならないと考えてしまっているのです。

「次に友達と会う時にどうしたらいいだろう? 最近した手術とか、自分の父親との葛藤とか、人生の問題について話し合ったものだけれど。 これら人生のリアルな問題と取り組むのは、とても意味のあることだ。 もしこれらの問題が無くなってしまえば、我々は何をしたらよいのだ。 そうしたら何を話せばよいのだろう?」

解りますね? 「問題のない人生なんて、空虚なつまらないものだ。」?  確約しましょう。 そうは成りません。 犠牲というものは、ありえません。


“Is it a sacrifice to leave littleness behind and wander not in vain?”

〔卑小さを捨てて、虚しく歩き回る事を止めるのが犠牲と言えるでしょうか?〕

卑小さとは、自分の為に考えること、自分について考えることだと、覚えていなさい。 それらを捨てて、虚しく歩き回る事を止めるのは犠牲ではありません。


“It is not sacrifice to wake to Glory.”

〔神の栄光に目覚めるのは犠牲ではありません。〕

栄光(Glory)。この言葉の定義をしようとは思いません。 しかし、貴方が危機に面して自分を放棄し、浄化を体験したことがあるなら。 その時、否定しようの無い神の愛の意識的気付で満たされ、そして貴方の必要が満たされていることを発見したなら。 しかし、それは自分でした事ではないと理解したなら。 その時貴方には、神がいることを知る意味が解っています。

今までこれを貴方に説明できた人はいませんでした。 この体験の重要な部分は、貴方が自分が愛されていると自覚し、自分が必要を満たす努力を何もしていないにも関わらず、自分が愛されている確証を得ることです。 これが愛のリアルな意味を一番鮮明に示す事です。

ですから、この「栄光」という言葉は、ここになんとなく使われている訳ではありません。 〔栄光に目覚めるのは犠牲ではありません。〕 これはリアルな体験です。 そしてこれは貴方の為に、今ここにあります。


“Learn, that You must be worthy of the Prince of Peace, born in You – in honour of Him Whose host You are.”

〔貴方が、平和のプリンスにふさわしいくあるに違いないと学びなさい。 貴方がホストとなっている方の名誉において、貴方の中に平和のプリンスが生まれていると気づきなさい。〕

この文は「貴方が、それにふさわしく成らなければいけません」とは言っていません。 気をつけて、ふさわしく振舞わなければいけないとは言っていません。

貴方はふさわしく成る為に、行為を整えるのではありません。 貴方がするべきことは、自分が意識の中心に居ようとする事を放棄し、何か他のものを呼び入れるだけです。 入ってくる「何か他もの」が、貴方のすでに存在する「ふさわしさ」(貴方の内在する価値)を体験として貴方に示します。

そしてこれを体験した時、貴方自身は全く何もしていなかったので、それが{愛が}初めからそこにあった事に気づくのです。
だから、これは貴方が何か正しいことをした結果として貴方が得るものではありません。 貴方は何もしなかったのです。 それは、これがギフトだからです。


“You know not what Love is, because You have sought to purchase It with little gifts, thus valuing It too little to be able to understand Its Magnitude.

〔貴方は愛が何であるか知りません。 何故なら、貴方は卑小なギフトを使って愛を買い取ろうと試みているからです。 だから、貴方は愛の価値を少なく見積もってしまい、愛の巨大さが理解できていません。〕


“Love is not little. And Love dwells in You, for You are Host to Him. Before the greatness that lives in You, Your poor appreciation of Yourself and all the little offerings you have given slip into nothingness.”

〔愛は卑小なものではありません。 そして愛は貴方の中に住んでいます。 何故なら貴方が彼{神}のホストだからです。 貴方の中に生きている偉大さの前では、貴方の自分に対する低い評価や、貴方の貧しい捧げ物達は全て虚無の中に消えてしまいます。〕

愛の本当の姿を見る体験の中で、愛が貴方を抱きとめサポートし(貴方の真の姿を現さない)貴方の無知がもたらした結果を無視します。

これが貴方を待っています。 そしてこれが証拠です。 これが、貴方の全ての闘争が無意味であった事の証拠です。 何故なら、貴方は哀れな孤児ではないのだから。


“Holy Child of God, when will You learn that only Holiness can content You and give You Peace?”

〔聖なる神の子よ、何時になったら、神聖だけが貴方を満足させ、貴方に平和をもたらせると貴方は学ぶのですか?〕

聖なる神の子よ、何時になったら貴方は学ぶのですか? コロシアムから出ることだけが、貴方の全ての問題を檻に閉じ込める試みを放棄することだけが、貴方の権利だと。

今夜それを学んでも、早すぎはしません。 しかし貴方は習慣として、自分の意識の中心に自分を置いて考え始め、自分の問題を意識の中心において考え始めてしまいます。
そうして貴方はそれに夢中になり、自分と自分の問題を自分の意識の中心に保ち続けることが困難になり、「誰か助けて!」と言わざる得なくなるまで、そうし続けます。 重要なレッスンは、貴方は意識の中心にはおらず、貴方の問題も意識の中心にはないと言う事です。

そして、これら二つの意識の焦点(自分と自分の問題)が放棄され、代わりに神を知ること/真理を知ることに焦点が当たれば、アトーンメント(Atonement-贖罪)が起こります。

現在、貴方は日常を自分の癖を使って、大体のところ無意識に、物事に反応する形で過ごしています。 時には優雅に、時には醜く過ごしています。 しかし、貴方は実際には日常を天国の中で過ごしており、そして貴方は実際にはキリストで、父の永遠のホストなのです。

だから貴方は、神を意識の中心に据えて、日常を過ごせるように成らなければいけません。

これの意味することは、山の洞窟に住むことを意味しません。 人類を乗り越えた存在になる事は意味しません。 

これの意味することは、兄弟姉妹と会って彼らを見たとき「私はここに神を見たい。 神よ、私の兄弟姉妹の中に自身を示してください。 私は、彼/彼女に対する私の無知には縛られていたくありません。 だから貴方にこれを変えて欲しいのです。」と言えるよう覚えておくことです。

「私の知覚が変容されるように願っています。そして、私の欲求のあり方が変わるように願っています。 それらが卑小さを求める(自分を卑小な者として表す)欲求から、巨大さを体験する欲求に変わるように。 卑小で居られるように私が戦っている、この場所で、その変化が起こるよう、神よ、貴方に願います。」

貴方が苦しんでいるとき、これは容易に出来るでしょう。 しかし、貴方が最大の結果を得るのは、貴方が問題をコントロールしようとはせずに、これを行うときです。 それが出来るのは、貴方が比較的平和な体験/平和な関係にある時なのです。

この競争の無いスペースを使って、現在の貴方の知覚を超越するのです。 現在の貴方の、貴方の兄弟の知覚を変容させるのです。 その努力をするのです。

例えば、貴方が致死的な病に犯されていると考えたなら、この様な覚悟を決めるのは容易でしょう。 しかし、その様な状況でそれをする事が出来るなら。 貴方は、平和な調和した比較的脅かされていない状況でも、それが出来るはずです。

貴方の正気の為に努力しなさい。真理を知ることへの揺ぎ無い決意をもって。 そして、自分を意識の中心に置くことを放棄する揺ぎ無い決意をもって。 そして、神の現れ自身が光り出し、神の現れ(Presence of God)こそが貴方の全て、貴方の周りの全てだと解るように。 変容の全ての意味が、貴方の全てに、貴方の周り全てに認められるように。  そして自分自身が変化することを許すのです。

貴方は、癒しを求めていますか? 自分の為に、自分の兄弟姉妹の為に? もしそうなら、意識の中心に居ようとするのは止めなさい。 卑小に成ろうとするのは止めなさい。

貴方が神を知ったとき、貴方は自分自身を知るのです。 このシンプルな事実故に神を知ろうと欲しなさい。 貴方は消えてなくなる事はありません。 貴方は何者かに飲み込まれてしまう訳ではありません。

もしこれをしなければ、貴方は病に倒れ、回復し、病にかかり、復調し、病に負けて、また回復し、最後には死んでしまいます。 これが現在の貴方の状況ですね? ほんの僅かの人達が、これとは違う体験をしています。

だから病と回復を繰り返して死を体験する事を失う以外に、貴方に損失があるでしょうか。 これらはそれほど高い代償では無いはずです(笑)。それほどのコストではないですね。

今週は、これらのことに気づいていてください。 貴方は意識の中心ではなく。 神が意識の中心です。 意識の中心には貴方の問題を置くべきではなく、そこには真理を置くべきです。

この気づきが貴方のゴールを変化させるでしょう。 貴方はシフトしたいと思うようになるでしょう。

しかしこれは、兄弟姉妹達や世界から貴方を疎外ものではありません。 この世界で起こっている苦しみは、すでに存在する疎外(感)に由来するものです。 これが(世界に存在する疎外感が)癒されるべきものです。 貴方が意識の中心ではないと気づいたとき、貴方の問題は貴方の意識の中心に置くべきではないと気づいたとき、これが(世界の疎外が)癒されるものです。

神が貴方の意識の中心にいます。 貴方の意識の中心には真理を置くべきです。 これは存在の問題に対する答えとして、シンプルすぎるものではありません。

来週もまたお会いしましょう。