目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-10-24#2

2009-10-27 05:55:47 | Chapter 15
次のセクションは THE TIME OF CHRIST -「キリストの時」と題されています。


“It IS in your power, in TIME, to delay the perfect union of the Father and the Son. For in this world, the attraction of guilt DOES stand between them.1”

〔貴方は、父と子の完全な合一を(時間の中で)遅らせる事が出来ます。 何故ならこの世界の中では、罪の魅力が彼らの間に立ち塞がっているからです。〕
彼らの間とは「父と子の間」です。

〔罪の魅力〕  もちろん貴方は自分の事を罪深いと考えたくはありません。 しかし貴方は、自分の兄弟を罪深い(有罪)と考え、彼に罪の代償を払わせたり、彼に仕返しをしたり、彼(の行為)に値する怒りを放棄して許したりする事を厭わないかもしれません。

〔貴方は・・・遅らせる事が出来ます。〕 永遠に遅らせ続ける事は出来ないにしろ。


"It IS in your power, in TIME, to delay the perfect union of the Father and the Son. For in this world, the attraction of guilt DOES stand between them."

〔貴方は、父と子の完全な合一を(時間の中で)遅らせる事が出来ます。 何故ならこの世界の中では、罪の魅力が彼らの間に立ち塞がっているからです。〕

このような事に貴方達は気を取られ続けています。


“Neither time nor season means anything in eternity. But here, it is the Holy Spirit's function to use them both, though not as the ego uses them.”

〔永遠の中では、時間や季節には意味はありません。 しかしここでは、この二つを(エゴとは違うように)使うのが精霊の役目です。〕

つまり精霊は、永遠の中には存在していないこれらのもの(時間/季節)を使って貴方の目覚めを助ける事ができます。

精霊は調味料を使って美味しい料理を何度も作り、啓蒙的体験/「わかった!」という体験を貴方に何度も与える事ができます。

精霊は貴方の体験の中のどの様なものでも(それが永遠の中に存在していないものでも)使って貴方(の目覚め)を助ける事が出来ます。


続けて読みましょう。

“This is the season when you would celebrate my birth into the world.”

〔今は私のこの世界への誕生を祝う季節です。〕

チョッと季節外れですが。
私がこの文をヘレン(シャックマン)に読み上げていたのは、丁度クリスマスの季節でした。

その時期を選んで、「精霊が時間と季節(時候)を使う事が出来る」という説明をしていたのです。


“This is the season when you would celebrate my birth into the world. Yet you know not how to do it.”

〔今は、私のこの世界への誕生を祝う季節です。 しかし貴方はそれをどうやって祝えば良いか解っていません〕

この文を受け入れてください。

“Yet you know not how to do it.”
〔貴方はそれをどうやってするのか知っていません。〕

聖なる瞬間をどの様に「使うか」学習するの事で、どうすれば良いか解る様に成ります。


“Let the Holy Spirit teach you, and let me celebrate YOUR birth through Him. The only gift I can accept of you is the gift I GAVE to you. Release ME as I will YOUR release. The time of Christ we celebrate TOGETHER, for it has no meaning if we are apart.”

〔精霊に(どう祝えばいいか)教えさせなさい。そして精霊を通して貴方の誕生を私に祝わせて下さい。 私が貴方から受け取れる唯一のギフトは、私が貴方に与えたギフトだけです。私が貴方を解放するように、貴方も私を解放して下さい。 我々は「キリストの時」を一緒に祝います。 何故なら我々が離れていたなら「キリストの時」には何も意味が無いからです。〕

上記の文は、読んだとおりの意味です。


“The time of Christ we celebrate TOGETHER, for it has no meaning if we are apart.”

〔我々は「キリストの時」を一緒に祝います。 何故なら我々が離れていたなら「キリストの時」には何も意味が無いからです。〕

私が2千年前生まれて、33歳まで生きてから去った後、私が弟子達と話したように貴方と話す事が出来なくなり、貴方達はクリスマスツリーの周りに集まって、教会などでクリスマス・キャロルを歌って(私がやって来て去っていった事に関して)神を称えていたとしましょう。  

その時、我々が実際に話し合っているという感覚なしに、私がそこに実際に居ると感じる事無く、それらの事柄を貴方が行なっていたなら、我々は離れている事になるので、それらの事には意味がありません。

その時貴方がしている事は、貴方が聞いた事柄を思い出しているだけで、それは貴方の実際の体験とは言えません。


“The time of Christ we celebrate TOGETHER, for it has no meaning if we are apart.”

〔我々は「キリストの時」を一緒に祝います。 何故なら我々が離れていたなら「キリストの時」には何も意味が無いからです。〕

解りましたか? だから貴方はどうすれば良いか知る事が出来るのです。
何故なら貴方が私と共にする様に成るからです。

しかしまだ貴方は、(私と/精霊と)繋がる事を許可するステップを取る事無くして、しようとしています(祝福しようとしています)。

貴方は自分の孤児院(分離体験)を放棄せずにやろうとしています。 そして貴方は「自分が一人であり、自分は独立しており神の永遠の結果では無い」と言う固い信念を持ったままでいます。


“The holy instant is truly the time of Christ.”

〔聖なる瞬間とはキリストの時です。〕 それは2千年前の事ではありません。


“The holy instant is truly the time of Christ. For in this liberating instant no guilt is laid upon the Son of God, and his unlimited power is thus restored to him.”

〔聖なる瞬間は、真にキリストの時なのです。 何故ならこの開放の瞬間には、神の子の上に罪は着せられていず、神の子の限りない力が彼(神の子)の元に修復されているからです。〕

重要なポイントは、「罪が貴方の無限の力を貴方から奪ってしまう」と言う事です。

罪は、貴方の無限の力を、貴方から解らなくしてしまいます。 罪は貴方に「脆弱さ」だけを固く自信を持って信じるようにしてしまいます。


". . . no guilt is laid upon the Son of God, and his unlimited power is thus restored to him."

〔神の子の上に罪は着せられていず、神の子の限りない力が彼(神の子)の元に修復されているからです。〕

このようにして、この季節(クリスマス・シーズン)を祝ってください。 このようにして、この世界へ入ってくる扉をキリストに(私に)対して開き、この世界の中で貴方のキリストを照らし出してください。 このようにして、クリスマスを意味のあるものにしてください。


“What other gift can you offer me, when only this I will to offer YOU?”

〔私がこれだけ(無限の力)を貴方に捧げているとき、それ以外のどの様なギフトを貴方が私に捧げる事が出来るでしょうか?〕

これが私が現れた理由です。 これが私が今でも貴方と共に居る理由です。

私は、貴方が誰だか解るようにします。 何故なら貴方が「自分が誰だか解らない」のは不可能だと、私には解っているからです。

貴方はそれを本当に忘れることは出来ていません。 貴方が本当に狂気に陥ってしまうのは不可能です。

だから私は、ここにいて貴方に話しかけており、貴方と共に居ます。 この様に貴方とお喋りしたり、貴方のマインドの中で喋りあったりしています。
貴方が一人で無い事を知らせる為に。

そして貴方に話しかけている者のせいで、貴方は彼に話しかけられる価値が自分にあると気付き、その気付きを通して、貴方が私の本当の兄弟姉妹だと解り始めるのです。

我々が同じ遺産(資質)を分け合っている、我々が同じ権利を有していいると、貴方にも解るように成るのです。

ここで少し話を戻します。 何故なら奇跡が必要だとあなた方全員が知っているからです。

貴方の生活の中に改善されるべき状況があると、貴方は気付いています。 その状況がどのような過程でもたらされたように見えているにしろ。

その状況がどの様な原因で起こっていると見えていたにしろ、それは「神の現われ(Presence of God)が全てに成っている事」を見えなくする正当な理由にはなりません。 それは「神が貴方の目の前の全てとして現れ続けている事」を見えなくする理由には成りえません。

それら(困難な状況)の原因は、神を見えなくして、神の現われを不可能にする力を持ちえません。

もし貴方が変容を見たいのなら、貴方は今までとは違うゴールを胸に抱いて、その瞬間に望まなければいけません。 今までとは違う動機を持って聖なる瞬間を持とうとしなければいけません。

こうして貴方が聖なる瞬間の中で自分を放棄したなら、そして過去を捨てて、後悔や不平を持ち込まず、それらに関連した未来に対する恐れや思考を持ち込まなくなれば、その時貴方は無垢な(罪の無い)ところにいます。  その時貴方は、全く自分ではコントロールしていないところにいます。

貴方が、自分がそこに謙虚にいる事を許したなら、そして「神が存在する」という信心と共にあり、真理を教えて欲しいと神に願ったなら、その時貴方が自分では何も力を加えなかったなら、貴方は自分が変容を体験している事を、ただ見る事ができます。
貴方は、自分では引起せるはずの無かった事が起こっているのを、ただ見るのです

私はもう一度貴方に訊かなければいけません。 貴方が聖なる瞬間を持ちたいと思えるように成るには、何が必要なのでしょうか?


“What other gift can you offer me, when only this I will to offer YOU? And to see me is to see me in everyone, and offer everyone the gift you offer me.”

〔私がこれだけ(無限の力)を貴方に捧げているとき、それ以外のどの様なギフトを貴方が私に捧げる事が出来るでしょうか?  そして私を見ると言う事は、私を全ての人の中に見ると言う事です。 そして貴方は全ての人に、貴方が私に捧げたと同じギフトを与えるのです。〕


“And to see me is to see me in everyone, . .”

〔私を見ると言う事は、私を全ての人の中に見ると言う事です。〕

例えば、貴方がスーパーマーケットで支払いの列に並んでいて、後ろの人が貴方に文句を言ったとしましょう。 何かつまらない理由で貴方に食って掛かり、人の目を集めて、貴方の居心地を悪くしていたとしましょう。

“And to see me is to see me in everyone, . .

〔私を見ると言う事は、私を全ての人の中に見ると言う事です。〕

その瞬間にいた全ての人です。 嫌な気分でいる時、どうすれば貴方は聖なる瞬間に入ろうとする意欲が持てるでしょうか?

貴方が嫌な気分、恥ずかしい気分を捨てられるように成るには、自分は(他者から)こう見られているという(貴方の)考えを放棄できるように成るには、何が必要でしょうか?

これ(自分がどう見られているか)はより重要なことに思えますね。 貴方の正気や奇跡よりも重要に見えますね。 違いますか?

貴方は注意していないと、これに(見栄えなどに)すぐ囚われて、これと関与して繋がってしまいます。

だから問題は:

「貴方が聖なる瞬間に入って、神の法がなされている(他者の無法な行為がなされていない、観望者の誤解がなされていない)聖なる瞬間に自分を浸せる様になるには、何が貴方に必要でしょうか?」です。

解りますか? 聖なる瞬間の中では、それらの事(例えばイチャモン、嘲り)は行なわれていません。 貴方がその場で聖なる瞬間を持とうと思える様に成る為には、何が必要なのでしょうか?

ここが問題なのです。 ここが決定的瞬間です。 ここで貴方は歴史の歯車から降りて、自分で今まで作ってきた古い習慣を止めるのです。 あるいは、貴方の両親や友達や親戚が作ってきた習慣/習癖を、ここで貴方が放棄するのです。


“I am as incapable of receiving sacrifice as God is, and every sacrifice you ask of yourself you ask of me.”

〔私は神と同様に、犠牲を受け取る事は出来ません。 貴方が自分に課した全ての犠牲を、貴方は私からも求めたのです。〕

そう、貴方は犠牲を払う事によって懺悔しようとしています(悔い改めようとしています)。

あるいは、貴方がとても悪い人、悪い孤児だったから、一定の期間何かを放棄して、従順の意を示さなければいけないと貴方は考えたりします。

しかしいいですか。 貴方が犠牲を払っている時(特に信心深い理由で、スピリチュアルな理由で犠牲を払っている時)貴方は自分を(神から)隔てているのです。 その時貴方は、父の愛を受け取る事を阻んでいるのです。

"Behold it is the Father's good pleasure to give you the Kingdom,"
〔見なさい。貴方に天国を与えるのが父の喜びなのです。〕

貴方から取り上げる事ではありません。


貴方が次の様に言う事が父の喜びなのではありません。

「私は悪い子だったので、これを受け取れません。 私は少しの間犠牲を払うことにして、その間ギフトは受け取れません。」

そう言っておいて、貴方は私に祈ったり、聖なる瞬間に入りたいと言ったりします。
貴方は貧しい孤児のまま、何らかの犠牲を払ったまま、聖なる瞬間に入ろうと試みているのです。
そうしている間、貴方は自分の全てを私に与えてはいません。 貴方は私との関係に、自分の全てを完全に持ち込んではいないのです。

その場合当然、貴方は自分の全てを持って、自分の真の姿を持って、兄弟姉妹と関係する(付き合う)ことも出来ていないのです。