目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-11-22#1 The end of sacrifice

2009-11-27 15:44:31 | Chapter 15
原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx

November 22, 2009 ©NWFFACIM


ページ位置の確認。

A Course In Miracles (reference pages)
Chapter 15 – Section – THE END OF SCRIFICE
1 Sparkly Book – p.374 / JCIM – p.157 / CIMS – p. 315
Chapter 15 – Section – CHRISTMAS AS THE END OF SACRIFICE
First Edition – p. 304 / Second Edition – p. 327


少し瞑想しましょう。


今晩は、ようこそ。  

さて犠牲です。 素晴らしい概念です(皮肉)。  とても重要で価値があるとされている事です。 貴方達はこれを「スピリチュアルなものである」とさえ考えています。 貴方達は私の死が犠牲だったと考えています。 しかしそれは、その様なものでは全く無かったのです。

『でも聖書には「人が自分の兄弟の為に出来る最高の事は、自分の命を彼の為に投げ出すことです。」と書いてありますよ。 貴方はこれをしたではないですか。』 と貴方は言うかもしれません。

ここでハッキリさせておきましょう。 聖なる瞬間とは、貴方が自分の権利(自分一人で考える権利、この偽りの権利)を投げ捨てる瞬間の事です。 「変化をもたらす独立した存在として振舞う権利(と貴方達が勝手に考えているもの)」を放棄した瞬間が、聖なる瞬間に成るのです。

これは貴方が「権威者としての自分の地位」を捨てる瞬間の事です。 これは貴方が自分の孤児としての境遇を捨てる瞬間の事です。何故なら、これは貴方がもう一度自分の源(貴方の父、貴方を作った者、貴方がそれをどう呼ぼうとも)に向き直る瞬間だからです。  こうして「貴方がもはや独立を主張しなくなった瞬間」が、聖なる瞬間なのです。

そして貴方は「父よ、..して下さい。」と自分の願いを言うのです。 これが聖なる瞬間に起こる再結合(父と再び繋がる事)です。

その繋がりの中で、貴方は父を内に招き入れ、(父からの貴方へのギフトとして)父の視点を招き入れ、それが貴方を満たします。 つまり貴方はそれを体験として受け入れるのです。 これは犠牲などではありません。

私が犠牲を払っていた(身代わりの子羊として犠牲にあげられていた)様に見えていた時、私は全く犠牲を行ってはいませんでした。  私は全ての人に対して(唯一可能な方法で)生命が永遠である事、生命が死を知らない事、死という法則が実在しない事をデモンストレート(実例)して見せていたのです。

それまでは、全ての人が死を体験し続けていたので、その時点の人々のマインド内(信念構造)には生命が不滅だと想像する能力がありませんでした。 生命が途絶えないもので、死の体験が幻想であると知る事がまだ出来ずにいました。

だから、そのマインド(信念構造)の外にいる誰かが、死という幻想を体験しておらず混乱していなかった誰かが、生命の永続性を(客観的に)示してみせる必要があったのです。 そうして全ての人が、生命が不死身だと気付いて、「死を受け入れる事」を否定出来るように。 死が避けられないものだと言う概念に、死する事が人生なのだという概念に真っ向から対峙して、それを否定出来るように。

貴方が聖なる瞬間を迎えた時、 それを意識的に自覚的に体験した時、犠牲は消えます。 そして、犠牲に付け加えられたスピリチュアルな全定義も、人間的状況を説明する為に作られたスピリチュアルでは無い全定義も全て消え去ります。

貴方の神聖ではない自己評価は(神聖ではない様に感じられる貴方の自意識は)、貴方の神聖で取って代わられます。 それは、見せびらかす様なものではなく、ゲットするべき行動でもなく、「貴方の存在の性質」の現われを神(創造者、貴方の源)の中に見つけると言う事です。

これを「聖なる瞬間」が引き起こし、それが「貴方が本当に誰か?」を示すので、貴方は自分のアイデンティティに関して混乱しなくなるのです。

自己犠牲を払った母親の素晴らしいお話しを聞いていない人はいないでしょう。 母親達が個人的なゴールを放棄して子供達の為に尽くしたお話です。

彼女達は自分の子供達を愛する故に、あれこれを放棄して、(不況の中)三つの仕事を掛け持ち、子供達を育て、自分のキャリアなどは捨てたと。

貴方は、母の愛が貴方の世界の一番強い犠牲の形であると知っているかも知れません。 それは何世紀の間もそうあり続けました。

これらのアイディアを変える時が来ています。 これらのアイディアの抱擁(受け入れ)を止める時が来ています。

私は『外に出て皆に「犠牲を止めなさい。」と言って回りなさい。』と貴方に言っているのではありません。 貴方の本当の存在の静けさの中で、「それ(犠牲と言うアイディア)を自分に関連して使う事」を貴方が止める必要があるのです。

貴方は犠牲を尊ぶ事を止めなければいけません。  それが自分を大人にすると考えて、「何か不足を忍んで何かする事」を止めなければいけません。  
大人になること。 貴方に成る事。 子供の貴方が人生を体験している時、愛される体験をしているでしょう。

貴方が大きくなると、貴方は「愛される事」から「愛に成る事」にシフトします。 貴方は「常に愛を受け続ける」事から、「愛に成り」それを拡張する事、その行動/意志/その空気を作る事へとシフトします。

このシフトを貴方が起こした時、貴方は自分の生命(人生)を兄弟の為に放棄したと言う事も可能でしょう。 いま貴方が気に懸けている、貴方が気遣っている、貴方が何かを与えたいと考えている人の為に。

これを自分の生命を放棄する事と言う事も可能でしょう。 「ゲットする人」としての貴方の生命を放棄し、「与える人」に成る為に。

これは犠牲でしょうか? これを行なった全ての人は、これが成就(満たされる事)だと気付いています。

そしてこのシフトが未だ行なえておらず、例えば50歳に成ってもまだ世界が彼の足元に平伏す事を期待している人を見れば、それが病的なものだと誰にでも解るでしょう。 これが適切な事ではないと貴方に解ります。

貴方が兄弟の為に生命を捨てるとは(それが犠牲だと貴方が言いたいなら)、貴方以外の全てのものが貴方にとって自分自身よりも重要に成っている所に貴方が到達する事です。

何故なら、これが起こったなら、貴方の愛する度量(能力)が、愛に成る度量が、貴方の生得権が、貴方を満たし、貴方から溢れ出て、貴方の見る全てのものを祝福するからです。

これは何か新しいものでしょうか? いいえ。 これは山ほども古くからあるものです。 これはACIMが新しい言語で語っている(古い)ものです。