原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx
December 19, 2009 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
A Course In Miracles (参照ページ)
Chapter 16 - Section - TRUE EMPATHY
1 Sparkly Book - p.379 / JCIM - p.159 / CIMS - p. 319
First Edition - p. 308, First Par. / Second Edition - p. 331, Par. 4
少し瞑想しましょう。
今晩は、ようこそ。
さて、「私の誕生日」まで後わずかです。
この期間、聖なる瞬間を忘れてしまうのはとても簡単でしょう。 何故なら「私の誕生日」を祝うと言う事は「報酬なく(とここでは言いましょう)過去を祝う」と言う事だからです。
普通死んだ(と思われている)人の誕生日は祝いませんね。
普通は生きている人の誕生日を祝います。 誕生日では何をするのでしょう? 貴方はその人の誕生日を、彼(あるいは彼女)と一緒に過ごして祝うのです。 彼と楽しく一緒にいるのです。
貴方はそこで、全ての神聖が体験できる瞬間(機会)を放棄はしていないのです。 もしかしたら, その機会を貴方が有効には使わなかったにしろ。
今年、次の金曜の私のバースデーでは、私と一緒に居て下さい。
「いま」の中で私と一緒に居て下さい。 私にものを尋ねてください。私に手を差し伸べて、私の反応を聞いてください、「次の金曜日」に。
金曜の「いま」もそうして、私を生きてください。 私の存在と、私が貴方に与えている全てを体験してください。
私を神格として見るのではなく、貴方の兄弟、貴方の友達として体験してください。
貴方が家族やその他の人々と一緒に過ごしている時、私の事も思い出して呼びかけてください。 あそこで/ここで、と意識的に貴方自身を私に差し伸べて(私へと拡張して)下さい。
貴方がそうする度に私は反応しています。 それに貴方が気付かなかったとしても。
貴方がそうすれば、私を聞く可能性はより高まります。 そうしないと、貴方はターキーとかギフトとか家族とか音楽とか諸々の事だけに気を奪われてしまうから。
さて、「真の共感」と題された新しいセクションを我々は読んでいます。 真の共感がどういうものか話し始める前に、「現在、貴方が共感をどう考えているか」に関してもう少し話しましょう。
貴方が考える共感とは、貴方が兄弟姉妹あるいは友達と一緒にいる「あり方」です。
彼らと親密に一緒にいて、彼らが感じる事を貴方が感じるのです。
あるいは、彼らが感じているフィーリングを(ブロックする事無く)自分も感じようとするのです。 貴方は(つながりの)障害を取り除こうとするのです。
しかし、貴方が孤児(神から分離したもの)である限り(従って常に傷付き易さを抱えている限り)貴方が行なう全ての共感は、自己防衛から行なわれています。
それは危険な環境のなかで安全を確保しようという企てです。 危険な世界、危険な宇宙、{善と悪/敵と味方/良い事と悪い事に}二極化された存在環境の中で自分の安全を求めているのです。
大半の場合貴方は、(油断できない)兄弟の行動に不意を突かれない様に、共感を使っています。
一番信用できない兄弟姉妹、愛のない行動を取る可能性が高い者、に対してセンシティブに注意していられるように。
貴方が兄弟姉妹に対して、(自己防御的でなく)助けとなる様に共感を表現する時、貴方は彼らの事を一番大切に考えます。
貴方がこれをしたいと思うのは、その人が貴方にとって「何か意味のある事」を提供しているからです。
もし貴方が共感的になれないなら、もし貴方がその人と共に「ある」事が出来ないなら、貴方はその人が提供している(貴方にとって)意味深いものを失ってしまいます。
だから、貴方の愛する人が苦しんでいたなら、貴方は助けたいと思うようになります。 それは貴方がその人を愛しているから、と同時に、その人に何かあって居なくなってしまうと、貴方は喪失を感じてしまうから。
だから貴方は共感的になっているのです。 だから貴方はその人に対してセンシティブ(敏感)になっており、彼/彼女が貴方の傍にいて貴方の必要を満たすようにするのです。
私が言っている事は厳しすぎて、理屈に合わないと貴方は感じるかもしれません。
しかし貴方が「自分はとても良い事/最善の事をしている」と考えていて、その時貴方が実際には最上の事をしていなかったなら、誰かが貴方にその事を知らせる必要があるのです。
私は「貴方が孤児意識に基づいて行動していて、それでも貴方が好意ある共感と共に行動している時」、「貴方はまったく良い事をしていない」とは言っていません。
と同時に私は(良き共感、良き事をもたらす共感を表現する為に)貴方が出来る事、貴方がするべき事を知らせます。
これについて先週から話しているのです。
(貴方が現在使っている、貴方の孤児意識から発している)共感は、常に操作的で、基本的には自己顕示(righteousness, 自分が正しいと言い立てる事)なのです。 貴方は自分が正しく成れる能力を示す為に共感を使っているのです。
そして貴方は「自分は正しくある為にこれをしている。 正しく反応できるように、物事を正しくとらえ、適切に対応できるように、こうしているのだ。」と言います。
そうして「私は正しい事を行なった。 私は間違っていない」と言うのです。
共感とは、「正しさ」を表現し「正しさ」を獲得する以上のものです。
共感とは正しくある事とは関係がありません。
しかし皆さんは「正しいある事」がとても重要だと考えています。
「Right is might」(正義は力なり)と言ったりしますね。
あたかも正しさが勢力であるかの様に。 この言葉は、思考によってもたらされた知的結論です。
これは聖なる洞察力から来ているものとは違います。 これは「貴方が真理を知っている事」とは違います。
そしてこれは「貴方が真理を知っている事」とは別な、知性的なプロセスの結果なので、この言葉をひっくり返す事も可能です。
そして実際これはひっくり返して使われています。 「Might is right」(力は正義なり)です。
つまり、「操作する力、押し付ける力、制圧する力を持っている者が、その力の表明ゆえに正義である」。
しかし、正義は勢力ではなく、勢力は正義でもありません。
貴方は共感を持つことによって、「自分が失明している状態にも係わらず適切に存在する事が出来る」訳ではありません。
共感とは貴方のヴィジョン(視界)を明らかにする事です。 共感は真理を明らかにし、貴方が「眼の見えない人」ではないという事実を示すのです。
共感は、親密な状況を通して貴方に事実を示すのです。
前から言っている通り、聖なる瞬間に際して貴方は「一歩下がって、黙する」のです。
そうして貴方は父に訊ねます。 貴方は「自分のプライベートな分離」を放棄して、「自分自身と自分の最上の判断(ジャッジメント)以外のもの」を求めるのです。 「ここの真理は何ですか?」と言って。
「貴方は私の兄弟をどう見ていますか? 私の姉妹をどう見ていますか? あの木をどう見ていますか? 貴方はこの世界をどう見ていますか? これに関する真理は何ですか? 」と父に訊ねて、貴方は耳を澄ませるのです。
貴方はそれが示されるのを許すのです。 貴方は父の話しを聞く事を求めるのです。あるいは貴方は精霊に話させるのです。 あるいは私(イエス)に話させるのです。
これが親密な時(瞬間)です。 これが繋がる時です。これが合一(Union、一つになる事)の瞬間です。
真の共感とはKnowing(知っていること)です。
「知っている」という体験を得るにはどうしたら良いでしょうか?
貴方は、自分の「正しい者で在ろう」という試みを放棄するのです。
貴方は「自分が正しい者でなければならない」という必要(と操り)を放棄する事で、Knowing(知っていること)を体験するのです。
貴方は自分のプライバシーを放棄することにより、Knowingを得るのです。 これに関しては幾ら強調しても足りません。
残念ながら、「貴方が今すぐにプライバシーを捨てようと思えるほど」否定的な構図を私が示す事は出来ません。
しかし全てのことを(自分個人だけの思考によって)貴方はプライベートに行なっています。 他の誰とも関わり合いを持つ事無く、全ては貴方の頭の中で行なわれています。
貴方がプライベートに行なった全ての行動は、貴方から正気を奪ってしまいます。
それは貴方から満たされる体験(充足)を奪ってしまいます。 何故なら、貴方のプライベートな{神から離れた}行為が貴方を孤児院{分離状況}に縛り付けてしまうからです。
つまり貴方のプライベートな思考と行動が、貴方を幻想状態に置いてしまうのです。 何故なら、貴方は孤児(独立したプライベートな存在)ではなく、貴方は自分を創造しなかった{貴方は自分の源、物事の源ではない}のだから。
貴方が共感を使って自分の正しさを確立しようとし続ける限り、自分独自に何者かに成ろうとしている限り、自分の正しさの中で何者かに成ろうとしている限り、貴方は自分のマインドを使って親密な体験を全て妨げています。 何故ならその時貴方は、何かが自分の中に入り自分と「共に存在する」事を許していないからです。
時には貴方が、神と繋がろうと共感を使う事もあります。
貴方は神と共感したいのです。 貴方は神が感じていることを感じたいのです。 しかし問題があります。
貴方は神にいろいろ頼みたいのです。 あの状況やこの状況で神に助けを求めるのです。
これは貴方がメッセージを送るようなものです。 貴方は神がそれを聞き取ったか解りません。 もし貴方の問題が解決したなら、貴方は「神が私の祈りを聞き届けてくれた。 それに応えてくれた」と言うのです。
しかし、神が電話を取り上げて「ハロー、もしもし」と言い、貴方が「ハロー」と返すようなやり取りが、そこには無いのです。
もし神が貴方に応えて「ハロー」といい、貴方がそれに応えて「ハロー」と言ったなら、そこで共感が起こっているのです。 解りますか?
その時、貴方は神の意味を感じられる場所に居るのです。
その時、貴方が神の意味を体験できるポジションに神がいるのです。
だからそれは喜びなのです。 これが私が貴方に次の金曜日にして欲しい事です。
貴方が祝う私の誕生日に、私と共に直接の体験、リアルな体験をして下さい。
貴方が例年クリスマスに居る場所から離れて、何故なら{例年のやり方であれば}貴方の注意は二千年前に行ってしまっており、私とは繋がれないから。
そうはしないで下さい。我々は繋がりましょう。そこに親密な繋がりを持ちましょう。 共感が起こりえる環境を整えましょう。共感とはKnowing(知っていること)です。 Knowing(知っていること)とは、神が貴方に話すときに起こる事、私が貴方に話すときに起こる事です。
私は今貴方に話しかけています。 貴方達全員に話しかけています。 私は貴方に話しかけており、それはリアルです。
つまり私が言っているのは「共感とは親密な関わり合いの結果である」と言うことです。
http://www.nwffacim.org/default.aspx
December 19, 2009 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
A Course In Miracles (参照ページ)
Chapter 16 - Section - TRUE EMPATHY
1 Sparkly Book - p.379 / JCIM - p.159 / CIMS - p. 319
First Edition - p. 308, First Par. / Second Edition - p. 331, Par. 4
少し瞑想しましょう。
今晩は、ようこそ。
さて、「私の誕生日」まで後わずかです。
この期間、聖なる瞬間を忘れてしまうのはとても簡単でしょう。 何故なら「私の誕生日」を祝うと言う事は「報酬なく(とここでは言いましょう)過去を祝う」と言う事だからです。
普通死んだ(と思われている)人の誕生日は祝いませんね。
普通は生きている人の誕生日を祝います。 誕生日では何をするのでしょう? 貴方はその人の誕生日を、彼(あるいは彼女)と一緒に過ごして祝うのです。 彼と楽しく一緒にいるのです。
貴方はそこで、全ての神聖が体験できる瞬間(機会)を放棄はしていないのです。 もしかしたら, その機会を貴方が有効には使わなかったにしろ。
今年、次の金曜の私のバースデーでは、私と一緒に居て下さい。
「いま」の中で私と一緒に居て下さい。 私にものを尋ねてください。私に手を差し伸べて、私の反応を聞いてください、「次の金曜日」に。
金曜の「いま」もそうして、私を生きてください。 私の存在と、私が貴方に与えている全てを体験してください。
私を神格として見るのではなく、貴方の兄弟、貴方の友達として体験してください。
貴方が家族やその他の人々と一緒に過ごしている時、私の事も思い出して呼びかけてください。 あそこで/ここで、と意識的に貴方自身を私に差し伸べて(私へと拡張して)下さい。
貴方がそうする度に私は反応しています。 それに貴方が気付かなかったとしても。
貴方がそうすれば、私を聞く可能性はより高まります。 そうしないと、貴方はターキーとかギフトとか家族とか音楽とか諸々の事だけに気を奪われてしまうから。
さて、「真の共感」と題された新しいセクションを我々は読んでいます。 真の共感がどういうものか話し始める前に、「現在、貴方が共感をどう考えているか」に関してもう少し話しましょう。
貴方が考える共感とは、貴方が兄弟姉妹あるいは友達と一緒にいる「あり方」です。
彼らと親密に一緒にいて、彼らが感じる事を貴方が感じるのです。
あるいは、彼らが感じているフィーリングを(ブロックする事無く)自分も感じようとするのです。 貴方は(つながりの)障害を取り除こうとするのです。
しかし、貴方が孤児(神から分離したもの)である限り(従って常に傷付き易さを抱えている限り)貴方が行なう全ての共感は、自己防衛から行なわれています。
それは危険な環境のなかで安全を確保しようという企てです。 危険な世界、危険な宇宙、{善と悪/敵と味方/良い事と悪い事に}二極化された存在環境の中で自分の安全を求めているのです。
大半の場合貴方は、(油断できない)兄弟の行動に不意を突かれない様に、共感を使っています。
一番信用できない兄弟姉妹、愛のない行動を取る可能性が高い者、に対してセンシティブに注意していられるように。
貴方が兄弟姉妹に対して、(自己防御的でなく)助けとなる様に共感を表現する時、貴方は彼らの事を一番大切に考えます。
貴方がこれをしたいと思うのは、その人が貴方にとって「何か意味のある事」を提供しているからです。
もし貴方が共感的になれないなら、もし貴方がその人と共に「ある」事が出来ないなら、貴方はその人が提供している(貴方にとって)意味深いものを失ってしまいます。
だから、貴方の愛する人が苦しんでいたなら、貴方は助けたいと思うようになります。 それは貴方がその人を愛しているから、と同時に、その人に何かあって居なくなってしまうと、貴方は喪失を感じてしまうから。
だから貴方は共感的になっているのです。 だから貴方はその人に対してセンシティブ(敏感)になっており、彼/彼女が貴方の傍にいて貴方の必要を満たすようにするのです。
私が言っている事は厳しすぎて、理屈に合わないと貴方は感じるかもしれません。
しかし貴方が「自分はとても良い事/最善の事をしている」と考えていて、その時貴方が実際には最上の事をしていなかったなら、誰かが貴方にその事を知らせる必要があるのです。
私は「貴方が孤児意識に基づいて行動していて、それでも貴方が好意ある共感と共に行動している時」、「貴方はまったく良い事をしていない」とは言っていません。
と同時に私は(良き共感、良き事をもたらす共感を表現する為に)貴方が出来る事、貴方がするべき事を知らせます。
これについて先週から話しているのです。
(貴方が現在使っている、貴方の孤児意識から発している)共感は、常に操作的で、基本的には自己顕示(righteousness, 自分が正しいと言い立てる事)なのです。 貴方は自分が正しく成れる能力を示す為に共感を使っているのです。
そして貴方は「自分は正しくある為にこれをしている。 正しく反応できるように、物事を正しくとらえ、適切に対応できるように、こうしているのだ。」と言います。
そうして「私は正しい事を行なった。 私は間違っていない」と言うのです。
共感とは、「正しさ」を表現し「正しさ」を獲得する以上のものです。
共感とは正しくある事とは関係がありません。
しかし皆さんは「正しいある事」がとても重要だと考えています。
「Right is might」(正義は力なり)と言ったりしますね。
あたかも正しさが勢力であるかの様に。 この言葉は、思考によってもたらされた知的結論です。
これは聖なる洞察力から来ているものとは違います。 これは「貴方が真理を知っている事」とは違います。
そしてこれは「貴方が真理を知っている事」とは別な、知性的なプロセスの結果なので、この言葉をひっくり返す事も可能です。
そして実際これはひっくり返して使われています。 「Might is right」(力は正義なり)です。
つまり、「操作する力、押し付ける力、制圧する力を持っている者が、その力の表明ゆえに正義である」。
しかし、正義は勢力ではなく、勢力は正義でもありません。
貴方は共感を持つことによって、「自分が失明している状態にも係わらず適切に存在する事が出来る」訳ではありません。
共感とは貴方のヴィジョン(視界)を明らかにする事です。 共感は真理を明らかにし、貴方が「眼の見えない人」ではないという事実を示すのです。
共感は、親密な状況を通して貴方に事実を示すのです。
前から言っている通り、聖なる瞬間に際して貴方は「一歩下がって、黙する」のです。
そうして貴方は父に訊ねます。 貴方は「自分のプライベートな分離」を放棄して、「自分自身と自分の最上の判断(ジャッジメント)以外のもの」を求めるのです。 「ここの真理は何ですか?」と言って。
「貴方は私の兄弟をどう見ていますか? 私の姉妹をどう見ていますか? あの木をどう見ていますか? 貴方はこの世界をどう見ていますか? これに関する真理は何ですか? 」と父に訊ねて、貴方は耳を澄ませるのです。
貴方はそれが示されるのを許すのです。 貴方は父の話しを聞く事を求めるのです。あるいは貴方は精霊に話させるのです。 あるいは私(イエス)に話させるのです。
これが親密な時(瞬間)です。 これが繋がる時です。これが合一(Union、一つになる事)の瞬間です。
真の共感とはKnowing(知っていること)です。
「知っている」という体験を得るにはどうしたら良いでしょうか?
貴方は、自分の「正しい者で在ろう」という試みを放棄するのです。
貴方は「自分が正しい者でなければならない」という必要(と操り)を放棄する事で、Knowing(知っていること)を体験するのです。
貴方は自分のプライバシーを放棄することにより、Knowingを得るのです。 これに関しては幾ら強調しても足りません。
残念ながら、「貴方が今すぐにプライバシーを捨てようと思えるほど」否定的な構図を私が示す事は出来ません。
しかし全てのことを(自分個人だけの思考によって)貴方はプライベートに行なっています。 他の誰とも関わり合いを持つ事無く、全ては貴方の頭の中で行なわれています。
貴方がプライベートに行なった全ての行動は、貴方から正気を奪ってしまいます。
それは貴方から満たされる体験(充足)を奪ってしまいます。 何故なら、貴方のプライベートな{神から離れた}行為が貴方を孤児院{分離状況}に縛り付けてしまうからです。
つまり貴方のプライベートな思考と行動が、貴方を幻想状態に置いてしまうのです。 何故なら、貴方は孤児(独立したプライベートな存在)ではなく、貴方は自分を創造しなかった{貴方は自分の源、物事の源ではない}のだから。
貴方が共感を使って自分の正しさを確立しようとし続ける限り、自分独自に何者かに成ろうとしている限り、自分の正しさの中で何者かに成ろうとしている限り、貴方は自分のマインドを使って親密な体験を全て妨げています。 何故ならその時貴方は、何かが自分の中に入り自分と「共に存在する」事を許していないからです。
時には貴方が、神と繋がろうと共感を使う事もあります。
貴方は神と共感したいのです。 貴方は神が感じていることを感じたいのです。 しかし問題があります。
貴方は神にいろいろ頼みたいのです。 あの状況やこの状況で神に助けを求めるのです。
これは貴方がメッセージを送るようなものです。 貴方は神がそれを聞き取ったか解りません。 もし貴方の問題が解決したなら、貴方は「神が私の祈りを聞き届けてくれた。 それに応えてくれた」と言うのです。
しかし、神が電話を取り上げて「ハロー、もしもし」と言い、貴方が「ハロー」と返すようなやり取りが、そこには無いのです。
もし神が貴方に応えて「ハロー」といい、貴方がそれに応えて「ハロー」と言ったなら、そこで共感が起こっているのです。 解りますか?
その時、貴方は神の意味を感じられる場所に居るのです。
その時、貴方が神の意味を体験できるポジションに神がいるのです。
だからそれは喜びなのです。 これが私が貴方に次の金曜日にして欲しい事です。
貴方が祝う私の誕生日に、私と共に直接の体験、リアルな体験をして下さい。
貴方が例年クリスマスに居る場所から離れて、何故なら{例年のやり方であれば}貴方の注意は二千年前に行ってしまっており、私とは繋がれないから。
そうはしないで下さい。我々は繋がりましょう。そこに親密な繋がりを持ちましょう。 共感が起こりえる環境を整えましょう。共感とはKnowing(知っていること)です。 Knowing(知っていること)とは、神が貴方に話すときに起こる事、私が貴方に話すときに起こる事です。
私は今貴方に話しかけています。 貴方達全員に話しかけています。 私は貴方に話しかけており、それはリアルです。
つまり私が言っているのは「共感とは親密な関わり合いの結果である」と言うことです。