目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

10-01-30#2

2010-02-03 03:25:07 | Chapter 16
“There is a tendency to fragment, and then to be concerned about the truth of just a little part of the Whole. And this is but a way of avoiding – or looking away from – the Whole to what You think You might be better able to understand. For this is but another way in which You would still try to keep understanding to Yourself.”

〔貴方は真理を分割して、全体のほんの少しの部分の真理を心配する傾向があります。 そしてこれは「全体を見ないようにして、自分がよく理解できるものだけを見ようとする」方法なのです。 これは貴方が自分個人だけで理解し続けようとするもう一つの試みなのです。〕


貴方は「理解する人」に成りたいのです。 貴方は「理解している者」に成りたいのです。 貴方は自分で理解/解釈した人に成りたいのです。 こうして貴方はそれを自分個人のものにしたいのです。 貴方はそれ(理解)を自分の所有物としたいのです。 そうすればそれは貴方個人の権利になります。 それが貴方の理解/記憶を知的に使って成功する事への権利になります。

貴方が真理を聞いた時、父は貴方に知的/論理的なプロセスは与えません。 父は貴方の質問に対する「永遠の/何時までも正しい」答えとなる「言葉の羅列」を与える訳ではありません。

全てに対する父の答えは愛です。 つまり「父である愛の動き」は意味を持っています。 その意味が言葉を発生させます。

これは例えて言えば「愛の動き」が意味に言葉をまとわせている(意味に言葉を着せている)様なものです。 そして言葉が一番重要なのではありません。 重要なのは意味です。 意味が、その場で形を与えられている愛なのです。

「愛の動き」はそよ風の様なものです。 それは、そこここと丘や谷を吹き通って行き、様々な様子で芝をそよがせ木の枝や幹を揺する風です。 その様子は、違う意味を持った同じ「愛の動き」を現してます。 枝の揺れる様子が答えなのではありません。 芝のそよぎが答えでは無い様に。 しかしその両方は「風」を現しています。 それが「愛の動き」です。 解りますか?

私は遠まわしな言い方をしているかもしれません。 何故なら貴方の知性を微妙に迂回したいからです。 

私がここで表現しようとしているのは「神聖の巨大さ」と「何故貴方が神聖の巨大さを理解し得ないか」です。

それは貴方が「愛の動き」や神聖を誤解して扱ってしまっているからです。 貴方は「愛の動き」がまとっている服装を言葉として受け取っています。 そして、まるでそれが一番大切なものの様に言葉を受け取っています。

丘や谷を吹きぬける風が動かしている木の葉、 貴方はその葉の動きを、あたかもそれが愛の動きであるかのように受け取ります。 はっきりと貴方に見えている葉の動きは、しかし答えではありません。

注意を「葉の動き」(言葉)に与えてしまっている結果として、貴方はそれが芝のそよぎと同じ意味だと気付きません。 芝のそよぎもまた、風(愛の動き)そのものではありません。

貴方が葉の動きや芝のそよぎを見た途端、貴方はそれに意識の焦点を絞ってしまいます。 そうして貴方は巨大さを見失います。

何の巨大さでしょう? 風の巨大さです。   愛の現われを覆っている動きの(様々な効果を含む)巨大さです。

貴方がそれをあれこれと分解した途端、貴方は巨大さを見失い、貴方は巨大さを把握する事ができません。 だから巨大さが貴方の目の前に示されたとき、貴方はそれを見る事ができません。 

巨大さが動きなのです。 しかし貴方は「あれは揺れている葉だ」と言います。 他の人は「あれは芝がそよいでいるのだ」と言うでしょう。

こうして貴方は起こっている事を取り逃がしていしまいます。 その理由? それは貴方がそれを感じるのではなく、理解しようとしたからです。

辛抱して聞きなさい。 これを理解する事が大切です。 貴方はこの意味を掴み取らなければいけません。 「自分でかき集めた理解とその記憶」を貴方が最終的には放棄出来る様に。

例えば貴方はこう言うでしょう。「愛の動きが木の葉の揺れる様なのだ。 木の葉が揺れるのを見る度、それが愛だと私は知るだろう。」 つまり「木の葉のゆれが愛だ」と考えてしまうのです。

違います、愛はその現れの動きです。 愛は、優しく無限に動いて全ての丘と谷の全てのものを撫でている「動き」です。 広大な空間の全て、異なる天体の全ての環境をも撫でて触っている「動き」です。

例えば今現在何が起こっているでしょうか? ポールが話しているのでしょうか? ラジがポールを通して話しているのでしょうか? それともこれは、巨大さをもつ「愛の動き」なのでしょうか?

私は今ブロードキャストを聞いている人達に話しかけているのでしょうか? 私は後日ダウンロードしてオーディオ・ファイルを聞いている人達に話しかけているのでしょうか?  それだけでしょうか? いいえ。

この瞬間私が話している時、私は全体的に話しています。

そのとき全ての兄弟姉妹が愛の動きを体験しています。 「私が分け合っている全ての意思」と共に愛の動きを(全員が)体験しています。 それは彼ら全員が体験する喜ばしい事です。 と同時に、あらゆる所にいる兄弟姉妹の全員は「今私が話している」という特定の事を、(無限の)愛の動きとして体験しています。 彼らも、全兄弟姉妹のそれぞれがこの瞬間に参加している「愛の動き」の全てを完全に無限に(隔たり無く)意識しています。

だから、「今日」ライブで聞いていない貴方も(もしかしたら初めてラジを聞いて/読んでいる貴方も)「動き」によって祝福され触られています。 私が成っている「愛の動き」という「風」に祝福されています。

これが巨大さです。 これがどの様に起こっているか理解する必要はありませんが、貴方はこれが起こっていると知る必要があります。 「貴方が愛によって満たされる場所に成り、それを分け与える事が」貴方が考えているよりも偉大な事だと知る必要があります。  それが巨大さです。 それが遍在です。

貴方はそれがどの様に働くか理解できないかもしれません。 しかし貴方はあえてそれを試してみる価値があると私は言っているのです。 あえてそれを抱擁してそれを体現し、「二つのステップ」を実行して、私が言っている事を実行して、貴方と貴方の愛する人達が奇跡によって祝福されるように。 癒しによって祝福されるように。
そしてその結果として、貴方の理解(孤児的マインド)の外で奇跡が実際に起こっていたと解る様に。


読み続けましょう。

“You do not understand them, either in part or Whole, yet You have done them. Therefore, Your understanding cannot be necessary. Yet it is still impossible to accomplish what You do not understand. And so there must be something in You that does understand.”

〔貴方はそれら(奇跡)を、その全体としても部分的にも理解していません。 しかし貴方はそれをしました。 だから貴方の理解は必要ではないのです。 と同時に貴方が理解していない事をする事は不可能です。 つまり、貴方の中の何かが理解しているのです。〕

これはそれ程難しい文章ではありません。 貴方の中の中にある「理解しているもの」は精霊です。 それはただ単に貴方の正しいマインド(貴方の正気)なのです。貴方は現在その全貌を無視して、貴方の全体の一部分である卑小でプライベートな自己を自分だと思っているのです。 


“-it is still impossible to accomplish what You do not understand. And so there must be something in You that does understand.”

〔と同時に貴方が理解していない事をする事は不可能です。 つまり、貴方の中の何かが理解しているのです。〕

貴方という孤児- 孤児というフリをしている貴方- が奇跡の創造者に成りたがっているのです。

貴方は奇跡がどう働くか理解して、奇跡の創造者に成りたがっています。 貴方が自分の意志で保障して、自分で起こせる奇跡を求めています。

しかし奇跡が起こるのは、貴方が、自分で奇跡を起こそうとしている自己、自分の(奇跡とはどうあるべきかという)考えに沿って奇跡を起こそうとしている自己(意識)を、一時的に放棄した時です。 そうして貴方は自分が持っている自己意識を超えて進んで行き、貴方より偉大な知識を持っているものに、それを示してくれるよう願います。

そして貴方は父に訊ねます。 しかし父は既に答えているのです。 (貴方の正気でしかない)精霊を貴方に与える事によって。  父は貴方が孤児に成る事を決める前に、それを与えていたのです。

貴方は「自分の正気」という今まで持っていなかったものを得るのではありません。 貴方は単にそれを持っている事を指摘され思い出すのです。 貴方は自分の正しいマインドに、貴方の全体に、再度紹介されるのです。

貴方がそれをしたとき奇跡が起こります。 しかし貴方は「私はどうやってこれをしたのだろう?」とは訊きません。 貴方は奇跡の中で栄誉に浴します。 貴方はそれを分け合った人達と共に喜びます。

貴方は「これがもう一度出来る様に、これをどうやってこれをしたか理解しなければ。」とは言いません。 その様に考えて、少しの知識、少しの学習を未来の為に貯蓄しようとは思いません。

何故なら風はただ吹くからです。 この瞬間木の葉はこの様に動き、次の瞬間芝はあの様に揺れるでしょう。  だから貴方は真理を今、今、今に知る続けようとするのです。 だから貴方は聞いて、聞いて、聞き続けるのです。 真新しい無垢と共に。

「記憶からこれを取り出して、適切な対応として今使おう」と考えた途端貴方は無垢を失ったのです。 その時貴方のマインドはクリア(透明)ではないのです。 その時貴方のマインドは貴方が集めたもので溢れています。 貴方が集めたものは、窓の上の埃のようなものです。 それは貴方がクリアに見る事を阻止します。 それは実際に行なわれている事を見えなくしてしまいます。  貴方の視界は、貴方が集めたガラクタで遮られてしまいます。 


“To You, the miracle cannot seem natural because what You have done to hurt Your minds has made them so unnatural that they do not remember what is natural to them.”

〔貴方にとっては奇跡は自然に起こる事とは見えません。 何故なら貴方が自分のマインドを傷つける為にした事はとても不自然だったので、貴方のマインドは自分にとって何が自然なのか覚えていないのです。〕

貴方は情報と知識の収集/理解そしてそれらを蓄える事にとても熱心に成ったのです。 あたかも昨日の答えが、そのまま今日の答えでもあり、今も、今も、そのまま同じ答えが成り立っているかのように。

違います。 答えは「今」との実際の繋がりなのです。 「今」とは、今神が成っている「創造の動き」の事です。 「今」とは神が永遠に新鮮に成り続けている「創造の動き」です。

“And, when You are told about it, You cannot understand it.”
〔そして、貴方がこれを聞いても、それを理解する事は出来ません。〕


私が今言っている事を理解出来ない人もいるでしょう。「私には解らない。理屈に合わない。」OK、OK。 それでいいのです。 でもそれに関して悪感情を持たないで下さい。 

自分を「知らない」というところに置いてください。 何故なら貴方が(嘆くのではなく)自分の為に受け入れた「知らない」というスペース内で貴方は洞察力を得られるからです。 貴方はそこで啓示を得られるのです。 そこでインスピレーションが起こるのです。


“The recognition of the part as Whole, and of the Whole in every part, is perfectly natural for it is the way God thinks, and what is natural to Him is natural to You.”

〔部分を全体として認識する事、そして全体を各部分の中に認める事はとても自然な事です。 何故ならそれが神の考え方だから。 そして神にとって自然な事は貴方にとっても自然なのです。〕

“The recognition of the part as Whole, and of the Whole in every part,”
〔部分を全体として認識する事、そして全体を各部分の中に認める事〕

これはホログラムを例に取って考えてみる事が出来ます。 貴方はホログラムの写真を作る事が出来ます。 そのホログラムのフイルムを眺めれば、三次元のイメージが浮き上がって見えます。 かなり正確な三次元の絵が見えるのです。

そのフィルムの端を切り取って、それを眺めたなら、イメージの(切り取られた)一部が見えるのではなく、(フィルムを小さく切る前に見えていたものと同じ)イメージの全体が見えます。 全体は分部の中にあり、部分が全体の中にあるのです。

(実際にホログラムのフィルムを小さく切った場合、そこに現れるイメージは小さくより不鮮明に見えますが、そこに現れるイメージは全体を現しています。 しかしフィルムを小さく切れば切るほど、イメージの大きさは小さくなり、細部もより不鮮明になります。 でも小さく不鮮明ながらそこに現れるイメージは全体の形を現しています。 ラジはリアリティのあり方をホログラムの比喩で説明してるのですが、「部分の中に全体がそっくりそのまま存在している」という記述はホログラムにはそれ程正確には当てはまりません。 しかし「部分にも、全体に対する情報が含まれている」のはホログラムの特徴です。 訳)

これを体験的に理解する事はできても、知的に理解するのは少し難しいかもしれません。
私が言いたい事は貴方が孤立していないという事です。 貴方は全体の一部なのです。 と同時に全体も貴方です。 貴方は全体の中にいて、だから貴方が真理を知った時、愛(風)が貴方の中を通る事を許した時、そして貴方がそれを喜んだ時、全ての兄弟姉妹も喜ぶのです。

全ての葉っぱ、全ての木、全てのウサギ、全てのヤマアラシ、全てのもの、全ての石が喜ぶのです。 石達は愛の動きを忘れてはいません。 石達は全ての神聖の巨大さを忘れていません。


1 コメント

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2010-02-04 08:38:17
細かい修正を全体に行い, ホログラムの箇所を書き直しました。
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