目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-07-25 #2

2009-08-05 09:39:05 | Chapter 15
さてここからはSparkly 版の前のページ、第二文節に戻ります。 
{2nd Edition では319ページの第10文節です。訳}


“Whenever You are angry, You can be sure that You have formed a special relationship, which the ego has ‘blessed' for anger is its blessing. Anger takes many forms, but it cannot long deceive Those Who will learn that Love brings no guilt at all; and what brings guilt cannot be Love, and must be anger.”

〔怒っているとき、貴方は自分が特別な関係を築いていた事が解ります。それはエゴが怒りで祝福した関係です。 何故なら怒りがエゴの祝福だからです。 怒りは色々な形を取ります。 しかし愛が罪をもたらさない事を学んだ人は、罪をもたらすものは愛ではありえず怒りだと学んだ人は、怒りにだまされる事はありません。〕


“Anger takes many forms, but it cannot long deceive Those Who will learn”

〔怒りは色々な形を取ります。 しかし・・・事を学んだ人は、怒りにだまされる事はありません。〕  

次の事を学ぶ意欲のある人はだまされません。

“that Love brings no guilt at all; and what brings guilt cannot be Love, and must be anger. All anger is nothing more than an attempt to make someone feel guilty. And this attempt is the only basis which the ego accepts for special relationships. “

〔愛が罪をもたらさない事を学んだ人は、罪をもたらすものは愛ではありえず怒りだと学んだ人は、怒りにだまされる事はありません。 全ての怒りは誰かに罪悪感をいだかせる試みに過ぎません。 そして、この試みだけを基にエゴは特別な関係を築きます。〕


“Guilt is the only need the ego has. And as long as You identify with it, guilt will remain attractive to You.”

〔罪だけがエゴの必要とすることです。 そして貴方がエゴと自分を重ねている限り{自分をエゴだと考えている限り}、貴方にとって罪は魅力的に映ります。〕


「なぜそれに魅力を感じてはいけないの? それはとても良く機能して来たのに。 もちろん私はそれを罪とは呼びません。 自分にどこか間違ったところがあると考える人の性癖を利用して、彼等が彼等自身に有益な事が出来るように助け、それが私の利益にもなるようにすれば良いではないですか? 」  「もし彼ら自身の利益になることが出来ないなら、最低限私の利益には成る事をしてもらいましょう。」


ではここから、このセクションの一番初め「聖なる瞬間とコミュニケーション」に戻って文を読みます。

“Beyond the poor attraction of the special love relationship, and always obscured by it, is the powerful attraction of the Father for His Son. There is no other love that can satisfy You, because there is no other love. This is the only Love that is fully given and fully returned.”

〔父の子に対する力強い愛情(牽引力)は、「特別な愛の関係」の貧しい魅力を超得していますが、それは常に「特別な愛の関係」によってさえぎられています。 しかし父の子に対する愛情以外のもので貴方が満足する事はありません。 何故なら、それ以外の愛は存在しないからです。 これが完全に与えられ完全に返される唯一の愛です。〕

この最後の文は意味が解りにくいでしょう。〔これが完全に与えられ、完全に返される唯一の愛です。〕  それが貴方にフルに与えられるのを想像する事は出来るでしょう。 しかし「完全に返される」とはどういう意味でしょうか?  これはどの様に働くのでしょう。 これは孤児意識{神からの分離意思}からはなされません。 だからこれがまだ貴方には解らないのです。 これは根源のそして原初の真理なのです。


“There is no other Love that can satisfy You because there is no other Love. This is the only Love that is fully given and fully returned.”

〔父の子に対する愛情以外のもので貴方が満足する事はありません。 何故なら、それ以外の愛は存在しないからです。これが完全に与えられ、完全に返される唯一の愛です。〕

貴方がコミュニオン(霊的交歓)状態にある時、貴方が精霊/父とコミュニケーションをとっている時、父の愛が受け取られ、そして返されます(返答されます)。 言わば、相互賞賛関係(mutual admiration society)の様なものです。 しかし、これは貴方が選んで行う事ではありません。 例えば「今日はそれを返そう、でも明日は返さない。」とか考える様なことではありません。


これは自動的に沸き起こる永遠の愛です。 これが唯一の誠の愛です。 これがいつでも唯一の真理の愛でした。 貴方がピュアな永遠の愛を感じられず、「愛と嫌悪」と感じられるものを体験している時でも、これだけが(父の愛だけが)本当に実在する唯一の愛です。 そして貴方はその愛の意識的体験へ戻って行きます。 これが私の言おうとして来たことです。


“Be-ing complete It asks nothing. Being wholly Pure, Everyone joined in It has everything.”

〔完全であるこの愛は何も求めません。 完璧にピュアなこの愛と繋がったもの全員は全てをもっています。〕

解りますか? だからコミュニケーションは断罪ではなく救済なのです。 何故なら、それと繋がった全員は全てをもっているからです。 ここで言う「もっている」とは所有のことではなく、貴方が全ての分離されていない存在(Presence)と共に体験をすると言う事です  統合された意識体験(不可分な意識)つまり共有体験をすると言う事です。 これは動きの一体感、つまりダンス、宇宙のダンスなのです。

だからコミュニケーションは救済で、裁きではないのです。 {コミュニケーションの中で}貴方は一人だけで行動する(偽りの)自由を失うでしょう。 と同時に貴方は自分全体に対して無意識になる自由と、全てから分離して存在する自由も失うのです。 こうして{コミュニケーション内}で貴方は全てをもっているのです。


“Be-ing wholly Pure, Every One Joined in It has Every Thing. This is not the basis for any relationship in which the ego enters, for every relationship on which the ego embarks is special. The ego establishes relationships only to get something. And it would keep the giver bound to itself through guilt.”

〔完璧にピュアなこの愛と繋がったもの全員は全てをもっています。 これはエゴが関係を築く基礎には成り得ません。 何故ならエゴが作る全ての関係は特別なものだからです。 エゴは何かを得るために関係を作ります。 そしてエゴは罪を使って「与える人」を関係に縛り付けます。〕


それは惨めな真心の無い存在状況です。「与える人」と「得る人」双方にとって。 何故なら、それは双方が欠乏状況に囚われ続ける事だからです。 その様な状況にいる事は貴方の持って生まれた権利(性質)ではありません。 そして貴方が「与える人」あるいは「得る人」を演じる事で感じるスリルは空虚なものです。 ある(Be-ing、存在する)という宇宙的意識体験(これはコミュニケーションの一側面です)の前では、それは(与える人と得る人の関係は)何も意味がありません。 


“It is impossible for the ego to enter into any relationship without anger, for the ego believes that anger makes friends. This is not its statement, but it is its purpose, for the ego really believes that it can get and keep by making guilty.”

〔エゴは怒りを持たずにはどの様な関係も持つ事は出来ません。何故なら、エゴは怒りが友好関係を作ると考えているからです。これをエゴが唱える訳ではありませんが、これがエゴの目的です。 理由は、罪を見る事によって何かを得てそれを保持する事が出来るとエゴが本当に信じているからです。〕

この様に表現すれば誰にでも解るでしょう。 貴方達全員が良くわかるはずです。

罪(罪悪感)は、物事を達成したり/貴方の求めるものを得る上でとても効果的な手法です。 もし貴方が自分が何かをなすために罪(Guilt)を(もとても巧妙に、さり気なく)使用していないと思うなら、自分がどのぐらい頻繁に立ち止って聖なる瞬間に入り、父に真理を訊いて、そして真理から与えようとしているか考えて下さい。

エ! 貴方はそうしていますか? 罪を使用するのはほんの時たまですか? 聖なる瞬間に入るのがとても容易いから、いつでもそうしていますか? もしあなたがそうしていないなら、それ以外に何かを達成する方法は一つしかありません。 聖なる瞬間内にいないなら、罪の使用以外には他に方法がありません。

だから貴方が聖なる瞬間を体験していないなら、貴方は罪を「しています」。

貴方はこれに関して罪悪感を持つかもしれませんが、それが私のしたい事/言いたい事ではありません。 私は事実を貴方に出来るだけクリアに示したいのです。 「へー。そういう事を自分でしているとは知らなかった。 でも私はそれほど頻繁に聖なる瞬間を体験し神に訊いて答えを得て(それがコミュニケーションが達成されたことの証明です)はいない。 全視点の変容を体験してはいない。 だから私のする全てのことが真の祝福になってはいないので、私は罪を使用しているに違いない。」と貴方に判って欲しいのです。

だから、貴方がそうしていない事(聖なる瞬間をもたらしていない)に気づいたなら、一歩退いて罪の使用に自身を捧げないようにして下さい。 そして、二つのステップを行って欲しいのです。 物事に反応するのではなく踏みとどまって、「父よ、ここの真理は何ですか? 父よ、ここですべき事はなんですか? 父よ、ここで行われている事の真実はなんですか? 父よ、ここで無知を無効にするにはどうすれば良いですか?」と訊いて下さい。


“It is impossible for the ego to enter into any relationship without anger,”

「エゴは怒りを持たずにはどの様な関係も持つ事は出来ません。」と読んだとき、
「馬鹿な! 私は怒りを持たずに様々な関係を築いている。」と考えるかも知れません。

“for The ego believes that anger makes friends.”

そして〔何故なら、エゴは怒りが友好関係を作ると考えているからです。〕と続きます。

「どんな馬鹿が、そんな事を信じてるの?」 もちろん貴方はそうは信じてないですよね?


“This is not its statement, but it is its purpose for the ego really believes that it can get and keep by making guilty. This is its one attraction.”

〔これをエゴが唱える訳ではありませんが、これがエゴの目的です。 理由は、罪を見る事によって何かを得てそれを保持する事が出来ると、エゴが本当に信じているからです。〕

これに関して罪悪感を抱くのはやめなさい。 ただ単に貴方の意識を違う方向に向ければ良いだけです。 精霊の方向に注意を払うのです。

「今にある」、「今にいつづける」という意思を抱いて、自分の自動的な思い込みや(自分がどんな人間か皆に知らせる為の行動を正当化してきた)思考から自分の身を引くのです。


“This is its one attraction” – that the ego “believes that it can get and keep by making guilty. This is it one attraction; an attraction so weak that it would have no hold at all, except that no-one recognizes it.”

〔{他者に}罪を当てはめる事で、何かを得てそれを保持する事が出来るとエゴは考えており、それが罪の魅力(引き付ける力)です。  この魅力この影響力はとても力の弱いもので、ほとんど威力がありません。ただし誰もこのことに気付いていないのです。〕

私がこの文を読み出した時点では、誰もまだそれに{罪の魅力の威力が弱いものだと}気づいていなかったでしょう。 でも今なら誰でも解るはずです。 最低限それを認識することが出来るでしょう。 一時間後に忘れてしまうとしても。 少なくとも一時的に、それを認識できたわけです。 だから貴方はもはや{罪の魅力の弱さに対して}完全に無知ではないのです。 そして貴方は罪からの解放に一歩近づき、罪の影響力から一歩退いたのです。 


“For the ego always seems to attract through Love, and has no attraction to Anyone Who perceives that it attracts through guilt.”

〔何故なら、エゴは常に愛を通して引き付けている様に見えるからです。 そしてエゴが罪を通して引き付けている事が感知できた人は誰もエゴに魅惑されません。〕

つまり、何が実際に行われているか解れば貴方はそれには惹き付けられません。 もし何が行われているか解らず、貴方の罪悪感が刺激されたなら貴方は黙従することに成ります。 そしてこれがあまりにも鮮やかになされるので、貴方は本当に自分の琴線に何かが触れたのだと考え、それに譲るのです。 こうして貴方は、「使う人」の操り人形になり、自分の無知によって傷つくのです。
 
上記の事はとても憂鬱に聞えます。 だから最初に、最後から二つ前の文節から読み始めたのです。 そしてこれを最終的な目的=コミュニケーション/コミュニオンと対比させたかったのです。 何故なら、コミュニケーションをブロックする事が貴方を聖なる瞬間から遠ざけ、貴方を孤児のままにして、貴方を苦しめているからです。


“The sick attraction of guilt must be recognized for what it is.”

〔罪の病的牽引力(魅力)を理解し認識できるような成らなければいけません。〕

もし「罪が成し得る偉大な功績の魅力とは・・・」と言えば、誰もが聞き耳を立てるでしょう。  少し疑惑も持つかもしれませんが、それでもどんな事が聞けるか待ってみる事でしょう。

しかし〔罪の病的牽引力〕ではあまり魅力的でないですね。うんざりする様な表現です。

罪の魅力とは病的なものです。それは精神的に病んでいる正気でないものです。 それに惹きつけられるのは正気を失うという事です。 だからハッキリと言いましょう。


“The sick attraction of guilt must be recognized for what it is. For having been made real to You, it is essential to look at it clearly, and, by withdrawing Your investment in it, to learn to let it go.”

〔罪の病的牽引力を理解し認識できるような成らなければいけません。 何故なら、罪は貴方にとってリアルに{見える様に}作られているので、罪をクリアに見て、罪への投資を止め、罪を放棄できるようにならなければいけないからです。〕 
つまり貴方は自分の「あり方」をシフトさせ始めなければいけません。


“No-one would choose to let go what He believes has value. Yet The attraction of guilt has value to you only because you have not looked at what it is, and have judged it completely in the dark.”

〔価値があると思うものを捨てる人は誰もいません。貴方はそれが(罪の魅力が)何かまだ見ておらず、それを暗闇の中で判断したので、罪の魅力に価値を与えているのです。〕

解りますね? 全ての人がこれを{暗闇の中で罪の魅力を判断}してきたのです。 そして貴方が大きく成るにしたがい周りの皆が、これを{罪の使用を}どうの様に行うべきか貴方に教えたのです。  貴方は、他人が貴方に対して罪をどうやって使用しているか教わり、どの様にすれば貴方も彼らに罪を使用できるか教わったのです。

それをしている{罪を使用している}あいだは、貴方の「存在する意識体験の前提」{意識体験のあり方}が正しいかどうか疑問をはさむ機会は訪れなかったのです。 今までは、その機会がありませんでした。

ですので、孤児として振舞ってきた貴方は、罪を使って物事を達成し、より良いより独立した認証者に成っていきました。 それらの事は全て自然に思え、疑問の余地は無い様に思え、それについて疑いを懐く必要を感じなかったのです。 だから貴方にとって罪は価値があったのです。 それが一般的な行動様式だったので、貴方は罪の使用には格別罪悪感を持ちませんでした。

ここで重要なのは、それは{罪に価値を置く事は}貴方の持って生まれた権利を奪う事になったという事です。 それは貴方の自由を奪ったのです。 それは貴方の全体を感じる体験を空虚にし、貴方は不死身ではなくなったのです。 (それが貴方の持って生まれた権利であるにも係わらず)不死身の体験{特性}を奪われた貴方は、恐れと罪の状態に存在する様になり、恐れと罪を使って生存しなければならなくなりました。  恐れと罪は、それらを使えば使う程、貴方を無知に縛り付ける事になります。 我々はそれを{無知の縛りを}無効化しようとしているのです。 私は何時でも貴方に違う見方を提供しています。 それとは{罪と恐れを通した解釈とは}違った見方を貴方に示しています。

そして違う見方を示すだけではなく、無知から完全に抜け出る方法を私は示しています。 貴方が内なる知性から全てを体験出来る様に。 完全な知性、貴方を作ったものにより貴方の中に確立された知性。 それは貴方を作った時、自身を包み隠さず貴方に示しています。  父/神/生命原理、貴方がどの様にそれを呼んだにしろ。


“As We bring” – the value of guilt or Your belief in its value – “As we bring it to light, Your only question will be why it was you ever wanted it. You have nothing to lose by looking open-eyed at this, for ugliness such as this belongs not in Your Holy Mind. The Host of God can have no real investment here.”

〔一旦それ(罪の魅力、それに対する貴方の確信)に光が当たれば、貴方の唯一の疑問は「だいたい何故自分はそんなものを求めたか?」だけになるでしょう。 それを真正面から見つめる事によって、貴方はなにも失いません。 何故なら、この様な醜さは貴方の聖なるマインドにはないからです。 神のホストがここに本当に執着する事はありえません。〕

1 コメント

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Unknown (放蕩息子)
2009-08-06 01:22:30
コミュニケーションは常に成されています。
父と切れたことなどないのですから。
それがなければ、罪の世界を夢見ることさえ出来ないのです。

解釈を求める者には解釈が与えられ、体験を求める者には、すべてが与えられます。

気をつけないと、夢の世界へ逆戻りになりますね。
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