原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx
2009年7月 25日 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
Sparkly Book 363ページ新セクション The Holy Instant and Communication
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 317ページ新セクション Needless Sacrifice
First Edition 294ページ Needless Sacrifice
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 152ページ Holy Instant and Communication
CIMS版 306ページ The Holy Instant and Communication
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
より理解し易くするために、このセクションを頭から読むのではなく、まず初めに終わりから二番目の文節(Holy Instant and Real relationships の前)から読み始めることにします。
このセクションの冒頭の部分は、今から私が読む文の前書きの様なものです。
この文(終わりから二番目の文節)を先に読むことにより、前書きとしてのセクション冒頭部がより解り易くなります。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt.”
〔非難(呪い)は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。〕
このセクションは「聖なる瞬間とコミュニケーション」と題されてます。 コミュニケーションが目覚めへの鍵です。 そしてコミュニケーションが非難(断罪)の対極にあるものです。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt. It is the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation.”
〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。〕
なぜ精霊は、コミュニケーションが救済だと教える必要があるのでしょうか? どの様な状況で人はコミュニケーションを罰と考えるのでしょう。
理由は簡単です。 コミュニケーションは想像上の権利、つまり独立した個人としてパワフルに振舞う能力を貴方から奪ってしまうのです。 コミュニケーションは偽りのパワーを取り去ってしまいます。
ほとんどの場合、人生のあらゆる成功はパワーの使用によってもたらされています。
それらの成果はコミュニケーションによるものではありません。それらの成功はコミュニケーションの結果ではありませんでした。 それらは聖なる瞬間を求め、それを許可した結果(動いているもの、動く事で貴方を含む全てを創造している)父とつながった結果もたらされたものではありません。
もしコミュニケーションによって人のパワーと権利が奪われたなら、コミュニケーションは罰と考えられるでしょう。 もし人が個人として行動して成功する能力を奪われるなら、それを危険と考えるでしょう。 それは全てが奪われる事を意味するでしょう。
コミュニケーションはコミュニケーションをした貴方を呪って、権利を執行できなくし、成功できなくしてしまいます。 コミュニケーションは貴方が自分の尊厳を保てなくし、貴方が自分の為のリアリティを作れなくしてしまいます。 糸の切れた操り人形、リアルな子供として振舞う事を出来なくしてしまいます。 {リアルな子供のふりが出来なくなってしまいます。}
だからコミュニケーションは罰として受け取られてしまうのです。 コミュニケーションは貴方が(孤児ではなく)リアルな子供として行動する(リアルな子供のふりをする)機会を奪ってしまいます。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt.”
〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 〕
もし成功する為に、リアルなコミュニケーションをしない必要があるなら{リアルなコミュニケーションをしない事が可能であるふりをする必要があるなら}、貴方は体を使ってコミュニケーションをしているふりをする必要があります。 しかし先週話したように、体にはコミュニケーションはできないのです。
もし貴方が、自分自身を実証する為に体を使ってコミュニケーションしなければならないという考えに縛られているなら、貴方は偽りの地位に居るふりをしている事に成ります。 その様な自分を他者に認めさせるのは恐ろしい仕事です。 それはエゴを震え上がらせる仕事です。
そして前にも話した様に、貴方が「父よ、私は自分一人で見たいのです。私は自分一人でしたいのです。 私は物事を自分だけで定義したいのです」と言って、父を離縁した途端、貴方は自分の変わり得ない永続性の意識体験を失ったのです。 貴方は自分の主権を失い、代わりに恐れと罪のペアを得たのです。
そしてこれも前に話したとおり、父が貴方に与えなかった存在状態を無から作り上げてそれを保つ事の罪の意識には耐えることが出来なかったので、その罪は外に投射(projected)されました。 「それは彼のせいだ! 彼女のせいだ! 環境のせいだ! アメリカの大統領のせいだ! それは責任者のせいだ! 彼は私の状況を左右する権限を持っている。」
こうして、罪は外に投射され、罪が全ての他者や存在のせいにされたので、自分を守る為にコントロール(操作)する手段が必要になりました。 そして貴方が兄弟を操作する手段として使えるものも罪だけでした。
恐れと罪は何時でも同時に存在するので、貴方は恐れを使うことも可能です。 しかし、恐れを使う最終的な理由はいつでも、兄弟姉妹に対して罪の体験を与え、彼らが貴方に従う様にする事なのです。 彼らが貴方の目的に沿って行動する様、彼らに罪の体験を与えるのです。
“Forgiveness lies in Communication as surely as damnation lies in guilt. It is the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation.”
だから、ここに〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。〕と書いてあるのです。
これは簡単な事ではありません。 なぜなら、これはただのアイディアではないからです。
「なるほど! コミュニケーションは非難である必要がないのか。 コミュニケーションが救済で在り得るのか。何と言うことだ!! 解ったゾ。」
いいえ。 これは{頭で}解るようなアイディアではありません。 これは存在の在り方をシフトさせる事なのです。 貴方は自分の考えをシフトさせるだけではなく、貴方が今まで大切にしてきた価値観を捨て、自分の権利と考えてきた、(自分の信用と信頼を築いてきた)上手な罪の使用を放棄しなければいけないのです。
貴方が罪の使用(非難)を上手に上品に行ったなら、気付かれない程上手く罪を使ったなら、兄弟は貴方が彼を愛していると考え貴方をサポートしてくれたでしょう。
しかし、罪の使用は実際には、高利貸しの様なもの、自己防御でしかありません。
いずれにしろ、これが実情です。 これが聖なる瞬間の外で行われている事です。 これがコミュニケーション=コミュニオン(霊的交流)の外で行われている事です。
“It is the the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation. And He will do so, for the power of God in Him” – and You – “is Joined in Real Relationship, so Holy and so strong that It can overcome even this, without fear.”
〔コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。 そして彼は(精霊は)それをします。なぜなら彼の(そして貴方の)中にある神の力はリアルな関係の中で繋がっており、そのとても聖なる力強い関係はこれも(コミュニケーションが救済である事を教える事も)恐れなく乗り越える事が出来るからです。〕
“It is through the Holy Spirit that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible.”
〔精霊を通して、不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。〕
この時点まで来たとき、彼方達全員がこのシフトを不可能と感じる事でしょう。 これに驚かされないようにしなさい。 このシフトを不可能と感じても、それを深刻に考えすぎないでください。 彼方は自分の中から沸き起こる無能感とそれに伴う恐れに対峙し、そこに立ち続けて、これを乗り越える必要があります。
これは(状況の不可能性とその無能感は)ただのコケオドシ(偽りの脅し)です。 それを知らなければ、シフトを行うのは大変難しいでしょう。 彼方はただコミュニケーションを取る意思(繋がる意思)と共にそこに留まればいいのです。 今まで貴方を目覚めに導く事が無かった思考を一つも望まず、自分の考える性癖に戻る事無く、神のマインドから来るアイディアを自分のマインドに迎え入れ、父との(源との)一体感(Oneness)を得るのです。
その統合の経験の中で、彼方は全ての兄弟姉妹との、そして宇宙の全てのものとの、一体感を得ます。
“It is through the Holy Spirit that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible. In the Holy Instant, guilt holds no attraction, since Communication has been restored.”
〔精霊を通して、不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。 聖なる瞬間の中では、コミュニケーションが既に確立さえているので、罪に魅力を感じる事はもはやありません。〕
ここで少しヒントを差し上げましょう。 貴方が罪(Guilt)を体験していたとして、そのとき貴方が座って瞑想し自分の平和の中に入ったなら、貴方は瞑想の平和の中で罪が消えている事を発見するでしょう。 たとえ貴方が何らかのものとコミュニケーションを確立したと思わなかったとしても、貴方の平和の中で罪は消えているでしょう。
これを聞いて、自分の体験と照らし合わせれば、罪が確定されているものでは無い事が解るでしょう。 罪は絶対的なものではありません。 罪はその原因を正さずとも、消え得るものです。 貴方に罪悪感を与えた原因を修正しなくても、罪は消す事ができます。
もし貴方に罪悪感を与えるいる人がその行為をやめなくても、貴方は瞑想し自分の平和に入り、罪が消えている事を見る事ができます。
もし貴方が罪を使っていて、そして貴方が良心の呵責により「罪の使用」に対して罪悪感を抱きはじめたなら、貴方は消耗し始めるでしょう。貴方は以前ほど有効に罪を使えず、動きが取れなくなり始めます。 その時も貴方は瞑想し自分の平和に入り罪が消えている事を発見することができます。 貴方を動けなくしていたものが消えている事を発見する事ができます。
しかし、これが全てではありません。何故なら繋がる事‐コミュニケーションが確立されなければならないからです。 そうでなければ貴方はいまだに、神から独立した孤児(迷い子)です。 そうでなければ貴方はいまだに、自分の事を孤児として主張し、孤児として行動しています。
貴方は精霊と繋がらなければいけません。 貴方は自分の正気でしかないものと繋がる必要があります。
その繋がりの中に平和が来ます。 その繋がりの中で罪が消え去ります。 その繋がりの中で貴方の脆弱さが消え去ります。 そして貴方はただそこに留まる事もできます。 貴方はただ無知に固まった平和だけの中に留まる事もできます。 しかし貴方はそこから(平和から)突き進んで父に、あるいは精霊に尋ねなければいけません。 そして貴方は我を忘れて答えに聞き耳を立てます。 答えが聞えるまで聞き続けます。 そうしてコミュニケーションが確立されるのです。 そして動けなくなっている状態がほどけるのです。
その時、貴方の誤った信念から解き放たれて、貴方達全員がお互いを操作する為に使っている「お互いの同意の上で確立した」定義から自由になって、貴方のマインド内の動き、貴方の体験内の貴方の動きが起こります。
その時貴方は全てをそのものとしてクリアに体験しているので、貴方は生命と共にダンスを踊ることが出来るのです。 なぜなら貴方は生命を見る事が出来、それと共に動く事が出来、ダンスの中でそれと反応し合うことが出来るからです。 純粋な関わり合いの中でダンスを踊る事が出来ます。 何故ならその時貴方はもはや、お互いに同意した定義の概念に縛られていないからです。
“It is through the Holy Instant that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible! In the Holy Instant guilt holds no attraction since Communication has been restored. And guilt, whose only purpose is to disrupt Communication, has no function Here.”
〔精霊を通して不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。 聖なる瞬間の中ではコミュニケーションが既に確立さえているので、罪に魅力を感じる事はもはやありません。 罪の唯一の目的はコミュニケーションを断絶させる事だけなので、聖なる瞬間の中では罪は機能しません。〕
面白いですね? 罪の唯一の目的はコミュニケーションを断絶させる事です。 しかし貴方は、人々をおとなしくさせ、言う事を聞かせるのが罪の機能と考えてきました。 彼らを正しくさせ、彼らが貴方を脅かすのを止めさせること、彼らを服従させこと、あるいは彼らに利他的行為をさせることが、罪の機能だと貴方は考えて来ました。
「利他的なことが出来なければ地獄に落ちますよ! 彼女に親切にしなければ、貴方とはもう口を利かない事にしますよ。」 その他色々。
ここでコミュニケーションはとても重要なことです。 理由はコミュニケーションが、「貴方は孤独ではない」と言う真理を貴方が受け入れ体現した証拠だからです。
なんと! 貴方はあのいまいましい事をしたのです。 貴方は孤独である権利を放棄したのです。 貴方は認証者として存在する権利を放棄しました。 貴方は自分の為に成功を作る権利を放棄したのです。
そして、その酷い結果とは何でしょう? 貴方は全てとの繋がりの中で、自分が収まるべきところに収まっている事を知ります。 貴方は自分が所属している事に気付きます。
貴方は、不快感なく、自分を異邦人と感じる事無く、自分が「ある」ことを知ります。
貴方はもはや、自分には相応しくない不愉快な状況を耐え忍んでそれが終わるのを一生待つて、その後でやっと自分の本当の居場所へ戻っていく者ではないのです。 その様な悲惨な状況を耐え忍ぶ事はないのです。
“Here,’ – in the Holy Instant – “there is no concealment and no private thoughts.” Here, in Communion, there is no concealment and no private thoughts.
「ここ(聖なる瞬間内)には隠されたものは無く、プライベートな思考も存在しません。」
ここコミュニオン(霊的交流)内には隠されたものは無く、プライベートな思考も存在しません。
これが貴方の救済です。 これが貴方の求めているものです。
http://www.nwffacim.org/default.aspx
2009年7月 25日 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
Sparkly Book 363ページ新セクション The Holy Instant and Communication
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 317ページ新セクション Needless Sacrifice
First Edition 294ページ Needless Sacrifice
JCIM「Jesus‘ Course in Miracles」 152ページ Holy Instant and Communication
CIMS版 306ページ The Holy Instant and Communication
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
より理解し易くするために、このセクションを頭から読むのではなく、まず初めに終わりから二番目の文節(Holy Instant and Real relationships の前)から読み始めることにします。
このセクションの冒頭の部分は、今から私が読む文の前書きの様なものです。
この文(終わりから二番目の文節)を先に読むことにより、前書きとしてのセクション冒頭部がより解り易くなります。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt.”
〔非難(呪い)は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。〕
このセクションは「聖なる瞬間とコミュニケーション」と題されてます。 コミュニケーションが目覚めへの鍵です。 そしてコミュニケーションが非難(断罪)の対極にあるものです。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt. It is the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation.”
〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。〕
なぜ精霊は、コミュニケーションが救済だと教える必要があるのでしょうか? どの様な状況で人はコミュニケーションを罰と考えるのでしょう。
理由は簡単です。 コミュニケーションは想像上の権利、つまり独立した個人としてパワフルに振舞う能力を貴方から奪ってしまうのです。 コミュニケーションは偽りのパワーを取り去ってしまいます。
ほとんどの場合、人生のあらゆる成功はパワーの使用によってもたらされています。
それらの成果はコミュニケーションによるものではありません。それらの成功はコミュニケーションの結果ではありませんでした。 それらは聖なる瞬間を求め、それを許可した結果(動いているもの、動く事で貴方を含む全てを創造している)父とつながった結果もたらされたものではありません。
もしコミュニケーションによって人のパワーと権利が奪われたなら、コミュニケーションは罰と考えられるでしょう。 もし人が個人として行動して成功する能力を奪われるなら、それを危険と考えるでしょう。 それは全てが奪われる事を意味するでしょう。
コミュニケーションはコミュニケーションをした貴方を呪って、権利を執行できなくし、成功できなくしてしまいます。 コミュニケーションは貴方が自分の尊厳を保てなくし、貴方が自分の為のリアリティを作れなくしてしまいます。 糸の切れた操り人形、リアルな子供として振舞う事を出来なくしてしまいます。 {リアルな子供のふりが出来なくなってしまいます。}
だからコミュニケーションは罰として受け取られてしまうのです。 コミュニケーションは貴方が(孤児ではなく)リアルな子供として行動する(リアルな子供のふりをする)機会を奪ってしまいます。
“Forgiveness lies in Communication, as surely as damnation lies in guilt.”
〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 〕
もし成功する為に、リアルなコミュニケーションをしない必要があるなら{リアルなコミュニケーションをしない事が可能であるふりをする必要があるなら}、貴方は体を使ってコミュニケーションをしているふりをする必要があります。 しかし先週話したように、体にはコミュニケーションはできないのです。
もし貴方が、自分自身を実証する為に体を使ってコミュニケーションしなければならないという考えに縛られているなら、貴方は偽りの地位に居るふりをしている事に成ります。 その様な自分を他者に認めさせるのは恐ろしい仕事です。 それはエゴを震え上がらせる仕事です。
そして前にも話した様に、貴方が「父よ、私は自分一人で見たいのです。私は自分一人でしたいのです。 私は物事を自分だけで定義したいのです」と言って、父を離縁した途端、貴方は自分の変わり得ない永続性の意識体験を失ったのです。 貴方は自分の主権を失い、代わりに恐れと罪のペアを得たのです。
そしてこれも前に話したとおり、父が貴方に与えなかった存在状態を無から作り上げてそれを保つ事の罪の意識には耐えることが出来なかったので、その罪は外に投射(projected)されました。 「それは彼のせいだ! 彼女のせいだ! 環境のせいだ! アメリカの大統領のせいだ! それは責任者のせいだ! 彼は私の状況を左右する権限を持っている。」
こうして、罪は外に投射され、罪が全ての他者や存在のせいにされたので、自分を守る為にコントロール(操作)する手段が必要になりました。 そして貴方が兄弟を操作する手段として使えるものも罪だけでした。
恐れと罪は何時でも同時に存在するので、貴方は恐れを使うことも可能です。 しかし、恐れを使う最終的な理由はいつでも、兄弟姉妹に対して罪の体験を与え、彼らが貴方に従う様にする事なのです。 彼らが貴方の目的に沿って行動する様、彼らに罪の体験を与えるのです。
“Forgiveness lies in Communication as surely as damnation lies in guilt. It is the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation.”
だから、ここに〔非難は罪からもたらされ、赦しはコミュニケーションからもたらされます。 コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。〕と書いてあるのです。
これは簡単な事ではありません。 なぜなら、これはただのアイディアではないからです。
「なるほど! コミュニケーションは非難である必要がないのか。 コミュニケーションが救済で在り得るのか。何と言うことだ!! 解ったゾ。」
いいえ。 これは{頭で}解るようなアイディアではありません。 これは存在の在り方をシフトさせる事なのです。 貴方は自分の考えをシフトさせるだけではなく、貴方が今まで大切にしてきた価値観を捨て、自分の権利と考えてきた、(自分の信用と信頼を築いてきた)上手な罪の使用を放棄しなければいけないのです。
貴方が罪の使用(非難)を上手に上品に行ったなら、気付かれない程上手く罪を使ったなら、兄弟は貴方が彼を愛していると考え貴方をサポートしてくれたでしょう。
しかし、罪の使用は実際には、高利貸しの様なもの、自己防御でしかありません。
いずれにしろ、これが実情です。 これが聖なる瞬間の外で行われている事です。 これがコミュニケーション=コミュニオン(霊的交流)の外で行われている事です。
“It is the the Holy Spirit’s Teaching Function to instruct Those Who believe that Communication is damnation that Communication is Salvation. And He will do so, for the power of God in Him” – and You – “is Joined in Real Relationship, so Holy and so strong that It can overcome even this, without fear.”
〔コミュニケーションを罰と考えている人に、コミュニケーションが救済である事を教えるのが精霊の役目です。 そして彼は(精霊は)それをします。なぜなら彼の(そして貴方の)中にある神の力はリアルな関係の中で繋がっており、そのとても聖なる力強い関係はこれも(コミュニケーションが救済である事を教える事も)恐れなく乗り越える事が出来るからです。〕
“It is through the Holy Spirit that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible.”
〔精霊を通して、不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。〕
この時点まで来たとき、彼方達全員がこのシフトを不可能と感じる事でしょう。 これに驚かされないようにしなさい。 このシフトを不可能と感じても、それを深刻に考えすぎないでください。 彼方は自分の中から沸き起こる無能感とそれに伴う恐れに対峙し、そこに立ち続けて、これを乗り越える必要があります。
これは(状況の不可能性とその無能感は)ただのコケオドシ(偽りの脅し)です。 それを知らなければ、シフトを行うのは大変難しいでしょう。 彼方はただコミュニケーションを取る意思(繋がる意思)と共にそこに留まればいいのです。 今まで貴方を目覚めに導く事が無かった思考を一つも望まず、自分の考える性癖に戻る事無く、神のマインドから来るアイディアを自分のマインドに迎え入れ、父との(源との)一体感(Oneness)を得るのです。
その統合の経験の中で、彼方は全ての兄弟姉妹との、そして宇宙の全てのものとの、一体感を得ます。
“It is through the Holy Spirit that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible. In the Holy Instant, guilt holds no attraction, since Communication has been restored.”
〔精霊を通して、不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。 聖なる瞬間の中では、コミュニケーションが既に確立さえているので、罪に魅力を感じる事はもはやありません。〕
ここで少しヒントを差し上げましょう。 貴方が罪(Guilt)を体験していたとして、そのとき貴方が座って瞑想し自分の平和の中に入ったなら、貴方は瞑想の平和の中で罪が消えている事を発見するでしょう。 たとえ貴方が何らかのものとコミュニケーションを確立したと思わなかったとしても、貴方の平和の中で罪は消えているでしょう。
これを聞いて、自分の体験と照らし合わせれば、罪が確定されているものでは無い事が解るでしょう。 罪は絶対的なものではありません。 罪はその原因を正さずとも、消え得るものです。 貴方に罪悪感を与えた原因を修正しなくても、罪は消す事ができます。
もし貴方に罪悪感を与えるいる人がその行為をやめなくても、貴方は瞑想し自分の平和に入り、罪が消えている事を見る事ができます。
もし貴方が罪を使っていて、そして貴方が良心の呵責により「罪の使用」に対して罪悪感を抱きはじめたなら、貴方は消耗し始めるでしょう。貴方は以前ほど有効に罪を使えず、動きが取れなくなり始めます。 その時も貴方は瞑想し自分の平和に入り罪が消えている事を発見することができます。 貴方を動けなくしていたものが消えている事を発見する事ができます。
しかし、これが全てではありません。何故なら繋がる事‐コミュニケーションが確立されなければならないからです。 そうでなければ貴方はいまだに、神から独立した孤児(迷い子)です。 そうでなければ貴方はいまだに、自分の事を孤児として主張し、孤児として行動しています。
貴方は精霊と繋がらなければいけません。 貴方は自分の正気でしかないものと繋がる必要があります。
その繋がりの中に平和が来ます。 その繋がりの中で罪が消え去ります。 その繋がりの中で貴方の脆弱さが消え去ります。 そして貴方はただそこに留まる事もできます。 貴方はただ無知に固まった平和だけの中に留まる事もできます。 しかし貴方はそこから(平和から)突き進んで父に、あるいは精霊に尋ねなければいけません。 そして貴方は我を忘れて答えに聞き耳を立てます。 答えが聞えるまで聞き続けます。 そうしてコミュニケーションが確立されるのです。 そして動けなくなっている状態がほどけるのです。
その時、貴方の誤った信念から解き放たれて、貴方達全員がお互いを操作する為に使っている「お互いの同意の上で確立した」定義から自由になって、貴方のマインド内の動き、貴方の体験内の貴方の動きが起こります。
その時貴方は全てをそのものとしてクリアに体験しているので、貴方は生命と共にダンスを踊ることが出来るのです。 なぜなら貴方は生命を見る事が出来、それと共に動く事が出来、ダンスの中でそれと反応し合うことが出来るからです。 純粋な関わり合いの中でダンスを踊る事が出来ます。 何故ならその時貴方はもはや、お互いに同意した定義の概念に縛られていないからです。
“It is through the Holy Instant that what seems impossible is accomplished, making it evident that it is not impossible! In the Holy Instant guilt holds no attraction since Communication has been restored. And guilt, whose only purpose is to disrupt Communication, has no function Here.”
〔精霊を通して不可能と思える事が達成され、それが不可能でない事が立証されます。 聖なる瞬間の中ではコミュニケーションが既に確立さえているので、罪に魅力を感じる事はもはやありません。 罪の唯一の目的はコミュニケーションを断絶させる事だけなので、聖なる瞬間の中では罪は機能しません。〕
面白いですね? 罪の唯一の目的はコミュニケーションを断絶させる事です。 しかし貴方は、人々をおとなしくさせ、言う事を聞かせるのが罪の機能と考えてきました。 彼らを正しくさせ、彼らが貴方を脅かすのを止めさせること、彼らを服従させこと、あるいは彼らに利他的行為をさせることが、罪の機能だと貴方は考えて来ました。
「利他的なことが出来なければ地獄に落ちますよ! 彼女に親切にしなければ、貴方とはもう口を利かない事にしますよ。」 その他色々。
ここでコミュニケーションはとても重要なことです。 理由はコミュニケーションが、「貴方は孤独ではない」と言う真理を貴方が受け入れ体現した証拠だからです。
なんと! 貴方はあのいまいましい事をしたのです。 貴方は孤独である権利を放棄したのです。 貴方は認証者として存在する権利を放棄しました。 貴方は自分の為に成功を作る権利を放棄したのです。
そして、その酷い結果とは何でしょう? 貴方は全てとの繋がりの中で、自分が収まるべきところに収まっている事を知ります。 貴方は自分が所属している事に気付きます。
貴方は、不快感なく、自分を異邦人と感じる事無く、自分が「ある」ことを知ります。
貴方はもはや、自分には相応しくない不愉快な状況を耐え忍んでそれが終わるのを一生待つて、その後でやっと自分の本当の居場所へ戻っていく者ではないのです。 その様な悲惨な状況を耐え忍ぶ事はないのです。
“Here,’ – in the Holy Instant – “there is no concealment and no private thoughts.” Here, in Communion, there is no concealment and no private thoughts.
「ここ(聖なる瞬間内)には隠されたものは無く、プライベートな思考も存在しません。」
ここコミュニオン(霊的交流)内には隠されたものは無く、プライベートな思考も存在しません。
これが貴方の救済です。 これが貴方の求めているものです。
たいへん参考(?)になります☆
こんなにたくさんの文章大変じゃないかと思いますが、
感謝感謝です^^
先週はシアトルも暑かったです。最高39℃弱まで行きました。
ただいま翻訳遅れております。 今年のRajは絶好調で飛ばしまくりなので、私も頑張りましょう。